Archive for the ‘テレビドラマ’ Category

兼続の両義性が「天地人」の見所~謙信と信長の狭間~

Sunday, February 1st, 2009

NHK大河ドラマ「天地人」は、上杉家という大きな組織を、部下として、衰退させながらも上手く軟着陸させた直江兼続という男の物語である。

100年に一度といわれる経済危機の時代。
世界のトヨタやソニーといった大企業も、安穏としていれらない時代。
大きな発展を夢見るのではなく、いかに組織を維持し、あるいは、いかに上手に衰退させていくかというのが課題の時代。

今年の「天地人」は、そんな現代に相応しい物語になりそうである。

さて、本日放送の「信長は鬼か」は天正4年の頃の話までであった。
謙信が亡くなるのは翌年の天正5年なので、おそらく、今回~次回、次々回の放送の時期までの頃が上杉家が最も勢いがあった時代の回ということになるだろう。
もっとも、その流れの中で、規模という見地からすれば、秀吉の家臣として越後、出羽などを収めて120万石を領有する時代が一番、興隆した時代ということは言えるのだが、それはあくまでも天下を諦め、野望を捨てた存在であり、勢いという意味では無くなってしまうのだ。
上杉家の勢いという意味では、謙信存命中がやはり一番なのである。
ちなみに、年表的には今後、謙信の死、上杉家の内紛、五大老時代、関が原、米沢転封 となっていく。

おそらく、「天地人」のポイントは、戦乱から統一を向かえる歴史、組織の流れの中で、直江兼続が、(いわばサラリーマンとして)いかに働いたかというのがテーマになっていくに違いない。それはまさしく現代的なテーマなのである。

実は、似たような事は、前作「天障院・篤姫」にも言えたのを覚えておられるだろうか。
こちらは幕末に滅び行く江戸幕府・大奥という古い組織をトップとして静かに終わらせた一人の女性の物語であった。

「篤姫」と「兼続」は、トップと部下、女と男、消滅と衰退という違いはあれ、見比べてみるというのも一興であろう。
そういった意味でも、篤姫のコンセプトが「和と絆」であったのに対して、兼続のコンセプトは「愛と義」というのは注目なのである。
2月1日放送の第5回「信長は鬼か」では、「義」という思想にたして、信長は「戦争の口実」と言い、謙信は「人が生きる美学」と言っていた。
信長は「義」を相対的に捉えているのに対して、謙信は「義」を信仰しているのである。
それは、信長は合理的であるのに対して、謙信は原理主義者であるという事をあらわしていた。

歴史の必然としては、多くの場合、原理主義者は美しい結末をむかえ、現実的には合理主義者が勝利する。

今回、信長と謙信の二人に合った兼続の心は、二つの「義」の間で揺れ動いたが、彼のそういった(文字通りの)両「義」性が最終的に、上杉家を、美しい死ではなく、しぶとい衰退に導いく事の伏線になっていくのだろう。

今後、その「義」に殉じながら合理的に生きる、兼続の両「義」的な生き方、そして心の揺らぎこそがこのドラマの見どころになっていくに違いない。

まさむね

風太郎の野望は新しい時代の価値観となりうるか

Wednesday, January 28th, 2009

銭ゲバの第2話を見た。

三國造船という大きな造船会社で派遣労働者として働く、主人公の蒲郡風太郎(松山ケンイチ)。
長女の緑(ミムラ)の運転する自動車にわざと当たり、キッカケをつくって、次女の茜(木南晴夏)の話し相手として、社長の家に寄宿することになる。
そして、三國造船を乗っ取ろうという野望を抱くのであった。

社会学者の山田昌弘氏は、現代における最も根本的な格差は、経済格差や教育格差ではなく、希望格差だと言っている。
生まれた環境によって、一人一人の心の中に生じる希望がすでに格差づけられているということだが、それは逆に言えば、ハングリー精神という物語が死滅したという事なのだろうか。
だとしたら、風太郎が持つ価値観(野望=夢)そのものが現代人にとって死滅しかかっているという事なのだろうか。

しかし、そんな時代だからこそ、風太郎の生き方はインパクトを与えるとも言えないだろうか。

前回のエントリーにおいて、風太郎の母親が語る「生きることは苦しくても、頑張っていれば、いつか幸せになれる」という価値観(人生観)に対して、現代的な価値観を提示できるかどうかというのが、このドラマの見所であるというような話をしたが、答えは早くも見えてきた。
それは、悪を引き受けてでも、死に物狂いでのし上がろうという風太郎の野望エネルギー(=ハングリー精神)である。

昨年来、「貧しくても一生懸命に正直に生きよう」という価値観は、「貧乏太郎」や「イノセントラブ」など、多くのドラマでも見られたが、それらの登場人物はあくまで無欲だった。

しかし、風太郎は違う。

「貧しいからこそ欲望を持とう」というメッセージは、70年代初頭から一回りして、今、新鮮だ。
このドラマが今後、どんどん視聴率を上げて行き、世の中にインパクトを残すまでになってほしい。

そういえば、派遣切り企業(昨年末600人)のスズキは、今後も、派遣労働者が主役のこのドラマを提供し続けるのだろうか。
しかも、前回には、交通事故(わざと当たる)という自動車メーカーとしてはかなり微妙なシーンも許容していた。
この太っ腹(あるいは無頓着)はどこまで続くのか。それもまた興味深い。

まさむね

与六の女っぽさは兼続の兜の「愛」にどう繋がるのか

Friday, January 23rd, 2009

NHKの大河ドラマ「天地人」。直江兼続の少年、青年時代の与六(妻夫木聡)の放映が続いている。

ここで気付くのは、少年時代はともかく、青年時代の彼は、なんとも「女性的」に描かれているということだ。
      ◆
例えば、後日、妻になるお船=おせん(常盤貴子)との出会いの場面だ。

人々でごった返す道路に、突如としてあばれ馬が突っ込んでくる。
逃げ遅れそうになった女の子を助けようとして、身を挺して女の子を抱きかかえ、その場にうずくまる与六。
そこに迫り来る暴れ馬。
与六の大ピンチだ。
その時、その暴れ馬に飛び乗り、暴走を止める一人の女性の姿が。その場を収めてその女性が与六に言う。
「この頃の若サムライは馬の扱いも出来ぬと見える」
その態度に、ムッとする与六。
遠目からその女性を2度見し、鏡を見る女性らしさに微妙な笑顔。
そして、次の日の宴会で、その女性と再会して驚くのである。

言うまでも無く、この出会い>不快感>まんざらでもなく思う>再会というパターンは、ラブコメにおける出会いの紋切型である。
しかし、典型的なパターンではあるが、かつては男と女の立場は逆だったはずだ。
     ◆
また、与六は、主君の景勝(北村一輝)が、そのお船に惚れていると知ると、二人を接近させようとして、(景勝がお船に逢いたいという)偽りの手紙を書き、二人を逢わせ、それを影から覗く。
さらに、その後、故郷の母の体調が悪いと知ると木陰で一人泣き出すシーンも出てくる。

これら、与六の振る舞いは、どれもこれも、どう見ても、彼が「女性的」ということを表すエピソードである。
勿論、この「女性的」というのは、現実の女性がそのように振舞う仕草ではなく、芝居やドラマの中での「意味づけ」としての「女性的」にすぎないのであるが、どうして、これほど執拗に、与六を「女性的」にしたがるのであろうか。

そういえば、前作、「天障院・篤姫」では、少女期の篤姫(=於一)に対して、木登りをしたり、野原を駆け回ったり、「源氏物語」よりも「大日本史」が好きだったり、碁が得意だったりと、与六とは逆に「男性性」が付与されていた。
まるで、於一と与六、篤姫と兼続は合わせ鏡のようなキャラクタ設定だったのである。
     ◆
最近のドラマの多くが女性は「男性的」に、男性は「女性的」に描くのが勝ちパターンのようではある。
しかし、そのパターンを、現代ドラマと同様に、視聴率のために時代劇に持ち込むというのはいかがなものか。

一俗説によると、直江兼続が上杉家で重きをなしていく要因の一つとして謙信との衆道関係(ゲイ)にあったという。
真実はわからないが、例えば、篤姫の男性っぽさが、結局は、彼女が処女のまま生涯を終えるという「悲劇」の伏線になっていたように、この与六の女性っぽさが、大河では描けない「ひとつの可能性」の「ほのめかし」として、示唆的に扱われ、物語に厚みを加えるものであって欲しいというのは贅沢な願望だろうか。
そうなってくると、兼続の兜の「愛」の意味もより深みを増すと思われるのだが。

まさむね

-篤姫関連エントリー-
大河ドラマ「篤姫」の視聴率がよかった11の理由
篤姫が私達にくれた6つのメッセージ

ヴォイス〜命なき者の声〜 今後3つの期待

Thursday, January 22nd, 2009

フジテレビ月9ドラマ、「ヴォイス〜命なき者の声〜」の放映を第2話まで見た。

ドラマの内容は、「法医学」をテーマに、法医学ゼミに属する5人の医学生の青春群像劇である。

その5人について説明してみよう。
1人目。大病院の跡継ぎとして医学部に来るが、親への反発で法医学ゼミを希望した石末亮介(生田斗真)。
2人目。子供の頃の母親の「心臓発作」に疑問を持っており、それが法医学ゼミに入るキッカケにもなったが、一方では、それが心のトラウマになってもいる久保秋佳奈子(石原さとみ)。
3人目。実家は歯医者だが、監察医が描かれた海外ドラマを見てハマって「法医学ゼミ」に入った、オタクの桐畑哲平(遠藤雄弥)。
4人目。元不良で、過去にトラブルがあり、その際、司法解剖のおかげで無実が証明された事をキッカケにして、バイトと猛勉強で法医学を目指した羽井彰(佐藤智仁)。

この4人に関しては、一応、キャラの設定がなされている。
特に、最初の2人、亮介と佳奈子(通称アキ)に関しては、それぞれ、克服すべきテーマも明確化されている。
亮介にとって、それはいわゆる「親超え」だし、アキにとっては、「過去の克服」である。
また、残りの2人は、どちらかと言えば、賑やかし的要素が強い。
ただ、哲平=お調子者のオタク、彰=熱血漢の元不良(本当はいい奴)という設定は典型的だが安定感はある。

そして5人目が、主人公の加地大己(瑛太)である。
しかし、この大己のキャラに関していえば、実は、微妙にしっくりこない感じがするのだ。

彼は、過去にも、将来にも特に問題(トラウマや不安)を抱えているわけではない。
明るい性格で、あまり周りに気を遣わない、好奇心旺盛で、人を巻き込むタイプなのである。

僕の見立てだと瑛太という役者は、「篤姫」や「ラストフレンズ」で見せた、ナイーブで、受動的、内面に抱えたモノと闘っているタイプの青年役がハマっているように見えるのだが、この「ヴォイス」では、逆に、積極的に、周りを巻き込むタイプの設定となっているのだ。
そこがしっくりしない原因なのかもしれない。

もっとも、瑛太にとっては、今回、月9ドラマとして、はじめての主演である。
これを機会に、俳優としての幅を、さらに広げてもらえればと思う。

さて、このドラマの今後の興味、あるいは期待であるが、僕は以下の3点を挙げておきたい。

1)様々なタイプの死への対応
ドラマのテーマは、事故、あるいは事件で亡くなってしまった死者の本当の死因を解明し、残された遺族(そして死者本人)に対して、その死が、「報われる死」であるような真実を取り戻してあげるという事である。
初回は、殺人死と思われた男の死を、過去に亡くした自分の息子の代わりに、「ある少年を助けるために自ら命を落とす男の死」というように解読する事によって、「優しかった」男という真実を取り戻す。
2回目は、妻の暴言によって家出しようとした男の突然死を、「実は、妻を愛するがゆえに亡くなった、愛情溢れるものだった」という真実にたどり着かせるのだ。
しかし、毎回、このように、死者=善人というパターンで乗り切れるものだろうか。あと10回位あるのである。
死には、本当の突然死もあれば、怨恨の殺人もある。
あるいは、現代的な死といえば、孤独死や、通り魔的な殺人もあるだろう。
このドラマが、現代的であろうとすればするほど、ヒューマニズムドラマとはかけ離れてしまう可能性がある。
そういった、多様な死を、このドラマは扱う(扱える)のだろうか。
扱わないとしたら、話のバリエーションをどうつけていくのか、そのあたりが楽しみだ。

2)チームプレイでの問題解決
今まで2話を見た限り、死因の究明、そして、「死者に対する物語の回復」は、ほぼ、大己(瑛太)の観察力と推理力でのみ、行われている。
他の4人は大己の行動に付き合ったりはしているが、実はそれほど、話に関わっているわけではないのだ。
せっかく、他に4名の個性的な友人がいるのだから、それぞれの性格、特技を生かした形での問題解決という展開も、期待したい。
あまり大己の能力のみが突出し過ぎると、「ヴォイス〜命なき者の声〜」がいつの間にか、江原啓之さんの「スピリチュアル・ヴォイス〜人生のきりかえ方〜」のようになってしまうのではないかというのは心配しすぎだろうか。

3)加地大己(瑛太)の物語はどうなる
先に、大己のキャラに関して述べたが、彼はあまりに普通すぎはしないか。
実は隠し持っている克服すべき「内面」があるのではないか。あるとしたら、そのように解決していくのか、そのあたり楽しみだ。
また、無理矢理セミに入れてしまった指導教授である佐川文彦(時任三郎)との関係はどうなっていくのか。
そして、月9の約束事でもある(おそらくアキとの)恋愛沙汰はどのように行われるのか。
などなど、ようするに、法医学的なサスペンス性とは別のところでの大きな流れが、まだ全く見えていない。
それらの展開に期待したい。

まさむね

「非婚同盟」を今すぐにでもゴールデンで放送してほしい

Tuesday, January 20th, 2009

フジテレビの昼メロ「非婚同盟」(月曜日から金曜日までの13:30~14:00)が凄い。
1月5日に放送を開始して、3月末まで。全60回の放送予定。
すでに11回の放送を終了しているが、早くも目まぐるしい怒涛の展開だ。
    ◆
簡単に言えば、ある裕福な家族の家(の離れ)に、愛人の一家が移り住むことによって巻き起こる騒動というのが今までの動きである。
当然、そこで様々なトラブル&闘争&葛藤が起きる。
そして、それらの様々な出来事の連続で、全編=山場、いつも=劇的という凄いドラマになっているのだ。

そのドロドロな状況を、昼メロ特有の棒読み演技と、(思ったことは全て顔の表情で表現するという、)お決まりの露骨な演出が、さらにドラマを盛り上げる。
さすが、脚本は、「失楽園」「真珠夫人」「牡丹と薔薇」などを手がけた、ドロドロドラマ界の大御所、1935年生まれ、73歳の中島丈博。
70歳を過ぎて、いまだに、こんな世界を描き続けるパワーに圧倒されざるを得ない。

具体的内容だが、勿論、本妻・伊庭絹子(いとうまい子)と愛人・ 小幡圭子( 三原じゅん子)の慇懃無礼な嫌味合戦も、子供同士のののしり合いも凄いのだが、元はと言えば、そんな騒動を巻き起こした最大原因である、夫・伊庭猪士郎(風間トオル)の堂々とした無責任な存在感の方がもっと凄い。

そんな状況に嫌気がさして、愛人・圭子に対して、「お前の娘(連れ子)を強姦してやる!」「離れに火を点けてやる」と大声で凄む本妻の息子・俊彦(本間春男) 。
父親である猪士郎は、そんな息子に向かってたしなめるどころか、「若い頃はその位、元気じゃなきゃいかん、やれやれ!ははは。」と爽快な顔で、けしかけるのだ。

ここまで来ると、視聴者もツッコむ気にすらならない。
あらゆる矛盾をなぎ倒す位のパワーが溢れているである。

今後、公式HPによると、本妻は死、二人の子供の友情化、二人に対して別の”奴隷的”存在の女の子の登場、家の没落、成長、そして「非婚同盟」結成などへと進むらしいのだが、そんなあらすじをチラ見しただけで、圧倒される。
    ◆
最近、ゴールデンタイムのドラマはどれも大人しくなってしまった。
ただイケメンを並べただけの顔見せドラマ、スポンサーの顔色をうかがい過ぎているドラマ、善人だらけの微妙なすれ違いドラマが増える中で、この「非婚同盟」のような悪人だらけの、露骨で邪悪なパワー溢れた作品を思い切ってゴールデンに持ってきて欲しい。
現状の視聴率もいい。この時間帯で、最高で8.1%の数字を残しているのである
もしかしたら、大ブームを巻き起こす可能性が無いわけではないと思うのだが、いかがだろうか。

まさむね

2009年「銭ゲバ」は現代的価値観を提示出来るだろうか

Monday, January 19th, 2009

「銭ゲバ」は元々1970年頃に少年サンデーで連載されたジョージ秋山の漫画である。
当時、作品の表現問題から一部の都道府県では有害図書扱いされたことがあったという。

それが、2009年にテレビドラマとして蘇った。
主人公の風太郎が1円玉を拾うシーンに続いて、のっけから、どこか大きな工場の生産ライン。そこは、労働者は人間として扱われていない世界だ。

一日の労働の後、毎日のように工場側から、その日で仕事を切られる労働者の番号と名前が呼ばれる。
それは、必然的に最近、話題になっている「派遣切り」の風景を彷彿させる。

約40年前の労働者の風景が、現代の状況とシンクロするシーンだ。
今クールのドラマが「ラブシャッフル」にしろ、「メイちゃんの執事」にしろ、明らかに時代とずれたフィクションが目立つ中で、「銭ゲバ」の世界観は、今だからこその露悪的な説得力を出し続けられるか、どうか。
おそらく、これがこのドラマの生命線になるであろう。
それにしても、松山ケンイチ(青森生まれ)の暗さは、十分、期待に値する存在感である。
    ◆
さて、その後、しばらくして、画面は主人公・蒲郡風太郎の子供時代へ。
彼が育った環境は、父親は飲んだくれ、母親が病気をおして働いて家を支える。そして、風太郎も新聞配達で家計を手助けする。
絵に描いたよな可哀そうな境遇である。
しかし、母親と風太郎の二人の食事風景はなんとも涙を誘う。
子役は、「光とともに」での光君役や、「流星の絆」での 有明功一の子供時代の役などで大人顔負けの演技を見せた齋藤隆成、そして、母親は、最近では、「モンペ」や「魔王」で母子家庭の母親役を好演した奥貫薫だ。
それにしても、仮に”幸の薄い役柄市場”というものがあったとしたら、この奥貫薫は独禁法違反になるくらい他の追随を許さないハマリ役者である。

貧乏な母子、母親は風太郎に以下のように言う。
「ちゃんと正直に一生懸命がばってれば絶対幸せになれる。神様は見ていてくれるから。」

そういえば、1970年、今からおよそ40年前、大阪万博があった年。おそらく、その頃は今以上に、貧富の差が激しい時代だった。
しかし、人々はこの母親の言うような、価値観を信じていた。
生きることは苦しくても、頑張っていれば、いつか幸せになれるという価値観を。

しかし、あれから40年、市場原理主義、新自由主義、グローバルスタンダードなどという価値観の大転換の大波が去った後、日本は、頑張らないと幸せになれないが、頑張っても幸せになれるかどうかは偶然に左右されるような社会になってしまった。
こんな社会で、いったい誰がこのような現実を前にして、必死で努力しした方がいいなどと自信を持って言えるだろうか。
現代の労働問題の本質は、職が無いというよりも、欲が無いということだと思う。
それは、2009年の価値観のもとで、人々は労働意欲を維持継続出来るかという問題なのではないだろうか。

さて、1970年の「銭ゲバ」では最終的に、この母親的な価値観が正しかったということになるのだが、現代の時代背景のこのドラマにおいて、最終的にいかなる価値観が勝利するのであろうか。
母親的な価値観の先を行く”現代的”価値を提示できるのか、そのあたりがこのドラマの見所となっていくだろう。
    ◆
さらに言えば、原作では風太郎は最終的に自殺するのであるが、このドラマではどうなるのであろうか。
そこも一つの見所だ。
昨年から今年にかけての、多くのドラマでは自殺防止メッセージが流され続けている。

例えば、「イノセント・ラブ」において、佳音(堀北真希)の兄・耀司(福士誠治)がナイフで自殺しようとするが、殉也(北川悠仁)に制止される。
その時のセリフが「生きていて欲しい」だった。そして最終回に耀司は言う。「何があっても生きなくてはいけないのですね。」と。
大河ドラマ「篤姫」でも、主人公の篤姫(宮崎あおい)は、自分は死んで官軍の江戸総攻撃を回避しようとする徳川慶喜(平岳太)に対して、「あなたも家族です。」と言って、自害を阻止する。
また、「流星の絆」、真犯人だった刑事(三浦友和)が自殺しようとするが、自分の両親を殺された有明功一(二宮和也)はそれを許さない。
さらに、今クールの月9ドラマ「ヴォイス~命なき者の声~」の第一回放送では、自殺しようとする子供を救い自分が亡くなったしまった男(モロ師岡)の話であった。

その流れの中で、2009年の「銭ゲバ」はどういった結末を迎えるのであろうか。今から楽しみである。
    ◆
さて、ドラマの中身とは関係ないが、この「銭ゲバ」の提供クレジットには、株式会社スズキとコカコーラである。
コカコーラはいいとしても、昨年末に600人の期間労働者の削減を発表したスズキが堂々と名前を連ねているのはいい根性している。
ドラマの中で、労働者が冷淡にも切られるシーンがあって、CMに切り替わるとスズキのワゴンR。
どれだけのCM効果があるのだろうか。

ちなみに、キャノンは番組終了後に、ヒッチハイク扱い(視聴率に応じてCM料を決めるシステム)でCMを流していた。
御手洗会長は、はたしてこのドラマとCMのアンバランスを見たのであろうか。
興味深いところである。

まさむね

「天地人」はどういう価値観を示してくれるのか楽しみだ

Saturday, January 3rd, 2009

元旦は、NHKスペシャル「激論2009」を興味深く見せてもらった。

番組のポイントは、現在の不況の原因を作ったといわれている構造改革の政策責任者の一人の竹中平蔵元総務大臣を金子勝、山口二郎、斎藤貴男の3氏がどれだけ、攻め込めるかだった。
ご存知の通り、竹中氏は、郵政民営化を初めとする新自由主義に基づいた(民営化、規制緩和、地方分権、財政再建など)政策を立案、実行したことで知られているが、その竹中氏に対して、今日の惨状の責任を認めさせるというのが、この3人に課せられたテーマだった。
多くの視聴者もそう思ってみていたはずだ。

しかし、結果としては、竹中氏は逃げ切った。
竹中氏に「第一の課題は貧困をなくすことだ」とか「大事なのは犯人探しをする事ではなくて、一つ一つ具体的に問題を解決することだ」と、正論を言い切られて、ほとんど有効な反論ができなくなってしまった。
さらに、実際の政策実行過程で具体的に官僚の執拗な抵抗があるという経験談に対して、この3人は黙って聞くしかない。
終いには、リアリストたれと一喝されることによって、事実上、論家あるいは研究者としての気楽さをも指摘され、いわゆる格の違いを見せ付けられてしまった。

それでも、例えば、今日の派遣切りなどの惨状と竹中氏の政策の失敗が明確にひも付けられれば、細かい点で、もっと攻め込めたかとも思うのだが、社会情勢の変化等も絡めて説明されると、それも難しかった。
具体的には、2003年に法制化された労働者派遣法の改正(製造業務への労働者派遣の解禁)の問題点が指摘されたが、それは別に小泉・竹中構造改革からだけの問題ではなく、80年代から徐々に解禁されてきた経緯がある。
労働者派遣法は、2003年の前に、既に1985年、1996年、1999年と徐々に派遣出来る業務が広がってきたのである。
また、同様に、パートタイマー(フリーター)、契約社員等の非正規社員もこの30年あまりの間にどんどん増えてきたし、転職なども当たり前になってきた。
それらは、新しい働き方、あるいは新しい生き方を支援するための新制度として、むしろ肯定的に広がっていったのである。
   ◆
そして、これらの労働形態の多様化は、その背景として、「自分らしく生きろ」、「個性を生かせ」、「夢を持て」などという耳あたりのいいイデオロギーが後押ししてきたのではなかったか。
おそらく、現代日本人にとって、こういった価値は、それこそ骨の髄まで染み付いている。
例えば、昨年の大河ドラマ「篤姫」は、まさに「己の心のままに生きる」ことを肯定する価値観を背景に持っていたし、TBSの大ヒットドラマ「ROOKIES」は常に「夢にときめけ!明日にきらめけ」と語りかけていた。

それらのドラマが発する価値観があまりにも自然なため、僕たちはその起源すら忘れがちであるが、それらは決して古いものではない。
おそらく、戦後にいつの間にか浸透したものであると思う。

しかし、昨年から今年をまたいでさらに続くと思われる経済危機の中、これまで僕らを支配していた、悪く言えば浮かれた価値観は必然的に変わらざるを得なくなってくるのではないか。まず、足元の生活を維持する事こそが重要になってきてしまうからだ。
勿論、だからと言って、その前の価値観=勤勉、忍耐、協調という古い価値観を持ち出すこともナンセンスだ。
それらは、日本型農業社会、そして、右肩上がりの工業生産重視の時代、あるいは終身雇用が当たり前の時代にまでしか通用しない価値観だからである。

これからは、普通の人が、普通に真面目に働いてもその先に成功するとは限らない時代が待っていると思う。
逆に、今まで以上に、一人一人が、付加価値を付けていかなければ生き残っていけない時代になる。その意味で、上記討論番組において、勝間和代氏が、これからは教育が大事だ、しかもそれは、子供に対してだけではなく、個々人が自らに対してもそうだという趣旨の話をしていたが、まさしくその通りなのである。
しかし、一方で、だからこそ、これからはイザという時のために、普段から、絆(今上天皇によって、天皇誕生日のご感想だけではなく、年頭のお言葉でも繰り返された言葉であるが)=人間関係というセイフティネットを大事にし、さらに、国に頼る以前に、自分達で作っていかなければならない時代になると思う。
そういう意味で、今後、学校の役割は、自分が落ちそうになった時の精神的、人間関係的なセイフティネットの基礎となる絆を作る場としての意味も大きくなっていくようにも思える。教育に金をかけるのは確かに大事だが、学校というところが、大人になるためのプラグマチックな訓練場として以上に、学校を卒業して大人になった時に、僕たちを癒してくれる「故郷」として必要になってくると思うのは、いささかノスタルジックに過ぎるだろうか。
    ◆
さて、今年の大河ドラマ「天地人」では上杉家家臣の直江兼続が主役であるが、彼は、「愛」と「義」に生きた武将として知られている。
「愛」と「義」というコンセプトは、自分自身の生き方というよりも、周囲に対しての接し方のコンセプトなのだと思うが、それがこの時代に必要な「絆」構築のための思想になれるかどうか。その思想が時代とシンクロしていけるかどうか。
そういう視点でこのドラマを見て行きたいと思う。

まさむね

大河・篤姫が「その時歴史が動いた」篤姫と違う5つの点

Friday, December 26th, 2008

先日、NHK「その時歴史が動いた 大奥 華にも意地あり~江戸城無血開城 天璋院篤姫~」の再放送があった。

「その時歴史が動いた」は、忠実に史実を再現する事をポリシーとした番組である。
今まで、信じられてきた歴史に対して、新たな実証、資料を元にして、新史実を紹介するところが真骨頂だ。

そこで、僕が気になったのは、この番組で紹介された史実の篤姫は、大河ドラマ「篤姫」と、いくつかの点で異なっていたという事だ。しかも、そのいくつかの点は、むしろ篤姫の特徴を現していたエピソードのような気もするのである。

僕が気になった点を上げてみる。以下の5点だ。

1)和宮との初対面における敷物
和宮との初対面において、史実では、篤姫が和宮に敷物の無い場所を指定したのだが、大河では、篤姫は敷かなくていいのか?といぶかるが、大奥総取締り・滝山に「必要ない」と進言され、そのような状態になった、ということになっていた。

2)江戸城退去を言い渡させた時の篤姫の態度
朝廷から倒幕の勅命が出て、討幕軍が江戸に迫った時、篤姫は城内からの退去を勧められるが、これを拒絶し、史実では短刀を構えて自害の姿勢を見せたという。
そうとう気性の激しい女性だったようだ。勝海舟は、こんな篤姫を評して「天璋院は貞婦というか烈婦」と記しているほどだ。
しかし、大河では、この場面では篤姫は退去に納得。その際に、「とりあえず、3日間だけ退去してほしい」という滝山の嘘を見破り、逆に、そのような嘘を付かせた滝山の心をいたわっている。

3)江戸城総攻撃を思いとどまらせるために西郷に送った手紙
史実では、西郷が江戸総攻撃を思いとどまったのは、篤姫からの「自分の命にかけても、徳川家の存続を嘆願する」手紙によってということであるが、大河では、むしろ、斉彬から篤姫への手紙を読むところで、西郷は号泣。日本を西洋に負けないような国にしたいという斉彬の意志を継ぐ、すなわち日本のためを思って江戸総攻撃を止めたということになっていた。

4)江戸城退去後に大奥に残された物
篤姫が江戸城から退去するとき、史実では、調度品等を全部置いてくる事によって、薩長に対して、徳川文化の厚みを誇示しようとしたのに対して、大河では、高寿院(家定の母)が活花をして、それに感化された篤姫をはじめ、他の女中達、みんなが活花をし、それを部屋に残し、乗り込んできた薩長軍の兵士を驚かせるというエピソードになっていた。

5)大奥退去後の女中達への世話
大奥退去後、史実では篤姫は、女中達の縁談、再就職先の面倒のため奔走したとのこと。そのために、死後、残された所持金はたった3円=現在の貨幣価値で6万円程度になっていたということであるが、大河では、その件は、江戸城開城前に、滝山に一任されていたようだった。篤姫の面倒見のよさを示すエピソードのはずなのだが、大河では、「気にかけている」レベルの話になっていた。

おそらく、本当の篤姫は、1)、2)、3)でも分かるが、気性が激しい女性だった。
また、1)、4)のエピソードを聞くと、かなりプライドが高い面も持っていたことがうかがえる。
さらに、2)、3)、5)で分かる通り、責任感が強く、人情味にあつかったようだ。

大河における篤姫よりも、かなり性格の輪郭がはっきりしている。
ようするに、本当の篤姫は、大河・篤姫よりもキャラが立っていたのではないだろうか。しかし、そのキャラはかなり古風である。

おそらく、上記のような史実の篤姫の武勇伝の多くが避けられたのは、随所で現代的な価値観を見せる大河・篤姫とのキャラの整合性をとるための対応だったのであろう。
例えば、「生きる」という事を第一とする現代の価値観からすれば、短刀で自殺しようとしたり、あるいは、自分を犠牲にしても徳川家を守って欲しいなどと言うのは矛盾してしまう。
また、1)のように、見方によっては姑の嫁に対する意地悪に見えてしまう振る舞いは避けられた。

ただ、4)の場面では、自分が先導して活花をしたとか、5)の場面では自ら奔走したというシーンにしてもよかったと思うが、それぞれ、ヒステリック、あるいは冷たいイメージの高寿院と滝山に華を持たせる形となっている。
この点は、逆に、結果として、篤姫の懐の深さを見せたのではないだろうか。

一方で、大河・篤姫は、史実としては可能性が低い小松帯刀や徳川家定とのユニークな男女関係が前面に出ていたが、これが多くの視聴者を惹きつけたのである。

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まさむね

「イノセントラブ」最終回に残された8つの不可解さ

Monday, December 22nd, 2008

「イノセントラブ」の最終回。

誰か命を落とすのでは、と思っていたのだが、それはなかった。ここに来て、日本社会もの急速の不況で、死というものをドラマで扱いにくくなっているのだろうか、結局、誰も死ななかった。
「何があっても、生きていかなければいけないんですね。」という佳音(堀北真希)の兄・耀司(福士誠治)のセリフが、今の時点でテレビドラマが発しなくてはいけない最低限のメッセージであることをよく表している。
ちなみに、最近のドラマにおける「生きなさい」というメッセージに関する詳細に関しては、。「篤姫」「イノラブ」「流星の絆」からの共通メッセージとは? をご参照ください。
    ◆
さて、今回の最終回であるが、教会の2階から飛び降りた聖花(内田有紀)。
とっさに助けようとして、彼女の下敷きになって頭から血を流す殉也(北川悠仁)。
昴(成宮寛貴)は「聖花は殉也の気を惹きたくて飛び降りたんだね。」と解釈する。

そして、脳に傷害を負う殉也は、聖花と同じく、人工呼吸器生活に。
病院のベッドで、殉也の手を握り、殉也への愛を告白する昴だが、殉也は全く反応せず。

必死に看病する佳音だが、立ち上がっても、殉也の記憶、感情が元に戻らない。
さらに、恋のライバルだった美月(香椎由宇)を呼んで、殉也の記憶を蘇らせようとするが、失敗。

続けて、殉也を暖かく看病する佳音。
ある日、公園で殉也に玩具のカメラ等を見せて殉也を笑わせる。
そのシーンを遠目で見ていた耀司。その足で教会へ行き、今まで、妹・佳音に抱いていた近親愛を吹っ切れたと、神父に告白。微笑む神父。
さて、公園に戻る。そこにあった赤い風船を見て、殉也が、聖花の事を思い出す。
佳音は、殉也が、本当は聖花の事を心の奥ではずっと好きだったんだと悟り、自分の身は引いて、殉也と聖花の2人で会わせようとする。
ところが、殉也は、聖花と一緒の時に、床に落ちた楽譜(殉也が佳音のために作った曲)で見て、その曲をピアノで弾きだし、「自分にとって大事なのは佳音なのだ」と悟り、急に家を飛び出して佳音がいるであろう教会に走り出す。
教会では、殉也と聖花のために、身を引き、落ち込む佳音がいた。
佳音に抱きつく殉也。そのままキスシーンへ。
そのシーンにかぶって、「愛に過去も未来も無い。好きだという気持ちの日々の積み重ねだ」みたいなナレーションが入り、ジ・エンド。
     ◆
最終回、みなさんはどう思われただろうか。
僕は残念ながらあまりにも不可解で、多くの謎を残したという印象だ。
そこでどこが不可解だったのかを以下の6点にまとめてみたいと思う。

1)殉也の気を惹こうとして、聖花が教会の2Fからダイブする。ってあまりにもリスキーじゃない?
前回の放送でも、耀司が妹・佳音の記憶を蘇らそうとして、殉也にナイフで襲い掛かるシーンがあったが、自分が起した行動とその結果との結びつきが、あまりにも、無理矢理な感じがする。
聖花の頭の中はどうなっているのか。そういった知恵はあるのか。昴への思いやりは無いのか。
脳の病気という事にしてしまえば、どんな唐突のな行動も許容されるというシナリオにはやはり、付いて行きがたいものがある。

2)殉也がピアノを自分で弾いて、大事なのは佳音だと気付くっていうのも、唐突じゃない?
聖花の教会ダイブと同様に、「イノセントラブ」における脳に傷害を負った人の行動があまりにも非論理的過ぎて付いていきがたい。
聖花も殉也も同じ類の傷害なのだろうが、時々、ただ口が聞けないだけの人々のようにも見える。

3)神父は何故、耀司の内面をすぐに理解できるの?
自分の今までの邪心を反省し、これからは心から妹の幸せを祈れると、教会で手を合わせる耀司だが、そばにいた初対面の神父(内藤剛)に自分の気持ちを打ち明けると神父はすぐに理解を示し、微笑む。
神父というものは状況の詳細がわからなくても、懺悔してくる人には必ず、微笑むものなのだろうか。

4)身を引いたはずの佳音が、殉也と教会で再会するとすぐにまたキスするっていいの?
殉也の「本当の」幸せを願っている佳音だが、一度は諦めたくせに殉也が迫ってくるとすぐに、キスに応じる、って変わり身、早過ぎない?

5)殉也の記憶を呼び起こそうとして美月を家に呼ぶ佳音、虫が良すぎないか?
殉也の記憶を呼び起こしてもらおうと、家に美月を招くが、結局成功せず。
またもや美月の心を傷つけることに。佳音はちょっと残酷ではなかったのか。
最初から最後までかわいそうな美月。
と思ったら、最後のエンディングシーンで笑ってオルガンを弾く姿も。どうやって、立ち直ったのか。

6)昴と聖花はこれからどうするの?
自分にとって大事だったのは、殉也と気付いてしまった聖花。
振られてしまうわけだが、一方で愛情の注ぎ先を失っている昴が、そんな聖花とそれまでのような暮らしが出来るのか。疑問を残したまま終了してしまった。

7)佳音と殉也はどうやって生計立てていくの?
最初から、引越しばっかりしている佳音の経済状態は気になるところだったけど、殉也が半植物になっちゃった今、佳音のピアノバーのアルバイトだけでやっていけるのでしょうか。
老婆心ながら気になるところだ。

8)結局、イノセントラブというは、誰の誰に対する愛のことだったのだろうか。
大きなところ、この疑問に尽きる。
これはみなさんにも是非考えていただきたい点である。

まさむね

井の頭弁財天の恋人破局伝説とテレビドラマの結末

Monday, December 22nd, 2008

先日、吉祥寺の井の頭公園に行ってきた。
都会の中のオアシスという言葉があるが、まさに、そんな感じだ。

さて、井の頭公園と言えば、弁財天である。

ここの弁財天は歴史がある。
天慶年間(938-946)に清和源氏の祖・源経基が最澄作弁財天を奉納して建立したのが元だという。
その後、源頼朝が宮社を建立、新田義貞が戦勝祈願したとも伝えられている。(神社公式HPより)
さて、弁財天の神紋は、「対い波に三つ鱗の紋」。人形町の水天宮の弁財天の神紋もそうでした。
境内には、提灯、賽銭箱、手水場等、様々な所にこの紋が見られるが、それぞれ微妙に違う。

また、狛犬の古さが、この弁財天の歴史を物語る。
台座には明和八年とある。1771年のことである。この頃の狛犬は、胴長でユーモラスな御顔の創りのものが多いが、この狛犬もそうだ。
ちなみに、写真は、口をあけているので正確には、「阿形の獅子」というべきか。
    ◆
ご存知の方も多いかと思うが、井の頭公園にカップルで来ると、ここの弁財天が嫉妬して、別れさせてしまうという伝説がある。この公園はドラマロケが多い公園としても有名であるが、この公園でデートした男女がドラマの中で、その後、どうなったのかを見てみよう。

1)「愛していると言ってくれ」
1995年にTBS系で放映。主演は紘子(常盤貴子)と晃次(豊川悦司)。
この公園で何度と無く過ごす二人だが、結局は別れてしまう。
しかし、最後の何年後かのシーンで偶然再会。将来へ若干の含みは持たせてあるが...

2)「ひとり暮らし」
1996年TBS系で放映。主演は美歩(常盤貴子)、他出演は、恭子(永作博美)と高弘(高橋克典)、千勝(高橋和也)。
一方的に美歩のことが好きだった千勝は美歩を誘って、井の頭公園でデートするが、結局実らず。

3)「仔犬のワルツ」
2004年にNTV系で放映。主演は葉音(安倍なつみ)と芯也(西島秀俊)。盲目の葉音と一緒に散歩するシーンがある。
二人は、愛し合っていたが、ドラマの最後では結ばれず。
ラストシーンでは、葉音が芯也を銃で撃つ?らしい銃声が...

4)「ラストフレンズ」
2008年にCX系で放映。主演は美知留(長澤まさみ)、瑠可(上野樹里)、タケル(瑛太)。
タケルがこの公園で瑠可を抱きしめて告白するも、瑠可は性同一障害のため、永遠に実らず。

偶然なのか、意図的なのか、4つのドラマとも、愛のすれ違い、あるいは愛を超えた運命によって、カップルは結ばれることは無かった。
    ◆
ところが、この日は、日曜日。
二人で楽しそうにしているカップルが多かったこと。

まさむね