K-1

December 24th, 1999

プロレスは我々というか
子供時代や学生時代に黄金期でしたらね対立する二つの軸が存在するというのは盛り上がる為のセオリーなのかも知れませんね

K-1は盛り上がっているし認知度も高いけど寄りから門外漢まで認知しているわけじゃありませんからね。
ただ、2軸が存在しなくなって、はじけてからは各々の団体や軸よりはKー1の方がよりメジャーなのかもしれません。

式典や賞関係も、逆に世間の風向きを見て
流れにのっかることで、自分達もその威光を高めようとしますからね。
そい売った意味ではプロレスよりはK-1 なのかもしれませんね
ボクシングも最近はやっていませんもん

ところざわ

ノックは無用?

December 22nd, 1999

僕がノック事件に関して、残念に思ったのは、
彼を擁護する団体なり個人なりが全く表面に
出てこなかったことです。

僕のイメージでは大阪という土地は言いたいこと
を言うという。そんな中であの「核武装発言」の
西村議員なんかも当選してきたんだと、思ってた
んですが、それも幻想だったようです。

そういえば、昨日また珍妙な殺人事件が起きましたね。

特ダネの小倉氏は、「子供の頃からゲームに慣れ
親しんでいた世代の理解不能な犯行」という凡庸な
あまりにも凡庸な見解を示していました。

さて、このあたりで今年のプロレス界を振り返ってみたいのですが、どうでしょうか。
今年の事件は以下の4つに集約されますよね。
1:馬場の死去
2:前田が安生に襲われる。
3:桜庭がグレイシー一族に一矢。
4:天皇在位10年記念式典にK1は呼ばれるがプロレス界は呼ばれず。

1~3までに関しては、プロレス誌とかでも多分、ベスト10入りするはずなので、僕はここで4:について、一言述べたいと思います。

皇室とプロレスというテーマで長年研究(?)を続けてきた私は、今回、このK1が御用達になった事件を決して見逃すわけにはまいりませんでした。
私が知る限り、過去、皇室とプロレスとの関わりは以下の3点だけでした。

1:浩ノ宮の后雅子様がまだ、雅子さんと呼ばれていた時代に、あるインタビューで小学生当時の思い出として、自分はプロレスファンだった事を激白。それによると、当時ブラックペアの大ファンだった雅子様は、その名前をご利用あそばされて、デビル雅子として、ご学友とプロレスごっこをされていたという。

2:髭で有名な秋篠宮が子供の頃、新幹線のグリーン車で偶然にもマサ斎藤と会い、そこでサインをせがまれたという。

3:皇后陛下美智子様が子供達とプロ野球を観に行った時、当時、巨人のスター選手だった中畑清に対する下々の「キヨシコール」を耳にされ、「あのイノキコールはなんですか。」と御質問されたという。

これらの裏の取れた事実から、皇室は家族揃ってプロレスマニアであることは明らかである。それが、今回、K1だけを式典に呼ばれた事。高知東生を呼んだこと以上に、これは我々の記憶にとどめておかなければならない。

まさむね

想像力の谷間

December 21st, 1999

ノックの事件はノック的常識な事件で、別に何の驚きもなく、もうどうでもいいやって感じです

桶川の事件も音羽のお受験が殺人になるなら、桶川の風俗も殺人位あってもなんら不思議はないわけです。

雑誌や新聞はそれはそれでスキにはなれないけど
どうにもテレビのあの小市民的正義を振りかざすのはうんざりって感じです
でも、その閉塞間が音羽にも桶川にもあって事件の舞台になったのかもしれないですね。

事件は憎まなきゃいけないのかもしれないですけど
その舞台にあった当事者間には、人間的な輝きがあったのかもしれないですね。

ところざわ

ノック辞任?

December 21st, 1999

今日の朝のニュースはノック辞任と桶川の女子大生
殺人事件の2つだった。
2つの事件に共通しているのは、それを報道する
人々がきわめて建前的な対応を強いられるニュース
ではないかということである。

まずノック。誰が考えても、彼が仕出かした事と
彼が負わなくてはならない事のバランスが悪い。

インタビューに見る大阪府民や府議会議員の発言
を見ていても、怒っているというよりも嫌気が
さしているという感じだ。でも、ここでまぁその
くらいいいじゃないかという事は誰もいえない。

ノックの自宅や公邸からダンボール50箱分の
証拠品(調査品)が持ち出されたというが、ノック
が車の中でわいせつ行為をしたことを調べるため
になんでそんなに大量の書類等が持ち出されなけれ
ばならないのか。税金の無駄使いもいいところだ。
はたしてそのダンボールの中身に女性の下着とか
諸道具類などが入っているのであろうか。

さて、一方、桶川の女子大生殺人事件。殺人容疑
で逮捕されたのは、ストーカーの兄(弟?)の経営
していた風俗店の関係者だ。(ストーカー本人も
店を何件かやっていたらしい)
誰しもが思うがしかし、誰も口にしない疑問は、
なんで女子大生が風俗店の店長と「お付き合い」が
あったのという点だ。

結局、これらの事件はマスコミの奥歯にもののはさ
まった報道によって、逆に想像を掻き立てるもの
になっているという点において共通点がある。

精神分析の岸田秀や経済人類学者の栗本慎一郎によると、ポルノの禁止は、性欲の減退を阻止するための苦肉の政策ということであるが、それと同様に、報道の規制は、よりビビットな想像をさせるための手段に思えてくる。

そういえば、先日来、話題になっている音羽の幼児殺人事件にしても、肝心な殺された娘の母親の性格とかが報道されないため、逆にその女は我々のなかで、よく居るタイプの法律とは無関係な嫌な奴という像が出来てしまい、よくわからないのに、山田みつ子に同情してしまう人を大量発生させてしまった。
(僕も同情した一人だけど)

だれか、こういう状況をテレビでうまいこと説明してほしい。

まさむね

サーバーの調子悪いみたいです

December 17th, 1999

虚言の話もあるけど、シュミレーションの話で言えば何かでよんだ本に、同窓会に幾度に、お金持ちやらホームレスやら毎回トンでもない設定で出かけていくって言うのもありました
その日一日で良ければ結構演技できると思います
試してみるには面白そうです

消されるメディアって紙に書かれていれば、結構偶然残っていたりすると思うのですよでも、電子メディアじゃ、むずかしいかも、私みたいに適当にCD-Rでバックアップ取る人間のデータが残されていれば後世の人はおもしろがるかも・・・
でも、こういう人間ばかりゃ認識が片寄りそうだな

それに読むソフトやハードの問題もあるしね

でも、残されるのって文字情報なんですよね
文字情報って過激じゃないですか、刺激的な本や雑誌も多いしでも、実際は道徳やら社会のルールでもう少しずれたところに社会の軸はあるわけでしょう。その辺、後世の人はどう考えるのかな
聾唖の人とかも社会とのやり取りは文字情報が主体なので、その辺の意識の違いもあるかもしれませんね

いまは、検索サービスの基礎データが更新されてしまったので無くなっているけどひところはアスキーのインターネットサービスが無くなって個人のホームページのデータが検索上は見つかるけど元データはなくってその喪失感は結構な物があったのだけど、こんなこと考えるのは少数なのかも・・
身の回りが雑多なのも何でもとっておきたいと言う意識があるのかもしれないです

農民の神話で言えば、けっこう、こうあって欲しいと言う意識が一人歩きしたというのってありますよね、以前の白痴やバカに聖性を持たせてしまう話もありますけど、あと、インディアンやアイヌなど、マイノリティに自然派志向をもたせてしまうのというのもあると思います。産業革命を経てない民俗は当然どの民俗も全部、自然や環境の事象に聖性を持たせてきたわけで、それを特別視するものなンだかなって感じです
人口が物凄く少なかったわけだから資源も必要としていないし、消費するすべを知らなかったわけだしね

後世の人の為に虚言な情報を残しておくというのも
いいですね

ところざわ

悪意というのは人生のスパイスではないでしょうか。

December 17th, 1999

悪意というのは人生のスパイスではないでしょうか。
僕はプロレスあるいはその他の観るときには、必ず
悪意を入れて見ています。
でも、それでもパワーのある作品には涙するし、感動したりもするから、逆にその悪意というものが一つのハードルになって力のある作品と、そうでない作品を篩い分けしてくれているのかもしれません。

でも、例えば、他人の言葉や態度に悪意があるかどうかを見極めるのはとても困難ですよね。本当のところ、自分にも悪意があるのか無いのかを自覚するのだって難しい。福永さんはもしかしたら、全く善意の人かもしれない。

よく、援助交際とかに対してもそうなんだけど、お金という事で説明しようとして、それで大体が納得も出来てしまう
んだけど、本当のことがみえなくなることがありますよね。
例えば、山田みつ子だって、春奈ちゃん家の生活水準に嫉妬したとか、林マスミだって、いい生活をしたかったとか、工藤や佐々木の行動もお金で考えるっていうのはどっか正しくしかし、どこか確実に間違っている(というか面白くなくさせている)と思います。

ところで、最近僕が夢想しているシュミュレーションゲームがあって、それはメチャクチャなカップル、堕落した父親。救いのない教室、終わりの無い嫁姑戦争というすでに現実的などうしようもない問題が多発している世界で、その問題を一つ一つ
解決していくというゲームです。解決の方法は、人生相談みたいなものとかでいいんですが。このゲームのポイントは、リアリティなので、セリフのセンスがすべてみたいな感じの世界なのですが、もしそういうのがあったら教えてください。

インタネットの世界が発生していっては消えていくというのは、なんだか、僕の興味のある一般の民俗学的世界と共通していますよね。日本の歴史だって、ほとんどの人々の気持ちみたいなものはすでに消えてしまっていて、残っているのは公式の資料だったり坊さんの日記みたいなものだったりしますよね。例えば、14世紀の新潟県の漁民の心情なんて、全く分からない。想像は出来るんだけど、そういう想像って極めて失礼なものになる可能性がある。

こういう話がありますよね。僕が高校時代に習ったことに、江戸時代の農民は米は作っていたけど、食べることはめったになかったという神話。特に東北の農民は毎日飢えと戦いながら、年貢のためだけに働かされていたという神話。でもこれってちょっと考えればすぐに分かることだけど、そういう事はありえないよね。当時の客観的な資料を見ればすぐにわかるんだけど、人口と石高ってほぼ等しいんだって。
ご存知の通り、1石というのは普通の大人一人が1年間で食べる米の量ですよね。そうすると、その米っていうのは、絶対最終的には日本人の口の中に入ったいたということなんですね。牛や馬が食べていたり、密輸していたということがなければ。

ちょっと話しがそれましたが、インタネットの言葉が書かれては消えていくイメージってなんか、無数の人々の独り言が次々に発せられてそして忘れられていくような世界に似ていて美しいですよね。

それではまた。

まさむね

純粋さについて

December 16th, 1999

気持ちが優先されるというのか
悪意がなケリゃ大概の事は
許してもらえるからね

虚言癖の人もそうだし、
法の華も定説オヤジもそうだけど
間違っていても言葉尻をとられて
反論されても、それでも、まだ言い張っちゃえば
それ以上、反論できないからね
いかに楽しい話をその人から聞き出すかが
大切だとお思います

そう、別の話題だけど
気に入っていたホームページが
無くなりかけていて
昔はメディアが紙が主体だった頃は
保存が効いて、過去を知るのに
役立ったけど、放送とかも含めて
インターネットとか保存が効かないから、
今の膨大な情報類が
ほとんど歴史に残らないのは
残念です

でも、どこかにマメな人がいて
掲示板の過去ログとかその他いろいろ、声をかけると
保存してたりする人がいるのが
この世界の凄いトコなんだけど

ところざわ

見世物としての虚言癖

December 16th, 1999

確か、柳田国男の「不幸なる芸術」の中だったと思うが、虚言=ウソはその昔、一つの芸として珍重されたという。

例えば、かわいらしい子供とかが、母親から聞いたおとぎ話をあたかも自分の体験談として、話したり、いつのまにか行く知れずになった人が戻ってきたら、全国を回ってきたと言い張り、全国名所絵図の解説のような内容を自慢げに話したり、自分は、もう千年も生きているとこれまた言い張る爺さんにじゃあ過去の話をしてみろと詰め寄ると源平の合戦とか太平記とか講談に出てくる話ばかりしたとか、そういう話はいくらでもあって、それを聞く人々の態度は極めて温かかったという。

それが、ある時代から、嘘=「いけないこと」という常識がいろんな言葉を抑圧したのではないだろうか。

僕が好きでしかし、五十嵐君が大嫌いな大仁田厚は一時期自分は大嘘つきだと言ってはばからず、それが一つの見世物になっていた。
同様に、彼の泣きの芸は、これまた柳田国男の「梯泣史談」によると日本伝統的な芸風を踏襲しているのではないかと思う。

確かに、現在は泣くということも抑圧された仕草である。

かつて僕は大仁田のシャツ破りパフォーマンスは包茎手術のシュミュレーションであり、それは成人通過儀礼であるということを考えていた。そうすると、試合後の潮吹き=射精、試合中の頭突き合戦=堅くするためのトレーニングだという事でなんだか納得が行く。後に、大仁田が自分のシャツに「男樹」という文字を入れるようになったのを観てさらにその意を強くしたものだ。

大仁田厚のそういった無意識的(もしかしたら意識的)なパフォーマンスは日本人のそういった民俗学的欲求を満足させているのではないか。彼が他のプロレスラーと違うレベルに存在するのも当然だと思う。

さて、話は変わって、上原だ。結局松坂に及ばない金額で契約更改。
当分、純粋青年の姿勢はくずれそうもない。
なぜか、スポーツ選手に純粋さを求める日本では、工藤や桑田のように不純な感じがする人はウケない。しかし、上原と松坂を比較すると残酷なようだが、生まれつきのスターと成績のよい普通の人という対比が見えてしまう。上原の純粋さがこの対比をどう壊していくのかが楽しみだ。

さて、純粋と言えば、先日の雅子様ご懐妊騒動において、マスコミ各社の「純粋ぶり」も、見世物として楽しかった。気持ちさえ純粋ということになっていれば、何をやってもいいという気風も極めて日本的だ。

しかし、法の華の信者の純粋ぶりも観ていて面白かった。

まさむね

虚言癖

December 15th, 1999

だれでも、自分は特別の存在と思いたいからか、
中には、こうありたいって思ったら、
そのまま話が口からでてしまって、
現実と一緒になっちゃう人っていますよね。
特にテレビの世界は、裏方が出演者達を支えて
想像以上のモノに仕立てちゃうから
勘違いする人も多いのかもしれません。
ピッチャーも、言わばステージに
立っているわけだしね。

身近にもいるのですが、それはそれで、
話を聞くには楽しかったりします。
でも、西村さんじゃないよ。
ほとんど、聞く方にはホラ話しの領域なんだけど
まあ、負けん気が強いのかな
何かの話題をふると、極限迄、誇張しちゃうみたいです

戴冠式と言えばナポレオンは
自分の手で戴冠したんですよね。

ところざわ

おばさん顔の恐怖

December 15th, 1999

あるとき突如として、目立つ事の快感にはまった
おばさんあるいは、ある時、そういう欲望を実現
してしまったおばさんの顔は醜悪になるのかも
しれないと思った。

先日、起きた春奈ちゃん殺人事件の犯人、山田みつ子
は実家の裏庭に死体を埋めた。すぐに発見されること
を望んだとしか思えない行動。
この愚かさを自己顕示欲という言葉で説明することは
できはしまいか。主婦グループでも地味だった彼女が
リーダー的存在の子供を殺す事で、何を実現したかった
のか。おばさん達の犯罪のドラマ「OUT」に期待したい。

さて、一方、私におばさんと断定された工藤投手である
が、昨日の長島監督との記者会見。帽子をかぶせてもら
ったり、ユニフォームを着せてもらったりしていた。
関係ないが、僕が興味あるのは、入団発表の時のそう
いった儀式の起源だ。帽子をかぶせてもらうのは、
王様の戴冠式にも似ている。それと根本的に野球帽の
ヒサシの起源はなんなのだろうか。

特ダネの小倉氏について。確かに彼は全てのことに
対して、自分とのかかわりを語る。感じとしては、
全てのドラマを見てるし、すべての人に会ったことが
あるし、全ての流行歌を聴いている。
それは、批評=「作品をダシにして己を語ること」
という小林秀雄の流儀から言えば正しい事かもしれない
が、そうしているうちに実は段々とおばさん顔になって
いくのかもしれないと思った。当然、それは、私に
ついても言えれることだが、大変恐ろしいことである。

まさむね