沢瀉紋 -武人の心に芽生えた一時の優しさを表す紋-

January 19th, 2009

沢瀉は、全国の池や沼に自生する水草のこと。

戦国時代の武士。それこそ、地を這いずり回りながら戦いに明け暮れていた。
そんな時に、ふと水辺の水草にある沢瀉に目をやる。一時のやすらぎの時間だ。

あの毛利元就も、若い頃、出陣の際に沢瀉に蜻蛉が止まったのを見て「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍を鼓舞したというが、それを元に、この植物を紋として採用したという。
いずれにしても、猛々しい武人の心に芽生えた優しさ、そんなロマンチックな想像をさせてくれるのが、この沢瀉紋である。

全国的には、17位。長野県で5位、山梨県で7位。群馬県で8位。栃木県、愛知県、岐阜県で10位。
日本の中央部分の山間部に多いようである。

毛利元就。1497年4月16日 – 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。
安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。
家紋は毛利沢潟(右)、一文字三星紋(左)。


福島正則。1561年 – 1624年8月26日、武将・大名。
福島正信の長男として現在の愛知県海部郡美和町で生まれる。
幼少より秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いのときは一番槍として大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた。
九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。家紋は福島沢潟。


水野忠邦。1794年6月23日 – 1851年2月10日、大名・老中。
唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位。その後、老中首座に抜擢され、天保の改革(人返し令、株仲間の解散、上知令)を断行しようとするが各方面からの反対に逢い、失敗。強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。


水田三喜男。1905年4月13日 – 1976年12月22日、政治家。
千葉県曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐から移住。
大蔵大臣を数度に渡って務め、戦後日本の代表的な財政家である。
1965年に城西大学を創立した。
家紋は沢瀉に水。


伊藤整。1905年1月16日 – 1969年11月15日、評論家、詩人、小説家。
北海道松前郡に生まれ、1906年に塩谷村(現在の小樽市塩谷町)へ移住。
20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。私小説的文学の理論化をめざす。
代表小説は『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』などがある。


古川緑波。1903年8月13日 – 1961年1月16日、コメディアン。
男爵加藤照麿の六男(元東京帝国大学総長加藤弘之の孫)として生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。
1933年浅草で夢声らと劇団「笑(わらひ)の王国」を旗揚げ。
喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称せられる。


前田慧雲。1855年3月2日 – 1930年4月29日、学僧、教育者。
伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身。
尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となる。
東洋大学(明治39年)、龍谷大学(大正11年)の学長を歴任。
主著は『大日本続蔵経』『大乗仏教史論』『仏教思想講話』など。


高橋是清。1854年9月19日 – 1936年2月26日、第20代内閣総理大臣
嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。
大蔵大臣の際に、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。
二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺された。


鶴見祐輔。1885年1月3日 – 1973年11月1日、官僚・政治家・著述家。
岡山県生まれ。旗本水谷氏備中布賀知行所代官鶴見家の子孫。
1953年に参議院議員に当選し1期務めた。第1次鳩山内閣では厚生大臣に就任した。
鶴見和子(社会学者)・鶴見俊輔(哲学者)の父親としても知られている。主な著作は『母』『ナポレオン』など。


天知茂。1931年3月4日 – 1985年7月27日、俳優。
愛知県名古屋市出身。本名、臼井 登。
ニヒルの代表格で、死後20年以上経っても「ニヒルといえば天知茂」といわれている。
代表出演作は『ザ・ガードマン』『非情のライセンス』『土曜ワイド劇場』等
家紋は丸に抱き沢瀉だが、これは旗本・水野十郎左衛門の子孫だからか。


荻昌弘。1925年8月25日 – 1988年7月2日、映画評論家。
東京都出身。開成高等学校を経て東京大学文学部国文学科卒業。
TBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者を長年務めた。
長年日本レコード大賞の審査員を務めた。
食通としても知られ、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。

まさむね



目結紋 -人と人との団結の強さの象徴-

January 19th, 2009

目結とは、人と人との団結を意味する。
もともとは、コウケチという染めかたの事を目結染と言った。そこから来ている。

目結紋は、宇多源氏=近江源氏・佐々木一族の代表紋として知られているが、それは同時に一族の結束の強さをも表現しようとしていたのである。
絆への願望というのは現代の一つのテーマである。
それは、崩れつつあるものへのノスタルジーではないか。

そのノスタルジーは、この紋が持っている、無骨な安定感へのそこはかとない親しみに通じているようにも思える。

この紋は、全国で10位。特に青森県、岩手県で2位、宮城県で3位、北海道で4位。
これらの地域は、佐々木一族が移り住んだ地である。
逆に少ないところは、山梨県、愛媛県で19位。長野県で18位、兵庫県、岡山県で17位。

有名人では以下。

尼子経久。1458年12月25日 – 1541年11月30日、武将・大名。出雲守護代
尼子清定の嫡男として生まれる。幼名は又四郎。本姓は源氏。
室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領、勢力を広げる。
一代で尼子氏を中国地方11ヶ国の太守にのしあげた。
家紋は平四つ目。


佐々成政。1536年2月6日 – 1588年7月7日、武将。
佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族。
織田信長に仕え、馬廻りから戦功を重ねて頭角を表す。
九州平定で功をあげたことを契機に、秀吉から肥後国一国を与えられたが統治に失敗し改易される。家紋は隅立て四つ目、棕櫚。馬印は金の三階菅笠。


京極高次。1563年 – 1609年6月4日、武将、大名。
名門京極氏に生まれる。豊臣秀吉の側室である淀殿の妹である妻・初の七光りで出世した事から蛍大名とささやかれた。
関ヶ原の戦いの際には居城の大津城に篭もり、一万を超える西軍を引き付ける。
若狭国小浜藩初代藩主。丸亀藩京極家初代。家紋は平四つ目。画像は墓所。


木村重成。1593年 – 1615年6月2日、武将。
木村重茲の子とも言われている。
母、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。
家紋は四つ目菱。


佐々木小次郎。生年不詳 – 1612年5月13日、剣客。
豊前国田川郡副田庄に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる。
「秘剣燕返し」は福井市にある一乗谷で身につけ、中条流富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。
宮本武蔵と巌流島(船島、山口県下関市)で決闘し、敗死したとされる。


堀部安兵衛。1670年- 1703年3月20日、赤穂浪士四十七士の一人。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男。
四十七士の中では一番の剣客で、大石内蔵助に匹敵する人気を誇る人物。
江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格だった。
家紋は家紋は捻り四つ目二ツ。


間宮林蔵。1780年 – 1844年4月13日、探検家。
常陸国筑波郡上平柳村の農民(そして幕府隠密をつとめた役人)の子に生まれる。
近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
樺太が島である事、すなわち、間宮海峡を発見。
水戸藩へも出入りし、川路聖謨らと交友。徳川斉昭や藤田東湖にも献策。


箕作麟祥。1846年9月19日 – 1897年11月29日、啓蒙思想家、法学者。
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸に生まれた。
東京学士院会員・元老院議官・法典調査会主査委員・貴族院議員等を歴任。
ナポレオン法典を5年間の歳月をかけて全訳した『仏蘭西法律書』が著名。
家紋は平四目。


上原勇作。1856年12月6日 – 1933年11月8日、軍人。
日向国都城出身。都城島津家家臣・龍岡資弦の次男として生まれる。
1875年、上原家の養子となる。1881年に渡仏、フランス陸軍に学び、工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて経験した。家紋は隅立て四つ目結。


佐佐木信綱。1872年7月8日 – 1963年12月2日、歌人、国文学者。
三重県鈴鹿郡石薬師村にて歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。
息子の佐佐木治綱も歌人。同じく歌人の佐佐木幸綱(俵万智の師匠)は治綱の息子。
与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。
岩波文庫『新訓・万葉集』、『新古今和歌集』等の編者。


獅子文六。1893年7月1日 – 1969年12月13日、小説家、劇作家、演出家。
横浜弁天通の岩田商会に生まれる。実父は中津藩士。本名:岩田豊雄。
岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。
日本芸術院賞受賞、芸術院会員、文化勲章受章、文化功労者。
代表作は『てんやわんや』『自由学校』『ちんちん電車』など。


小津安二郎。1903年12月12日 – 1963年12月12日、映画監督。
東京深川の下町に、豪商湯浅屋の番頭の次男として生まれた。
本籍は、三重県の松阪。親類のつてで松竹蒲田撮影所に入社。
日本を代表する映画監督として活躍。代表作は『大学は出たけれど』『晩春』『麦秋』『東京物語』等。家紋は、丸四つ目結紋。


佐々木味津三。1896年3月18日 – 1934年2月6日、小説家。
愛知県北設楽郡下津具村出身。本名・光三。
1919年『大観』に載せた「馬を殴り殺した少年」で菊池寛に見出される。
代表作は『右門捕物帖』『旗本退屈男』など。
旗本退屈男は映画やテレビドラマ化され高い人気を得た。


寺山修司。1935年12月10日 – 1983年5月4日、歌人、演出家、映画監督。
青森県弘前市紺屋町生まれ。 本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と言っていたが、メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
代表映画「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」など。家紋は丸に四つ目菱。


櫻内義雄。1912年5月8日 – 2003年7月5日、政治家。
島根県能義郡広瀬町(現安来市)出身。
櫻内家は江戸時代、代々広瀬藩士として松平家に仕えた。
外務大臣、農林大臣、建設大臣、第67代衆議院議長等を歴任。
世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第9代会長。


水木しげる。1922年3月8日 – 、漫画家。
鳥取県境港市出身。本名は武良茂(むらしげる)。武良家は隠岐島の名族。
アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長。妖怪漫画の第一人者として活躍。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』等。家紋は、丸四つ目結紋。


亀井亜紀子。1965年5月14日 – 、政治家。参議院議員。
国民新党幹事長亀井久興の長女。東京都生まれ。本籍地は島根県鹿足郡津和野町。
旧津和野藩藩主亀井家の子孫にあたる。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に国民新党公認・民主党推薦・社会民主党県連支持で島根県選挙区より出馬。自由民主党の前職・景山俊太郎を破り初当選を果たした。家紋は隅立て四つ目結。亀井静香は遠縁。


貴乃花光司。1972年8月12日 -、第65代横綱。貴乃花部屋(二所ノ関一門)の師匠。
父は元大関の貴ノ花利彰、母は女優の藤田憲子。本名:花田光司。
元フジテレビアナウンサーの河野景子と結婚。
優勝22回は歴代4位タイの記録であり、平成の大横綱と称されている。
日本相撲協会の役員待遇委員・審判部副部長。


和泉元彌。1974年6月4日 – 、能楽師狂言方。
和泉流19世宗家・和泉元秀(画像は元秀の墓)の長男として生まれる。本名、山脇元彌。
株式会社和泉宗家取締役・和泉流宗家宗家会在籍。妻はタレントの羽野晶紀。
大河ドラマ「北条時宗」で主役を務める。所得隠し、接触事故等でワイドショーを騒がせる事がしばしばあり人気低迷している。和泉家の門には、雪輪に平四つ目結の家紋が飾られている。

まさむね



紅葉紋 -敢えて散りゆく紅葉を選ぶ粋な美意識-

January 18th, 2009

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ  藤原定家

日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。

だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。

使用している有名人は以下。

福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。


いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。

まさむね



団扇紋 -悪鬼を払い、霊威を呼び寄せる神具-

January 18th, 2009

団扇紋にはいくつか種類がある。

1)普通の団扇(うちわ)紋
2)大相撲の行司が持つのと同じ、軍配扇紋
3)天狗が持つという羽団扇紋

この中で数が多いのが軍配扇紋。
平安時代の武士勃興時代に関東で幅を利かせた児玉党武士団が使用しはじめたといわれる。
多くの家紋の中でも歴史が古い部類に入る。
軍配の采配一つによって、自らの武士団の運命が左右される重要な道具だ。
と同時に、古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきたのである。

羽団扇紋(左画像)は、駿河の浅間神社の神紋として知られている。
浅間神社は木花咲耶姫命を奉っているが、富士山信仰と深い結びつきがある。

団扇紋を使用はそれほど多くない。全国分布では、福井県で27位、埼玉県で28位。

有名人は以下。

奥平信昌。戦国時代から江戸時代にかけての武将。
三河国作手の有力国人・奥平貞能の長男として生まれる。
徳川家康の長女・亀姫を正室としたので、家康の娘婿として重用されるようになる。
長篠の合戦時に、長篠城で篭城し武田軍を苦しめる武功を上げ、信長より信昌という名前を賜る。奥平家は、豊前国中津藩幕末をむかえる。


鞍馬天狗。幕末期の勤王志士。
大佛次郎の大正・昭和期における時代小説の主人公。
幕末期を舞台にし、剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが定かではない。
何度も映画化され、特にアラカンこと嵐寛寿郎(写真)が主役の映画作品は有名。


児玉源太郎。1852年4月14日 – 1906年7月23日、武士、陸軍軍人。
周防国都濃郡徳山村に、徳山藩の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男として生まれる。
日露戦争全体の戦略の立案を担当。英雄として有名。
太陽にほえろ!」等のテレビ映画監督で有名な児玉進は曾孫。
家紋は、唐団扇笹。多磨霊園で撮影。


加藤高明。1860年1月25日 – 1926年1月28日、外交官、政治家。
第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。
尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。
首相在任中に、治安維持法、普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立する。東京日日新聞(後の毎日新聞)社長も務めている。家紋は六つ唐団扇。


福田康夫。1936年7月16日 – 、内閣総理大臣(第91代)
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。
『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。
2008年9月1日、記者会見で「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明。
あなたと違うんです」という名セリフを残した。

まさむね



車紋 -車輪に隠れる六条御息所の怨念-

January 18th, 2009

この紋の図柄を見ると、車紋というよりも車輪紋である。

言うまでもなく、車輪というのは乗り物を、そして乗り物に乗っている人を支えるものである。
車紋の使用氏として一番有名な一族は藤原秀郷流の佐藤氏であるが、一族の中で「人を支えた」人物と言えば、源義経に遣えた佐藤継信、忠信兄弟を思い出す。

また、車紋は別名、源氏車とも言われている。

また、源氏車といえば、「源氏物語」9帖の『葵』における六条御息所と葵上の車争いを連想させる。そして、その車争いで敗れた六条御息所の怨念が車に取り憑き、朧車という妖怪になったという伝説もある。左図は鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より。

車紋の車輪はただの車輪ではない。様々な人々の思いがつまっているのだ。
    ◆
さて、この紋は全国ではそれほど、普及している紋ではない。ただ、東北地方では散見される。
特に、秋田県では18位だ。
これは秋田県で、佐藤姓が多い事と関係していると思われる。
また、東北地方以外では唯一三重県でベスト30位に入っている。これはこの地が伊勢神宮のお膝元だからか。

車紋を持つ有名人は以下。

佐藤継信。1158年? – 1185年3月22日、平安時代末期の武将で、源義経の家臣
出身は奥州信夫郡(現在の福島市飯坂町)。佐藤忠信の兄。
義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行し、平氏追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。
写真は福島県福島市飯坂町の井王院にある墓所の門の写真。


榊原康政。1548年 – 1606年6月19日、武将・大名。
榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫である。
家康の家臣として姉川三方ヶ原長篠小牧・長久手の戦いになど数々の戦いで戦功を立てた。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
家紋は榊原源氏車。


中川清秀。1542年 – 1583年6月10日、戦国時代の武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。
本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。
家紋は中川車(右)。中川柏(左)


榊原健吉。1830年12月19日 – 1894年9月11日、幕臣、剣客。
江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人榊原益太郎友直、5人兄弟の長男。 名は友善。
男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。
天覧兜割などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。
家紋は榊原車。


林董。1850年4月11日 – 1913年7月20日、外交官、政治家。
下総国佐倉藩の蘭医佐藤泰然の子として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子となる。董三郎とも。変名、佐藤 東三郎。箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。敗戦後、香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。在英日本公使としてロンドンで日英同盟を調印した。


野中到。1867年 – 1955年2月28日、気象学者。
福岡に生まれる。母方の従妹である福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子と結婚。
富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。著作に『富士案内 芙蓉日記』がある。家紋は、御殿場馬車鉄道の社章からの転用か?この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


宮田輝。1921年12月25日 – 1990年7月15日、元NHKアナウンサーで参議院議員。
東京都出身。本名・みやた あきら。
「三つの歌」「NHKのど自慢」「ふるさとの歌まつり」の司会担当。
NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。


佐藤栄作。1901年3月27日 - 1975年6月3日、政治家。
現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業・佐藤秀助、茂世(もよ)の三男として生まれた。
第61、62、63代内閣総理大臣。
日韓基本条約の批准、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現。
非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて授賞。


石坂洋次郎。1900年1月25日 – 1986年10月7日、小説家。
青森県弘前市代官町生まれ。
戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。第14回菊池寛賞を受ける。
代表作は『陽のあたる坂道 』『若い人』『青い山脈 』など。


服部半蔵。戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。
松平氏〜徳川氏の麾下で活躍。家紋は、源氏車に矢。
半蔵門は、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称(半蔵)に由来する。
「伊賀の影丸」「あずみ」「サムライスピリッツ」などのフィクションに登場。
藤子不二夫の「忍者ハットリくん(画像)」は服部半蔵の子孫。

まさむね



松紋 -長寿への願いを込めた紋-

January 18th, 2009

松は長寿の象徴である。

例えば、『高砂』は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でて、人世を言祝ぐ能である。
日本人は松の木の悠然としていて変らない緑に、長寿という普遍的な願望をこの松に託したのである。

香川県は、松の多い土地柄として有名だが、やはりこの松紋の所有者も多い。[1]
その昔、讃岐の国司となってこの地に下った藤原氏がこの松紋を採用、土地に根付き一族を広げていった。
全国では22位だが、香川県でだけ10位に入っているのである。

松紋所有の有名人は以下。

尾崎放哉。1885年1月20日 – 1926年4月7日、俳人。
現在の鳥取県邑美郡に士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。
季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。
代表作は「咳をしても一人 」「墓の裏に廻る」「いれものがない両手でうける」など。
家紋は五つ松皮菱。


徳川夢声。1894年4月13日 – 1971年8月1日、弁士、漫談家、作家、俳優。
島根県益田市に生まれ、東京に育つ。本名は福原駿雄。
日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。
「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。
家紋は三つ松毬紋。


松本清張。1909年12月21日 – 1992年8月4日、小説家。
福岡県企救郡板櫃村出身。
「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。
代表作は「砂の器」「点と線」「黒革の手帖 」など多数。
家紋は三つ重ね松紋。


児玉誉士夫。1911年2月18日 – 1984年1月17日、右翼運動家、黒幕。
福島県安達郡本宮町出身。児玉家は、二本松藩の御典医の家だった。
ロッキード社の秘密代理人。ロッキード事件の際に一般にその名が広く知れ渡る。
スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(後のデヴィ夫人)を送り込んだ。
「政財界の黒幕」「フィクサー」と呼ばれた。家紋は、丸に松皮菱。


木下惠介。1912年12月5日 – 1998年12月30日、映画監督、脚本家。
静岡県浜松市伝馬町で食料品店を営む家の4男として生まれる。
二十四の瞳』で、ブルーリボン賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞。
木下惠介劇場』『木下惠介アワー』などの固定枠を提供されて多くのテレビドラマを制作。
小津安二郎と同様にほとんど性描写をしない演出が特徴的である。家紋は右寄り三階松。


立川談志(7代目)。1936年1月2日 – 、落語立川流家元、国会議員と総理府の政務次官。
東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。 本名:松岡 克由。
1971年 – 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。
古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されている。
丸に左三蓋松は、立川流の定紋。


高島忠夫。1930年7月27日 – 、タレント・俳優・司会者。
兵庫県武庫郡出身。妻は女優の寿美花代。俳優の高嶋政宏・高嶋政伸は実子。
料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』など長期に渡る人気番組の司会を担当。『ゴールデン洋画劇場』では映画解説を担当した。
出演作は『細うで繁盛記』『ふたりっ子』『ゴジラvsメカゴジラ』等。家紋は三つ松。

[1]松皮菱は菱紋に分類されることもあるが、ここでは松とさせていただきました。

まさむね



桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花-

January 18th, 2009

元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。

例えば...

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。

そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。

しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。

  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。

これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。

有名人で桜紋を使用しているのは以下。

細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


花柳壽輔(初代)。1821年2月19日 – 1903年1月28日、日本舞踊家、振付師。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男として生まれる。
日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。
勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。
家紋は花柳桜。画像は、谷中霊園の墓所の灯篭より。


井上馨。1836年1月16日 – 1915年9月1日、長州藩士、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として生まれる。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。
外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。
彼の遺産を元にした井上育英会の親睦会はこの紋の名前をとって「桜菱会」という。


与謝野晶子。1878年12月7日 – 1942年5月29日、歌人、作家、思想家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として誕生。
日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。
代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』
夫は与謝野鉄幹。現(2009年)財務大臣の与謝野馨は孫にあたる。


原敬。1856年3月15日 – 1921年11月4日、政治家。
盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。
分家として独立する際に、平民となる。その際、家紋も「三つ割桜」とする。
政界に進出し、大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満65歳没。


吉田茂。1878年9月22日 – 1967年10月20日、戦後の内閣総理大臣。
高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(現・東京都千代田区)に生まれる。
サンフランシスコ平和条約を締結。日米安全保障条約を結んだ。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。


埴谷雄高。1909年12月19日 – 1997年2月19日、作家、評論家。
本名は、般若豊。台湾の新竹に生まれる。
代表作は、存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。
晩年は吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。


まさむね



鷹の羽紋 -爪を隠した優美な紋-

January 16th, 2009

ヨーロッパのファミリークレスト(紋章)と日本の家紋を比べて大きく2つの点で異なっている。

1)ファミリークレストは貴族階級のみ所持するが、家紋は一般庶民にまで広まった。
2)ファミリークレストでは動物、猛禽類が素材に使われるが、日本ではそれらが使われるのは稀である。

そんな日本の家紋の中で、例外的に猛禽類を家紋として、かなり広まっているのが、この鷹の羽なのである。
しかし、鷹は鷹でもこの紋は、鷹の姿ではなく、鷹の羽を家紋化するところが特徴だ。

獰猛、精悍な姿(いわゆる爪)を隠して、その羽を優美な紋所とする、そのセンスは、どこか、軍隊を自衛隊と言い繕う感覚と通底している。
ごまかしと言うのか、慎み深いと言うのかは、立場によって違うとは思うがいずれにしても日本的といえるだろう。

しかも、この家紋は全国では3位だ。
目立つ地域は、群馬県、千葉県、神奈川県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県で1位。
茨城県、栃木県、埼玉県、東京都、山梨県、長野県、愛知県、滋賀県、奈良県、京都府、兵庫県、福岡県、佐賀県、長崎県で2位。
関東と九州で特に多いことがわかる。一方で、比較的少ないのが、青森県(10位)、石川県(8位)、浅野家、阿部家のお膝元広島県の9位。

九州では名族・菊池一族の家紋だったことが大きく影響しているからと言われているが、一方、関東に多いのは、この地域では比較的広い荘園を支配した武士の紋を、そのまま農民が多く使用したからでないだろうか。
それに対して、関西、中国四国の村々では、それぞれの家紋を持った比較的力の強い家族が集まった共同体的性格が強かったのではないだろうか。

さて、鷹の羽を持つ有名人は以下。

菊池武光。1319年 – 1373年12月29日、鎌倉時代末期、南北朝時代の武将。
菊池氏の第15代当主。南朝・後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。一色、少弐、両者を倒して九州における南朝勢力の隆盛を確立した。
家紋は並び鷹の羽。


阿蘇惟豊。1493年 – 1559年12月5日、阿蘇氏の18代当主。
阿蘇惟憲の子。阿蘇惟将・惟種の父。
甲斐親宣・親直(宗運)父子の補佐を受け、阿蘇氏の最盛期を築いた。阿蘇五ヶ所衆の一人。
後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し、阿蘇上宮に社納したという。
阿蘇神社大宮司でもある。家紋は違い鷹の羽。画像は阿蘇神社の神紋。


浅野長矩。1667年 – 1701年、大名。播磨赤穂藩の第3代藩主。
赤穂浅野家は、広島浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男長重を祖とする家柄である。
幕府から江戸下向が予定される勅使の饗応役に任じられた際に、殿中刃傷を起こし、切腹させられ、赤穂浪士の復讐へとつながる。
後に、「忠臣蔵」「峠の群像」「元禄繚乱」などのドラマや映画で扱われる。


阿部正弘。1819年12月3日 – 1857年8月6日、備後福山藩第7代藩主。
江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。
第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。
老中首座の在任中にペリーが来航。日米和親条約締結を行う。優柔不断とも言われるが、一方で講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などの創設をしている。


尾崎紅葉。1868年1月10日 – 明治36年10月30日、
江戸芝中門前町(現在の浜松町)に生れる。父は根付師。本名、徳太郎。
幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。
代表作は「金色夜叉」「多情多恨」「二人比丘尼 色懺悔」など。
泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声などは門下生。


安西浩。1901年10月6日 – 1990年4月12日、実業家。
千葉県勝浦市に生れる。
東京ガス社長・会長。東京ガスの最高実力者として20年以上も君臨し「法王」と呼ばれる。
クリーン・エネルギー、液化天然ガス(LNG)の価値にいち早く気付き、海外からの本格的導入に成功。「ミスターLNG」と呼ばれた。


鈴木梅太郎。1874年4月7日 – 1943年9月20日、農芸化学者。
静岡県榛原郡堀野新田村[1]にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。
東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章受章者。
世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見した。
また、1922年には合成清酒を発明している。


高木貞治。1875年4月21日 – 1960年2月28日、近世日本初の国際的数学者。
岐阜県本巣郡数屋村(現・本巣市)に生まれる。
ドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。
代数的整数論の研究では類体論を確立し、クロネッカーの青春の夢を解決した。
著書に『初等整数論講義』『代数的整数論』『近世数学史談』がある。


山手樹一郎。1899年2月11日 – 1978年3月16日、小説家。
栃木県生まれ。本名は、井口長次。孫は詩人の井坂洋子。
博文館に入社し、編集者を経て『少年少女譚海』編集長。
1939年より専業作家。前後して長谷川伸の門下。翌年より新聞連載した「桃太郎侍」で人気を得る。歴史小説である『崋山と長英』で第4回野間文芸賞を受賞。


中村汀女。1900年4月11日 – 1988年9月20日、俳人。
熊本県飽託郡画図村に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。
本名:斉藤破魔子。
ホトトギス同人となり、最初の句集『春雪』を発表。
俳誌『風花』を創刊した。1980年文化功労者、84年日本芸術院賞受賞。


菊池寛。1888年12月26日 – 1948年3月6日、小説家。
香川県高松市生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。
文藝春秋社を創設し、芥川賞、直木賞を設立し、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。
代表作は「父帰る 」「恩讐の彼方に 」「真珠夫人」など。


川島正次郎。1890年7月10日 – 1970年11月9日、政治家。
生母とは早くに死別し、東京の下町で鼈甲屋を営む母方の叔父のもとで幼少期を過ごす。
自民党幹事長・副総裁を歴任。専修大学総長、成田山奉賛会初代会長、日本プロレスリングコミッショナーを始め日本学生卓球連盟会長、日本ボウリング協議会総裁、日本消防協会会長、江戸消防記念会名誉会長、畠山みどりの後援会長などの要職を務めた。


椎名悦三郎。1898年1月16日 – 1979年9月30日、官僚、政治家。
岩手県水沢町出身。父の後藤広は小学校の教師から後に、更に水沢町長を10年間務めた。
自民党副総裁、外相、通産相を歴任した。日韓基本条約の締結に向けて韓国側と交渉。
田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した「椎名裁定」で知られる。
椎名素夫は二男。衆議院議員を4期、参議院議員を2期務め、知米派、国際派として活躍した。


野間清治。1878年12月17日 – 1938年10月16日、実業家。
群馬県桐生市出身 。
講談社創業者であり、元報知新聞社社長。
「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。
主な刊行雑誌『少年倶楽部』『キング』『少女倶楽部』


石橋湛山。1884年9月25日 – 1973年4月25日、政治家。第55代内閣総理大臣
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた。
ただし、母方の石橋家を継ぐ。その石橋家は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋。
総理大臣就任直後、脳梗塞で倒れ、首相在任期間は65日。東久邇宮稔彦王、羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短命政権であった。


早川雪洲。1886年6月10日 – 1973年11月23日、俳優。
千葉県安房郡千倉町千田の裕福な網元の家に生まれる。本名は早川金太郎。
日本人としてもっとも早い時代に活躍した国際的映画俳優である。
日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされる。
代表出演作は『新しき土』『南海漂流』『戦場にかける橋』等。家紋は丸に違い鷹の羽。


榎本健一。1904年10月11日 – 1970年1月7日、俳優、歌手、コメディアン。
東京都港区青山の出身。
当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で大活躍した。
出演映画『エノケンの青春酔虎伝』『エノケンの猿飛佐助』『エノケンの弥次喜多』など。


常ノ花寛市。1896年11月23日 – 1960年11月28日、第31代横綱。
岡山県岡山市生まれ。本名:山野辺 寛一。
13歳で出羽ノ海部屋に入門。幕内最高優勝:10回。
初めて優勝回数を2桁に乗せた力士だった。
幕内通算成績:221勝58敗8分6預68休 勝率.792。


川島雄三。1918年2月4日 – 1963年6月11日、映画監督。
青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。
小津安二郎等の助監督を経て『還って来た男』で監督デビュー。
代表作は『洲崎パラダイス 赤信号』『幕末太陽傳』『女は二度生まれる』等。
筋萎縮性側索硬化症に冒され歩行困難だったといわれている。家紋は違い鷹の羽。


朝潮太郎。1929年11月13日 – 1988年10月23日、大相撲の第46代横綱
本名・米川 文敏、鹿児島県徳之島出身。高砂部屋所属。
幕内最高優勝 5回。
引退後、高砂部屋を継承し、先代から引き継いだ高見山、富士櫻、自分の代に入門した朝潮、小錦、水戸泉らを育てた。


羽田孜。1935年8月24日 – 、政治家。第80代内閣総理大臣
東京都大田区にて羽田武嗣郎の長男として生まれる。父・武嗣郎は衆議院議員。
羽田家は秦氏の末裔と言われている。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵大臣(第88代)、副総理(細川内閣)、外務大臣(第120代)、新生党党首、新進党副党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表などを歴任。家紋は丸に違い鷹の羽。


梶原一騎。1936年9月4日 – 1987年1月21日、漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。
東京市浅草区石浜に生まれる。本名は、高森朝雄。
格闘技やスポーツを題材に、話題作を次々と生み出した。
代表作品は、『空手バカ一代』『タイガーマスク』『ジャイアント台風』『柔道一直線』『プロレススーパースター列伝』『巨人の星』『愛と誠』『あしたのジョー』等。


宇津井健。1931年10月24日 – 、俳優。
東京都出身。新東宝に入社し、若手スターとして大活躍、各方面からの注目を集める。『鋼鉄の巨人シリーズ』での主演は今でも語り継がれる。
代表出演作『ザ・ガードマン』『「赤い」シリーズ』『渡る世間は鬼ばかり』など。
藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴では乾杯の音頭を取った。


日色ともえ。1941年6月4日 – 、劇団民藝所属の女優。
東京都出身。父親は東京新聞社社員で、将棋観戦記者・演芸評論家であった日色恵。
NHK朝の連続テレビ小説『旅路』のヒロインを担当。
近年は農業教室も開いており、自ら栽培し収穫した米は「ともゑ米」の銘柄にもなっている。
代表出演作『旅路』『黒部の太陽』『おていちゃん』など。


園山俊二。1935年4月23日 – 1993年1月20日、漫画家。
島根県松江市生まれ。
「シッカ」など、ユーモラスな擬音を多く用いた。
代表作は『ギャートルズ』『ペエスケ』『がんばれゴンベ』など。
家紋は、丸に違い鷹の羽。


赤塚不二夫。1935年9月14日 – 2008年8月2日、漫画家。
満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。
1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。
代表作は「もーれつア太郎」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「レッツラゴン」「ワルワルワールド」など。


星野仙一。1947年1月22日 – 、プロ野球監督、野球解説者。
岡山県倉敷市出身。父は戦前、三菱航空機製作所の工場長だった。
現役時代は中日のエースとして、巨人キラーといわれる。
監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たすがいずれも日本シリーズ敗退。
2008年には日本代表監督としてオリンピック出場するが惨敗。家紋は違い鷹の羽。


檀ふみ。1954年6月5日 – 、女優、エッセイスト。
東京都練馬区生まれ。父は作家の檀一雄。壇家は、本籍地が福岡県山門郡沖端村(柳川市)で、立花藩の普請方を務めた家柄であった。
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』『青春の蹉跌』など。青春映画では、清新な演技でも注目。
NHKの『連想ゲーム』の名解答者としても親しまれた。家紋は丸に鷹の羽。


三重ノ海剛司。1948年2月4日 – 、第57代横綱
三重県松阪市出身。出羽海部屋所属。
幕内最高優勝:3回(全勝1回)。通算成績:695勝525敗1分56休 勝率.570
指導者としては横綱武蔵丸のほか武双山・出島・雅山の三大関を送り出した。
現在は年寄・武蔵川、日本相撲協会理事長


TOSHI。1965年10月10日 – 、X JAPANのヴォーカリスト。
千葉県館山市で、公務員の三男として生まれる。本名は出山 利三。
幼稚園で、音楽の道を歩むきっかけとなる林佳樹(後のYOSHIKI)と出会い、後にX JAPANを結成、80年代ブレイクする。X JAPANを脱退した後はソロで全国的に小規模コンサートを行う。再結成後の現在は、X JAPANとソロの両方で活動を行っている。家紋は丸に違い鷹の羽。


武蔵丸光洋。1971年5月2日 – 、元大相撲力士。
米国ハワイ州オアフ島出身。
本名は武蔵丸光洋、旧名はフィヤマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)。
第67代横綱。現在は年寄・振分。幕内最高優勝:12回。
通算成績:779勝294敗115休 勝率.726 。家紋は丸に違い鷹の羽。

まさむね



巴紋 -水が渦巻いている姿を表現-

January 16th, 2009

巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。

古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。

また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。

全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。

巴紋を持つ有名人は以下。

山本勘助。1501年 – 1561年9月10日、戦国時代の武将。
出身地は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)。
武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。
2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった。
写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。


蒲生氏郷。1556年 – 1595年3月17日、武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主
またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。
家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


田中吉政。1548年 – 1609年3月23日、武将、大名。
近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに、現在につながる都市設計を行った。そのことは現代でも高く評価できる。
家紋は左三巴と釘抜き。


小早川隆景。1533年 – 1597年7月26日、武将・大名。
毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では、秀吉の信任を受け、通説では文禄年間に五大老の一人に任じられたとされている。
家紋は左三巴。


九鬼嘉隆。1542年 – 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)として活躍し、3万5000石の禄を得た。
後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。
家紋は左三巴と七曜。


不破光治。生年不詳 – 1580年12月14日、斎藤氏・織田氏の家臣。
藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔とする説がある
稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われることもある。
越前一向一揆を平定後は、佐々成政前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。
画像は不破光治が拠ったといわれる龍門寺。家紋は左三巴。


有馬晴信。1567年 – 1612年6月5日、安土桃山時代、江戸時代の大名。
肥前有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ、大友宗麟や大村純忠とともに、天正遣欧使節を派遣している。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。岡本大八事件で甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。家紋は左三巴と五瓜に唐花。


別所長治。1558年 – 1580年2月2日、戦国時代から安土桃山時代の大名。
別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。
家紋は左三巴。


結城秀康。1574年3月1日 – 1607年6月2日、武将、大名。
家康の次男として遠州浜松で生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。
家紋は右三つ巴。


板倉勝重。大名、京都所司代。
三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで家康に従う。
関ヶ原の戦い後の1601年、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握する。
禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。


糟屋武則。1562年 – 1607年、大名。
糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。
賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。
関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。


宮本武蔵。1584年 – 1645年6月13日、江戸時代初期の剣豪。
二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。水墨画家・工芸家としても知られる。
播磨国(現在の兵庫県)で誕生した。家系に関しては諸説ある。
吉岡一族との決闘、巌流島の決闘など、60余回の勝負を行い、すべてに勝利したという。
著作に「五輪の書」がある。また、水墨画家としても名高い。


大石内蔵助。1659年 – 1703年2月4日、播磨国赤穂藩の筆頭家老。
大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。
代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。
元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。


土方歳三。1835年5月31日 – 1869年6月20日、新選組副長、幕末期の幕臣。
新選組鬼の副長として皆に恐れられた。戊辰戦争では、仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。函館戦争中に、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
家紋は左三つ巴。


西園寺公望。1849年12月7日 – 1940年11月24日、政治家。第12・14代内閣総理大臣。
西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。西園寺家の三つ巴は、家紋史でもっとも古く由緒あると言われている。多磨霊園での墓所にて撮影。


大木喬任。1832年4月23日 – 1899年6月26日、政治家。
肥前国佐賀藩士大木知喬の長男として生まれる。
大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。
江藤新平、大隈重信、副島種臣らと共に義祭同盟に参加。
東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔、元老院議長などを務めた。家紋は左三つ巴。


服部宇之吉。1867年6月2日 – 1939年7月11日、中国哲学者。
福島の二本松藩士服部藤八郎の三男として生まれる。
哲学科出身で西洋哲学やその方法論を学び、中国哲学を講じた。
東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。
代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』『支那の国民性と思想』など。


鮎川義介。1880年11月6日 – 1967年2月13日、実業家、政治家。
山口県氷川郡大内村に生れた。母は井上馨の実姉の長女。父は旧長州藩士鮎川弥八。
日産コンツェルン の創始者。日産コンツェルンには、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命等が含まれる。女優の杉田かおると結婚し、すぐ離婚し話題になった鮎川純太の祖父にあたる。家紋は左三つ巴。


小山内薫。1881年7月26日 – 1928年12月25日、劇作家、演出家。
父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と「自由劇場」を開始、大正13年「築地小劇場」を土方与志と起こし新劇運動の中心的存在となる。多くの西欧の戯曲を上演し、新劇界の草創期をつくった。「新劇の父」の異名がある。多磨霊園にある小山内薫の墓には巴紋はないが、敷地内の親族の墓には巴紋が刻まれている。


吉岡彌生。1871年4月29日 – 1959年5月22日、教育者、医師。
遠江国城東郡土方村に、漢方医・鷲山養斎の娘として生まれる。
東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者。
東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長、日本女医会会長、教育審議会委員、日本医師会参与、厚生省顧問などを歴任。


山本五十六。1884年4月4日 – 1943年4月18日、大日本帝国海軍の軍人。
新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれるが、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、山本五十六を名乗る。日独伊三国軍事同盟には、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」として最後まで反対した。また、早くから石油や航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。


レオナルド熊。1935年6月27日 – 1994年12月11日、コメディアン。
北海道樺戸郡新十津川町出身。地元高校を中退後、役者を志して単身上京。
石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキー・パンチ』(後にコント・レオナルド)で一世を風靡した。
サントリービール「生樽」のテレビCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうな-」は流行語になった。画像は和田堀廟所の墓所にて撮影。


江戸屋猫八。1921年10月1日 – 2001年12月10日、物真似師、俳優。
本名・岡田六郎(六男だったため、六郎と名付けられる)。
古川緑波一座に入団し、俳優となる。
三遊亭金馬・一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」(八ちゃん役)に出演。
その物真似は、昭和名人芸として今でも称えられている。


松田聖子。1962年3月10日 – 、1980年代を代表するアイドル歌手。本名、蒲池法子。蒲池宗家の定紋は巴紋であるが、上がり藤を定紋として使用している別の蒲池家系統もある。
生家は九州柳川城の城主だった蒲池氏第十六代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の子孫に当たり、江戸時代は柳川藩家老格だった。
代表曲は、「青い珊瑚礁」「白いパラソル」「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」など。


恵俊彰。1964年12月21日 – 、お笑いタレント、司会者。
鹿児島県鹿児島市出身。恵家の家紋は左三つ巴。
石塚英彦とホンジャマカを結成し、1989年にデビュー。ツッコミ担当。
俳優としては大河『毛利元就』『サラリーマン金太郎』に出演。
最近は『ひるおび! 』などで司会者としても活躍している。

まさむね



柏紋 -海の人々に奉られた神の紋-

January 16th, 2009

柏手を打つという言葉がある通り、柏は神道と関係が深い植物である。

宗像神社に奉仕する宗像氏、伊勢神宮に奉仕する久志本氏、熱田神宮に奉仕する千秋氏、吉田神社に奉仕する卜部氏など、神官関連に柏紋を使用する家が多い。
また、神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。

全国分布では、比較的に東日本で多い。
北から、秋田県、宮城県、山形県、千葉県、三重県、大阪府などでベスト3に入っている。
三重>千葉>宮城という海の道がそれとなく見えてくる。

全国的には4位にランクされている。
逆に少ないところは、広島県と佐賀県で13位、山口県、高知県で12位。

柏紋を持つ有名人は以下。

山内一豊。戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将。
尾張国葉栗郡黒田にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。
豊臣秀吉に遣え、出世し、家康に土佐国20万石を与えられ、土佐藩初代藩主となる。
妻・見性院の「内助の功」は有名。
2006年に放送された大河ドラマ『功名が辻。』の主役となる。


島左近。1540年6月9日 – 1600年10月21日、武将で石田三成の家臣(軍師)。
大和国の国人の家系に生まれた。筒井順慶、豊臣秀長・豊臣秀保らに仕えた後、浪人となって近江に隠棲する。
三成の必死の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという。関が原の戦いで壮絶死する。家紋は三つ柏。


中川清秀。1542年 – 1583年6月10日、戦国時代の武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。
本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。
家紋は中川車(右)。中川柏(左)


本因坊算砂。1559年 – 1623年6月13日、囲碁の棋士。
舞楽宗家の加納与助の子として生まれる。本姓は加納。
兄(または叔父)の日蓮宗の僧・日淵に弟子入りして出家。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三英傑に仕え寵愛された。
家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係に任ぜられて後の家元制度の基礎となった。


森鴎外。1862年2月17日- 1922年7月9日、小説家。
石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる。
文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げた。
代表作は、「舞姫」「青年」「阿部一族」「高瀬舟」など。
鴎外の柏紋は、「乱れ追い重ね九枚柏」という変り紋だ。


渋沢栄一。1840年3月16日 – 1931年11月11日、実業家。
武蔵国血洗島村に養蚕、米、麦、野菜の生産も手がける豪農の家に生れる。
第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。
家紋は「丸に違い柏」。


嘉納治五郎。1860年12月9日 – 1938年5月4日、柔道家、教育者。
摂津国御影村で父嘉納治朗作(希芝)と母定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれる。


牧野伸顕。1861年11月24日 – 1949年1月25日、政治家。
大久保利通の二男として生れたが、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
福井県知事、茨城県知事、文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。
第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。


林銑十郎。1876年2月23日 – 1943年2月4日、第33代内閣総理大臣。陸軍大将。
石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。
その豪快なヒゲにもかかわらず、林の素顔は謹厳、温厚だった。
首相時代に特に何もしなかったことから、名前を取って「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。首相として特筆すべきことはないが、ヘレン・ケラー初来日の際に歓迎会を主催している。


森永太一郎。1865年8月8日 – 1937年1月24日、実業家。
佐賀県伊万里市出身。生家は焼き物や魚類を商う卸問屋。
森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を設立
主にマシュマロを製造していたが、後にキャラメルを主力製品とする。
安倍晋三元首相夫人昭恵は曾孫にあたる。家紋は丸に抱き鬼柏。


御木本幸吉。1858年3月10日 – 1954年9月21日、御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。
志摩国鳥羽浦の大里町で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。
真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、真珠王と言われた。
老衰のため96歳で死去したが、世話をした女医の話によると「あまりにも質素な食事をしていた」という。家紋は三つ追い柏。


香山滋。1904年7月1日 – 1975年2月7日、小説家。
東京生まれ。本名は山田 鉀治(やまだ こうじ)。
ゴジラの原作者として知られている。
代表作は『霊魂は訴える』『海鰻荘奇談』『オラン・ペンデクの復讐』など。
家紋は三追柏。


葛西善蔵。1887年1月16日 – 1928年7月23日、小説家。
青森県弘前市に生まれ。
生家は広く商売をしていたが、善蔵が2歳のときに没落。
ほとんどが自らの体験をつづった〈私小説〉プロレタリア作家。
代表作は『哀しき父』『子をつれて』『椎の若葉』等。


広津和郎。1891年12月5日 – 1968年9月21日、小説家。
硯友社の小説家広津柳浪の曾孫。
蒲池鎮克は、母方の曽祖父。江戸幕府最後の西国郡代。
好景気の時代の悩むインテリ青年の苦悩を描く。
代表作は、『神経病時代』『風雨強かるべし』『続年月のあしおと』等。


吉岡実。1919年4月15日 – 1990年5月31日、詩人、装幀家。
東京本所の生まれ。
芸術至上主義詩人として戦後詩に多大な影響を与える。
代表作は『昏睡季節』『液体』『僧侶』『サフラン摘み』『薬玉』。
家紋は、丸に三柏。


土門拳。1909年10月25日 – 1990年9月15日、写真家。
山形県酒田市に父熊造、母とみえの長男として誕生。
絶対非演出のリアリズム写真を主張したリアリズム系の写真家。
日本の庶民または、仏像等の撮影に特に才能を発揮した。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。家紋は丸に柏。


岡本喜八。1924年2月17日 – 2005年2月19日、映画監督。
鳥取県米子市出身。本名は岡本 喜八郎。
代表作は『独立愚連隊西へ』『肉弾』『大誘拐』等。
技巧派の監督であり、すべてのカットをコンマ秒単位で決めた上で、撮影に臨んだといわれる。家紋は丸に柏。


吉葉山潤之輔。1920年4月3日 – 1977年11月26日、第43代横綱
北海道厚田郡厚田村(現、石狩市)出身。本名:池田 潤之輔。
1954年(昭和29年)1月場所、全勝で悲願の初優勝。
引退後、年寄宮城野を襲名。宮城野部屋を開設する。
白鵬の不知火型での土俵入りは吉葉山から継承したもの。


西村晃。1923年1月25日 – 1997年4月15日、俳優、声優。
北海道札幌市生まれ。
特攻隊員だったが、出撃直前に終戦を迎えている。
テレビドラマでは『水戸黄門』で第14部から第21部まで長く徳川光圀役を演じた。
代表出演作は「赤い殺意」「黒蜥蜴」「水戸黄門 」など。家紋は三つ追い柏。


野村芳太郎。1919年4月23日 – 2005年4月8日、映画監督。
京都府出身。父野村芳亭(ほうてい)は日本の映画監督の草分け的存在。
1946年に復員後、黒澤明の助監督を務め、1952年に『鳩』で監督デビューした。
代表作は『張込み』『砂の器』『鬼畜』『八つ墓村』等。
写真は和田堀廟所の野村芳亭の田中絹代寄贈の花立て。


桂三枝。1943年7月16日 -、落語家、タレント、司会者。
吉本興業においては西川きよし笑福亭仁鶴と並ぶ、三巨頭の一人である。
パンチDEデート」「クイズ!年の差なんて」「新婚さんいらっしゃい!」「三枝の国盗りゲーム」など、多数の番組で司会をしている。
結三柏は、桂文枝一門の定紋。三代目桂三木助の墓所にもこの紋がある。


中原誠。1947年9月2日 – 、将棋棋士。
鳥取県生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
十六世名人、永世十段・永世棋聖・永世王位・名誉王座という5つの永世称号を保持。通算1308勝は大山康晴に次ぎ歴代2位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位。元女流棋士の林葉直子と不倫関係にありその留守番電話に残された「今から突撃します」は流行語になった。


千代の富士貢。1955年6月1日 – 、第58代横綱
北海道松前郡福島町に漁師の息子として生まれた。本名は、秋元 貢。
数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。
史上最多の通算勝星・1045勝、幕内最高優勝:31回。
年寄「九重」襲名して、九重部屋を継承。


黒田慶樹。1965年4月17日 – 、今上天皇の女婿。
父・慶次郎と母・寿美子の長男として生まれる。現在、東京都庁職員。
学習院時代は秋篠宮文仁親王の学友であった。
2005年、清子内親王とのご結婚される。
画像は黒田家の家紋である「柏」をあしらったボンボニエール。

まさむね