月星紋 -狩猟、漁労、海上の民の痕跡紋-

江戸時代、ほとんどの日本人は農民であった。

おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。

おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。

さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。

毛利元就。1497年4月16日 – 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。
安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。
家紋は毛利沢潟(右)、一文字三星紋(左)。


保科正俊。1509年- 1593年、戦国時代の武将。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。
武田氏の信濃先方衆(120騎持)の一人として活躍し、特に槍に優れた使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。


高坂昌信。1527年 – 1578年6月12日、武田氏の家臣。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。
武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。美貌であった昌信は若き信玄の衆道の相手も務めた。画像はNHK大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。家紋は九曜紋。総合格闘家の高阪剛は子孫と言われている(wikiより)。


千葉胤頼。1532年 – 1559年2月18日、戦国時代の九州千葉氏当主。
少弐資元の次男。
千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。
胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。家紋は八曜に三日月。


渡辺守綱。1542年 – 1620年5月11日、武将。
渡辺氏は松平氏の譜代家臣で、平安時代の嵯峨源氏の武将渡辺綱の後裔を称す。
徳川家康に仕えた。槍が得手で「槍半蔵」と称されたという。
三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。
その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。家紋は渡邊星。


九鬼嘉隆。1542年 – 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)として活躍し、3万5000石の禄を得た。
後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。
家紋は左三巴と七曜。


高山右近。1552年 – 1615年2月4日、武将。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。
信長、秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。
代表的なキリシタン大名として知られる。
伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。


佐久間盛政。1554年 – 1583年7月1日、織田氏の家臣。
尾張国御器所に生まれた。佐久間氏の一族。
勇猛さから鬼玄蕃と称された。
本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。
家紋は九曜。


片倉景綱。1557年 – 1615年12月4日、伊達氏家臣。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。
伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争に参加。白石城1万3000石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続ける。家紋は九曜。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国時代の武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
最も古い紋は縦三つ引き両(右上)。九曜紋(左下)は細川氏から使用許可される。竹笹紋(左上)は仙台笹、牡丹は仙台牡丹(右下)といわれる独特の形状をしている。


松倉重政。1574年 - 1630年12月19日、戦国時代末期~江戸時代初期の大名。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣であった。
重政は大和に残って豊臣家の配下となる。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功あり、肥前日野江4万3千石を与えられて入封したが苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。
家紋は九曜。


千葉周作。1793年 – 1856年1月17日、武士。
江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2説がある。
千葉周作の門下には、浪士組幹部の山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助地、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいる。


ジョン万次郎。1827年1月27日 – 1898年11月12日、幕末の日本で活躍した通訳・教師。
土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。
漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けた。


秋月悌次郎。1824年- 1900年1月5日、会津藩の藩士。
会津若松城下に生まれる。
丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。
会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト、新聞史研究家。
讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。
反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。
画像は染井霊園の墓所にて撮影。


西周。1829年3月7日 – 1897年1月31日、啓蒙家、教育者。
石見国津和野藩の御典医の家柄。森有礼・福澤諭吉らと共に明六社を結成。
哲学、芸術、理性、科学、技術など多くの哲学・科学関係のことばを考案。
著書は、『百学連環』『百一新論』『致知啓蒙』など。紋は、「変わり連子に月」。この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


星亨。1850年5月19日 – 1901年6月21日、政治家。
江戸の左官屋として生まれる。母の星姓を名乗る。
1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。
第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。
1901年に東京市会議長在職中に暗殺される。


永井荷風。1879年12月3日 – 1959年4月30日、耽美的な作風の小説家。
愛知県士族で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生れる。
永井家の氏(うじ)は、大江氏。大名・毛利家と同氏になる。また、三島由紀夫とは三島の父方の祖母・夏子を通じて遠い親戚に当たる。
代表作は、『ふらんす物語』『濹東綺譚』など。


下村湖人。1884年10月3日 – 1955年4月20日、小説家・社会教育家。
佐賀県神埼郡千歳村大字崎村出身。本名、虎六郎。
東京帝国大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。
講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の執筆で知られる。
家紋は九曜。


松井須磨子。1886年3月8日 – 1919年1月5日、新劇女優。
長野県埴科郡清野村に士族小林藤太の五女として生まれる。本名、小林正子。
坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となる。島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。レコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞が猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となる。家紋は九曜。


渡辺錠太郎。1874年4月16日 – 1936年2月26日、陸軍軍人。
愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。
名古屋で第3師団の将校たちを集め、天皇機関説を擁護したといわれている。
渡辺の自由主義的な発想や意見は、青年将校の憎悪を生んだ。二・二六事件の犠牲者である。家紋は渡辺星。


若槻礼次郎。1866年3月21日 – 1949年11月20日、第28代内閣総理大臣。男爵。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。
東京帝大仏法科を98点5分の成績で首席として卒業。この成績は東大始まって以来最高。
総理大臣任期中には、第一次では、昭和金融恐慌が勃発。第二次では、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きている。


新渡戸稲造。1862年9月1日 – 1933年10月15日、農学者、教育者。
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として生まれる。
拓殖大学学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。
著書『武士道』は日本紹介の書として、広く海外で読まれた。
旧五千円札の肖像としても知られる。


伴淳三郎。1908年1月10日 – 1981年10月26日、コメディアン、俳優。
山形県米沢市に南画家の息子として生れる。本名:鈴木寛定
アジャパー」が大流行させる。
代表出演作『てなもんや三度笠』『アジャパー天国』『駅前シリーズ』など
家紋は丸に三つ星。


鹿内信隆。1911年11月17日 – 1990年10月28日、実業家。
北海道夕張郡由仁町に生まれる。実家は写真館。
1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビジョンを開局させた。
産業経済新聞社社長・フジテレビ会長に就任し、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。画像は小平霊園墓所。家紋は九曜。


星新一。1926年9月6日 – 1997年12月30日、SF作家。
東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれ育つ。
ショートショートの神様と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称される。
星姓にはこの九曜紋が多い。明治時代の政治家も同紋。おそらく星飛雄馬も...


柏戸剛。1938年11月29日 – 1996年12月8日、第47代横綱
本名:富樫剛。山形県東田川郡山添村に果樹園などを営む豪農の家に生まれる。
大鵬とともに、「柏鵬時代」という一時代を築く。
幕内在位:66場所。幕内最高優勝:5回 。
谷中墓地の富樫家の墓の家紋は九曜紋。

まさむね



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