Archive for the ‘歴史・家紋・散歩’ Category

撫子紋 -可愛い日本女性のシンボル紋-

Monday, January 26th, 2009

秋の七草、撫子。
戦いに明け暮れた武士達のやすらぎのひと時を感じさせる優しい花だ。

また、この撫子紋は、大和撫子というように、日本女性を象徴する紋である。
この紋で有名なのは、美濃の斉藤一族。

全国分布では、石川県で27位に入る。

撫子紋を持つ有名人は以下。

東条英機。1884年7月30日 – 昭和23年12月23日、陸軍軍人、政治家。
東京市麹町区に東條英教陸軍歩兵中尉と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。
東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。
統制派の第一人者として陸軍を主導。太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣。東京裁判にてA級戦犯として処刑された。家紋の撫子紋は、雑司が谷霊園、和田堀廟所の墓所とも共通意匠。


斎藤義竜。1527年7月8日 – 1561年6月23日、戦国時代の大名。
初代当主・斎藤道三の嫡男として生まれる。
実父は土岐頼芸という説もある。
美濃の戦国大名斎藤氏の第2代当主。尾張の織田信長の軍勢とも戦い、戦況を有利に進めた。長良川の戦いで、斎藤道三を討ち果たした。

まさむね



竜胆紋 -源氏といえばこの紋-

Monday, January 26th, 2009

源氏を代表する紋と言われているが、実際は、村上源氏、宇多源氏の代表紋で、清和源氏の子孫では使用する家は多くない。

おそらく、歌舞伎の「勧進帳」で義経がつけたことから、いつの間にか、源氏の代表紋とされるようになったのであろう。

また、曹洞宗の開祖、道元が村上源氏出身のため、この紋は、曹洞宗の寺紋とされている。
例えば、坂本九や、エノケンが眠る青山・長谷寺の寺紋は、竜胆車紋(左図)である。

全国では25位。岩手で19位、秋田、神奈川、山梨、長野で20位といったところがやや多いが、全国にまんべんなく分布している。

北畠親房。1293年3月8日 – 1354年6月1日、南北朝時代の公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。
後醍醐天皇が即位すると、後醍醐の皇子世良親王の養育を託される。
吉田定房・万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


石川数正。1533年 – 1593年、武将・大名。
先祖は河内源氏の義家流・石川源氏・石川氏。
徳川家康の片腕として活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従した。徳川家康が関東に移ると、秀吉より信濃松本10万石に加増移封される。
丸に笹竜胆。


岩倉具視。1825年10月26日- 1883年7月20日、公家、政治家。
公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。源通親の子孫。
岩倉家は村上源氏久我家の江戸時代の分家、下級の公家である。
大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。家紋は笹竜胆。


久我美子。1931年1月21日 – 、女優。
村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、清華家の家格を有した公家家系。
父・久我通顕は侯爵として貴族院議員や東京府知事を務めた。
代表出演作『また逢う日まで』『醉いどれ天使』『彼岸花』『太陽とバラ
『3時のあなた』の司会者を務める。家紋は五つ竜胆車(左図)。


長門勇。1932年1月1日 – 、俳優。
岡山県倉敷市出身。本名 平賀湧。
ひょうきんで人懐こい浪人を装いながら、その実、凄腕の剣術使いだった、間抜けと見せながら鋭く執拗に追及していく刑事などと、裏表がある役どころを名演した。代表作『てなもんや三度笠』『三匹の侍』『横溝正史シリーズ』等。家紋は笹竜胆(と丸に剣片喰も)。


雅山哲士。1977年7月28日 – 、武蔵川部屋所属の現役大相撲力士。
実家は茨城交通グループのオーナー一族。本名は竹内雅人。
武双山の父に指導を受け強くなった。初土俵から4場所連続優勝という記録を作る。
最高位は西大関(2000年7月場所)。
家紋は笹竜胆。

まさむね



杏葉紋 -九州武将あこがれ、異国の馬具を模した紋-

Monday, January 26th, 2009

杏葉とは馬具の装飾品。
法然上人の生家の漆間家がこの杏葉紋のため、浄土宗系の寺院の寺紋となっている場合がある。
例えば、伊能忠敬が眠る上野の源空寺、喜多川歌麿が眠る北烏山の専光寺など。画像は、専光寺の杏葉紋。

この紋は、室町時代、九州の大友氏と有力家臣が使用していた。1570年、竜造寺隆信が大友宗麟を戦で破り、その紋を奪った。
さらに、その竜造寺家から、重臣の鍋島家がこの紋を奪った。
それほど、九州地方では憧れの紋だったのである。

したがって、この紋を持つ人は現在でも九州地方の多い。
佐賀県の19位が最高。福岡県、大分県で21位、長崎県で23位、熊本県で25位。九州以外では、広島県で28位。

杏葉紋を使用している有名人は以下。

大友宗麟。1530年1月31日 – 1587年6月11日、戦国大名、キリシタン大名。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて九州で権勢を振るう。
宗麟の時代に大内氏や毛利氏の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。
当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。家紋は花杏葉。


立花道雪。1513年4月22日 – 1585年11月2日、武将。
豊後の戦国大名である大友氏の家臣。
耳川の戦いで大友氏が衰退した後も大友氏を支え続けたが、高齢を押して出陣したために病に倒れ、死去した。
半身不随にも関わらず、勝利し続けたため「鬼道雪」「雷神」と称された。 家紋は花杏葉。


鍋島直正。1815年1月16日 – 1871年3月8日、江戸時代末期の大名。
父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。
藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を行う。
アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した。
家紋は鍋島杏葉。青山墓地の鍋島氏の墓所にて撮影。

まさむね



蛇の目紋 -神秘的なヘビ信仰を現代に伝える-

Monday, January 26th, 2009

蛇の目に似ているため、蛇の目紋と呼ばれる。
おそらく、古来、蛇の神秘的な姿や動きに聖なるものを感じた日本人がその神秘的な力にあやかろうと家紋にしたのであろう。シンプルなデザインに力強さを感じさせる。

戦国、安土桃山時代の武将・加藤清正が替紋にこの「蛇の目紋」を使った。
彼の長烏帽子についていた蛇の目は有名。

蛇の目紋を使用している有名人は以下。

加藤清正。1562年 – 1611年、武将・大名。
尾張の鍛冶屋の子として、尾張国愛知郡中村に生まれる。
豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し。秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。
関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。
家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は供養塔(本門寺)で撮影。


佐久間信盛。1528年 – 1582年2月18日、武将、織田信長の家臣。
尾張国に生まれ、織田信秀に仕える。
六角氏との戦い、一向宗との戦い、比叡山焼き討ちで武功を上げる。
信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。家紋は蛇の目九曜、三つ引両。


加藤友三郎。1861年4月1日 – 1923年8月24日、第21代内閣総理大臣
広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町に生まれる。
父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。
ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。
総理時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。

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久留守紋 -隠れキリシタンがつけた悲しい紋-

Monday, January 26th, 2009

キリシタン禁止後、信者は、この紋を使用して十字架をカモフラージュしたといわれている。
そこまでして信仰を守ろうとした人々の気持ちを考えると、その意志の強さと同時に悲しさも感じさせる。

使用する有名人は以下。

小西行長。1555年 – 1600年11月6日、安土桃山時代の大名。
堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都で生まれた。
12才から秀吉に仕え数々の手柄を上げ、南肥後の20万石を与えられた。
朝鮮出兵のとき、加藤清正と先陣を争ったことでも有名。
関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦したが敗北。家紋は花久留子(左)と中結祇園守(右)。


中島敦。1909年5月5日 – 1942年12月4日、小説家。
祖父、中島撫山は商家から漢学者となった。
父、中島田人は旧制中学の漢文の教員。
気管支喘息のため早逝。
代表作は『山月記』『文字禍』『李陵』等。

まさむね



丁子紋 -南洋に対する想いを表した紋-

Monday, January 26th, 2009

丁子とは、モルッカ諸島原産の常緑樹。
その蕾を干したものは、香料、薬として珍重されたという。
一般的には、この薬を珍重した藤原系の家(押公路、前田、甲藤など)が使用したといわれているが、もしかしたら、南洋からの移民が先祖を忘れないために紋にしたのかもしれない。

だから、この紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。
また、その他では、富山県(19位)に多い。おそらく薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのではないだろうか。

使用する有名人は以下。

木村貞行。1658年 – 1703年3月20日、赤穂浪士47士の1人。
赤穂浅野家家臣木村惣兵衛の子として赤穂で生まれる。
赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行150石。譜代。通称は岡右衛門。
主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。
家紋は丸に違い丁字。


海音寺潮五郎。1901年11月5日 – 1977年12月1日、小説家。
鹿児島県伊佐郡大口村生まれ。本名は末富 東作。
第3回直木賞受賞。史伝文学の復興に対する功績があった。
代表作は『西郷隆盛』『天と地と』『海と風と虹と』『悪人列伝』等。
家紋は五つ丁子。写真は、和田堀廟所の墓石。


富永一朗。1925年4月25日 – 、漫画家。
京都府京都市生まれ。大分県佐伯市育ち。
1976年より1994年まで放送された長寿番組『お笑いマンガ道場』に出演。
代表作は『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』など。
岡山県川上郡川上町の名誉町民も務める。家紋は左二つ丁子巴。


増位山太志郎。1948年9月16日 – 、大相撲の力士。
大関増位山大志郎の長男として東京の三保ヶ関部屋で生まれる。
本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関
歌手として「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」等のヒット曲がある。
家紋は三保ヶ関部屋の玄関にある隅切り角に違い丁子。

まさむね



葵紋 -徳川家の紋としてあまりにも有名-

Monday, January 26th, 2009

平安時代に、宮中で7月7日に行われた相撲会の際、東の力士は葵の葉を、西の力士は夕顔の花を髪飾りにして入場した。そこから「花道」という言葉が出来たという。

葵紋といえば、徳川家の家紋として有名。
しかし、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵)であるため、徳川家はもともと、賀茂一族の出ではないかと言われている。

また、善光寺の寺紋(立葵)でもある。

有名使用者は以下。

徳川慶喜。1867年1月10日 – 1868年1月3日、江戸幕府第15代征夷大将軍。
江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。
大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城などを行なった江戸幕府最後の将軍。
明治になってからは、趣味に没頭した生活を送った。
写真は、谷中霊園の慶喜墓の門にある三つ葉葵紋。


本多忠勝。1548年 – 1610年12月3日、武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男。
家康の家臣として数々の武功を上げる。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
家紋は立葵(左)と丸に本の字。


志村けんのバカ殿様。バラエティ番組のキャラクタ。
ドリフターズの志村けんが扮する。モデルは江戸幕府第9代将軍徳川家重。幼名は「竹千代」。志村城の城主、志村藩(親藩)12万石の領主。
コントでは、「丸に三つ葵」の徳川家の家紋が城内に見られる。
ちなみに、家老格の桑野信義は丸に橘紋、側用人のダチョウ倶楽部は巴紋を使用。

まさむね



洲浜紋 -水神を奉った浜辺の豪族の紋-

Monday, January 26th, 2009

州浜は、神仙が住む蓬莱島のこと。
海の向こうにあると言われている究極の幸せの国への憧れがこの紋に現れている。

和歌山県(24位)、徳島県(25位)で多い。

小田氏治。1534年- 1602年1月6日、戦国大名。
常陸の大名小田氏の15代(最終)当主。
上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏らと何度も抗争を繰り返す。
秀吉の小田原征伐に際し、「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」ことを理由に所領を全て没収される。家紋は洲浜紋。


奥田行高。1678年 – 1703年3月20日、赤穂浪士47士の1人。
赤穂藩浅野家家臣の近松小右衛門行生の五男として誕生。
赤穂藩ではまだ家督前の部屋住みだった。
享年26。主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。
家紋は丸に洲浜。

まさむね



輪違い紋 -多元的な世界の調和を表す哲学的な紋-

Monday, January 26th, 2009

二個以上の輪が鎖のように繋がった紋。

長谷寺の寺紋が二つ輪違い。
二つの輪は、曼荼羅の金剛界、胎蔵界を表し、その二つの世界が調和していることを表すといわれている。
ようするに、一つの輪は一つの世界を表し、それらが絡み合うことによって、多元的な宇宙の調和を表している。

使用している有名人は以下。

高師直。生年不詳 – 1351年3月24日、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
高氏は、足利氏の執事職を代々つとめた。本姓は高階氏。
足利尊氏の側近として討幕戦争に参加。分捕切捨の法を初めて採用した。
尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと絶大な勢力を振るった。京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』(画像)は近年の高師直の像とされる。家紋は寄り懸かり輪違い。


脇坂安治。1554年 – 1626年9月26日、武将・大名。
脇坂氏は近江東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。
秀吉の家臣として活躍。賤ヶ岳の七本槍の一人で、七本槍の中では最年長の武将である。
淡路洲本藩主。のち伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。
家紋は輪違い。画像は青原寺の脇坂家墓所にて撮影。


中山晋平。1887年3月22日 – 1952年12月30日、作曲家。
長野県下高井郡新野村(現・中野市)出身。
多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。
代表童謡『シャボン玉』 『てるてる坊主』 『証城寺の狸囃子』 など。
代表歌謡曲『東京音頭』 『波浮の港』 など。

まさむね



文字紋 -わかりやすさ第一の優しい紋-

Monday, January 19th, 2009

家紋の中で一番わかりやすいのが文字紋である。

近頃は、ローマ字ロゴが全盛の時代だが、「丸に文字」の文字紋もまだ残っている。
それは、丸に文字紋が、かっこ良さは別にして、ご年配にわかりやすいからに違いない。

左画像はご存知の通り、左上=伊勢丹、右上=大丸、左下=三越、右下=高島屋の「丸に文字」ロゴである。
大衆相手の百貨店にとって、わかりやすさは大事なのだ。

文字紋は全国で26位。
長野県で12位、宮崎県で14位。
おそらく、長野県では、丸に上文字紋が多いだろうと推測できる。村上発祥の地だからである。

文字紋を持つ有名人は以下。

稲葉一鉄。1515年 – 1589年1月5日、武将。
伊予の名族・河野氏の一族で、彼の時代に美濃に流れて土豪になった。
土岐氏、斎藤道三から斎藤氏3代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。
江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となる春日局の養祖父にあたる。
家紋は隅切角に三の字。


石田三成。1560年 – 1600年11月6日、武将・大名。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。
秀吉の小姓として仕える。豊臣政権の五奉行の一人。
家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は大一大万大吉。


宇喜多秀家。1572年 – 1655年12月17日、武将・大名。
備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれた。幼名は八郎。
羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となる。豊臣政権下の五大老の一人。関が原の戦いに敗れ、流人として伊豆諸島・八丈島へ配流。家紋は剣片喰(左)と児の字(右)。


蜂須賀家政。1558年 – 1639年2月2日、安土桃山時代の武将・大名。
蜂須賀正勝の長男として、尾張国丹羽郡宮後村に生まれる。
父の代わりに阿波の大名に任じられて徳島藩祖となる。
阿波踊りは、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥と言われている。家紋は蜂須賀万字。


大久保主水。江戸水道開設者。菓子職人。
元々三河武士であったが、負傷以降、餅菓子を作る特技を生かして家康に菓子を献じる。
家康に用水事業を命じられ、井の頭池、善福寺池を源に江戸城並びに市中の引水に成功。
これが神田上水といわれるわが国の水道の先駆けとなる。この功により、以来、「主水」の名を賜り、幕府用達の菓子司を務めた。家紋は上り藤に大の字。


大野治長。1569年 – 1615年6月4日、武将。豊臣家の家臣。
京都に生まれる。豊臣秀吉の馬廻衆として取り立てられた。
秀吉の死後は、豊臣秀頼の側近として仕えた。家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として家康にその罪を問われ、下野国(栃木県)に流罪される。
大坂夏の陣で破れ自害。家紋は大文字。


村上義清。1501年3月29日 – 1573年2月3日、戦国時代の武将。
村上顕国の子として葛尾城に生まれる。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。家紋は丸に上文字。


仙石秀久。1552年2月20日 – 1614年6月13日、武将・大名。
美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流。羽柴秀吉の家臣として仕える。
賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀久はこれまでの功を評価され、淡路国洲本城主5万石の大名となる。家紋は丸に無の字。


本多忠勝。1548年 – 1610年12月3日、武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男。
家康の家臣として数々の武功を上げる。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
家紋は立葵(左)と丸に本の字。


平田篤胤。1776年10月6日 – 1843年11月2日、国学者、神道家。
秋田藩士の子として生まれ、成人してから備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。
本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。
紋付、墓所にある家紋は右卍轡。


久坂玄瑞。1840年 – 1864年8月20日、武士・長州藩士。
長門国萩平安古に萩藩医・久坂良迪、富子の二男として生まれる。
松下村塾に学び、高杉晋作、吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。
安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。
禁門の変で負傷し、自刃する。家紋は隅立角に三の字。


島津斉彬。1809年 – 1858年7月16日、島津氏の第28代当主。
薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。後に西郷隆盛ら幕末で活躍する人材も育て上げた人物である。
日本の国旗である日章旗を初めに提案
丸に十字は薩摩・島津家家紋として有名。島津製作所も同様の社章。


三島通庸。1835年6月26日 – 1888年10月23日、薩摩藩士、内務官僚。
薩摩藩士三島通純の長男として生まれる。三島家は代々藩の鼓指南役の家柄。
山形県・福島県・栃木県の各県令、内務省土木局長(県令と兼任)、警視総監を歴任。
家紋は、折敷に三文字。この紋は、越智氏流の河野氏の代表紋で、三島神社の神紋としても知られている。大山祇神社の神紋は、三文字が縮んでいる。


三宅雪嶺。1860年7月7日 – 1945年11月26日、哲学者、評論家。
加賀国金沢生まれ。本名は雄二郎。加賀藩家老本多家の儒医の子として生まれる。
国粋主義の立場を主張する為、『日本人』を創刊する。
主著は『真善美日本人』『偽悪醜日本人』。家紋は「島形に児文字」。この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


杉田玄瑞。1818年9月20日 – 1889年7月19日、蘭学者。
三河出身。杉田玄白の後裔者。
若狭小浜藩医になり蕃書調所・洋書調所教授、外国奉行支配翻訳御用頭取などを歴任。
開成所教授の蘭学教授として、新島襄等、多くの人材を育てる。
東京神田に共立病院を創立。家紋は田の字だと思われるが、角轡にも見える。


島津保次郎。1897年6月3日 – 1945年9月18日、映画監督。
東京神田区駿河台に老舗海産物商の息子として生まれる。
多くの作品で庶民生活を生き生きと活写し、「メロドラマ」の名手として知られる。
代表作は『兄とその妹』『麗人』『嫁ぐ日まで』等。
家紋は丸に十の字。島津家の代表紋である。


志賀直哉。1883年2月20日 – 1971年10月21日、小説家。
宮城県石巻市生まれ。父直温は明治期の財界で重きをなした人物。
小林秀雄、阿川弘之、小林多喜二などが彼に師事した。
暗夜行路』は近代日本文学の代表作の一つに挙げられている。
代表作「小僧の神様」「城の崎にて」「清兵衛と瓢箪」「暗夜行路」など。


坂東三津五郎 (10代目)。1956年1月23日 – 、俳優、歌舞伎役者。
東京都中央区に生まれる。本名は守田寿(もりた ひさし)。
長男に二代目坂東巳之助、長女に女優の守田菜生、また従妹に女優の池上季実子がいる。
出演作品は『武士の一分』『母べえ』『功名が辻』など。
家紋は三ツ大。


北野武。1947年1月18日 – 、お笑いタレント、映画監督、東京芸術大学教授。
東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の四男として生まれる。
80年代、ビートきよしと「ツービート」という漫才コンビを組みブレイク。「平成教育委員会」「風雲!たけし城」「TVタックル」等主演番組多数。映画監督としては世界的に有名。『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。紋付にはオリジナルK文字紋がつけられている。


夏目雅子。1957年12月17日 – 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として生まれる。旧姓は小幡。写真はその実家の紋。
代表出演作はドラマ『西遊記』『徳川家康』、映画『瀬戸内少年野球団』など。
夫は、『ギンギラギンにさりげなく』の作詞で有名な伊集院静。27歳の若さで突然の死去。
「美人薄命」そのものの生涯と当時多くのファンからその死を惜しまれた。


高市早苗。1961年3月7日 – 、政治家。元近畿大学教授。
奈良県奈良市出身。夫は同じく自民党衆議院議員の山本拓。
安倍晋三内閣で内閣府特命担当大臣として入閣。沖縄及び北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化・男女共同参画、食品安全を担当。2007年8月15日、安倍内閣の閣僚でただ一人靖国神社に参拝した。高市家は越智氏流で、家紋は、折敷に縮み三の字


西島千博。1971年10月21日 – 、俳優、バレエダンサー。
宮崎県日向市生まれ。TVドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の尾崎京一役として有名。2008年に真矢みきと結婚。画像はその婚礼時の紋付より。波多野氏の一族岩間氏の兄弟の一人が西島姓に改姓(13世紀)した際、「岩間」の名前をこの「丸に岩の字」紋に残した。この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

まさむね