その他紋

このエントリーでは、これまで取り上げた以外の家紋をまとめて取り上げる。

唐花紋:大陸から伝来した架空の花を紋章にしたのが、この唐花。「必殺仕事人」の中村主水も使用している。宮崎県で22位、奈良県で27位、高知県で28位というのが比較的多いところ。

伊能忠敬。1745年2月11日 – 1818年5月17日、測量家。
上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。
江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。
全国を歩いて測量し、「大日本沿海輿地全図」を作成。
大変精度の高い日本地図として評価された。


銭紋:貨幣は呪術的な側面がある。縁起物として紋として使用された。

真田昌幸。1547年 – 1611年7月13日、武将・大名。
甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。
真田氏は滋野氏流を称する海野氏の傍流とされる。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、戦国時代きっての知将、謀将と言われる。家紋は六文銭。


仙石秀久。1552年2月20日 – 1614年6月13日、武将・大名。
美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流。
秀吉最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。家紋は永楽銭。


独楽紋:独楽は子供の遊戯。遊び心とそのあやういバランス感覚、不思議さを紋とする。

千利休。1522年 – 1591年4月21日、戦国時代、安土桃山時代の茶人。
和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えたが、後に、秀吉と対立。切腹させられる。
画像は、利休ゆかりの大徳寺・聚光院にて。


木下家定。1543年- 1608年10月4日、武将。
本姓は豊臣氏。家系はもともと桓武平氏流の杉原氏だったが、後に木下氏と改称。
豊臣秀吉の正室であった高台院の兄弟。五男に小早川秀秋がいる。
関が原の戦いでは、高台院の警護を務めた功績により備中足守に2万5千石を得る。
備前足守藩初代藩主。家紋は木下独楽。


夕顔紋:夕顔はウリ科。ヒョウタンの一種。かんぴょうの原料にもなる。

種田山頭火。1882年12月3日 – 1940年10月11日、俳人。
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。
荻原井泉水の門下となる。熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度し、全国を放浪する。
自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。
代表作「分け入つても分け入つても青い山」「鴉啼いてわたしも一人」等。


違い棒紋:藤原秀郷の百足退治伝説が家紋化した。棒は矢が簡略化したものと言われている。

丹羽長秀。1535年10月16日 – 1585年5月15日、武将・大名。
丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれる。元々、斯波氏家臣の家。
信長の家臣として、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。
本能寺の変後は、秀吉派につくが、賤ヶ岳の戦いの2年後に病死。
丹羽氏は代々二本松藩主として江戸時代生き残る。家紋は丹羽違い木。


丹羽基二。1919年9月5日 – 2006年8月7日、苗字研究家。
栃木県佐野市生まれ。國學院大学国文科で柳田國男、折口信夫らに師事した。
全国の100万基の墓を巡った。日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表 。
在野の研究家として苗字だけにとどまらず、家紋、墓、仏足石、紋様などの研究も行う。
代表作品『日本の伝統紋様』『お墓のはなし』『日本苗字大辞典』。


茶の実紋:橘紋に類似。お茶の名産地、静岡で29位に食い込んでいるが、他府県では少数派。

佐藤春夫。1892年4月9日 – 1964年5月6日、小説家、詩人。
和歌山県東牟婁郡新宮町に医師の長男として生まれる。家紋は三つ茶の実。
代表作は『黒潮』『田園の憂鬱』詩集『我が一九二二年』等。
慶應義塾普通部、桐朋中学・高等学校等の校歌の作詞も担当。
門人に井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、柴田錬三郎、遠藤周作などがいる。


鎌紋:鎌は農民の象徴だが、いざという時に武器になる。怖い紋。

小早川秀秋。1582年 – 1602年12月1日、大名。
木下家定の子で、豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたる。
筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承する。秀吉死後、越前北庄15万石へ転封。
関ケ原の合戦で西軍を裏切ったことによって日本の歴史に名を残した。
家紋は、丸に違い鎌。


七宝紋:七宝は、仏教でいうところの七つの宝。仏教の加護の願いをこの紋に込める。石川県、福井県、岐阜県、鳥取県、島根県、滋賀県、愛媛県、高知県などで比較的多く見られる。

大岡忠相。1677年 – 1752年2月3日、幕臣・大名。
1700石の旗本大岡忠高江戸屋敷での四男として生まれる。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。 将軍徳川吉宗が進めた享保改革を町奉行として支える。
大岡政談』や時代劇での名奉行として知られている。
家紋は大岡七宝。


江戸川乱歩。1894年10月21日 – 1965年7月28日、小説家・推理作家。日本推理作家協会初代理事長。
代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。江戸川乱歩賞は第3回より長編推理小説の公募賞となっている。衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強かった。
祖父の代まで津藩士であったという平井家の紋は、七宝に二引両。


綿の花紋:結綿紋は、真綿を結んだもので、祝儀に用いられたもの。綿の花紋は中岡慎太郎のオリジナル。

中岡慎太郎。1838年5月6日 – 1867年12月12日、志士、陸援隊隊長
土佐国安芸郡北川郷柏木村に北川郷の大庄屋 中岡小傳次の長男として生まれる。
土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
近江屋事件で襲撃を受け、2日後に絶命。家紋は丸に綿の花。


柿の花紋:柿の花をデザイン。武市氏だけが使用。

武市瑞山。1829年10月24日 – 1865年7月3日、土佐藩郷士。
土佐国吹井村に生まれる。父は土佐藩郷士の武市正恒。武市半平太と呼称される。
武市家はもともと土地の豪農であったが後に郷士に取り立てられた家である。
坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成。
「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。家紋は柿の花紋。


垣紋:垣とは、神社に張り巡らされた瑞垣のこと。名奉行、大岡越前守もこの紋を使用。

大岡昇平。1909年3月6日 – 1988年12月25日、小説家・評論家・フランス文学翻訳家。
東京市牛込区新小川町生まれ。両親は和歌山出身で父・貞三郎は株式仲買人、母・つるは元芸妓であり、結婚後上京したという。
代表作は『俘虜記』『武蔵野夫人』『野火』等。
家紋は、丸に大岡玉垣。写真は多磨霊園の墓石。


烏紋:古代、烏信仰は絶大であった。八咫烏は神武東征を先導。サッカー日本代表のシンボルでもある。

鈴木孫一。1534年 – 1589年5月2日、雑賀衆の有力者の一人。
平井(和歌山市平井)あたりを本拠地としていた土豪。。
石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。
その後、関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取るなどの軍功を挙げ、浪人を経て水戸藩に仕官した。家紋は八咫烏。


升紋:升は昔から「増す」の意味で、めでたいものとされていた。四角い升を上からみたデザイン。

市川団十郎。歌舞伎役者の名跡。
屋号は成田屋。定紋は三升。
歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。
歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。現在は、十二代目。
写真は、青山霊園の市川団十郎の墓所の、花入れを上から撮影したもの。


鳥居紋:神社の鳥居を紋所とした。神職関係者で多く使用される。

天津乙女。1905年10月9日 – 1980年5月30日、宝塚歌劇団の男役スター。
本名:鳥居栄子。愛称:エイコさん。
芸名は僧正遍昭の「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」から。
紫綬褒章受章。勲四等宝冠章受勲。
家紋は鳥居垣紋。谷中霊園にて撮影。


甲貝紋:甲貝は、テングニシとも呼ばれる貝。その味は、さざえと並び称され、美味と言われている。

渡辺崋山。1793年10月20日 – 1841年11月23日、政治家・画家。
田原藩士(上士の家格)である父・渡辺定通の長男として生まれる。
代表画は「鷹見泉石像」「佐藤一斎像」「市河米庵像」など。
幕府の保守的海防方針を批判し、国元田原で蟄居(蛮社の獄)。
写真は谷中霊園、息子の小華の墓で撮影。地元、田原中学校の校章もこの甲貝を使用。


源氏香図紋:香道で使用される組香の一種、縦5本の線を基本として構成される源氏香図の紋章。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。家紋は、源氏香紋の中でも「紅葉賀」。


角紋:カク紋と読む。八角のものを折敷紋、六角のものを亀甲紋という。

八千草薫。1931年1月6日 – 、女優。
大阪出身。幼少時父を亡くし以後母一人子一人で育つ。
本名、谷口瞳。旧姓、松田。家紋は、隅入鉄砲角。
第27回日本アカデミー賞「優秀助演女優賞」『阿修羅のごとく』
代表作は『宮本武蔵』『ハチ公物語』『田園に死す』『阿修羅のごとく』


銀杏紋:いろんな意味がある。中国文化の象徴としての銀杏。知識の象徴として東京大学の校章にも使用。または、火災避けの力があると信じられている。

中村勘三郎 (18代目)。1955年5月30日 – 、俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。十七代目中村勘三郎の長男。姉は女優の波乃久里子。本名は波野哲明。
屋号は中村屋。定紋は角切銀杏。歌舞伎名跡「中村勘三郎」の当代。江戸の世話狂言から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作と、どんな役でもこなす。代表出演作『元禄繚乱』(大河ドラマ)『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎)『真夜中の弥次さん喜多さん』(映画)。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。
芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。
テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。
家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


猿紋:猿は日吉権現の眷属として神紋となっている。

市川猿之助。歌舞伎役者の名跡。
屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。
初代は、役者の門人から立役へ出世、澤瀉屋を門閥にのしあげる。
二代目は、欧米に留学して舞台芸術を学び、生涯新しい形の歌舞伎を模索した風雲児。
三代目は、「スーパー歌舞伎」という新境地まで切り開いた「歌舞伎の異端児」。


蛙紋:蛙紋はめずらしい。おそらく、下記の澤田正二郎の蛙紋はオリジナル紋。

澤田正二郎。1892 – 1929年3月4日、俳優。
松井須磨子と対立し、術座を脱退した後、新国劇を立ち上げる。
歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物で男性客の人気を得る。
1987年、創立70周年記念公演を終えた後、解散。
写真は谷中墓地の墓石。柳に蛙紋とでも呼ぶべき紋。


牡丹紋:牡丹は藤原氏宗家近衛家の紋。鷹司家も使用。武家では島津家、伊達家、津軽家などが使用。

陸奥宗光。1844年8月20日 – 1897年8月24日、政治家、外交官。
紀州藩藩士伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。勝海舟の神戸海軍操練所に入り、坂本龍馬の海援隊に 加わるなど始終坂本と行動をともにした。
日墨修好通商条約、日英通商航海条約等を締結。 「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。家紋は仙台牡丹。


近衛文麿。1891年10月12日 – 1945年12月16日、政治家。
公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区で生まれた。日中戦争(支那事変)勃発、日独伊三国軍事同盟時の内閣総理大臣。
第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣
細川護熙(内閣総理大臣) は外孫にあたる。


車前草(おおばこ)紋:薬草の車前草。代々医者の家系の丹波氏にふさわしい。

丹波哲郎。1922年7月17日 – 2006年9月24日、俳優。
大久保の名家の三男。祖父敬三は大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着くという。
心霊学と霊界に造詣を持ち、心霊関係著書は70冊。
代表出演作『砂の器』『二百三高地』『Gメン75』『丹波哲郎の大霊界』等。


以下の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


井筒紋:地上に出た井戸の枠を紋章化した。井桁紋は菱形、井筒紋は正方形。全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。

司馬江漢。1747年 – 1818年11月19日、絵師。蘭学者。
鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。
浮世絵師だったが、後に洋風画を描くに至った。
天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち、日本に紹介した。安藤広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある。家紋は、「六つ追い重ね井筒」


乃木希典。1849年12月25日 - 1912年9月13日、軍人。
長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
明治天皇の後を追って殉死。家紋は、四つ持ち合い井筒。
青山墓地にある乃木家墓所にて撮影。もう一つ別に五瓜も使用。


創作紋:墓所には時に、故人を記念するようなオリジナルな紋が付けられることがある。

田尻稲次郎。1850年8月6日 – 1923年8月15日、経済学者・法学者・政治家・官僚。
薩摩藩士の三男として薩摩藩京都上屋敷で生まれた。日本初の法学博士。日露戦争時に戦費調達、債務処理に功績をあげ、退官後、東京市長を務める。
また、専修大学創始者の一人。
家紋は、田尻の「田」と稲次郎の「稲」から「稲妻」を連想して作ったオリジナル紋。


内田吐夢。1898年4月26日 – 1970年8月7日、映画監督。
岡山市に菓子店の息子として生まれる。
日本映画の創生期から戦後にいたるまで、骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」。
代表作は『大菩薩峠』『宮本武蔵』『飢餓海峡』等。
これは家紋というには若干違和感もあるが、墓所にて撮影した魚紋。

まさむね



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No Responses to “その他紋”

  1. 高澤 等 says:

    長文になるのでこちらでお話し致します。

    東条英機の東条家は南部家家臣ですね。
    私が見た小平霊園のものは幕臣東条氏の家紋なのかも知れません。
    もともと一族でしょうが、分かれて家紋も微妙に変えたのでしょう。

    泉鏡花の家紋は「紅葉賀」です。
    これは私の推測ですが鏡花が尾崎紅葉に師事していたことに
    因むのではないかと思います。

    西周の家紋は平一つ目の変形ではないかと思います。
    主家亀井家の四つ目紋に因んだものかもしれません。
    「変わり平一つ目」というのがよいでしょうか。
    これも西家では独自の紋名を持っているかも知れません。

    三宅雪嶺の家紋は三宅氏族に特有のもので「島形に児文字」ですね。
    「児」は三宅一族の有名人児島高徳に因んだものです。

    田尻稲次郎の紋は独自の紋だと思われます。
    田尻氏は九州大蔵氏、あるいは大神氏ですから
    巴紋や三つ鱗を本来は用いていたはずです。
    墓石の写真は田尻の「田」と稲次郎の「稲」から「稲妻」を連想して
    作った物と考えます。

    野中到の家紋も独自のものではないでしょうか。
    野中が経営していた御殿場馬車鉄道のマークに似ています(厳密には違いますが)。
    御殿場馬車鉄道は富士馬車鉄道、都留馬車鉄道の三社で連結したので
    それを表しているのかも知れません。また車輪も表しているのでしょう。
    これは想像でしかないですけどね。

    日本家紋研究会 高澤 等

  2. masamune says:

    高澤様

    ご丁寧な解説、誠にありがとうございます。
    そういえば、三宅雪零の紋は、宇喜多秀家の紋にも似ていますね。

    田尻稲次郎は創作紋ですか。バランスがいいなぁと感じました。
    野中到の紋は、御殿場馬車鉄道のマークからとったという推理さすが鋭いですね。

    いろいろと勉強になりました。

    今後ともよろしくお願いいたします。

  3. 高澤 等 says:

    いま気が付いたのですが西周の紋は縦に線が入っていますね。
    「変わり連子に月」でしょうか。

    こちらこそよろしくお願い致します(^^)