見世物としての虚言癖

確か、柳田国男の「不幸なる芸術」の中だったと思うが、虚言=ウソはその昔、一つの芸として珍重されたという。

例えば、かわいらしい子供とかが、母親から聞いたおとぎ話をあたかも自分の体験談として、話したり、いつのまにか行く知れずになった人が戻ってきたら、全国を回ってきたと言い張り、全国名所絵図の解説のような内容を自慢げに話したり、自分は、もう千年も生きているとこれまた言い張る爺さんにじゃあ過去の話をしてみろと詰め寄ると源平の合戦とか太平記とか講談に出てくる話ばかりしたとか、そういう話はいくらでもあって、それを聞く人々の態度は極めて温かかったという。

それが、ある時代から、嘘=「いけないこと」という常識がいろんな言葉を抑圧したのではないだろうか。

僕が好きでしかし、五十嵐君が大嫌いな大仁田厚は一時期自分は大嘘つきだと言ってはばからず、それが一つの見世物になっていた。
同様に、彼の泣きの芸は、これまた柳田国男の「梯泣史談」によると日本伝統的な芸風を踏襲しているのではないかと思う。

確かに、現在は泣くということも抑圧された仕草である。

かつて僕は大仁田のシャツ破りパフォーマンスは包茎手術のシュミュレーションであり、それは成人通過儀礼であるということを考えていた。そうすると、試合後の潮吹き=射精、試合中の頭突き合戦=堅くするためのトレーニングだという事でなんだか納得が行く。後に、大仁田が自分のシャツに「男樹」という文字を入れるようになったのを観てさらにその意を強くしたものだ。

大仁田厚のそういった無意識的(もしかしたら意識的)なパフォーマンスは日本人のそういった民俗学的欲求を満足させているのではないか。彼が他のプロレスラーと違うレベルに存在するのも当然だと思う。

さて、話は変わって、上原だ。結局松坂に及ばない金額で契約更改。
当分、純粋青年の姿勢はくずれそうもない。
なぜか、スポーツ選手に純粋さを求める日本では、工藤や桑田のように不純な感じがする人はウケない。しかし、上原と松坂を比較すると残酷なようだが、生まれつきのスターと成績のよい普通の人という対比が見えてしまう。上原の純粋さがこの対比をどう壊していくのかが楽しみだ。

さて、純粋と言えば、先日の雅子様ご懐妊騒動において、マスコミ各社の「純粋ぶり」も、見世物として楽しかった。気持ちさえ純粋ということになっていれば、何をやってもいいという気風も極めて日本的だ。

しかし、法の華の信者の純粋ぶりも観ていて面白かった。

まさむね

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