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亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋-

Monday, January 12th, 2009

亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。

ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。

また、商標、後には会社名としても採用した。

また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。

全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。

さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。

浅井長政。1545年 – 1573年9月26日、武将で、北近江の戦国大名。
浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下で生まれる。
浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。妹のお市を正室に迎え、織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、のちに信長と決裂して織田軍との戦い(姉川の合戦)敗れるなど追い詰められ自害し、浅井氏は滅亡した。家紋は三盛亀甲花菱。


直江兼続。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大河ドラマの「天地人」の主人公。
直江兼続という人物は、戦国から安土桃山時代にかけて、上杉家の生き残りを賭けた戦いと外交に尽力した傑物。
ただ、その三つ盛り亀甲の中の文様は、細い葉だったという説と、剣花菱だったという説がある。
2009年節分の成田山での豆まきの際、兼続役の妻夫木聡も三つ盛り亀甲の紋付だった。


竹本義太夫。1651年 – 1714年10月18日、浄瑠璃太夫。
摂津国(大坂)に生まれる。農家の出身。
大坂道頓堀に竹本座を開設し、近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。
近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。
浄瑠璃の義太夫節の創始者である。家紋は竹亀甲に九枚笹。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト、新聞史研究家。
讃岐国阿野郡小野村(香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。
反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。
画像は染井霊園の墓所にて撮影。


馬場孤蝶。1869年12月10日 – 1940年6月22日、作家、英文学者、評論家、翻訳家。
高知市出身。本名は勝弥。島崎藤村や北村透谷、上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。
本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。
作品は『片羽のおしどり』 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。
家紋は、違い一重反り亀甲。


有吉佐和子。1931年1月20日 – 1984年8月30日、小説家。
曽祖父は、長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレナ。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした。
代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『和宮様御留』など。
家紋は亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


夏目雅子。1957年12月17日 – 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として生まれる。旧姓は小幡。写真はその実家の紋。
代表出演作はドラマ『西遊記』『徳川家康』、映画『瀬戸内少年野球団』など。
夫は、『ギンギラギンにさりげなく』の作詞で有名な伊集院静。27歳の若さで突然の死去。
「美人薄命」そのものの生涯と当時多くのファンからその死を惜しまれた。


手塚治虫。1928年11月3日-1989年2月9日、日本を代表する漫画家。
大阪府に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。
代表作は、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。
ストーリー漫画の父と言われている。

まさむね



蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所-

Monday, January 12th, 2009

家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。

一般的には、この紋は、あの平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院はこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。
ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。

ところで、よく見ると、蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。

全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。

さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。

織田信長。1534年5月12日 – 1582年6月2日、戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として生まれる。
日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、大名(戦国大名)である。
重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。


池田輝政。1565年1月31日 – 1613年3月16日、武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。
小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の池田元助が討死したため家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築した。家紋は揚羽蝶(左画像は姫路城の瓦の揚羽蝶)、備前蝶。


大谷吉継。1559年 – 1600年10月21日、武将・大名。
近江国(滋賀県)で生まれ、秀吉の小姓となる。
九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となった。
賤ヶ岳の戦いの際に長浜城主柴田勝豊を調略して内応させる。
関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶。


佐野房綱。1558年- 1601年7月31日、武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。
豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。
戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


大塩平八郎。1793年3月4日 – 1837年5月1日、儒学者で、大坂町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。
大塩家は代々与力として禄を受けていた。
天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。
その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


芹沢鴨。1827年 - 1863年10月28日、幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。
江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。
新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


岡本綺堂。1872年11月15日 – 1939年3月1日、小説家、劇作家。
イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として東京高輪に生まれ、1歳から麹町に育つ。1913年まで24年間を、東京日日新聞の記者として過ごす。
1916年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、代表作となる。


池田亀鑑。1896年12月9日 – 1956年12月19日、国文学者。平安文学専攻。
鳥取県日野郡福成村(現・日南町)に生まれる。
「源氏物語」研究の権威で、文献学の知見を日本古典文学研究に導入。
3年かけて「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行った。紫式部学会の創設、雑誌「むらさき」の編集なども行う。


二代目・中村吉右衛門。1944年5月22日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶に平知盛が当たり役。
また、テレビドラマでは、池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役がはまり役。
写真は初代の墓所より。


トニー 谷。1917年10月14日 – 1987年7月16日、ヴォードヴィリアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、東京市日本橋区小伝馬町に育つ。本名は大谷 正太郎。
戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築した、キザでイヤミでバタ臭くてアクの強いゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。半被には蝶紋が施されていた。


平沼騏一郎。1867年10月25日 – 1952年8月22日、政治家。岡山県津山市出身。
日本の官僚で、第35代内閣総理大臣
法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。
戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。
元経済産業大臣の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である平沼淑郎の曾孫である。


藤原紀香。1971年6月28日 – 、女優。
1992年神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。
女優としては『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。
その他、国際活動や人道支援への協力でも知られている。
写真は陣内智則との結婚式の時のもの。晴れ着に蝶紋が見られる。


二代目・中村獅童。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。
代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「硫黄島からの手紙」「レッドクリフ」など。
萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。

まさむね



木瓜紋 -この紋はキュウリ?鳥の巣?女陰?-

Monday, January 12th, 2009

木瓜(もっこう)紋は不思議な紋である。

この紋の起源がよくわからないのだ。
代表的なものを上げてみると以下のようなものである。

1)キュウリの切断面を図案化したもの
2)鳥の巣を象ったもの
3)神社の御簾の帽額(モコウ)に使われた文様
4)女陰

いずれにしても、子孫繁栄や縁起のよいものにあやかろうという精神がこの紋の普及を促進したのであろう。

また、都道府県別でこの木瓜の割合が一番多いのは以下の県である。
(都道府県別姓氏家紋大辞典 千鹿野茂著より)

北海道、青森県、岩手県、栃木県、埼玉県、新潟県、富山県、和歌山県。

この中でも特に、富山では、他県に比べて著しい普及率(28%)を示している。
この地域は、戦国時代に朝倉氏が勢力を持っていて、この紋を広く門徒に使わせたためと言われている。
また、2位の地域は、秋田県、宮城県、福島県、石川県、福井県、鳥取県、島根県など。四国と南九州では比較的少ない。

有名人では以下の人々が使っている。

滝川一益。1525年 – 1586年10月21日、戦国時代の武将。
近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として生まれたという。
織田信長の家臣として、伊勢長島攻め長篠の戦い石山合戦で功を上げる。
信長から上野と信濃の一部を与えられ、関東管領を名乗ったとも言われている。
領地よりも、茶器(「珠光小茄子」)を所望したと言われている。家紋は丸に立木瓜。


朝倉義景。1533年10月12日- 1573年9月16日、越前の戦国大名。
越前の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。
信長と敵対したが、一乗谷城の戦いで敗れ、自刃した。
その際、往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った一乗谷の市街地は、灰燼に帰した。
家紋は三つ盛木瓜。


塙保己一。1746年6月23日 – 1821年10月7日、国学者。
武州児玉郡保木野村に生まれる。家紋は丸に木瓜。
塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自。
群書類従』『続群書類従』の編纂者として知られる。
『史料』編纂の事業は、現在も東京大学史料編纂所に引き継がれている。


二宮尊徳。1787年9月4日 – 1856年11月17日、農政家・思想家。
相模国足柄上郡栢山村に百姓利右衛門の長男として生まれる。家紋は木瓜。
日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、農村復興政策を指導した。
子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、寝る間も惜しんで読書をしたという。
薪を背負いながら本を読んで歩く銅像が小学校などに多く建てられた。


沖田総司。1842年夏の日 – 1868年7月19日、幕末の新選組の隊士。
父は陸奥白河藩士の沖田勝次郎で長男。
副長助勤、一番隊組長、撃剣師範。本姓は藤原を称した。
1864年6月5日の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる。1868年に死去。


田山花袋。1872年1月22日 – 1930年5 月13日の小説家。群馬県館林市出身。
1907年に、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。
女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。
家紋は丸に横木瓜。


樋口一葉。1872年5月2日 – 1896年11月23日、小説家。
元々父親である則義は甲斐国山梨郡中萩原村(旧山梨県塩山市、現在の甲州市)の百姓であった。7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
代表作は、「たけくらべ」「にごりえ」。五千円札の肖像となっている。
現在の墓所は、杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所。


上野英三郎。1872年1月19日 – 1925年5月21日、農業土木学者。忠犬ハチ公の飼い主
三重県出身の農業土木・農業工学の創始者。
大正14年5月、上野は大学で講演中に脳溢血で倒れ急逝。
愛犬ハチは帰らぬ上野を長期間待ち続け、「忠犬ハチ公」として秋田犬の名を世間に知らしめることとなった。


平田禿木。1873年2月10日 – 1943年3月13日、英文学者、随筆家。
東京生まれ。本名・喜一郎。
島崎藤村らの『文學界』同人として活躍。
のち英文学者として多くの翻訳を刊行、『禿木随筆』などがある。
またアーネスト・フェノロサの能楽研究に助力した。のち『平田禿木選集』全5巻が刊行された。


片山潜。1859年12月26日 – 1933年11月5日の社会運動家。
美作国粂郡羽出木村に庄屋藪木家の次男として生まれる。
明治30年12月『労働世界』を創刊し主筆を務め、日本で最初の労働組合である労働組合期成会の設立に大きな役割を果たした。明治34年(1901年)、日本で最初の社会主義政党である社会民主党の結成に幸徳秋水らとともに加わった。


梅ヶ谷藤太郎 (2代)。1878年3月11日 – 1927年9月2日、第20代横綱
石川県上新川郡(現在の富山県富山市)に生まれる。
常陸山谷右エ門と同時に横綱に昇進。「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代を築く。
168勝27敗47分2預116休、勝率.862。優勝相当成績3回。
家紋の木瓜は、本門寺の墓地にて撮影。


平塚雷鳥。1886年2月10日 – 1971年5月24日、思想家・評論家・作家。
東京府麹町区三番町に紀州藩士の出で明治政府の高級官吏・平塚定二郎の子として誕生。
関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広(大谷吉継の与力)の末裔とも言われる。
明治時代末からの女性解放運動・婦人運動の指導者で、後年には平和運動にも関わった。
日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を製作した。


西ノ海嘉治郎 (3代)。1890年11月2日 – 1933年7月28日、第30代横綱
鹿児島県西囎唹郡国分村浜の市出身。本名は松山伊勢助。
仕切りが長く、その間に観客が便所に立つため「小便相撲」と陰口をたたかれた。
幕内通算成績は30場所、134勝60敗2分2預116休、勝率.691。優勝1回。
年寄浅香山を襲名し、井筒部屋から独立して浅香山部屋を旗揚げした。


大槻文平。1903年9月27日 – 1992年8月9日、経営者、財界人。
宮城県丸森町に生まれる。
三菱鉱業セメント会長、日本経営者団体連盟会長、臨時行政改革推進審議会会長。
三菱鉱業の労務畑を長らく努め炭鉱合理化の際には「首切り文平」のあだ名があった。
勲一等瑞宝章受章。日勲一等旭日大綬章受章。


平林たい子。1905年10月3日 – 1972年2月17日、小説家。
長野県諏訪市出身。
体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として認められる。
代表作は『秘密』『かういふ女 』『黒札』など。
没後、遺言により「平林たい子文学賞」が創設された。


源氏鶏太。1912年4月19日 – 1985年9月12日、作家。
富山市出身。父親は富山の置き薬売り。本名、田中富雄。ペンネームの由来は「平家より源氏が好きなこと」。また、『鶏』という字が好きだからという。
代表作は『あすも青空』『英語屋さん』『口紅と鏡』等。
三等重役』は「社長シリーズ」として映画化され大ヒットする。家紋は丸に木瓜。


坂本九。1941年12月10日 – 1985年8月12日、俳優・歌手。
神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。
1961年の「上を向いて歩こう」は日本国外でも大ヒットした。
1963年にはアメリカのヒットチャートの「Billboard Hot 100」で3週連続1位を獲得た。
代表作は、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を 」「明日があるさ 」など。


三船敏郎。1920年4月1日 – 1997年12月24日、俳優。
中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。黒澤が脚本、谷口千吉が監督をつとめた映画『銀嶺の果て』でデビュー。
代表出演作品「羅生門」「レッド・サン 」「七人の侍 」「黒部の太陽」「椿三十郎 」「悪い奴ほどよく眠る」「用心棒 」など。三船美佳は内縁の妻(女優の喜多川美佳)との間にできた子供。


三波伸介。1930年6月28日 – 1982年12月8日、コメディアン・俳優・司会者・タレント。
東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。本名:澤登 三郎。
1970年代から1980年代にかけて日本のお笑いをリードしてきたエンターティナー。
代表出演『笑点』『日曜お笑い劇場 』『てなもんや三度笠』
当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。


樋口恵子。1932年5月4日- 、評論家。東京家政大学名誉教授。
父は考古学者の柴田常恵。広く首都圏各自治体主催の講演会などで活動。
男女共同参画審議会のメンバーの一人。
2003年東京都知事選挙に出馬したが、石原慎太郎の前に惨敗した。
元日本ジャーナリスト会議副議長の新井直之と事実婚関係にあった。


山本學。1937年1月3日 – 、俳優。
大阪府茨木市生まれ。東京育ち。
父は建築家の山本勝巳。弟は俳優の山本圭、山本亘。叔父は映画監督の山本薩夫
善人役の印象が強い反面、時代劇作品などでは狂気的な悪役、特異な存在感を持つ怪優としても個性を発揮した。出演作は『白い巨塔』『金環蝕』『梟の城』等。家紋は三つ割り木瓜。


桂歌丸。1936年8月14日 – 。神奈川県横浜市出身。
位階勲等は旭日小綬章。本名は椎名 巌(しいな いわお)。
演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利のメンバーとして活躍、現在では同番組の5代目司会者を務める。
その際に着る羽織には、木瓜紋をつけている。

ちなみに、その他の笑点メンバーの家紋は目視で、左から順に以下の通り。
三遊亭小遊三の高崎扇、三遊亭好楽の片喰、林家木久扇の光琳蔦、三遊亭円楽の三つ組橘、春風亭昇太の五瓜に唐花、林家たい平の花菱。

また、先の都道府県別姓氏家紋大辞典等から出身地、名字から類推して、木瓜系の家紋を持ってると思われる有名人は以下。
100%確実ではないのは、でご容赦ください。

大仁田厚。1957年10月25日 – 。プロレスラーで元参議院議員。長崎県長崎市出身。
全日本プロレスでプロレス入門。
自身が立ち上げたFMWにおける電流爆破マッチでブレイクした。
2001年7月29日に実施された第19回参院選に比例区で出馬、当選。
2007年6月23日に、政界引退。


広末涼子。1980年7月18日 -。女優。早稲田大学教育学部中退。
モデルでファッションデザイナーの岡沢高宏と結婚/離婚。
出演代表作『鉄道員(ぽっぽや)』『恋愛寫眞 Collage of our Life』『ロングバケーション』『聖者の行進 』『世界で一番パパが好き』『おとうさん』 等。
昨年も映画『おくりびと』、連続ドラマ『ヤスコとケンジ』等、一線で活躍。


枝野幸男。1964年5月31日 ‐。民主党所属の衆議院議員。
民主党の中でも政策通として知られるが、 その反面、政治的駆引や権力闘争的なことは苦手という面も併せ持つ。
労働者派遣法の規制緩和に一貫して反対している。
「朝まで生テレビ」など、メディアの露出が多い。

まさむね



引両紋 -無骨な武家紋の代表-

Friday, January 9th, 2009

引両紋は、源平時代からある古い紋である。

武家の紋が元々、戦場で自分を目立たせるためにつけたのが始まりであるため、引両のような簡単に描ける紋は実用的だったのではないか。

室町時代が全盛で、足利氏族の吉良、斯波、一色、山名、今川、細川、畠山等の大名がこの紋を使用した。
種類としては、線の数で、一引両、二引両、三引両がある。

江戸の有名人では、遠山の金さんも二つ引両である。
シンプルで、ある意味、無骨な紋のため、女性からは人気がなかったようである。

全国分布では18位。特に多い地域は、山梨県(11位)、東京都(12位)、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、愛媛県などが13位、栃木県、長野県が14位、青森県、群馬県、千葉県、兵庫県、岡山県、広島県で15位といったところ。

有名人では以下の人々が使っている。元々武家紋であるため政治家が多い。

新田義貞。1301年 – 1338年8月17日、鎌倉時代の御家人、南北朝時代の武将。
源義国の子。贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。家系は清和源氏の一家系。本姓は源氏。
足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。北条方を撃破、鎌倉幕府は滅亡する。
後醍醐天皇建武政権下において武者所頭人という要職に任じられる。家紋は大中黒。


三浦義同。生年未詳 – 1516年8月19日、東相模の武将、小大名。
父は扇谷上杉家の上杉高救。母は西相模の豪族大森氏頼の娘。
初期戦国大名の典型とされる北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主。
家紋は三つ引。


今川義元。1519年 – 1560年6月12日、駿河の守護大名・戦国大名。
駿河今川家第9代当主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる今川氏。
所領も駿河・遠江・東三河から、西三河や尾張の一部にまで拡大したが尾張に侵攻した際に桶狭間の戦いで織田信長軍の奇襲により戦死。家紋は赤鳥(左)と二引両(右)。


蘆名盛氏。1521年 – 1580年7月28日、戦国時代の陸奥の武将。
第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。
山内氏を討ち、天文19年からは会津から中通りにかけて勢力を拡大する。
その一方で、白河結城氏の白河義親の家督相続問題に介入したり、二階堂盛義を攻めて降伏させ、さらに二本松義国と同盟するなどして軍事的・政治的に勢力を拡大した。


吉川元春。1530年 – 1586年12月25日、武将。
毛利元就の次男で、毛利両川の一人。吉川国経の外孫。吉川氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉幕府御家人として安芸国に所領を得た。毛利両川の一人として、弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。生涯で76度の合戦に臨み、64度の勝利を収める。家紋は丸に三つ引両。歌手の吉川晃司は子孫と言われている(wikiより)。


足利義昭。1537年12月15日 – 1597年10月9日、室町幕府の第15代将軍
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。
織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任。後に信長と決裂し、京都を動座する。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として余生を送った。
家紋は二引両。


最上義光。1546年2月1日 – 1614年2月26日、武将・大名。
家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋。
最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長。
家紋は二引両。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国時代の武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
最も古い紋は縦三つ引き両(右上)。九曜紋(左下)は細川氏から使用許可される。竹笹紋(左上)は仙台笹、牡丹は仙台牡丹(右下)といわれる独特の形状をしている。


古田織部。1544年 – 1615年7月6日、戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子として生まれる。信長、秀吉の家臣(山城国西岡に所領3万5000石)だが、一般的には茶人として有名。利休七哲の一人に数えられる。
千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


間部詮房。1666年6月18日-1720年8月19日、江戸時代中期の側用人
6代将軍徳川家宣の側用人として活躍。新井白石とともに、「正徳の治」を断行した。
猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人として用いられ出世。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。
日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。


遠山金四郎景元。1793年9月27日 – 1855年4月15日、旗本、江戸北町奉行。
明知遠山氏の分家六代目にあたる人物。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。
正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)。
テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。
写真は杉良太郎。家紋は丸に二引き両。丸に九字直違も使用。


佐久間象山。1811年2月28日 – 1864年7月11日、武士、兵学者・思想家。
信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
私塾・象山塾には長岡藩士以外にも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが名を連ねる。
動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動し、一橋慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、尊皇攘夷派の刺客によって暗殺された。


近藤勇。1834年11月9日 – 1868年5月17日、新選組局長。晩年は幕臣。
農民宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。
幕末、京都警護のため、奔走。池田屋襲撃などにより、名を馳せる。
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れ、斬首される。京都の三条河原で梟首されたが、その後の首の行方は不明という。


松本楓湖。1840年10月9日 – 1923年6月22日、日本画家。
常陸国河内郡寺内村に生まれた。名は敬忠。通称:藤吉郎。
欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。
日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」「静女舞」等を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。


吉田稔麿。1841年3月16日 – 1864年7月8日、江戸時代後期、幕末の長州藩の活動家。
萩藩松本村新道に足軽吉田清内の嫡子として生まれる。名は栄太郎。
吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。
高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。
池田屋事件で、憤死。家紋は二引両。


新門辰五郎。1800年? – 1875年9月19日、町火消、鳶職、香具師、侠客。
父は中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の妾。
鳥羽伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れ、上野寛永寺に謹慎した際には寺の警護、上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。
歌舞伎の「め組の喧嘩」の当事者め組の辰五郎。


荻野吟子。1851年4月4日 – 1913年6月23日、医師。
武蔵国幡羅郡俵瀬村に、代々苗字帯刀を許された名主の末娘として生まれる。
近代日本における最初の女性の医師。
女性運動家としても知られ、廃娼運動に取り組む。
家紋は丸に二引両。


三木清。1897年1月5日 – 1945年9月26日、哲学者。
兵庫県揖保郡平井村小神出身。人間学を基礎とした独自のマルクス解釈を展開。
治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留される。
代表著作は『哲学入門』『人生論ノート』『哲学ノート』など。
家紋は丸の内にに三引両。


ディックミネ。1908年10月5日 – 1991年6月10日、徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手。本名は、三根 徳一
東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎(土佐中学校・高等学校・初代校長)を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つ。
代表曲は『波止場がらす』『二人は若い』『或る雨の午後』。


浜口雄幸。1870年5月1日 – 1931年8月26日、第27代内閣総理大臣
総理大臣在任中に、金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。


中勘助。1885年5月22日 – 1965年5月3日、作家・詩人。
東京神田生まれ。
1913年から1914年にかけて、漱石の推薦で自伝的小説『銀の匙』を東京朝日新聞に連載。嫌味のない美しい文章は、今なお評価が高い。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。野上弥生子の初恋の人としても知られる。


江戸川乱歩。1894年10月21日 – 1965年7月28日、小説家・推理作家。日本推理作家協会初代理事長。
代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。江戸川乱歩賞は第3回より長編推理小説の公募賞となっている。衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強かった。
祖父の代まで津藩士であったという平井家の紋は、七宝に二引両。


甘粕正彦。1891年1月26日 – 1945年8月20日、山形県出身の陸軍軍人。
甘粕事件で、軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、出獄。フランスに渡った後、満州に渡り、満州事変の陰謀に加わり、黒幕となる。
満州国民政部警務司長に就任するが、敗戦の時に新京で服毒自殺した。映画「ラストエンペラー」では坂本龍一が好演した。画像は、多磨霊園の墓所にて撮影。


古関裕而。1909年8月11日 – 1989年8月18日、作曲家。
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三」に生まれる。本名は古關 勇治。
早大応援歌「紺碧の空」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神の「六甲おろし」、巨人の「巨人軍の歌(闘魂こめて)」などの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がける。
家紋は丸に二引き。


オノ・ヨーコ。1933年2月18日 – 、前衛芸術家。平和運動家。
明治・大正期の銀行家、日本興業銀行の第4代総裁・小野英二郎の孫。
1969年、ビートルズのリーダー・ジョンレノンと結婚。レノン死後も、「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信し続け、世界各地で個展や音楽活動を行なうなど、今も精力的に活動。
画像は、多磨霊園にある小野英二郎の墓所にて撮影した一引両紋。


高橋悦史。1935年8月2日 – 1996年5月19日、俳優で、声優。
大阪府岸和田市宮本町にて、大工の息子として生まれる。
吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビューを果たす。
岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され、注目を浴びる。
出演作『日本の首領』『戦争と人間』『金環蝕』『皇帝のいない八月』など。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。
芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。
テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。
家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


ピーコ。1945年1月18日 – 、タレント、ファッション評論家。
出身地は神奈川県横浜市保土ケ谷区。
本名:杉浦 克昭。映画評論家のおすぎは一卵性双生児の弟。
古舘伊知郎のスタイリストを担当。『とくダネ!』『笑っていいとも!』に出演。
「笑っていいとも!」にて家紋は丸に三つ引であることを告白。


栃東。1976年11月9日 – 、玉ノ井部屋所属の元大相撲力士。
元関脇で現在玉ノ井親方の栃東知頼の次男として、東京都墨田区に生まれる。
最高位は大関。現在は年寄・栃東。
幕内最高優勝:3回。通算成績:560勝317敗169休(75場所)
家紋は丸に三つ引両。

まさむね



蔦紋 -遊女が好んだ優美な紋-

Friday, January 9th, 2009

蔦紋は、江戸時代におおいに広まった。
大名では、藤堂、松平、六郷などの諸氏が使用している。一方で、遊郭でも大流行。形が優美で、しかも、纏わりついて繁栄するという蔦の姿が、遊女達の心情を表現していたからであろうか。

石川県(1位)、新潟県(2位)、富山県(4位)、島根県(5位)など、日本海側の各県で使用者が多い。
逆に高知県では24位と断然少ない。また、佐賀県で16位、山梨県、長崎県で15位、青森県、岐阜県、和歌山県で14位と少ない。

使用している有名人は以下である。
何故か、政治家よりも文化人が多いのが目立つ。

藤堂高虎。1556年2月16日 – 1630年11月9日、武将・大名。
近江犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。
伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言が有名。
築城の名手としても知られている。家紋は藤堂蔦。


松永久秀。1510年 – 1577年11月19日、戦国時代の武将。
出身については、阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。
三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配。第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者。北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。一方で領国に善政を敷いた名君としても知られている。


有村次左衛門。1839年2月11日 – 1860年3月24日、幕末の尊攘派志士。
薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。
兄に後の貴族院議員・海江田信義。
大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、江戸城桜田門外で行列を襲撃した。
家紋は、変り紋であるが、一番近い浮線蔦とした。


森有礼。1847年8月23日 – 1889年2月12日、薩摩藩士・政治家、初代の文部大臣
薩摩国鹿児島城下春日小路町で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。
明治維新後に福澤諭吉、西周らと共に明六社を結成。
英語の国語化を提唱したことでも有名。
家紋は頭合わせ三つ鬼蔦。


幸田露伴。1867年8月22日 – 1947年7月30日、小説家。
第1回文化勲章受章。
五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。
尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。
娘の文も随筆家、後に小説も書いた。


東郷平八郎。1848年1月27日 – 1934年5月30日、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人。
明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。
特に、日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦でロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集めた。


谷崎潤一郎。1886年7月24日 – 1965年7月30日、小説家。
耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。
『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で、いわゆる日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。情緒的で豊潤でありつつ高い論理性を誇るその文体は、魅力的な日本語の文章が至りうるひとつの極致である。


円地文子。1905年10月2日 – 1986年11月12日、小説家。
はじめ劇作家として、小山内薫の薫陶を受けたが、処女作上演の記念パーティーの席上で小山内が倒れて死去している。女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され、文化勲章を受章するまでに至った戦前戦後を代表する、女流作家の一人である。


佐分利信。1909年2月12日 – 1982年9月22日)、俳優。
北海道空知郡歌志内村の炭鉱夫の家に生まれる。
1929年、日本映画俳優学校に入り、映画監督を目指す。上原謙、佐野周二と松竹三羽烏を結成し、翌年の三人で主演した「婚約三羽烏」が大ヒット。
代表出演作は「お茶漬けの味」「あゝ青春」「風雪二十年」「華麗なる一族」「日本の首領」。


田中義一。1864年7月25日 – 1929年9月29日、政治家。
第26代内閣総理大臣
総理大臣在任中に、張作霖爆殺事件が起き、それがもとで、昭和天皇にも「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」と強く叱責されたため内閣総辞職したという。
家紋は鬼蔦。


長谷川一夫。1908年2月27日 – 1984年4月6日、俳優。
京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。
戦前戦後の長きに渡って日本の二枚目の代名詞として大スターに君臨。
1937年に東宝に移る約束をすると松竹が雇った暴力団員に顔を切りつけられる。
代表作は『雪之丞変化』『沓掛時次郎』『忠臣蔵』など。


竹下登。1924年2月26日 – 2000年6月19日、政治家。
島根県飯石郡掛合村に竹下勇造・唯子の長男として生まれる。生家の竹下家は、江戸時代には庄屋を務め、幕末から現在まで代々造り酒屋を営む素封家。
内閣総理大臣(第74代)、衆議院議員(14期)を務めた。
タレント・ミュージシャンのDAIGOが孫にあたることは有名。竹下家の家紋は丸に蔦。


戸坂潤。1900年9月27日 – 1945年8月9日、哲学者。東京市生まれ。
京都帝国大学のマルクス主義の研究者。
西田左派に属し、1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人。
治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、栄養失調から全身疥癬に苦しめられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。家紋は丸に知り合わせ三つ蔦。


麻生三郎。1913年 – 2000年、画家。
東京都中央区に生まれる。
渡欧、独立美術協会入選後、新人画会を結成。
戦後 自由美術協会に参加。武蔵野美術学校教授
日本国際美術展優秀賞、芸術選奨文部大臣賞、自由美術協会退会後無所属。


阿佐田哲也。1929年3月28日 – 1989年4月10日、小説家、エッセイスト、雀士である。東京都新宿区出身。
本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「離婚」(直木賞受賞作品)、「麻雀放浪記」。「死んだ奴が負けだ」という「麻雀放浪記」の名セリフは、70年代に学生を過ごした世代の流行語にもなった。雀聖と呼ぶにふさわしい存在でもあった。
家紋はオリジナルな蔦紋。谷中墓地にて撮影。


いかりや長介。1931年11月1日 – 2004年3月20日、コメディアン、俳優。
東京府東京市本所区生まれ。本名、碇矢 長一。愛称は「長さん」。
父・碇矢一郎は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。
8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。
踊る大捜査線』のベテラン刑事・和久平八郎役で俳優としても認められる。


石ノ森章太郎。1938年(昭和13年)1月25日 – 1998年(平成10年)1月28日、漫画家。宮城県登米郡石森町出身。
代表作は『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』『仮面ライダー』など。500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集は、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネスブックに認定。


琴欧洲勝紀。1983年2月19日 – 、ブルガリア出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の現役大関力士。
身長202cm、体重155kg、握力120kg。長身と、懐の深さ、抜群の格闘技センスで番付を駆け上がり、初土俵から所要11場所で入幕。左上手を取ってからの強烈な投げや寄りが得意だが、総じてプレッシャーに弱いところが弱点とされている。
家紋の「蔦」は先代の伊勢ガ浜親方を継承。


林家木久扇。1937年10月19日 – 、落語家。
東京市日本橋区生まれ。東京大空襲で実家の雑貨問屋が全焼し、廃業。
1960年、落語界入り。「笑点」のレギュラーとなる。現在のメンバーで一番連続出演期間が長い。「全国ラーメン党」を結成し、「木久蔵ラーメン」を開店。かつては30店舗あったが(木久扇談)、現在は1店舗のみとなっている。家紋は「光琳の蔭蔦」。


春風亭小朝。1955年3月6日 – 、落語家、俳優。
東京都北区出身。本名は花岡 宏行。初代・林家三平の次女泰葉の元夫。
1980年に、真打昇進。36人抜きで話題となる。この記録は2008年現在未だ破られていない。
篤姫(NHK大河ドラマ)では近衛忠煕役として出演。
家紋は「光琳の蔭蔦」。(林家正蔵と同紋)

まさむね



桐紋 -日本を象徴する紋-

Friday, January 9th, 2009

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。

有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。

一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。

信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。

特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。

その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。

明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいいのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。

また、有名人でこの紋を使用する人も多い。

豊臣秀吉。1537年3月17日 – 1598年9月18日、武将・戦国大名。
家系は尾張国の百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。
織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、明智光秀柴田勝家を破り、その後も九州、北条、奥州征伐で日本全土を制圧。刀狩検地を行う。
その後、2度の朝鮮出兵を行うが失敗。桐紋を信長から下賜される。太閤桐はオリジナル。


橋本左内。1845年7月24日 – 1909年2月18日、医師。
河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。
一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。
井伊直弼が発令した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首された。
写真は、弟の橋本綱常の墓より。


板垣退助。1837年5月21日 – 1919年7月16日、土佐藩士、政治家。
高知城下中島町に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。上士身分であった。
戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として、新撰組を撃破。
自由民権運動の主導者として知られる。
100円札に肖像が用いられた。家紋は土佐桐。


海江田信義。1832年3月13 – 1906年10月27日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の長男。
1862年9月14日、生麦事件を引き起こした。
戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀として活動するが、長州藩の大村益次郎と事あるごとに対立し、大村の暗殺にも関わったと言われている。


下村観山。1873年4月10日 – 1930年5月10日、日本画家。
和歌山県和歌山市に生まれる。家紋は五三桐。
最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下ったときに行動を共にし、横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加。


五島慶太。1882年4月18日 – 1959年8月14日、日本の実業家。
東京急行電鉄(東急電鉄)の事実上の創業者。長野県小県郡出身。
会社買収などの強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪急電鉄の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。美術品のコレクターとして知られ、コレクションの公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。


山下奉文。1885年11月8日 – 1946年2月23日、日本の陸軍軍人。
第二次世界大戦当時の陸軍大将。高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。
太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本のマスコミからは「マレーの虎」と呼ばれた。シンガポールの戦いの終結時に、イギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に「イエスかノーか」と迫ったことで有名。


頭山満。1855年5月27日 – 1944年10月5日、思想家。
大正年間から昭和のはじめにかけて韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボースら、日本に亡命した革命運動家らに惜しみない援助を行った。日韓併合の際、奔走した。彼の理想は、合邦だったため、植民地化の状態には、幻滅したと言われている。アジア主義の立場で活動した国家主義者。右翼の巨頭・黒幕的存在。


安田善次郎。1838年11月25日 – 1921年9月28日、富山県富山市出身の実業家。
安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父。
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は彼の寄贈によるものである。
元々、安田家の家紋は「丸に木瓜」であったが、後に「釜敷梅鉢紋」に変更。墓所にはこの桐紋が付けられている。


芥川龍之介。1892年3月1日 – 1927年7月24日、日本の小説家。東京市京橋区出身。
羅生門」「鼻」「地獄変」「芋粥」「歯車」等代表作多数。
友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺。
死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いている。


高村光太郎。1883年3月13日 – 1956年4月2日、日本の彫刻家、評論家、詩人。東京都出身。
1929年に妻・智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。
1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
高村光太郎がこの紋ということは、妻・智恵子、父・光雲もこの紋と考えていいかと思う。


麻田駒之助。1869年10月14日 – 1948年11月24日、編集者。実業家。
中央公論社初代社長。
中央公論」は元々、西本願寺の普通教材で、民主主義など、当時としては新しい思想を積極的に取り入れ、大正デモクラシーのなかでその存在を示す。
また、築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として、力を尽くす。


宮城道雄。1894年4月7日 – 1956年6月25日、箏曲家。
兵庫県神戸市生。
クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。
作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。
十七弦の発明者としても知られる。


林芙美子。1903年12月31日 – 1951年6月28日、小説家。
林フミ子(本名)は行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に婚外子として生れる。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句はあまりにも有名。
代表作は『放浪記』 『うず潮』『めし』 など。
家紋は丸に五三桐。


東郷青児。1897年4月28日 – 1978年4月25日、日本の洋画家。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名。
東京・西新宿に東郷青児美術館(現在の損保ジャパン東郷青児美術館)がある。
この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。


東富士。1921年10月28日 – 1973年7月31日、大相撲の第40代横綱
東京市下谷区出身。本名は、井上謹一。
横綱土俵入りは迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われた。
幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715。
引退後、プロレスラーに転向したが、力道山の陰で伸び悩んだ。


池波正太郎。1923年1月25日 – 1990年5月3日、時代小説・歴史小説作家、映画評論家。
東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、。
母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。美食家としても知られ『うまいが一番』(フジテレビ)という池波作品の料理シーンを取りあげるミニ番組も制作されている。 代表作は『鬼平犯科帳』 『仕掛人・藤枝梅安』 『真田太平記』『人斬り半次郎』 等。


東野英治郎。1907年9月17日 – 1994年9月8日、俳優。
実家は日野商人(近江商人)の家系で、本宅は滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平。
長寿番組『水戸黄門』で、黄門を1969年から1983年までの足かけ14年、全381回にわたって演じた。葵御紋とは切っても切れない氏が実際は、葵紋のライバルの桐紋だったというのは皮肉である。「あばれはっちゃく」の父親役等で有名な東野英心は息子。


盛田昭夫。1921年1月26日 – 1999年10月3日、技術者、実業家。
愛知県知多郡小鈴谷村に代々続いた造り酒屋の子として生れる。
井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。
トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込む。
井深大とともにソニーを世界企業に育て上げる。


大江健三郎。1935年1月31日 – 、小説家。
愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。故郷の四国の森や知的障害のある子供(長男の大江光)という自身の体験とを重ね合わせ独自の文学世界を作り上げた。1994年ノーベル文学賞受賞。
代表作は『飼育』『同時代ゲーム』『万延元年のフットボール』等。家紋は五三の桐。


力道山。1924年11月14日 – 1963年12月15日、大相撲の力士出身のプロレスラー。
北朝鮮で生まれ、後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。
1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、廃業。
日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王座。
日本プロレス界の父と呼ばれている。


植村直己。1941年2月12日 – 1984年2月13日、登山家・冒険家。
兵庫県城崎郡日高町(現在の豊岡市)出身。実家は農家。
世界初五大陸最高峰登頂成功、北極点単独行等を果たす。
著書は、『北極点グリーンランド単独行』『冒険』『植村直己の冒険学校』など
1984年に国民栄誉賞を受賞。


太地喜和子。1943年12月2日 – 1992年10月13日、日本の女優。
和歌山県東牟婁郡太地町出身(芸名は出身地から命名)。
三國連太郎、中村勘三郎、尾上菊五郎とのロマンスが取り沙汰される。
文学座の大女優・杉村春子の後継者、実力派として活躍。
代表出演作品は『火まつり』。家紋は五三の桐。


沖雅也。1952年6月12日 – 1983年6月28日、俳優。
大分県別府市出身。本名: 日景城児。
、『おやじ、涅槃でまってる』という遺言を残して新宿京王プラザホテルの最上階(47階)より飛び降り自殺を行い、31歳の若さでこの世を去る。
代表出演作『金メダルへのターン!』『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』など。


曙太郎。1969年5月8日 – 、第64代横綱
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で東関部屋の元大相撲力士。
幕内優勝:11回。通算成績:654勝232敗181休 勝率.738 。
引退後は、格闘家、プロレスラーとして活躍。
現役横綱時代の化粧回しに桐がデザインされていた。


二代目・中村獅童。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。
代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「硫黄島からの手紙」「レッドクリフ」など。
萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。


朝青龍明徳。1980年9月27日 – 、第68代横綱
モンゴル国出身。1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学。
優勝23回。連勝:35連勝。連覇:7連覇などの記録を持つ。(2009年1月現在)
2009年初場所での優勝パレード、節分の豆まきで着用した紋付は桐だったため暫定的掲載。
ただし、その他、桜(相撲協会の紋)などの紋付の場合もあり、本人はこだわっていないようだ。

まさむね



巣鴨地蔵通り商店街にある紋所

Monday, January 5th, 2009

巣鴨地蔵通り商店街はおばあちゃんの原宿と言われるだけあって、物凄い平均年齢の高い人口密集道路である。
僕は1月4日の朝9:30頃に行ってみたのだが、それでも大変な混雑だった。
    ◆
この商店街の両脇には煎餅屋とか人形焼屋とか、漬物屋、衣料品店、お土産屋などが並んでいる。
ここだけ昭和の匂いがする。
多分、他の商店街に比べて、店の人の売り声が大きいのと、値札と看板の文字も大きいからそう感じるのだろうか。

僕は、商店街にある家紋を見て歩く。
まずは、商店街に入ってすぐに左にある大きな漬物屋・河村屋さんの蕪の紋所。
おそらくこれは商標なのだろう。紋所というよりは、デザインされた社標だ。

さらに、その先にあったのが、ゼイタク煎餅と人形焼の向井商店さんの分銅紋。
この紋は、公平誤りのない心情を表すといわれ、武士魂を象徴する紋だったらしい。(「家紋を読む」能坂利雄著参照)
おそらく、向井商店さんも、商売に対する誠実さを現したかったじゃないかな?

さらに、しばらく行くと右側に塩大福のみずのさんがある。
ここの紋は、おそらくオリジナルで、水という字をデザインしたものかと思われる。

そして、その先に、とげ抜き地蔵(秘仏)があるのある高岩寺がある。
紋所は檜扇紋だ。そういえば、この商店街の提灯も檜扇が使われている。

ところで、この高岩寺は曹洞宗の寺院、だから境内には稲荷神社があった。
曹洞宗は、実はこの稲荷神社とタイアップする事によって、勢力を伸ばしたんだよね。愛知県にある豊川稲荷は、名前からすると神社だけど、実は曹洞宗の寺院なのである。豊川稲荷は江戸に進出し、大ブレイクした。
曹洞宗と言えば一般的には、厳しい禅修行の世界が思い浮かぶが、一方で、ビジネスに対して積極的であることでも知られているのだ。
例えば、ここの高岩寺のとげぬき地蔵もそうだけど、他に大船観音も曹洞宗の寺院、一般民衆へのアピール(と同時に、御布施集め)に長けている。
また、この高岩寺の近くの曹洞宗の寺院、總禅寺は手塚治虫の墓所があることで知られているが、墓地に入るだけで、線香代ということで200円かかる。
一方、昨年の11月、曹洞宗配下の駒沢大学が、投資に失敗して154億円の損出を出したという事件もあったけど...これはあんまり関係ないか。
    ◆
昨年に行った人形町以上に、庶民の街、巣鴨。
家紋も既成のものをそのまま権威として使うのではなく、わかりやすくオリジナル化しているところに特徴があった。

まさむね

花田家の家紋がいつの間にか替わった件に関して

Tuesday, December 23rd, 2008

先日、Yahooの特集に「【大相撲豪傑列伝】(13)力道山の肉を食いちぎった『土俵の鬼』初代若乃花幹士」という記事が掲載されていた。

記事の内容は、「二所ノ関部屋の兄弟子である力道山のシゴキを受けて強くなったが、けいこの途中で力道山の脛にかみつき、肉を食いちぎったことがある。力道山がプロレス転向後に黒いロングタイツをはいたのは、その傷を隠すためだったともいわれる。」とあるような武勇伝であるが、僕が気になったのは、その記事と一緒に掲載されていた写真だ。
おそらく、若乃花が優勝したときのパーティの写真(写真一番上の段)だろうが、若乃花の紋付の家紋が「丸に三つ柏」なのである。

花田家の家紋と言えば、思い出す事がある。
二子山親方(元大関貴ノ花)が亡くなった時の葬儀で、離婚した憲子さんが花田家の家紋のついた帯をしてきて、貴乃花親方(元横綱貴乃花)が激怒したあの件である。
この時、葬儀の壇上に大きく飾られた紋所は、「隅立ての四つ目結い」であった。
そして、憲子さんの帯にも「丸に隅立ての四つ目結い」が入っていたのだ。

勿論、その後、貴乃花親方、兄の三代目若乃花の正装の紋付にはこの紋が入っている。

さて、それでは何故、先代若乃花の家紋と二子山親方、あるいは貴乃花親方の家紋が違うのだろうか。
勿論、僕はここで、巷に流布している花田家に関するくだらない噂(真実の親子関係など)を云々しようとしているわけではない。
家紋というものが得てして、このように替わってしまうものだという事を確認したかっただけである。

花田家の家紋がいつの間に「丸に三つ柏」から「丸に隅立ての四つ目結い」になったのか。
そんなコロコロ替わってしまうものに対して何故、貴乃花はあれほどこだわったのか。
謎と言えば謎ではある。
しかし、それでもいいのである。
誰も真実をもって貴乃花に詰め寄るようなことはしない。
日本人というのは、おおらかなものなのである。
    ◆
本人が、これがウチの家紋だと言い張れば、それはそのウチの家紋になる。
これが、ウチの伝統だと思えば、それがウチの伝統になる。
正確な経緯とか、歴史の真実などどうでもいいのである。
例えば、井の頭公園弁財天の神紋にしても境内各所にある対い波に三つ鱗の紋の波の形が少しづつ違うではないか。
本当はどの形が正しいのかなどは野暮な疑問なのである。
これは推測であるが、二子山親方(元大関貴ノ花)が、「四つ目結い」は家族の絆の象徴だからと誰か(霊友会関係者?)に言われて、花田家の家紋として、採用しただけかもしれない。
ちなみに、和泉元彌の和泉家も「雪輪に隅立て四つ目結い」を家紋としている。
花田家、和泉家、ともに現代日本を代表する伝統芸の一家であるが、家紋の意味とは裏腹に、家族内のゴタゴタが事あるごとに漏れ伝わってきてしまうのは皮肉である。
    ◆
さて、歴史の真実と言えば、戦後、日本では戦前の日本がどうであったのかという論争がずっと続いている。
最近も、自衛隊の田母神氏の論文が問題になった。
おそらく、彼の論文に対して、真実はどうかという歴史考証のレベルで話をしてもそれほど実りがあるとは思えない。
重要なのは、田母神氏が信念を持って論文を発表したということだ。
おそらく、田母神氏が日本は決して悪くなかったと信じている。それは貴乃花が四つ目結いを伝統的に花田家の家紋であると信じているのと同じことだ。

それゆえに、もし、彼がいずれかの討論会などで完全に論破されたとしても、その後で一言つぶやくだろう。
「それでも、日本は悪くない」と。
    ◆
人が信じていることを替えさせるというのは、本当に難しいことだと思う。

まさむね

成子天神、時代の流れと庶民のおおらかさ

Saturday, November 22nd, 2008

先日、新宿に所用があって行った時に、西新宿(青梅街道沿い)のあたりに行ってきた。

実は、今から25年位前に、僕が最初に就職した会社が、この辺にあったので、懐かしさもあって足を伸ばしたのだ。
ところが、この辺りの風景、結構変っているんだよね。

特に、青梅街道から1本道を入ったあたりの様変わりは凄い。
実は、このあたりは、25年前、一見、普通の住宅街なのだが、数件おきにスナックがあった。
なんでこんなところにスナックがあるんだろう?儲かるのかななんて思って、当時、会社の物知りの先輩に聞いたところ、これは青線の名残だそうだ。
青線というのは、1957年に施行された売春防止法以前に、黙認で売春させていたスナックや飲み屋街の非合法地域のこと。
下はカウンターだけ、2階に3畳の部屋が2つ位並んでて、そこで、男女が乳繰り合わせるような飲み屋があったんですね。この辺りに。

そういえば、80年代頃になっても、このあたりの壁に古い鉄板の看板(代表例:アース製薬の水原弘の看板)が残っていて、

「マンモスキャバレー開店。全席100席、近代女性募集!」

と書いてあったのを思い出す。マンモスキャバレーって、60年代の、植木等の映画なんかに、出てくるよね。
僕はというと、この近代女性っていう言葉にインパクトを感じたものです。

さて、これらが混在していたエリアだけど、今は、地上げにため、更地(写真一番上)になっている。
昔、この土地で様々な男と女のドラマがあったんだなぁ、それらのドラマはみんなブルドーザーに持っていかれたんだなぁって、更地を見ながら妙な感慨に浸ったりする僕。

さて、そんなエリアのすぐワキに成子天神がある。
更地から、成子天神に上がっていく脇の道(写真上から2番目)は、ここは東京かと思われるほど、ガタガタの石道路。
この道路もいつか舗装されちゃうかもしれないから、一応撮っておこう。

さて、成子天神だけど、このあたりの氏子の信仰に支えられて立派な本殿(写真上から3番目)がある。

天神っていうのは、菅原道真公を祭った神社で一般的には、学問の神様と言われています。
九州の大宰府天満宮が勧進元。山口の防府天満宮、京都の北野天満宮が有名だよね。
東京では、湯島天神、亀戸天神など、どちらかと言えば、下町(東東京)に多い。っていうか、その昔、農業エリアに学業の神様があってもしょうがないので、やっぱりに、人の多い、江戸に多いって事なんだろうな。

ここの成子天神は、菅原公の威光だけじゃ人が集められないと見えて、境内に、富士塚というのがある。さらに、その塚の各所に七福神が配置されているが、勿論、菅原公とは全く関係無い。
とにかく、庶民に人気のがあるっていんで、混在させているんだろう。
現在では、その富士塚は公開されていないけど、25年前はなんとなくそこにあって、いつでも見られたんだよ。

僕はこの神道系の人々の発想の、いい意味でのおおらかさが好きだ。なんでもありなのだ。

さて、天神様の神紋といえば、有名な梅紋。
菅原道真の梅好きって有名だったからね。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

大宰府に流された菅原公が、都に残してきた梅を想ってこの和歌を作ったら、梅が京都から飛んできたっていう伝説がある。

狛犬の台座(写真上から4番目)と、神社の門(写真上から5番目)等にみつけた。
よく見ると、若干違うんだよね。狛犬の台座の方は、梅の花びらと花びらの間の物体が、鉢の形をしているんだけど、門の方は梅の花弁の形なんだよね。

同じ神社なんだから、統一しろよというのは、現代の広告代理店的発想。いいんだよ、似てるんだから。有難い事には変わりないんだから、細かいこと言うなというのが庶民の発想。

さて、この梅紋だけど、加賀の前田家の家紋として超有名だ。ただし、前田家の家紋は上記の物体は剣でした。
僕が思いつく限り、有名人だと、文学者の中上健次氏、筒井康隆氏、芸術家の岡本太郎氏、政治家ならば、池田隼人首相(写真一番下)、そしてこれはあくまでも想像なんだけど、名前からして(菅原公と管 の管つながりから)民主党の管直人氏もそうだと思う。

まさむね

その他紋

Thursday, November 20th, 2008

このエントリーでは、これまで取り上げた以外の家紋をまとめて取り上げる。

唐花紋:大陸から伝来した架空の花を紋章にしたのが、この唐花。「必殺仕事人」の中村主水も使用している。宮崎県で22位、奈良県で27位、高知県で28位というのが比較的多いところ。

伊能忠敬。1745年2月11日 – 1818年5月17日、測量家。
上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。
江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。
全国を歩いて測量し、「大日本沿海輿地全図」を作成。
大変精度の高い日本地図として評価された。


銭紋:貨幣は呪術的な側面がある。縁起物として紋として使用された。

真田昌幸。1547年 – 1611年7月13日、武将・大名。
甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。
真田氏は滋野氏流を称する海野氏の傍流とされる。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、戦国時代きっての知将、謀将と言われる。家紋は六文銭。


仙石秀久。1552年2月20日 – 1614年6月13日、武将・大名。
美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流。
秀吉最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。家紋は永楽銭。


独楽紋:独楽は子供の遊戯。遊び心とそのあやういバランス感覚、不思議さを紋とする。

千利休。1522年 – 1591年4月21日、戦国時代、安土桃山時代の茶人。
和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えたが、後に、秀吉と対立。切腹させられる。
画像は、利休ゆかりの大徳寺・聚光院にて。


木下家定。1543年- 1608年10月4日、武将。
本姓は豊臣氏。家系はもともと桓武平氏流の杉原氏だったが、後に木下氏と改称。
豊臣秀吉の正室であった高台院の兄弟。五男に小早川秀秋がいる。
関が原の戦いでは、高台院の警護を務めた功績により備中足守に2万5千石を得る。
備前足守藩初代藩主。家紋は木下独楽。


夕顔紋:夕顔はウリ科。ヒョウタンの一種。かんぴょうの原料にもなる。

種田山頭火。1882年12月3日 – 1940年10月11日、俳人。
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。
荻原井泉水の門下となる。熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度し、全国を放浪する。
自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。
代表作「分け入つても分け入つても青い山」「鴉啼いてわたしも一人」等。


違い棒紋:藤原秀郷の百足退治伝説が家紋化した。棒は矢が簡略化したものと言われている。

丹羽長秀。1535年10月16日 – 1585年5月15日、武将・大名。
丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれる。元々、斯波氏家臣の家。
信長の家臣として、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。
本能寺の変後は、秀吉派につくが、賤ヶ岳の戦いの2年後に病死。
丹羽氏は代々二本松藩主として江戸時代生き残る。家紋は丹羽違い木。


丹羽基二。1919年9月5日 – 2006年8月7日、苗字研究家。
栃木県佐野市生まれ。國學院大学国文科で柳田國男、折口信夫らに師事した。
全国の100万基の墓を巡った。日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表 。
在野の研究家として苗字だけにとどまらず、家紋、墓、仏足石、紋様などの研究も行う。
代表作品『日本の伝統紋様』『お墓のはなし』『日本苗字大辞典』。


茶の実紋:橘紋に類似。お茶の名産地、静岡で29位に食い込んでいるが、他府県では少数派。

佐藤春夫。1892年4月9日 – 1964年5月6日、小説家、詩人。
和歌山県東牟婁郡新宮町に医師の長男として生まれる。家紋は三つ茶の実。
代表作は『黒潮』『田園の憂鬱』詩集『我が一九二二年』等。
慶應義塾普通部、桐朋中学・高等学校等の校歌の作詞も担当。
門人に井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、柴田錬三郎、遠藤周作などがいる。


鎌紋:鎌は農民の象徴だが、いざという時に武器になる。怖い紋。

小早川秀秋。1582年 – 1602年12月1日、大名。
木下家定の子で、豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたる。
筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承する。秀吉死後、越前北庄15万石へ転封。
関ケ原の合戦で西軍を裏切ったことによって日本の歴史に名を残した。
家紋は、丸に違い鎌。


七宝紋:七宝は、仏教でいうところの七つの宝。仏教の加護の願いをこの紋に込める。石川県、福井県、岐阜県、鳥取県、島根県、滋賀県、愛媛県、高知県などで比較的多く見られる。

大岡忠相。1677年 – 1752年2月3日、幕臣・大名。
1700石の旗本大岡忠高江戸屋敷での四男として生まれる。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。 将軍徳川吉宗が進めた享保改革を町奉行として支える。
大岡政談』や時代劇での名奉行として知られている。
家紋は大岡七宝。


江戸川乱歩。1894年10月21日 – 1965年7月28日、小説家・推理作家。日本推理作家協会初代理事長。
代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。江戸川乱歩賞は第3回より長編推理小説の公募賞となっている。衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強かった。
祖父の代まで津藩士であったという平井家の紋は、七宝に二引両。


綿の花紋:結綿紋は、真綿を結んだもので、祝儀に用いられたもの。綿の花紋は中岡慎太郎のオリジナル。

中岡慎太郎。1838年5月6日 – 1867年12月12日、志士、陸援隊隊長
土佐国安芸郡北川郷柏木村に北川郷の大庄屋 中岡小傳次の長男として生まれる。
土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
近江屋事件で襲撃を受け、2日後に絶命。家紋は丸に綿の花。


柿の花紋:柿の花をデザイン。武市氏だけが使用。

武市瑞山。1829年10月24日 – 1865年7月3日、土佐藩郷士。
土佐国吹井村に生まれる。父は土佐藩郷士の武市正恒。武市半平太と呼称される。
武市家はもともと土地の豪農であったが後に郷士に取り立てられた家である。
坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成。
「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。家紋は柿の花紋。


垣紋:垣とは、神社に張り巡らされた瑞垣のこと。名奉行、大岡越前守もこの紋を使用。

大岡昇平。1909年3月6日 – 1988年12月25日、小説家・評論家・フランス文学翻訳家。
東京市牛込区新小川町生まれ。両親は和歌山出身で父・貞三郎は株式仲買人、母・つるは元芸妓であり、結婚後上京したという。
代表作は『俘虜記』『武蔵野夫人』『野火』等。
家紋は、丸に大岡玉垣。写真は多磨霊園の墓石。


烏紋:古代、烏信仰は絶大であった。八咫烏は神武東征を先導。サッカー日本代表のシンボルでもある。

鈴木孫一。1534年 – 1589年5月2日、雑賀衆の有力者の一人。
平井(和歌山市平井)あたりを本拠地としていた土豪。。
石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。
その後、関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取るなどの軍功を挙げ、浪人を経て水戸藩に仕官した。家紋は八咫烏。


升紋:升は昔から「増す」の意味で、めでたいものとされていた。四角い升を上からみたデザイン。

市川団十郎。歌舞伎役者の名跡。
屋号は成田屋。定紋は三升。
歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。
歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。現在は、十二代目。
写真は、青山霊園の市川団十郎の墓所の、花入れを上から撮影したもの。


鳥居紋:神社の鳥居を紋所とした。神職関係者で多く使用される。

天津乙女。1905年10月9日 – 1980年5月30日、宝塚歌劇団の男役スター。
本名:鳥居栄子。愛称:エイコさん。
芸名は僧正遍昭の「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」から。
紫綬褒章受章。勲四等宝冠章受勲。
家紋は鳥居垣紋。谷中霊園にて撮影。


甲貝紋:甲貝は、テングニシとも呼ばれる貝。その味は、さざえと並び称され、美味と言われている。

渡辺崋山。1793年10月20日 – 1841年11月23日、政治家・画家。
田原藩士(上士の家格)である父・渡辺定通の長男として生まれる。
代表画は「鷹見泉石像」「佐藤一斎像」「市河米庵像」など。
幕府の保守的海防方針を批判し、国元田原で蟄居(蛮社の獄)。
写真は谷中霊園、息子の小華の墓で撮影。地元、田原中学校の校章もこの甲貝を使用。


源氏香図紋:香道で使用される組香の一種、縦5本の線を基本として構成される源氏香図の紋章。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。家紋は、源氏香紋の中でも「紅葉賀」。


角紋:カク紋と読む。八角のものを折敷紋、六角のものを亀甲紋という。

八千草薫。1931年1月6日 – 、女優。
大阪出身。幼少時父を亡くし以後母一人子一人で育つ。
本名、谷口瞳。旧姓、松田。家紋は、隅入鉄砲角。
第27回日本アカデミー賞「優秀助演女優賞」『阿修羅のごとく』
代表作は『宮本武蔵』『ハチ公物語』『田園に死す』『阿修羅のごとく』


銀杏紋:いろんな意味がある。中国文化の象徴としての銀杏。知識の象徴として東京大学の校章にも使用。または、火災避けの力があると信じられている。

中村勘三郎 (18代目)。1955年5月30日 – 、俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。十七代目中村勘三郎の長男。姉は女優の波乃久里子。本名は波野哲明。
屋号は中村屋。定紋は角切銀杏。歌舞伎名跡「中村勘三郎」の当代。江戸の世話狂言から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作と、どんな役でもこなす。代表出演作『元禄繚乱』(大河ドラマ)『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎)『真夜中の弥次さん喜多さん』(映画)。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。
芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。
テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。
家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


猿紋:猿は日吉権現の眷属として神紋となっている。

市川猿之助。歌舞伎役者の名跡。
屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。
初代は、役者の門人から立役へ出世、澤瀉屋を門閥にのしあげる。
二代目は、欧米に留学して舞台芸術を学び、生涯新しい形の歌舞伎を模索した風雲児。
三代目は、「スーパー歌舞伎」という新境地まで切り開いた「歌舞伎の異端児」。


蛙紋:蛙紋はめずらしい。おそらく、下記の澤田正二郎の蛙紋はオリジナル紋。

澤田正二郎。1892 – 1929年3月4日、俳優。
松井須磨子と対立し、術座を脱退した後、新国劇を立ち上げる。
歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物で男性客の人気を得る。
1987年、創立70周年記念公演を終えた後、解散。
写真は谷中墓地の墓石。柳に蛙紋とでも呼ぶべき紋。


牡丹紋:牡丹は藤原氏宗家近衛家の紋。鷹司家も使用。武家では島津家、伊達家、津軽家などが使用。

陸奥宗光。1844年8月20日 – 1897年8月24日、政治家、外交官。
紀州藩藩士伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。勝海舟の神戸海軍操練所に入り、坂本龍馬の海援隊に 加わるなど始終坂本と行動をともにした。
日墨修好通商条約、日英通商航海条約等を締結。 「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。家紋は仙台牡丹。


近衛文麿。1891年10月12日 – 1945年12月16日、政治家。
公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区で生まれた。日中戦争(支那事変)勃発、日独伊三国軍事同盟時の内閣総理大臣。
第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣
細川護熙(内閣総理大臣) は外孫にあたる。


車前草(おおばこ)紋:薬草の車前草。代々医者の家系の丹波氏にふさわしい。

丹波哲郎。1922年7月17日 – 2006年9月24日、俳優。
大久保の名家の三男。祖父敬三は大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着くという。
心霊学と霊界に造詣を持ち、心霊関係著書は70冊。
代表出演作『砂の器』『二百三高地』『Gメン75』『丹波哲郎の大霊界』等。


以下の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


井筒紋:地上に出た井戸の枠を紋章化した。井桁紋は菱形、井筒紋は正方形。全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。

司馬江漢。1747年 – 1818年11月19日、絵師。蘭学者。
鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。
浮世絵師だったが、後に洋風画を描くに至った。
天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち、日本に紹介した。安藤広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある。家紋は、「六つ追い重ね井筒」


乃木希典。1849年12月25日 - 1912年9月13日、軍人。
長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
明治天皇の後を追って殉死。家紋は、四つ持ち合い井筒。
青山墓地にある乃木家墓所にて撮影。もう一つ別に五瓜も使用。


創作紋:墓所には時に、故人を記念するようなオリジナルな紋が付けられることがある。

田尻稲次郎。1850年8月6日 – 1923年8月15日、経済学者・法学者・政治家・官僚。
薩摩藩士の三男として薩摩藩京都上屋敷で生まれた。日本初の法学博士。日露戦争時に戦費調達、債務処理に功績をあげ、退官後、東京市長を務める。
また、専修大学創始者の一人。
家紋は、田尻の「田」と稲次郎の「稲」から「稲妻」を連想して作ったオリジナル紋。


内田吐夢。1898年4月26日 – 1970年8月7日、映画監督。
岡山市に菓子店の息子として生まれる。
日本映画の創生期から戦後にいたるまで、骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」。
代表作は『大菩薩峠』『宮本武蔵』『飢餓海峡』等。
これは家紋というには若干違和感もあるが、墓所にて撮影した魚紋。

まさむね