Archive for the ‘歴史・家紋・散歩’ Category

車紋 -車輪に隠れる六条御息所の怨念-

Sunday, January 18th, 2009

この紋の図柄を見ると、車紋というよりも車輪紋である。

言うまでもなく、車輪というのは乗り物を、そして乗り物に乗っている人を支えるものである。
車紋の使用氏として一番有名な一族は藤原秀郷流の佐藤氏であるが、一族の中で「人を支えた」人物と言えば、源義経に遣えた佐藤継信、忠信兄弟を思い出す。

また、車紋は別名、源氏車とも言われている。

また、源氏車といえば、「源氏物語」9帖の『葵』における六条御息所と葵上の車争いを連想させる。そして、その車争いで敗れた六条御息所の怨念が車に取り憑き、朧車という妖怪になったという伝説もある。左図は鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より。

車紋の車輪はただの車輪ではない。様々な人々の思いがつまっているのだ。
    ◆
さて、この紋は全国ではそれほど、普及している紋ではない。ただ、東北地方では散見される。
特に、秋田県では18位だ。
これは秋田県で、佐藤姓が多い事と関係していると思われる。
また、東北地方以外では唯一三重県でベスト30位に入っている。これはこの地が伊勢神宮のお膝元だからか。

車紋を持つ有名人は以下。

佐藤継信。1158年? – 1185年3月22日、平安時代末期の武将で、源義経の家臣
出身は奥州信夫郡(現在の福島市飯坂町)。佐藤忠信の兄。
義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行し、平氏追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。
写真は福島県福島市飯坂町の井王院にある墓所の門の写真。


榊原康政。1548年 – 1606年6月19日、武将・大名。
榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫である。
家康の家臣として姉川三方ヶ原長篠小牧・長久手の戦いになど数々の戦いで戦功を立てた。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
家紋は榊原源氏車。


中川清秀。1542年 – 1583年6月10日、戦国時代の武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。
本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。
家紋は中川車(右)。中川柏(左)


榊原健吉。1830年12月19日 – 1894年9月11日、幕臣、剣客。
江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人榊原益太郎友直、5人兄弟の長男。 名は友善。
男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。
天覧兜割などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。
家紋は榊原車。


林董。1850年4月11日 – 1913年7月20日、外交官、政治家。
下総国佐倉藩の蘭医佐藤泰然の子として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子となる。董三郎とも。変名、佐藤 東三郎。箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。敗戦後、香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。在英日本公使としてロンドンで日英同盟を調印した。


野中到。1867年 – 1955年2月28日、気象学者。
福岡に生まれる。母方の従妹である福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子と結婚。
富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。著作に『富士案内 芙蓉日記』がある。家紋は、御殿場馬車鉄道の社章からの転用か?この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


宮田輝。1921年12月25日 – 1990年7月15日、元NHKアナウンサーで参議院議員。
東京都出身。本名・みやた あきら。
「三つの歌」「NHKのど自慢」「ふるさとの歌まつり」の司会担当。
NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。


佐藤栄作。1901年3月27日 - 1975年6月3日、政治家。
現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業・佐藤秀助、茂世(もよ)の三男として生まれた。
第61、62、63代内閣総理大臣。
日韓基本条約の批准、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現。
非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて授賞。


石坂洋次郎。1900年1月25日 – 1986年10月7日、小説家。
青森県弘前市代官町生まれ。
戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。第14回菊池寛賞を受ける。
代表作は『陽のあたる坂道 』『若い人』『青い山脈 』など。


服部半蔵。戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。
松平氏〜徳川氏の麾下で活躍。家紋は、源氏車に矢。
半蔵門は、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称(半蔵)に由来する。
「伊賀の影丸」「あずみ」「サムライスピリッツ」などのフィクションに登場。
藤子不二夫の「忍者ハットリくん(画像)」は服部半蔵の子孫。

まさむね



松紋 -長寿への願いを込めた紋-

Sunday, January 18th, 2009

松は長寿の象徴である。

例えば、『高砂』は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でて、人世を言祝ぐ能である。
日本人は松の木の悠然としていて変らない緑に、長寿という普遍的な願望をこの松に託したのである。

香川県は、松の多い土地柄として有名だが、やはりこの松紋の所有者も多い。[1]
その昔、讃岐の国司となってこの地に下った藤原氏がこの松紋を採用、土地に根付き一族を広げていった。
全国では22位だが、香川県でだけ10位に入っているのである。

松紋所有の有名人は以下。

尾崎放哉。1885年1月20日 – 1926年4月7日、俳人。
現在の鳥取県邑美郡に士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。
季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。
代表作は「咳をしても一人 」「墓の裏に廻る」「いれものがない両手でうける」など。
家紋は五つ松皮菱。


徳川夢声。1894年4月13日 – 1971年8月1日、弁士、漫談家、作家、俳優。
島根県益田市に生まれ、東京に育つ。本名は福原駿雄。
日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。
「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。
家紋は三つ松毬紋。


松本清張。1909年12月21日 – 1992年8月4日、小説家。
福岡県企救郡板櫃村出身。
「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。
代表作は「砂の器」「点と線」「黒革の手帖 」など多数。
家紋は三つ重ね松紋。


児玉誉士夫。1911年2月18日 – 1984年1月17日、右翼運動家、黒幕。
福島県安達郡本宮町出身。児玉家は、二本松藩の御典医の家だった。
ロッキード社の秘密代理人。ロッキード事件の際に一般にその名が広く知れ渡る。
スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(後のデヴィ夫人)を送り込んだ。
「政財界の黒幕」「フィクサー」と呼ばれた。家紋は、丸に松皮菱。


木下惠介。1912年12月5日 – 1998年12月30日、映画監督、脚本家。
静岡県浜松市伝馬町で食料品店を営む家の4男として生まれる。
二十四の瞳』で、ブルーリボン賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞。
木下惠介劇場』『木下惠介アワー』などの固定枠を提供されて多くのテレビドラマを制作。
小津安二郎と同様にほとんど性描写をしない演出が特徴的である。家紋は右寄り三階松。


立川談志(7代目)。1936年1月2日 – 、落語立川流家元、国会議員と総理府の政務次官。
東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。 本名:松岡 克由。
1971年 – 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。
古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されている。
丸に左三蓋松は、立川流の定紋。


高島忠夫。1930年7月27日 – 、タレント・俳優・司会者。
兵庫県武庫郡出身。妻は女優の寿美花代。俳優の高嶋政宏・高嶋政伸は実子。
料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』など長期に渡る人気番組の司会を担当。『ゴールデン洋画劇場』では映画解説を担当した。
出演作は『細うで繁盛記』『ふたりっ子』『ゴジラvsメカゴジラ』等。家紋は三つ松。

[1]松皮菱は菱紋に分類されることもあるが、ここでは松とさせていただきました。

まさむね



桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花-

Sunday, January 18th, 2009

元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。

例えば...

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。

そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。

しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。

  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。

これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。

有名人で桜紋を使用しているのは以下。

細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


花柳壽輔(初代)。1821年2月19日 – 1903年1月28日、日本舞踊家、振付師。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男として生まれる。
日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。
勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。
家紋は花柳桜。画像は、谷中霊園の墓所の灯篭より。


井上馨。1836年1月16日 – 1915年9月1日、長州藩士、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として生まれる。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。
外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。
彼の遺産を元にした井上育英会の親睦会はこの紋の名前をとって「桜菱会」という。


与謝野晶子。1878年12月7日 – 1942年5月29日、歌人、作家、思想家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として誕生。
日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。
代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』
夫は与謝野鉄幹。現(2009年)財務大臣の与謝野馨は孫にあたる。


原敬。1856年3月15日 – 1921年11月4日、政治家。
盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。
分家として独立する際に、平民となる。その際、家紋も「三つ割桜」とする。
政界に進出し、大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満65歳没。


吉田茂。1878年9月22日 – 1967年10月20日、戦後の内閣総理大臣。
高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(現・東京都千代田区)に生まれる。
サンフランシスコ平和条約を締結。日米安全保障条約を結んだ。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。


埴谷雄高。1909年12月19日 – 1997年2月19日、作家、評論家。
本名は、般若豊。台湾の新竹に生まれる。
代表作は、存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。
晩年は吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。


まさむね



鷹の羽紋 -爪を隠した優美な紋-

Friday, January 16th, 2009

ヨーロッパのファミリークレスト(紋章)と日本の家紋を比べて大きく2つの点で異なっている。

1)ファミリークレストは貴族階級のみ所持するが、家紋は一般庶民にまで広まった。
2)ファミリークレストでは動物、猛禽類が素材に使われるが、日本ではそれらが使われるのは稀である。

そんな日本の家紋の中で、例外的に猛禽類を家紋として、かなり広まっているのが、この鷹の羽なのである。
しかし、鷹は鷹でもこの紋は、鷹の姿ではなく、鷹の羽を家紋化するところが特徴だ。

獰猛、精悍な姿(いわゆる爪)を隠して、その羽を優美な紋所とする、そのセンスは、どこか、軍隊を自衛隊と言い繕う感覚と通底している。
ごまかしと言うのか、慎み深いと言うのかは、立場によって違うとは思うがいずれにしても日本的といえるだろう。

しかも、この家紋は全国では3位だ。
目立つ地域は、群馬県、千葉県、神奈川県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県で1位。
茨城県、栃木県、埼玉県、東京都、山梨県、長野県、愛知県、滋賀県、奈良県、京都府、兵庫県、福岡県、佐賀県、長崎県で2位。
関東と九州で特に多いことがわかる。一方で、比較的少ないのが、青森県(10位)、石川県(8位)、浅野家、阿部家のお膝元広島県の9位。

九州では名族・菊池一族の家紋だったことが大きく影響しているからと言われているが、一方、関東に多いのは、この地域では比較的広い荘園を支配した武士の紋を、そのまま農民が多く使用したからでないだろうか。
それに対して、関西、中国四国の村々では、それぞれの家紋を持った比較的力の強い家族が集まった共同体的性格が強かったのではないだろうか。

さて、鷹の羽を持つ有名人は以下。

菊池武光。1319年 – 1373年12月29日、鎌倉時代末期、南北朝時代の武将。
菊池氏の第15代当主。南朝・後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。一色、少弐、両者を倒して九州における南朝勢力の隆盛を確立した。
家紋は並び鷹の羽。


阿蘇惟豊。1493年 – 1559年12月5日、阿蘇氏の18代当主。
阿蘇惟憲の子。阿蘇惟将・惟種の父。
甲斐親宣・親直(宗運)父子の補佐を受け、阿蘇氏の最盛期を築いた。阿蘇五ヶ所衆の一人。
後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し、阿蘇上宮に社納したという。
阿蘇神社大宮司でもある。家紋は違い鷹の羽。画像は阿蘇神社の神紋。


浅野長矩。1667年 – 1701年、大名。播磨赤穂藩の第3代藩主。
赤穂浅野家は、広島浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男長重を祖とする家柄である。
幕府から江戸下向が予定される勅使の饗応役に任じられた際に、殿中刃傷を起こし、切腹させられ、赤穂浪士の復讐へとつながる。
後に、「忠臣蔵」「峠の群像」「元禄繚乱」などのドラマや映画で扱われる。


阿部正弘。1819年12月3日 – 1857年8月6日、備後福山藩第7代藩主。
江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。
第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。
老中首座の在任中にペリーが来航。日米和親条約締結を行う。優柔不断とも言われるが、一方で講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などの創設をしている。


尾崎紅葉。1868年1月10日 – 明治36年10月30日、
江戸芝中門前町(現在の浜松町)に生れる。父は根付師。本名、徳太郎。
幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。
代表作は「金色夜叉」「多情多恨」「二人比丘尼 色懺悔」など。
泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声などは門下生。


安西浩。1901年10月6日 – 1990年4月12日、実業家。
千葉県勝浦市に生れる。
東京ガス社長・会長。東京ガスの最高実力者として20年以上も君臨し「法王」と呼ばれる。
クリーン・エネルギー、液化天然ガス(LNG)の価値にいち早く気付き、海外からの本格的導入に成功。「ミスターLNG」と呼ばれた。


鈴木梅太郎。1874年4月7日 – 1943年9月20日、農芸化学者。
静岡県榛原郡堀野新田村[1]にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。
東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章受章者。
世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見した。
また、1922年には合成清酒を発明している。


高木貞治。1875年4月21日 – 1960年2月28日、近世日本初の国際的数学者。
岐阜県本巣郡数屋村(現・本巣市)に生まれる。
ドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。
代数的整数論の研究では類体論を確立し、クロネッカーの青春の夢を解決した。
著書に『初等整数論講義』『代数的整数論』『近世数学史談』がある。


山手樹一郎。1899年2月11日 – 1978年3月16日、小説家。
栃木県生まれ。本名は、井口長次。孫は詩人の井坂洋子。
博文館に入社し、編集者を経て『少年少女譚海』編集長。
1939年より専業作家。前後して長谷川伸の門下。翌年より新聞連載した「桃太郎侍」で人気を得る。歴史小説である『崋山と長英』で第4回野間文芸賞を受賞。


中村汀女。1900年4月11日 – 1988年9月20日、俳人。
熊本県飽託郡画図村に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。
本名:斉藤破魔子。
ホトトギス同人となり、最初の句集『春雪』を発表。
俳誌『風花』を創刊した。1980年文化功労者、84年日本芸術院賞受賞。


菊池寛。1888年12月26日 – 1948年3月6日、小説家。
香川県高松市生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。
文藝春秋社を創設し、芥川賞、直木賞を設立し、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。
代表作は「父帰る 」「恩讐の彼方に 」「真珠夫人」など。


川島正次郎。1890年7月10日 – 1970年11月9日、政治家。
生母とは早くに死別し、東京の下町で鼈甲屋を営む母方の叔父のもとで幼少期を過ごす。
自民党幹事長・副総裁を歴任。専修大学総長、成田山奉賛会初代会長、日本プロレスリングコミッショナーを始め日本学生卓球連盟会長、日本ボウリング協議会総裁、日本消防協会会長、江戸消防記念会名誉会長、畠山みどりの後援会長などの要職を務めた。


椎名悦三郎。1898年1月16日 – 1979年9月30日、官僚、政治家。
岩手県水沢町出身。父の後藤広は小学校の教師から後に、更に水沢町長を10年間務めた。
自民党副総裁、外相、通産相を歴任した。日韓基本条約の締結に向けて韓国側と交渉。
田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した「椎名裁定」で知られる。
椎名素夫は二男。衆議院議員を4期、参議院議員を2期務め、知米派、国際派として活躍した。


野間清治。1878年12月17日 – 1938年10月16日、実業家。
群馬県桐生市出身 。
講談社創業者であり、元報知新聞社社長。
「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。
主な刊行雑誌『少年倶楽部』『キング』『少女倶楽部』


石橋湛山。1884年9月25日 – 1973年4月25日、政治家。第55代内閣総理大臣
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた。
ただし、母方の石橋家を継ぐ。その石橋家は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋。
総理大臣就任直後、脳梗塞で倒れ、首相在任期間は65日。東久邇宮稔彦王、羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短命政権であった。


早川雪洲。1886年6月10日 – 1973年11月23日、俳優。
千葉県安房郡千倉町千田の裕福な網元の家に生まれる。本名は早川金太郎。
日本人としてもっとも早い時代に活躍した国際的映画俳優である。
日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされる。
代表出演作は『新しき土』『南海漂流』『戦場にかける橋』等。家紋は丸に違い鷹の羽。


榎本健一。1904年10月11日 – 1970年1月7日、俳優、歌手、コメディアン。
東京都港区青山の出身。
当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で大活躍した。
出演映画『エノケンの青春酔虎伝』『エノケンの猿飛佐助』『エノケンの弥次喜多』など。


常ノ花寛市。1896年11月23日 – 1960年11月28日、第31代横綱。
岡山県岡山市生まれ。本名:山野辺 寛一。
13歳で出羽ノ海部屋に入門。幕内最高優勝:10回。
初めて優勝回数を2桁に乗せた力士だった。
幕内通算成績:221勝58敗8分6預68休 勝率.792。


川島雄三。1918年2月4日 – 1963年6月11日、映画監督。
青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。
小津安二郎等の助監督を経て『還って来た男』で監督デビュー。
代表作は『洲崎パラダイス 赤信号』『幕末太陽傳』『女は二度生まれる』等。
筋萎縮性側索硬化症に冒され歩行困難だったといわれている。家紋は違い鷹の羽。


朝潮太郎。1929年11月13日 – 1988年10月23日、大相撲の第46代横綱
本名・米川 文敏、鹿児島県徳之島出身。高砂部屋所属。
幕内最高優勝 5回。
引退後、高砂部屋を継承し、先代から引き継いだ高見山、富士櫻、自分の代に入門した朝潮、小錦、水戸泉らを育てた。


羽田孜。1935年8月24日 – 、政治家。第80代内閣総理大臣
東京都大田区にて羽田武嗣郎の長男として生まれる。父・武嗣郎は衆議院議員。
羽田家は秦氏の末裔と言われている。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵大臣(第88代)、副総理(細川内閣)、外務大臣(第120代)、新生党党首、新進党副党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表などを歴任。家紋は丸に違い鷹の羽。


梶原一騎。1936年9月4日 – 1987年1月21日、漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。
東京市浅草区石浜に生まれる。本名は、高森朝雄。
格闘技やスポーツを題材に、話題作を次々と生み出した。
代表作品は、『空手バカ一代』『タイガーマスク』『ジャイアント台風』『柔道一直線』『プロレススーパースター列伝』『巨人の星』『愛と誠』『あしたのジョー』等。


宇津井健。1931年10月24日 – 、俳優。
東京都出身。新東宝に入社し、若手スターとして大活躍、各方面からの注目を集める。『鋼鉄の巨人シリーズ』での主演は今でも語り継がれる。
代表出演作『ザ・ガードマン』『「赤い」シリーズ』『渡る世間は鬼ばかり』など。
藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴では乾杯の音頭を取った。


日色ともえ。1941年6月4日 – 、劇団民藝所属の女優。
東京都出身。父親は東京新聞社社員で、将棋観戦記者・演芸評論家であった日色恵。
NHK朝の連続テレビ小説『旅路』のヒロインを担当。
近年は農業教室も開いており、自ら栽培し収穫した米は「ともゑ米」の銘柄にもなっている。
代表出演作『旅路』『黒部の太陽』『おていちゃん』など。


園山俊二。1935年4月23日 – 1993年1月20日、漫画家。
島根県松江市生まれ。
「シッカ」など、ユーモラスな擬音を多く用いた。
代表作は『ギャートルズ』『ペエスケ』『がんばれゴンベ』など。
家紋は、丸に違い鷹の羽。


赤塚不二夫。1935年9月14日 – 2008年8月2日、漫画家。
満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。
1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。
代表作は「もーれつア太郎」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「レッツラゴン」「ワルワルワールド」など。


星野仙一。1947年1月22日 – 、プロ野球監督、野球解説者。
岡山県倉敷市出身。父は戦前、三菱航空機製作所の工場長だった。
現役時代は中日のエースとして、巨人キラーといわれる。
監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たすがいずれも日本シリーズ敗退。
2008年には日本代表監督としてオリンピック出場するが惨敗。家紋は違い鷹の羽。


檀ふみ。1954年6月5日 – 、女優、エッセイスト。
東京都練馬区生まれ。父は作家の檀一雄。壇家は、本籍地が福岡県山門郡沖端村(柳川市)で、立花藩の普請方を務めた家柄であった。
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』『青春の蹉跌』など。青春映画では、清新な演技でも注目。
NHKの『連想ゲーム』の名解答者としても親しまれた。家紋は丸に鷹の羽。


三重ノ海剛司。1948年2月4日 – 、第57代横綱
三重県松阪市出身。出羽海部屋所属。
幕内最高優勝:3回(全勝1回)。通算成績:695勝525敗1分56休 勝率.570
指導者としては横綱武蔵丸のほか武双山・出島・雅山の三大関を送り出した。
現在は年寄・武蔵川、日本相撲協会理事長


TOSHI。1965年10月10日 – 、X JAPANのヴォーカリスト。
千葉県館山市で、公務員の三男として生まれる。本名は出山 利三。
幼稚園で、音楽の道を歩むきっかけとなる林佳樹(後のYOSHIKI)と出会い、後にX JAPANを結成、80年代ブレイクする。X JAPANを脱退した後はソロで全国的に小規模コンサートを行う。再結成後の現在は、X JAPANとソロの両方で活動を行っている。家紋は丸に違い鷹の羽。


武蔵丸光洋。1971年5月2日 – 、元大相撲力士。
米国ハワイ州オアフ島出身。
本名は武蔵丸光洋、旧名はフィヤマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)。
第67代横綱。現在は年寄・振分。幕内最高優勝:12回。
通算成績:779勝294敗115休 勝率.726 。家紋は丸に違い鷹の羽。

まさむね



巴紋 -水が渦巻いている姿を表現-

Friday, January 16th, 2009

巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。

古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。

また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。

全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。

巴紋を持つ有名人は以下。

山本勘助。1501年 – 1561年9月10日、戦国時代の武将。
出身地は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)。
武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。
2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった。
写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。


蒲生氏郷。1556年 – 1595年3月17日、武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主
またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。
家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


田中吉政。1548年 – 1609年3月23日、武将、大名。
近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに、現在につながる都市設計を行った。そのことは現代でも高く評価できる。
家紋は左三巴と釘抜き。


小早川隆景。1533年 – 1597年7月26日、武将・大名。
毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では、秀吉の信任を受け、通説では文禄年間に五大老の一人に任じられたとされている。
家紋は左三巴。


九鬼嘉隆。1542年 – 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)として活躍し、3万5000石の禄を得た。
後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。
家紋は左三巴と七曜。


不破光治。生年不詳 – 1580年12月14日、斎藤氏・織田氏の家臣。
藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔とする説がある
稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われることもある。
越前一向一揆を平定後は、佐々成政前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。
画像は不破光治が拠ったといわれる龍門寺。家紋は左三巴。


有馬晴信。1567年 – 1612年6月5日、安土桃山時代、江戸時代の大名。
肥前有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ、大友宗麟や大村純忠とともに、天正遣欧使節を派遣している。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。岡本大八事件で甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。家紋は左三巴と五瓜に唐花。


別所長治。1558年 – 1580年2月2日、戦国時代から安土桃山時代の大名。
別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。
家紋は左三巴。


結城秀康。1574年3月1日 – 1607年6月2日、武将、大名。
家康の次男として遠州浜松で生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。
家紋は右三つ巴。


板倉勝重。大名、京都所司代。
三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで家康に従う。
関ヶ原の戦い後の1601年、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握する。
禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。


糟屋武則。1562年 – 1607年、大名。
糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。
賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。
関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。


宮本武蔵。1584年 – 1645年6月13日、江戸時代初期の剣豪。
二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。水墨画家・工芸家としても知られる。
播磨国(現在の兵庫県)で誕生した。家系に関しては諸説ある。
吉岡一族との決闘、巌流島の決闘など、60余回の勝負を行い、すべてに勝利したという。
著作に「五輪の書」がある。また、水墨画家としても名高い。


大石内蔵助。1659年 – 1703年2月4日、播磨国赤穂藩の筆頭家老。
大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。
代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。
元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。


土方歳三。1835年5月31日 – 1869年6月20日、新選組副長、幕末期の幕臣。
新選組鬼の副長として皆に恐れられた。戊辰戦争では、仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。函館戦争中に、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
家紋は左三つ巴。


西園寺公望。1849年12月7日 – 1940年11月24日、政治家。第12・14代内閣総理大臣。
西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。西園寺家の三つ巴は、家紋史でもっとも古く由緒あると言われている。多磨霊園での墓所にて撮影。


大木喬任。1832年4月23日 – 1899年6月26日、政治家。
肥前国佐賀藩士大木知喬の長男として生まれる。
大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。
江藤新平、大隈重信、副島種臣らと共に義祭同盟に参加。
東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔、元老院議長などを務めた。家紋は左三つ巴。


服部宇之吉。1867年6月2日 – 1939年7月11日、中国哲学者。
福島の二本松藩士服部藤八郎の三男として生まれる。
哲学科出身で西洋哲学やその方法論を学び、中国哲学を講じた。
東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。
代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』『支那の国民性と思想』など。


鮎川義介。1880年11月6日 – 1967年2月13日、実業家、政治家。
山口県氷川郡大内村に生れた。母は井上馨の実姉の長女。父は旧長州藩士鮎川弥八。
日産コンツェルン の創始者。日産コンツェルンには、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命等が含まれる。女優の杉田かおると結婚し、すぐ離婚し話題になった鮎川純太の祖父にあたる。家紋は左三つ巴。


小山内薫。1881年7月26日 – 1928年12月25日、劇作家、演出家。
父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と「自由劇場」を開始、大正13年「築地小劇場」を土方与志と起こし新劇運動の中心的存在となる。多くの西欧の戯曲を上演し、新劇界の草創期をつくった。「新劇の父」の異名がある。多磨霊園にある小山内薫の墓には巴紋はないが、敷地内の親族の墓には巴紋が刻まれている。


吉岡彌生。1871年4月29日 – 1959年5月22日、教育者、医師。
遠江国城東郡土方村に、漢方医・鷲山養斎の娘として生まれる。
東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者。
東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長、日本女医会会長、教育審議会委員、日本医師会参与、厚生省顧問などを歴任。


山本五十六。1884年4月4日 – 1943年4月18日、大日本帝国海軍の軍人。
新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれるが、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、山本五十六を名乗る。日独伊三国軍事同盟には、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」として最後まで反対した。また、早くから石油や航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。


レオナルド熊。1935年6月27日 – 1994年12月11日、コメディアン。
北海道樺戸郡新十津川町出身。地元高校を中退後、役者を志して単身上京。
石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキー・パンチ』(後にコント・レオナルド)で一世を風靡した。
サントリービール「生樽」のテレビCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうな-」は流行語になった。画像は和田堀廟所の墓所にて撮影。


江戸屋猫八。1921年10月1日 – 2001年12月10日、物真似師、俳優。
本名・岡田六郎(六男だったため、六郎と名付けられる)。
古川緑波一座に入団し、俳優となる。
三遊亭金馬・一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」(八ちゃん役)に出演。
その物真似は、昭和名人芸として今でも称えられている。


松田聖子。1962年3月10日 – 、1980年代を代表するアイドル歌手。本名、蒲池法子。蒲池宗家の定紋は巴紋であるが、上がり藤を定紋として使用している別の蒲池家系統もある。
生家は九州柳川城の城主だった蒲池氏第十六代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の子孫に当たり、江戸時代は柳川藩家老格だった。
代表曲は、「青い珊瑚礁」「白いパラソル」「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」など。


恵俊彰。1964年12月21日 – 、お笑いタレント、司会者。
鹿児島県鹿児島市出身。恵家の家紋は左三つ巴。
石塚英彦とホンジャマカを結成し、1989年にデビュー。ツッコミ担当。
俳優としては大河『毛利元就』『サラリーマン金太郎』に出演。
最近は『ひるおび! 』などで司会者としても活躍している。

まさむね



柏紋 -海の人々に奉られた神の紋-

Friday, January 16th, 2009

柏手を打つという言葉がある通り、柏は神道と関係が深い植物である。

宗像神社に奉仕する宗像氏、伊勢神宮に奉仕する久志本氏、熱田神宮に奉仕する千秋氏、吉田神社に奉仕する卜部氏など、神官関連に柏紋を使用する家が多い。
また、神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。

全国分布では、比較的に東日本で多い。
北から、秋田県、宮城県、山形県、千葉県、三重県、大阪府などでベスト3に入っている。
三重>千葉>宮城という海の道がそれとなく見えてくる。

全国的には4位にランクされている。
逆に少ないところは、広島県と佐賀県で13位、山口県、高知県で12位。

柏紋を持つ有名人は以下。

山内一豊。戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将。
尾張国葉栗郡黒田にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。
豊臣秀吉に遣え、出世し、家康に土佐国20万石を与えられ、土佐藩初代藩主となる。
妻・見性院の「内助の功」は有名。
2006年に放送された大河ドラマ『功名が辻。』の主役となる。


島左近。1540年6月9日 – 1600年10月21日、武将で石田三成の家臣(軍師)。
大和国の国人の家系に生まれた。筒井順慶、豊臣秀長・豊臣秀保らに仕えた後、浪人となって近江に隠棲する。
三成の必死の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという。関が原の戦いで壮絶死する。家紋は三つ柏。


中川清秀。1542年 – 1583年6月10日、戦国時代の武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。
本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。
家紋は中川車(右)。中川柏(左)


本因坊算砂。1559年 – 1623年6月13日、囲碁の棋士。
舞楽宗家の加納与助の子として生まれる。本姓は加納。
兄(または叔父)の日蓮宗の僧・日淵に弟子入りして出家。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三英傑に仕え寵愛された。
家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係に任ぜられて後の家元制度の基礎となった。


森鴎外。1862年2月17日- 1922年7月9日、小説家。
石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる。
文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げた。
代表作は、「舞姫」「青年」「阿部一族」「高瀬舟」など。
鴎外の柏紋は、「乱れ追い重ね九枚柏」という変り紋だ。


渋沢栄一。1840年3月16日 – 1931年11月11日、実業家。
武蔵国血洗島村に養蚕、米、麦、野菜の生産も手がける豪農の家に生れる。
第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。
家紋は「丸に違い柏」。


嘉納治五郎。1860年12月9日 – 1938年5月4日、柔道家、教育者。
摂津国御影村で父嘉納治朗作(希芝)と母定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれる。


牧野伸顕。1861年11月24日 – 1949年1月25日、政治家。
大久保利通の二男として生れたが、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
福井県知事、茨城県知事、文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。
第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。


林銑十郎。1876年2月23日 – 1943年2月4日、第33代内閣総理大臣。陸軍大将。
石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。
その豪快なヒゲにもかかわらず、林の素顔は謹厳、温厚だった。
首相時代に特に何もしなかったことから、名前を取って「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。首相として特筆すべきことはないが、ヘレン・ケラー初来日の際に歓迎会を主催している。


森永太一郎。1865年8月8日 – 1937年1月24日、実業家。
佐賀県伊万里市出身。生家は焼き物や魚類を商う卸問屋。
森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を設立
主にマシュマロを製造していたが、後にキャラメルを主力製品とする。
安倍晋三元首相夫人昭恵は曾孫にあたる。家紋は丸に抱き鬼柏。


御木本幸吉。1858年3月10日 – 1954年9月21日、御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。
志摩国鳥羽浦の大里町で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。
真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、真珠王と言われた。
老衰のため96歳で死去したが、世話をした女医の話によると「あまりにも質素な食事をしていた」という。家紋は三つ追い柏。


香山滋。1904年7月1日 – 1975年2月7日、小説家。
東京生まれ。本名は山田 鉀治(やまだ こうじ)。
ゴジラの原作者として知られている。
代表作は『霊魂は訴える』『海鰻荘奇談』『オラン・ペンデクの復讐』など。
家紋は三追柏。


葛西善蔵。1887年1月16日 – 1928年7月23日、小説家。
青森県弘前市に生まれ。
生家は広く商売をしていたが、善蔵が2歳のときに没落。
ほとんどが自らの体験をつづった〈私小説〉プロレタリア作家。
代表作は『哀しき父』『子をつれて』『椎の若葉』等。


広津和郎。1891年12月5日 – 1968年9月21日、小説家。
硯友社の小説家広津柳浪の曾孫。
蒲池鎮克は、母方の曽祖父。江戸幕府最後の西国郡代。
好景気の時代の悩むインテリ青年の苦悩を描く。
代表作は、『神経病時代』『風雨強かるべし』『続年月のあしおと』等。


吉岡実。1919年4月15日 – 1990年5月31日、詩人、装幀家。
東京本所の生まれ。
芸術至上主義詩人として戦後詩に多大な影響を与える。
代表作は『昏睡季節』『液体』『僧侶』『サフラン摘み』『薬玉』。
家紋は、丸に三柏。


土門拳。1909年10月25日 – 1990年9月15日、写真家。
山形県酒田市に父熊造、母とみえの長男として誕生。
絶対非演出のリアリズム写真を主張したリアリズム系の写真家。
日本の庶民または、仏像等の撮影に特に才能を発揮した。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。家紋は丸に柏。


岡本喜八。1924年2月17日 – 2005年2月19日、映画監督。
鳥取県米子市出身。本名は岡本 喜八郎。
代表作は『独立愚連隊西へ』『肉弾』『大誘拐』等。
技巧派の監督であり、すべてのカットをコンマ秒単位で決めた上で、撮影に臨んだといわれる。家紋は丸に柏。


吉葉山潤之輔。1920年4月3日 – 1977年11月26日、第43代横綱
北海道厚田郡厚田村(現、石狩市)出身。本名:池田 潤之輔。
1954年(昭和29年)1月場所、全勝で悲願の初優勝。
引退後、年寄宮城野を襲名。宮城野部屋を開設する。
白鵬の不知火型での土俵入りは吉葉山から継承したもの。


西村晃。1923年1月25日 – 1997年4月15日、俳優、声優。
北海道札幌市生まれ。
特攻隊員だったが、出撃直前に終戦を迎えている。
テレビドラマでは『水戸黄門』で第14部から第21部まで長く徳川光圀役を演じた。
代表出演作は「赤い殺意」「黒蜥蜴」「水戸黄門 」など。家紋は三つ追い柏。


野村芳太郎。1919年4月23日 – 2005年4月8日、映画監督。
京都府出身。父野村芳亭(ほうてい)は日本の映画監督の草分け的存在。
1946年に復員後、黒澤明の助監督を務め、1952年に『鳩』で監督デビューした。
代表作は『張込み』『砂の器』『鬼畜』『八つ墓村』等。
写真は和田堀廟所の野村芳亭の田中絹代寄贈の花立て。


桂三枝。1943年7月16日 -、落語家、タレント、司会者。
吉本興業においては西川きよし笑福亭仁鶴と並ぶ、三巨頭の一人である。
パンチDEデート」「クイズ!年の差なんて」「新婚さんいらっしゃい!」「三枝の国盗りゲーム」など、多数の番組で司会をしている。
結三柏は、桂文枝一門の定紋。三代目桂三木助の墓所にもこの紋がある。


中原誠。1947年9月2日 – 、将棋棋士。
鳥取県生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
十六世名人、永世十段・永世棋聖・永世王位・名誉王座という5つの永世称号を保持。通算1308勝は大山康晴に次ぎ歴代2位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位。元女流棋士の林葉直子と不倫関係にありその留守番電話に残された「今から突撃します」は流行語になった。


千代の富士貢。1955年6月1日 – 、第58代横綱
北海道松前郡福島町に漁師の息子として生まれた。本名は、秋元 貢。
数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。
史上最多の通算勝星・1045勝、幕内最高優勝:31回。
年寄「九重」襲名して、九重部屋を継承。


黒田慶樹。1965年4月17日 – 、今上天皇の女婿。
父・慶次郎と母・寿美子の長男として生まれる。現在、東京都庁職員。
学習院時代は秋篠宮文仁親王の学友であった。
2005年、清子内親王とのご結婚される。
画像は黒田家の家紋である「柏」をあしらったボンボニエール。

まさむね



片喰紋 -平和的、協調的、平凡な極めて日本的な紋-

Friday, January 16th, 2009

片喰は、日本の普通の農村、野山に自生する、いわゆる雑草である。

江戸時代、葵紋は徳川家の紋所として、その他の人が使用するのが禁止されていた。
この葵紋と類似した形状を持つ片喰紋は爆発的に広まった。

普通にノンポリで、普通に可愛いい物好きで、普通に平和的で、普通に協調性のある日本人を一番よく表している紋である。

落語等で、「あの、おケツが3つ付いた紋」などと、滑稽に言い表されることがあるが、これは葵紋へのパロディと片喰紋への親しみを表現していたのだと思う。

日本で一番、広く使用されている家紋。
田中姓に多く使用されているとも言われているが、特に、田中姓が西日本に広く分布していることと平行して、西日本の地域ではほとんど1位である。

山形県、福島県、茨城県、東京都、長野県、福井県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、奈良県、京都府、大阪府、兵庫県、岡山県、鳥取県、島根県、山口県、香川県、徳島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県で1位。
ベスト5にはずれるのは、わずかに、宮城県(6位)、鹿児島県(14位)といったところのみ。

ただ、庶民の紋ためか、使用家が多い割には有名人は少ない。

長曾我部元親。1539年 – 1599年9月12日、武将。土佐の戦国大名。
本姓は秦氏。家系は秦の始皇帝を祖とする秦河勝の血筋と伝わる長宗我部氏。
家督を継いで以降は土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波の三好氏、讃岐の十河氏、伊予の河野氏らを破って四国の覇者となる。その後は信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。家紋は七つ片喰。


宇喜多秀家。1572年 – 1655年12月17日、武将・大名。
備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれた。幼名は八郎。
羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となる。豊臣政権下の五大老の一人。関が原の戦いに敗れ、流人として伊豆諸島・八丈島へ配流。家紋は剣片喰(左)と児の字(右)。


酒井重忠。1549年 – 1617年8月22日、徳川氏の家臣。
三河国坂井郷出身。徳川氏の譜代家臣・酒井正親の次男。
掛川城攻め姉川の戦いなど、家康初期の主要な合戦に参加して武功を挙げた。
関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、その後は近江国大津城の守備を担った。
武蔵国川越藩主、のち上野国厩橋藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家初代。


成瀬正成。1567年 – 1625年2月23日、徳川氏の家臣。
幼少の頃より小姓として徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦いで初陣。
小田原征伐で功を挙げ、下総国葛飾郡栗原4000石を与えられた。家康の老中となって本多正純、安藤直次らと共に政務の中枢、初期幕政に参与した。大坂冬の陣で徳川氏と豊臣氏が和睦したとき、大坂城の堀埋め立て工事の指揮を行った。家紋は丸に片喰。


幡随院長兵衛。1622年 – 1657年8月27日、侠客。
元は佐賀藩の武士・塚本伊織の子で、口入れ屋を営んでいた。家紋は丸に片喰。
本名は塚本伊太郎。男伊達を競って乱暴を働く旗本奴と対立し、町奴の頭領となったとされる。日本の侠客の元祖とも言われる。
歌舞伎、講談の題材に盛んに使われ、中でも『極付幡随長兵衛』が有名。


高橋至時。1764年12月22日 – 1804年2月15日、天文学者。
字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門。大阪定番同心の子として生れる。
伊能忠敬に西洋暦を教え、忠敬の日本全国の地理測量を支援した。
天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保の父。
写真は、上野源空寺墓地。伊能忠敬の墓の隣にある。


清水次郎長。1820年2月14日 – 1893年6月12日、幕末・明治の侠客。
駿河国有渡郡清水湊の船持ち船頭・三右衛門の三男に生まれ、母方の叔父で米穀商の甲田屋の主の次郎八の養子となった。本名、山本長五郎(やまもと ちょうごろう)。
戊辰戦争で戦死した幕府軍の遺体を埋葬。山岡鉄舟に感謝され、以後、二人の親交は続く。浪花節の題材として取り上げられ、人気を博す。家紋は丸に片喰。


河井継之助。1827年1月27日 – 1868年10月1日、武士。
河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。
近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、長岡藩の家臣として、新政府軍に対抗する道を選んだ英雄。
司馬遼太郎の『』により、一躍有名になる。


正岡子規。1867年10月14日 – 1902年9月19日、俳人・歌人・国語学研究家。
伊予国温泉郡藤原新町に松山藩士・正岡常尚、八重の長男として生まれる。本名は常規。
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。
代表作「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。代表著書『墨汁一滴』。 家紋は丸に剣片喰。


三遊亭圓生(5代目)。1884年10月 – 1940年1月23日、落語家。
東京の大工の子として生まれるが、6歳で実父は出奔、親戚に預けられ14歳で足袋店に奉公するなど、波瀾に満ちた少年時代を送る。本名、村田源治。通称「デブの圓生」。
落語家として始めて渡米して興行。帰国後は師匠圓蔵ともども落語界の重鎮として活躍。
画像は、北烏山の永隆寺の墓所にて撮影。家紋は、丸に片喰。


内田百閒(けん)。1889年5月29日 – 1971年4月20日、小説家、随筆家。
岡山の造り酒屋「志保屋」の一人息子として生まれた。
夏目漱石の門下で独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。
代表作は、『旅順入城式』 『阿房列車』など。
黒澤明監督による映画「まあだだよ」でも知られている。


横山大観。1868年11月2日 – 1958年2月26日、美術家。
旧水戸藩藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。
近代日本画壇の巨匠であり、「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立。
太平洋戦争中には自らが売却した絵の代金を戦闘機の制作費用として軍に寄付。
そのため、終戦後にはGHQより戦犯容疑者として取り調べを受けた。


安井曾太郎。1888年5月17日 – 1955年12月14日、洋画家。
京都で木綿問屋を営む商人の家に生まれる。
1935年 帝国美術院会員 1952年 文化勲章 1952年 文化功労者。
代表作「婦人像」「金蓉」「承徳喇嘛廟」など。
家紋は「丸に剣片喰」。


伊東巳代治。1857年5月29日 – 1934年2月19日、政治家。
長崎県出身。
井上毅、金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。
東京日日新聞(現在の毎日新聞)を買収、在官のまま第3代社長となる。
1922年(大正11年)に伯爵に陞爵。明治天皇の母方のいとこでもある。


服部良一。1907年10月1日 – 1993年1月30日、作曲家、編曲家、作詞家。
大阪府大阪市平野区出身。土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。
日本のポップス界隆盛の最大の功労者。また、日本レコード大賞の創設にも尽力。
代表作は『別れのブルース』『蘇州夜曲』『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』『山寺の和尚さん』『夜のプラットホーム』『山のかなたに』など。


入江相政。1905年6月29日 – 1985年9月29日、昭和天皇の侍従長
東京府東京市麻布区西麻布出身。
藤原北家の支流・冷泉家の流れを汲む入江為守子爵の三男。
藤原定家の子孫。
著書に『侍従とパイプ』『陛下の側近として五十年』『入江相政日記』などがある。


黒澤明。1910年3月23日 – 1998年9月6日、映画監督。
東京府荏原郡大井町出身。父親は秋田県大仙市出身の元軍人
日本映画の巨匠の一人。日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。
代表作『七人の侍』『用心棒』『羅生門』『赤ひげ』『用心棒』『影武者』など
米国映画芸術科学アカデミー会員。文化勲章受章。文化功労者。家紋は丸に剣片喰。


澤野久雄。1912年12月30日 – 1992年12月17日、作家。
埼玉県生まれ。
「夜の河」が三度目の芥川賞候補となるが落選。しかし同作は56年に山本富士子主演で映画化さる。代表作は『方舟追放』『挽歌』『夜の河』『虹の上の舞踏』など。
家紋は、丸に剣片喰。


柳家 小さん (5代目)。1915年1月2日 – 2002年5月16日、落語家。
長野県出身。北辰一刀流の七段範士の資格を持つ。
二・二六事件の時、反乱部隊の屯所に畑和らとともに二等兵として詰めており、上官命令で落語「子ほめ」を一席させられた。
落語協会7代目会長。1995年に落語家として初の人間国宝に認定された。


成瀬巳喜男1905年8月20日 – 1969年7月2日、映画監督。
東京都四谷出身。1920年に松竹蒲田撮影所に入社。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』は、彼を小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによって多数の作品を手がける。
代表作は『めし』『浮雲』『流れる』等。家紋は丸に片喰。


田中角栄。1918年5月4日 – 1993年12月16日、内閣総理大臣(第64代、第65代)。
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。
田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。
自著「日本列島改造論」にそった政策を推進。日中国交回復も実現。よくも悪くも、その後の日本の政治を方向付けた。


海部俊樹。1931年1月2日 – 、政治家。内閣総理大臣(第76・77代)
総理大臣、新進党党首などを歴任するが、常に小沢一郎の操り人形といわれ続け、新進党結党会見では臨席した初代幹事長の小沢一郎に核心の質問が集中し思わず「党首は私なんですから質問の順序が逆じゃないんですか。」といきりたつ一幕もあった。
現在は、自民党に復党。


いずみたく。1930年1月20日 – 1992年5月11日、作曲家。
本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。元参議院議員(第二院クラブ)。
代表作は、「いいじゃないの幸せならば」「世界は二人のために」「希望」「いい湯だな 」「ふれあい」「夜明けのスキャット 」「恋の季節 」「徹子の部屋のテーマ曲」「ゲゲゲの鬼太郎」「もーれつア太郎 」など多数。


長門勇。1932年1月1日 – 、俳優。
岡山県倉敷市出身。本名 平賀湧。
ひょうきんで人懐こい浪人を装いながら、その実、凄腕の剣術使いだった、間抜けと見せながら鋭く執拗に追及していく刑事などと、裏表がある役どころを名演した。
代表作『てなもんや三度笠』『三匹の侍』『横溝正史シリーズ』等。家紋は丸に剣片喰と笹竜胆。


佐田の山晋松。1938年2月18日 – 、大相撲の第50代横綱
本名、市川(旧姓佐々田)晋松。長崎県南松浦郡有川町(現新上五島町)出身。
幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:435勝164敗61休 勝率.726。
1992年(平成4年)から日本相撲協会理事長を3期6年務めた。
1967年に007シリーズ第5作『007は二度死ぬ』に本人役で出演。家紋は片喰。


松園尚巳。1922年7月15日 – 1994年12月15日、ヤクルト社長。
長崎県三井楽町(現・五島市)出身。長崎新聞社長、長崎文化放送会長も務めた。
双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直巳。
産経新聞社からサンケイアトムズを買収し、(現ヤクルトスワローズ)同球団のオーナーに就任する。家紋は剣片喰。


橋本真也。1965年7月3日 – 2005年7月11日、プロレスラー。
岐阜県土岐市出身。ニックネームは破壊王。
新日本プロレス時代にIWGPヘビー級王座
2000年には、新日本プロレスを退社、ZERO-ONEを旗揚げする。
得意技は、袈裟斬りチョップ 、垂直落下式DDT など。


田中裕二。1965年1月10日 -、漫才コンビ「爆笑問題」のツッコミ。リーダー担当。
東京都中野区出身。身長は154cm。
相方の太田と比較され「非凡な太田、平凡な田中」と揶揄されることが少なくない。
田中という姓と、正月番組で紋付を着るときは常に片喰紋付を使用しているため、暫定的に片喰紋使用者とさせていただいた。


椿三十郎。江戸中期
1962年1月1日に公開された黒澤明監督の時代劇映画「椿三十郎」の主人公
主演は三船敏郎。
山本周五郎原作の『日日平安』の脚本がベースになっている。
2007年に織田裕二主演でリメイクされる。家紋の丸に剣片喰は黒澤家の家紋から取る。


関根勤。1953年8月21日 – 、お笑いタレント、コメディアン、司会者。
東京都港区に4人兄弟の末っ子として生まれる。
浅井企画所属。 娘はタレントの関根麻里。『笑っていいとも!』『奇跡体験!アンビリバボー』『さんまのSUPERからくりTV』に出演。
「笑っていいとも!」にて家紋は丸に片喰であることを告白。


文仁親王妃紀子。1966年9月11日 – 、秋篠宮文仁親王の妃。
川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市で誕生。旧名、川嶋紀子。
本籍地は川嶋家父祖の地である和歌山市。 川嶋家の家紋は剣片喰。
身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。
礼宮文仁親王と結婚。眞子内親王、佳子内親王、悠仁親王を出産。


中田敦彦。1982年9月27日 – 、コメディアン、司会者。
大阪府高槻市出身。愛称は「あっちゃん」。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のオリエンタルラジオのボケ担当。
『武勇伝』ネタの知名度が圧倒的だが、しゃべくり漫才もする。
「笑っていいとも!」にて家紋は剣片喰であることを告白。

まさむね



梶紋 -永遠の敗者として奉られた軍神の紋-

Friday, January 16th, 2009

梶紋は、諏訪大社の神紋と知られている。

ご存知の通り、諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)を奉ってる。
この建御名方神は天孫降臨の際に、大国主神(おおくにぬしのかみ) の子として、建御雷神(たけみかづちのかみ)と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃れ、奉られたという。
実は、建御名方神が奉られてある諏訪大社は、ちょうど、ライバル、建御雷神が奉られてある鹿島神宮の真西にある。
建御雷神は、建御名方神に対する優位を永遠のものにしようとしたのだ。
東と西、大相撲でも東の方が西よりも格上とされる伝統はここから来ている。

しかし、不思議なのは、むしろ多くの武士にとって人気を博したのはこの敗れた神(建御名方神)だったということだ。
梶紋は、この建御名方神を軍神として崇めた武士たちの発展とともに広まったのである。

全体としては、30位に入っていないが、諏訪大社のお膝元の長野県(15位)、山梨県(8位)。群馬県、愛知県、東京都、岐阜県、徳島県、鹿児島県では30位に入っている。

梶紋を持つ有名人は以下。

安島帯刀。1811年 – 1859年9月23日、幕末期に活躍した政治家。
三河譜代の名門 戸田氏の嫡流 戸田松平家の分家の出自。
幕末の西欧列強の日本接近の危機に備えるため、幕府内の海防掛に徳川斉昭や兄、戸田忠太夫、藤田東湖らとともに参与、また水戸藩において日本発の軍艦 旭日丸の建造に参与するなどして日本の海防に功績を残した。靖国神社、回天神社祭神。家紋は丸に立ち梶の葉。


小松帯刀。1835年12月3日 - 1870年8月16日、幕末の薩摩藩士。
島津久光に重用され、西郷、大久保などの下級藩士と藩主とを繋ぐ役として、幕末の薩摩では重要なポジションをこなした。NHK大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じた。
帯刀の紋は一般的には抱き鬼菊の葉とも言われているが、小松家は、禰寝氏の流れのため、禰寝氏の梶の葉紋の流れを汲む抱き鬼梶の葉とみなしたい。


山本権兵衛。1852年11月26日 – 1933年12月8日、薩摩藩士。第16、22代内閣総理大臣。
海軍軍人として数々の軍政改革を行い、日清戦争・日露戦争を屋台骨から支えた。
司馬遼太郎は、明治後期の山本を「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。
この家紋は、小松帯刀の紋と同様の理由で、禰寝氏の家紋・梶の葉の変形=抱き鬼梶の葉とみなしたい。


松浦武四郎。1818年3月12日 – 1888年2月10日、探検家。
伊勢国一志郡須川村の郷士松浦桂介の四男。
松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
1844年に蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。
北海道という名前を考案した。


加山雄三。1937年4月11日 – 、俳優、歌手。
神奈川県横浜市出身。父親は俳優の上原謙。祖父は鹿児島出身の陸軍大佐。
母は女優の小桜葉子(岩倉具視のひ孫)。妻は元女優の松本めぐみ。
代表出演作は『若大将シリーズ』。『君といつまでも』のヒットや『サライ』の作曲者としても有名。
画像は多磨霊園にある父親・上原謙の墓所より。


安倍晋三。1954年9月21日 – 、政治家。第90代内閣総理大臣
安倍家は江戸時代、大庄屋を務め酒と醤油の醸造を営み地元の名門として知られた豪家。
父親の安倍晋太郎は、80年代、「ニューリーダー」の一人と呼ばれ、自由民主党を担う有力政治家であったが、志なかばで亡くなる。「戦後レジュームからの脱却」を旗印に本格的保守政権を目指したが、閣僚不祥事、参院選敗北で辞任に追い込まれた。画像は父晋太郎の墓所。


中沢新一。1950年5月28日 – 、宗教学者、哲学者、評論家、文化人類学者。
山梨県山梨市出身、父の妹の夫は歴史学者の網野善彦。
東京大学大学院人文科学研究科へ入学後、ネパールでチベット仏教の修行を行い、帰国後現代思想研究の成果を駆使して著作活動を開始。
代表作は、『チベットのモーツァルト』『悪党的思考』『哲学の東北』など。

まさむね



鱗紋 -北条家とモンゴル、その因縁の紋-

Thursday, January 15th, 2009

三つ鱗紋は北条家の紋として知られている。

その昔、北条時宗が家運興隆を祈念して、江ノ島弁才天に参った際に、女房が現れた。
その女房が北条家の家運上昇を予言した後、大蛇になって海中に姿を消した。
そして、その後に残った鱗三枚を持ち帰って北条家の家紋としたというのである。

この三つ鱗は、北条氏が滅びた後も、戦国時代の後北条家も含め家紋として採用した。
今でも、弁財天では波と組み合わせて三つ鱗紋を定紋としている。
写真は、吉祥寺の弁財天の提灯。

さて、この三つ鱗だが、モンゴル出身の横綱・白鵬の紋である。
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。

横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。

いずれにしても、興味深い。

また、19世紀初末のウィーン分離派の巨匠・クリムトの「幸福への憧れ」にも三つ鱗と同様の文様が見られる。
実際、日本の家紋台帳はヨーロッパに輸出され、アール・デコの芸術家のネタ本になっていたという。
もしかしたら、この絵画に描かれている三つ鱗は、クリムトが、日本美術に影響を受ていたということの証なのかもしれない。

さて、鱗紋の全国分布だが、福岡、大分、大阪、和歌山、三重、神奈川で30位に入っている。
ちょうど、瀬戸内海を通って、太平洋に出て関東までのルートにこの紋が散見されるというのも、面白い。
元々、海上民のシンボルだったのかもしれない。

鱗紋を持つ有名人は以下だ。

北条早雲。1432年 – 1519年9月8日、武将、戦国大名。
伊勢宗瑞。室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自とみられる。
関東一円を支配する戦国大名に成長する北条氏の基礎をきずいた。
戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
家紋は北條鱗。三つ鱗に比べ、ひしゃげている。


種子島時堯。1528年 - 1579年10月21日、種子島の領主。
島津氏に属し、時尭は種子島氏の第十四代領主(島主)。
1543年、種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。
鉄砲を分解させて調べさせ、鉄砲製造に成功する。
鉄砲は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼす事になる。


平野長泰。1559年 - 1628年6月8日、武将。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。
賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。
徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残る。


島田魁。1828年2月29日 – 1900年3月20日、守衛新選組隊長。
美濃国方県郡雄総村出身。庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれる。名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流を修得。箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた。後に、榎本武揚が「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」と面会を申し入れたのに対し、「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」と断ったという。西本願寺の夜間警備員として一生を終える。


横井小楠。1809年9月22日 – 1869年2月15日、熊本藩士、儒学者。諱は「時存」。
横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕政改革をする。
また、私塾「四時軒」を開き、多くの門弟を輩出した。
新政府に参与として出仕するが、翌年暗殺される。


山県有朋。1838年6月14日- 1922年2月1日、政治家、軍人。第3代、第9代内閣総理大臣
萩城下近郊の阿武郡川島村に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。
足軽以下の中間身分。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現わす。
明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。家紋は丸に三つ鱗。


横井英樹。1913年7月1日 – 1998年11月30日、実業家。
1913年、愛知県中島郡平和町の貧しい農家に生まれ、東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公した。その後進駐軍出入りの商人となり、一財産を築いた。
その後、老舗百貨店、白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出、ホテルニュージャパンも買収などで脚光を浴びた。


白鵬。1985年3月11日 – 、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士、第69代横綱
父ジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱に相当)。メキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト。
歴代の不知火型の横綱では史上最多の優勝回数を誇る。

まさむね



月星紋 -狩猟、漁労、海上の民の痕跡紋-

Thursday, January 15th, 2009

江戸時代、ほとんどの日本人は農民であった。

おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。

おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。

さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。

毛利元就。1497年4月16日 – 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。
安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。
家紋は毛利沢潟(右)、一文字三星紋(左)。


保科正俊。1509年- 1593年、戦国時代の武将。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。
武田氏の信濃先方衆(120騎持)の一人として活躍し、特に槍に優れた使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。


高坂昌信。1527年 – 1578年6月12日、武田氏の家臣。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。
武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。美貌であった昌信は若き信玄の衆道の相手も務めた。画像はNHK大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。家紋は九曜紋。総合格闘家の高阪剛は子孫と言われている(wikiより)。


千葉胤頼。1532年 – 1559年2月18日、戦国時代の九州千葉氏当主。
少弐資元の次男。
千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。
胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。家紋は八曜に三日月。


渡辺守綱。1542年 – 1620年5月11日、武将。
渡辺氏は松平氏の譜代家臣で、平安時代の嵯峨源氏の武将渡辺綱の後裔を称す。
徳川家康に仕えた。槍が得手で「槍半蔵」と称されたという。
三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。
その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。家紋は渡邊星。


九鬼嘉隆。1542年 – 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)として活躍し、3万5000石の禄を得た。
後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。
家紋は左三巴と七曜。


高山右近。1552年 – 1615年2月4日、武将。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。
信長、秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。
代表的なキリシタン大名として知られる。
伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。


佐久間盛政。1554年 – 1583年7月1日、織田氏の家臣。
尾張国御器所に生まれた。佐久間氏の一族。
勇猛さから鬼玄蕃と称された。
本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。
家紋は九曜。


片倉景綱。1557年 – 1615年12月4日、伊達氏家臣。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。
伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争に参加。白石城1万3000石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続ける。家紋は九曜。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国時代の武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
最も古い紋は縦三つ引き両(右上)。九曜紋(左下)は細川氏から使用許可される。竹笹紋(左上)は仙台笹、牡丹は仙台牡丹(右下)といわれる独特の形状をしている。


松倉重政。1574年 - 1630年12月19日、戦国時代末期~江戸時代初期の大名。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣であった。
重政は大和に残って豊臣家の配下となる。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功あり、肥前日野江4万3千石を与えられて入封したが苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。
家紋は九曜。


千葉周作。1793年 – 1856年1月17日、武士。
江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2説がある。
千葉周作の門下には、浪士組幹部の山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助地、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいる。


ジョン万次郎。1827年1月27日 – 1898年11月12日、幕末の日本で活躍した通訳・教師。
土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。
漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けた。


秋月悌次郎。1824年- 1900年1月5日、会津藩の藩士。
会津若松城下に生まれる。
丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。
会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト、新聞史研究家。
讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。
反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。
画像は染井霊園の墓所にて撮影。


西周。1829年3月7日 – 1897年1月31日、啓蒙家、教育者。
石見国津和野藩の御典医の家柄。森有礼・福澤諭吉らと共に明六社を結成。
哲学、芸術、理性、科学、技術など多くの哲学・科学関係のことばを考案。
著書は、『百学連環』『百一新論』『致知啓蒙』など。紋は、「変わり連子に月」。この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


星亨。1850年5月19日 – 1901年6月21日、政治家。
江戸の左官屋として生まれる。母の星姓を名乗る。
1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。
第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。
1901年に東京市会議長在職中に暗殺される。


永井荷風。1879年12月3日 – 1959年4月30日、耽美的な作風の小説家。
愛知県士族で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生れる。
永井家の氏(うじ)は、大江氏。大名・毛利家と同氏になる。また、三島由紀夫とは三島の父方の祖母・夏子を通じて遠い親戚に当たる。
代表作は、『ふらんす物語』『濹東綺譚』など。


下村湖人。1884年10月3日 – 1955年4月20日、小説家・社会教育家。
佐賀県神埼郡千歳村大字崎村出身。本名、虎六郎。
東京帝国大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。
講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の執筆で知られる。
家紋は九曜。


松井須磨子。1886年3月8日 – 1919年1月5日、新劇女優。
長野県埴科郡清野村に士族小林藤太の五女として生まれる。本名、小林正子。
坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となる。島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。レコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞が猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となる。家紋は九曜。


渡辺錠太郎。1874年4月16日 – 1936年2月26日、陸軍軍人。
愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。
名古屋で第3師団の将校たちを集め、天皇機関説を擁護したといわれている。
渡辺の自由主義的な発想や意見は、青年将校の憎悪を生んだ。二・二六事件の犠牲者である。家紋は渡辺星。


若槻礼次郎。1866年3月21日 – 1949年11月20日、第28代内閣総理大臣。男爵。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。
東京帝大仏法科を98点5分の成績で首席として卒業。この成績は東大始まって以来最高。
総理大臣任期中には、第一次では、昭和金融恐慌が勃発。第二次では、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きている。


新渡戸稲造。1862年9月1日 – 1933年10月15日、農学者、教育者。
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として生まれる。
拓殖大学学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。
著書『武士道』は日本紹介の書として、広く海外で読まれた。
旧五千円札の肖像としても知られる。


伴淳三郎。1908年1月10日 – 1981年10月26日、コメディアン、俳優。
山形県米沢市に南画家の息子として生れる。本名:鈴木寛定
アジャパー」が大流行させる。
代表出演作『てなもんや三度笠』『アジャパー天国』『駅前シリーズ』など
家紋は丸に三つ星。


鹿内信隆。1911年11月17日 – 1990年10月28日、実業家。
北海道夕張郡由仁町に生まれる。実家は写真館。
1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビジョンを開局させた。
産業経済新聞社社長・フジテレビ会長に就任し、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。画像は小平霊園墓所。家紋は九曜。


星新一。1926年9月6日 – 1997年12月30日、SF作家。
東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれ育つ。
ショートショートの神様と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称される。
星姓にはこの九曜紋が多い。明治時代の政治家も同紋。おそらく星飛雄馬も...


柏戸剛。1938年11月29日 – 1996年12月8日、第47代横綱
本名:富樫剛。山形県東田川郡山添村に果樹園などを営む豪農の家に生まれる。
大鵬とともに、「柏鵬時代」という一時代を築く。
幕内在位:66場所。幕内最高優勝:5回 。
谷中墓地の富樫家の墓の家紋は九曜紋。

まさむね