唖然とさせる蹴散らし

January 11th, 2000

前の書き込みはちょうど始業時間になってしまい中途半端になってしまったので、続きです。

唖然とさせると言えば、昨年の東西の横綱は、松坂大輔と宇多田ヒカルだろう。僕はこの二人、実績もさることながら、彼らの発言に唖然とさせるものを感じた。

先日、野球選手が集まって行われた運動会みたいな粗雑な番組の1コーナーに松坂と上原の対談みたいなのがあって、そこで、松坂ははっきり自分の方が上原よりも投手として上であると言いきった。客観的事実はわからないが、僕はその正直さに唖然とさせられた。謙虚で知られる上原だが、目の前で、5才も年下の奴に格下扱いされたのだ。
その時の複雑な表情は今後、彼を見ていく上でも記憶にとどめておくべきものであった。

一方、宇多田ヒカルだが、年末の有線大賞の授賞式でのビデオでのコメントで「今後も、みんなが喜ぶようなズルい曲を作っていきたい。」と言った。これまた僕はその正直さに唖然とさせられてしまった。
ナンシー関だったか、宇多田ヒカルはいろんなものを蹴散らしたと言っていたが、まさしくこの発言で、さらに蹴散らされた業界の人は多かったに違いない。さらに今日のスポーツ紙には、宇多田ヒカルが飛び級でコロンビア大学入学か(?)とあった。
またまたこれで蹴散らされる人々が増えるのではないか。(別のサッチーのことだけじゃなく)
まったくもって、これらの若き天才達の「蹴散らし」は、まさにロードウォーリアーズの入場シーンのように快感でしかたがない。

まさむね

岡村とお茶の水

January 11th, 2000

僕のポン友のS君は早稲田大学の広報部勤務だが、彼の話によると、現場での岡村は終始、試験中もうつ伏せで寝ていた(寝たふりをしていた)そうで、現場としての面白味は全く無かったようだ。
一方、お茶の水博士のほうは、休み時間中も外部と携帯で連絡を取り、「入っちゃえばこっちのもんッスよ。」などとうそぶいていたところ、そのS君に注意されるなど、現場では、他の受験生の顰蹙を買いまくり、逆に言えば、面白かったそうだ。
そう考えていくとライブ的センスでは、お茶の水に軍配があがったような気もする。勿論、番組やタレントとしての格も考慮に入れなければならないのだが、あるいは、結果としての番組の面白さという基準で物事を考えなければならないという話も一理あるのだが、僕はその2人にプロレスを通過したものとそうではないものという区別を嗅ぎ取りたいのであった。
例えば、昨年、全日本プロレスの武道館大会にやってきた岡村は格闘技映画のパブリシティかなんかだったと思うけど、ラッシャー木村とのマイクのやりとりを披露したが、完全に木村に負け、「木村さん、あなたは面白い。」と終いには露骨に負けを認め、観客にも媚びるしまつだった。そこに岡村のプロレス童貞としての側面を見たのだ。

まさむね

唖然とすること

January 10th, 2000

ずっと風邪でダウンしてました

郷ひろみのその場面はみてませんでしたが唖然とすることは現実のほうが先いっちゃってますからね

ちょっと前に広末受験のときに、99の岡村と浅草キッドの御茶ノ水博士も受験していましたが、岡村のほうのは帯番組での企画のせいか、各教科毎の家庭教師軍団やライバル受験生との交流など、手を変え品を変え丁寧にいろいろな場面で笑いをとってました。
御茶ノ水博士のほうは単発の受験ぽくて、才能あると思うし個人的には大好きなのですが余り成功はしてなかったと思います。

プロレスもそうだけど、いろいろな状況を作って少しづつ盛り上げていかないと、テンションがあがらないのかもしれませんね

テレビってドキュメンタリーとか取材ものしかみないですドラマも最近見ないけど、大河ドラマとか、一年で50数回放送するなら、予定調和や結末のわかっている時代劇はやめてもっと目新しいのを見せてほしいよなあ

むかしインディジョーンズのテレビシリーズがあったけど、歴史上の史実や実在の人物に架空の事柄を掛け合わせて唖然とさせてほしいって感じです

ところざわ

人を唖然とさせてこそのダンディズム

January 7th, 2000

今朝、コンビニでパンを買った時、前に並んでいた
30歳位の男性が、健康ドリンクの代金を100円札
で払っていた。板垣退助の絵柄のやつである。
ダンディズムとは人を唖然とさせる事。という
ボードレールの言葉を思い出した。

さて、最近、テレビを観ていてあんまり唖然とさせ
られる事はないような気がするが、その中で年末の
バラエティ番組で郷ひろみが、「嫌いな山の手線の
駅名は?」という多少、悪意のこもった質問に対して
あっさり「六本木」と答えていたのには唖然とさせ
られた。と同時に、彼のスーパースターを感じずには
おれなかった。人は、不必要な知識というのは、
持たないものだ

まさむね。

プロレスは今年もプロレス

January 6th, 2000

プロレスラーがバラエティに出ない事、それ自体は
確かに淋しい事。でもなんかのついでに出てもらってもそれはそれで、他のジャンルと比べられているような感じがしてよろしくない。
いつか、筋肉番付に全日本の川田が出ていて、かなり期待していたのでに全くダメでした。大きな俵みたいなのを投げるヤツとか。
プロレスというジャンルがいかにイメージに依存しているのかがわかります。その昔、ジャイアント馬場が医者に「運動不足ですね。」と言われたという笑い話がありましたが、自分が癌なのも知らずに戦っていたというオチは、いろんな事を考えさせられます。
ところで、今年のお正月は松坂ばかり出ていましたね。
当たり前の事ですが、彼はユニフォームを脱げば普通の19才なわけですから、あまり期待しちゃいけないのですが、何のハプニングもなく、彼が何もしゃべれないという事のみを表現する結果となりました。平和です。
一方、1・4の東京ドームでの小川VS橋本のタッグ戦。
混沌のうちに橋本優勢の結末。4月の再戦の予告編のようなものでしたね。小川の元気の無さが気になりました。あれで観客は満足したのでしょうか。
まぁ、満足したかどうかが気になるという事自体が
反スポーツ的なのですが、スポーツじゃないんだからしかたないか。

お正月のテレビ

January 4th, 2000

あんまりテレビ見なかったんだけど
一昔に比べてプロレスラーがお正月特番に
出ること少なくなったね
いくらマイクパフォーマンスが
主流になっても、プロレスの文脈が通じるリング以外じゃ
お笑いの人に比べれば喋れないもんなあ
体使う番組も跳び箱とか
技術的に本格的なの増えちゃうと
入り込めないもんね

深夜K-1みたけど、体大きいとみごたえあるね
編集してあるんでなんともいえないけど
短時間で一試合が終わるのもいいです

ところざわ

売れたら勝ちという論理-2

December 27th, 1999

売れたら勝ちという論理が私が好きな理由は、数字と言う絶対値だからからもしれません

たとえば、私はデザイン系の学校出身だったりするのですが、そこのコンサバな芸術の論理だったりすると大衆に迎合したり、売れ線を狙ったりする行為はさげずまれたりします。

でも、実際は自己満足の芸術は何の価値や評価もえらないわけで、大衆的な芸術なら売れなきゃ行けないしいま、芸術的と言われるようなハイソなモノなら評論家やその路の大家に評価されるもので無ければ意味無いわけです。
その論理も、今や手が混んでいて例えば一部の人に受け入れるようにしたりしてブームが延命するように、いろいろ演出するわけです
昔は芸術家は王様に迎合していたわけで、今は大衆が王様なわけです。

マスコミやテレビに嫌悪感あるのは正義とか知る権利とか真実とか、言っておきながら
実は自分達は利権にまみれて扇動的に動いているからでしょう

いろいろな常識や倫理とか風習とか、社会には縛りがあるけど、いまは、社会も村とか小集団に依存してしか生きて行けないわけじゃ無いから
それを乗り越えてしまったら、ヤッタもん勝ちなのかもしれません。
造反有利ですね

以前のログの整理もおねがいします

ところざわ

売れたもの勝ちという論理

December 27th, 1999

売れたら勝ちという論理は、多数決が善という民主主義のルールと通底していて、「まだまし」なものなのでしょう。

僕も売れたら勝ちという論理と作品自体は私のため
にあるはずだという論理の間を行ったり来たりして
いるような気がします。あるいいは、もっとずるく、使い分けているような気がします。

先日、読売新聞で、最近の事件を例に引いて、報道が動機を探る事に偏るあまり、人々に受け入れられやすい動機探しに奔走していく事の無責任さを指摘する論説が出ていて、その通りだと思いつつ、そんな状況はしかたなく、でも嫌でしょうがない気もしました。

嫌と言えば、今年の僕のキーワードのような言葉でしたが、先日また、嫌について考えさせられるテレビ番組がありました。

フジテレビの「しらばか」という番組で、あるイラストレータが夫の名字が嫌で離婚したんだけど、離婚の理由はそれだけで、子供もいて、一緒に楽しく暮らしているという話が出て、それに対して、出演者は一斉に、それはおかしいと、責めるんですね。「子供はどうなるんだ」とか「やっぱり結婚と同棲
は心構えが違うんだ」とか「これが日本のルールだ」とかいろいろと言うんですが、結局は論破できず、その人がよければそれでいいという事になってしまったんですね。

僕もそのイラストレータを見ていて、もの凄く不快な感じがしてのですが、その不快の理由が全く解明出来なかった。
新しいものは常に保守的な人には不快なものとして感じられるんでしょうか。例えば、それはビートルズの登場みたいに。

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ところで、はやくも明日、引越になってしまいました。
なるべく早くマシンを使えるようになります。

まさむね

劇場性

December 24th, 1999

どんな行為も結局、他の人に見てもらって
ナンボの世界ですもんね
いや、ナンボという言葉が違和感あるなら
ケレンミが大切というか
評価されなければ何の意味が無いのかもしれません

芸術性やストイックさを競っても
見てもらって楽しんでもらったり
心揺さぶってもらって、自分も嬉しいと言うのが
大切だともいます

ミュージシャンも自堕落や無頼を気取っていても
巨大なお金を産む音楽産業の自営の事業部長って
存在ですモンネ

もちろん、スポーツマンも
同じでしかルべきだと思います

人の見ていな所で新記録を打ち立てても
しかも、新記録を誰も興味示さなければ
彼等もモチベーションが無くなるでしょう

GAGAで強烈に意識したことは
やはり客商売は楽しんでもらって
お金落としてもらうことが大切だってことです

K1も、その意味では十分正しいのかもしれません

ラーメン屋が2軒しか無かった街が
暖簾別けして散って、屋台だらけになった街に
バーミヤンが登場したって感じかもしれません

ところざわ

石井館長の思い出

December 24th, 1999

K1がはじまる前にたまたま石井館長と食事を
する機会があった。彼を含めて3人での会食
だったが、彼はその時、ラーメン屋でやたらに、
料理を注文し、10品位、テーブルに並べて
そして当然のように残した。

その豪快さ(非日常性)に触れたとき、
あぁ成功する人ってこういう人なんだろうな
と思った。彼はその時、格闘技もプロレス
のように見世物(ショー)として成立する
はずであり、そのためには最初の10分間
くらいはナァナァでやって、その後、10分経過
のアナウンスを合図に真剣勝負をすれば
いいのではないかと、語っていた。

今、K1を前にして僕はその言葉がずっと頭
から離れない。だから、K1を見るときのポイント
はその合図がどのタイミングなのか。いつ、戦い
のモードが変わったのかという事を見抜く事
になってしまった。

まぁと言ってもテレビでしか、しかも偶然で
しか見ないんだけどね。

突然の話だが、田無に引っ越す事になった。
今月の28日である。
GAGAへ行くため、やって来た恵比寿には、
6年位いたが、ここで一度、引きこもることに
なり、少しは残念であり、少しはほっとして
いる。本も大量に処分しようと思っている。
プロレス関連の本はすべてヴァリスに譲ろうと
思う。僕にとって、今年はプロレス最終年に
しようと思う。
さて、本棚を整理していて、思ったことは、
自分がいかに偏った本の趣味をしているかと
いうこと。そして一方、確実に流行に影響され
ているということだった。
主な著者はこんなところだった。

柄谷行人、蓮実重彦、三浦雅士、井沢元彦
網野善彦、赤坂憲雄、司馬遼太郎、宮台真司
橋本治、岡田斗志夫

まさむね