元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。
例えば...
古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。
そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。
しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。
これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。
有名人で桜紋を使用しているのは以下。
細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。
花柳壽輔(初代)。1821年2月19日 – 1903年1月28日、日本舞踊家、振付師。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男として生まれる。
日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。
『勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。
家紋は花柳桜。画像は、谷中霊園の墓所の灯篭より。
井上馨。1836年1月16日 – 1915年9月1日、長州藩士、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として生まれる。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。
外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。
彼の遺産を元にした井上育英会の親睦会はこの紋の名前をとって「桜菱会」という。
与謝野晶子。1878年12月7日 – 1942年5月29日、歌人、作家、思想家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として誕生。
日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。
代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』
夫は与謝野鉄幹。現(2009年)財務大臣の与謝野馨は孫にあたる。
原敬。1856年3月15日 – 1921年11月4日、政治家。
盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。
分家として独立する際に、平民となる。その際、家紋も「三つ割桜」とする。
政界に進出し、大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満65歳没。
吉田茂。1878年9月22日 – 1967年10月20日、戦後の内閣総理大臣。
高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(現・東京都千代田区)に生まれる。
サンフランシスコ平和条約を締結。日米安全保障条約を結んだ。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。
埴谷雄高。1909年12月19日 – 1997年2月19日、作家、評論家。
本名は、般若豊。台湾の新竹に生まれる。
代表作は、存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。
晩年は吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。
まさむね