Archive for the ‘歴史・家紋・散歩’ Category

釘抜紋 -普通の作業具が語呂がよくて縁起紋に-

Monday, January 19th, 2009

釘抜きは打ち込んだ釘を抜くための工具であるが、家紋として採用されたのはその語呂。
「九城を抜く」すなわち、九つの城を陥落させるという戦勝の縁起もかついでいるらしい。

引き両紋もそうだが、単純な絵柄が目立つという事で好まれたのかも。
いざという時に戦場でも描けるし。

全国分布では27位。
福井県で21位、新潟県で22位、和歌山県で23位といったところが多い。

堀秀政。1553年 – 1590年6月28日、武将・大名。
堀秀重の長男として美濃国で生まれる。
13歳の若さで織田信長の小姓、側近として取り立てられた。
雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛、羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。
本能寺の変以降は、秀吉に従う。


田中吉政。1548年 – 1609年3月23日、武将、大名。
近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに、現在につながる都市設計を行った。そのことは現代でも高く評価できる。
家紋は左三巴と釘抜き。


南方熊楠。1867年5月18日 – 1941年12月29日、博物学者、生物学者、民俗学者。
和歌山城下橋丁に金物商・雑賀屋の次男として生まれる。粘菌学者としても知られる。
「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。主著『十二支考』『南方随筆』。
家紋は丸に隅立て釘抜き。


柳宗悦。1889年3月21日 – 1961年5月3日、美術評論家。
東京府(現:東京都)生まれ。
学習院在学中、同人雑誌グループ白樺派に参加。
生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民芸運動を起こした。
東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民芸館を設立。


麻生太郎。1940年9月20日 – 、政治家。内閣総理大臣(第92代)
元麻生セメント(現・株式会社麻生)代表取締役社長。
総務大臣、外務大臣、幹事長などを歴任。
べらんめえ調の語り口と毒舌も織り交ぜた発言で、街頭演説などで聴衆の人気を博した。
家紋は、違い釘抜き。麻生グループの社章にもなっている。

まさむね



家紋物語 ~有名人の家紋~

Monday, January 19th, 2009

◆主な掲載者、とりあえず100名位◆

あ行
赤塚不二夫芥川龍之介明智光秀浅利慶太麻生太郎渥美清安倍晋三いかりや長介石ノ森章太郎石原裕次郎和泉元爾伊藤博文伊能忠敬植村直己宇津井健うつみ宮土理江川卓江戸川乱歩大隈重信岡本太郎織田信長オノ・ヨーコ小和田雅子 ...
か行
海音寺潮五郎魁皇梶原一騎勝海舟勝新太郎桂三枝角川春樹加山雄三川嶋紀子菅直人菊池寛北島康介北野武黒澤明黒柳徹子近藤勇 ...
さ行
西郷隆盛坂本九坂本龍馬佐藤栄作志賀直哉渋沢栄一関根勉  ...
た行
高島忠夫貴乃花高橋是清武田信玄太宰治田中角栄谷川俊太郎タモリ津川雅彦手塚治虫寺山修司東条英機徳川慶喜豊臣秀吉 ...
な行
永井荷風中上健次中曽根康弘中原誠中山晋平夏目雅子夏目漱石新渡戸稲造 ...
は行
白鵬橋本真也鳩山一郎林家三平ピーコ樋口一葉土方歳三平塚雷鳥福沢諭吉福田康夫藤原紀香双葉山古田織部星新一 ...
ま行
増位山松田聖子松本清張三島由紀夫美空ひばり三波伸介三波春夫みのもんた三船敏郎雅山武者小路実篤毛利元就森鴎外森進一 ...
や行
八千草薫山下清山本五十六湯川秀樹横溝正史与謝野晶子吉田茂吉田松陰 ...
ら行
力道山 ...
わ行
渡辺崋山 ...


「あなたの家紋は何ですか」と聞かれて、すぐに答えられる人はどのくらいいるだろうか。
おそらく、今の20代の若者だと、多くて10人中、2~3人位ではないだろうか。

日本人ならば誰でも持っている自分のシンボル、しかし、ほとんど意識されていないのがこの家紋なのである。
そして、残念なことではあるが、100年単位で考えると、家紋は徐々に消滅してしまうであろう。

しかし、家紋のことをよく調べてみると、このささやかなデザインにもそれぞれ、過去の日本人の様々な想いが込められた歴史があることがわかる。
それは、あるものは、切実な祈りであったり、反骨心の現われであったり、美意識の結晶であったり、はるかなる願望であったりするのだ。

それぞれの家紋の歴史的な背景、経緯に関しては、諸先輩方の著作や、このページ最下段にリンクしたサイトなどでご覧頂くとして、このブログ(一本気新聞)では、その紋に対するオリジナルな深読みをしてみたいと思う。
また、どんな有名人がどんな家紋を使っていたのかというのを集めてみた。
有名人の生年月日、死亡年月日、略歴などは、ウィキペディアから引用させていただいた。また、有名人を複数輩出している一族に関しては、複数掲載する意味があまりないため、例えば、徳川家では徳川慶喜、鳩山家では鳩山一郎、おすぎとピーコはピーコだけという具合に、基本的には代表的な人物一人掲載とさせていただいた。
さらに、ご存知の通り、地域や家によって男紋、女紋があったり、家には定紋、替紋があるケースがあるが、個々の例では全てそれらの状況は把握できてはいない。それゆえ、あくまで関連性の強い紋というニュアンスで御笑覧いただければと思う。

このコーナーをお読みいただき、家紋という日本の伝統の一側面に思いを馳せていただければ幸いである。

尚、以下の紋アイコンはあくまで家紋カテゴリを表している。例えば、藤紋には下り藤、上り藤、藤輪、藤巴などを含んでいる。また、2つ以上のカテゴリに解釈できる紋(例えば菊菱)はその両方で紹介している。


◆家紋関連サイトリンク集◆

紋処
家紋World
家紋の湊
家紋のCREST JAPAN
よろづやの家紋帳
家紋ネット(お~い家紋だよ~)
日本の苗字7000傑 主要苗字代表家紋
日本家紋研究会
大宮家紋研究所
家紋百景ライブラリ
家紋の真実

まさむね

竹笹紋 -天の神様にあやかろうという人々の願い-

Monday, January 19th, 2009

竹は不思議な植物である。他に類似する植物が無い。

特別の場所に群生し、その姿は天に伸びる。
古来、その姿は、美しさ、高潔さ、節操を意味するものとして尊ばれたのである。
そして、天から降ってくる異界からのメッセージを受け取る「よりまし」としても認識されていた。

かぐや姫は竹の中から出てきたが、それは、ある種、天からの贈り物だったのである。
また、正月の門松も、天に延びている部分は鋭く切った竹で、そこに歳神がやってくると信じられているのだ。

竹笹紋は、そんな天からの神様にあやかろうとした人々によって採用された。
越後の上杉謙信のシンボルとしては、旗印としての「毘」が有名だが、家の紋は上杉笹と呼ばれる「笹に雀」である。
これは元々、上杉家が藤原北家の勧修寺(かしゅうじ)家の「笹に雀」紋から来ている。
そして、さらに、この紋は、微妙に変形されて伊達氏にも引き継がれていくのである。

さて、この竹笹紋であるが、全国で16位。
群馬県での6位が突出している。
これはおそらく、高橋姓の広がりが、群馬県が一番という事が関係しているのではないだろうか。
竹笹紋は高橋姓の一つの代表紋だからだ。

竹笹紋使用の有名人は以下。

竹中半兵衛。1544年9月27日 – 1579年7月6日、武将。
美濃斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の子として生まれる。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師として活躍した名将である。戦国時代を代表する軍師であり、同時代の黒田孝高(黒田官兵衛)と並んで天才軍師と称されている。
家紋は丸に九枚笹。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国時代の武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
最も古い紋は縦三つ引き両(右上)。九曜紋(左下)は細川氏から使用許可される。竹笹紋(左上)は仙台笹、牡丹は仙台牡丹(右下)といわれる独特の形状をしている。


上杉鷹山。1751年9月9日 – 1822年4月2日、大名。
父は日向高鍋藩主・秋月種美で次男。10歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となる。
出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。
祭神として、摂社松岬神社に奉られている。家紋は上杉笹。


鳥居元忠。1539年 – 1600年9月8日、徳川家康の家臣である。
父の忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏以来の老臣で、元忠も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人である。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。
その忠節は「三河武士の鑑」と称された。家紋は鳥居笹。


竹本義太夫。1651年 – 1714年10月18日、浄瑠璃太夫。
摂津国(大坂)に生まれる。農家の出身。
大坂道頓堀に竹本座を開設し、近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。
近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。
浄瑠璃の義太夫節の創始者である。家紋は竹亀甲に九枚笹。


佐野常民。1823年2月8日 – 1902年12月7日、佐賀藩士、元老院議員。
佐賀藩士下村三郎左衛門の5男として佐賀に生まれる。
大坂の緒方洪庵の適塾で学ぶ。
日本赤十字社の創始者
第1次松方内閣で農商務大臣に就任する。


山田顕義。1844年11月18日 – 1892年11月11日、長州藩士、政治家、陸軍軍人。
長門国阿武郡椿郷東分で、萩藩士の長男として生まれる。
松下村塾に入門。 高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔らとともに攘夷の血判書に名を連ねる。
維新後は、参議兼内務卿、司法卿兼参議、初代司法大臣を歴任。
日本大学國學院大學の学祖。


岡本柳之助。1852年8月 – 1912年5月14日、軍人・ナショナリスト。
和歌山藩士、江戸出身。旧姓は諏訪。岡本家の養子。
西南戦争では参謀として活躍し、戦後少佐となるが、1878年(明治11年)の竹橋事件に連坐し、官職を剥奪された。
三浦梧楼らと閔妃殺害事件をおこし、投獄された。


下田歌子。1854年9月30日 – 1936年10月8日、教育家・歌人。
岐阜県恵那郡岩村町出身。岩村藩の藩士の家に生まれる。本名:平尾 鉐。
容姿と才能に恵まれ、「明治の紫式部」ともあだ名される。
生涯を女子教育の振興にささげる。
実践女子学園順心女子学園設立の基礎を築いた。


立川勇次郎。1862年 – 1925年、実業家。
美濃国大垣藩の藩士の次男として生まれる。
大師電気鉄道(現京浜急行電鉄)の代表に就任。
1912年(大正元年)、大垣を中心とした西濃地区の電力供給を目的として、揖斐川電力(現イビデン)設立。初代社長となる。


井上準之助。1869年5月6日 – 1932年2月9日、政治家、財政家。
大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む家に生まれる。
日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。
浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。


有島武郎。1878年3月4日 – 1923年6月9日、
旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれる。
志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。
代表作は『カインの末裔』『或る女』『迷路』など。
作家の里見弴は弟。長男は俳優の森雅之にあたる。


宮沢賢治。1896年8月27日- 1933年9月21日、詩人・童話作家・農業指導家・教育者。
岩手県稗貫郡里川口村に質・古着商の長男として生まれた。
郷土岩手の地を深く愛し、その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家とされるようになった。
代表作は『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』等。家紋は九枚笹。


大藪春彦。1935年2月22日 – 1996年2月26日、小説家。
京城(ソウル)に生まれる。父は教師である。
激しいアクション、暴力を描く通俗的な作品が多く、それゆえに「暴力賛美の小説」と批判されることもある。
代表作は、『本陣殺人事件』『蘇える金狼』『汚れた英雄』 など。


勅使河原蒼風。1900年12月17日 – 1979年9月5日、華道草月流の創始者。
華道において斬新な手法を多く提供し「花のピカソ」と呼ばれた。
『いけばなは生きている彫刻である』と提言する蒼風は、日本のいけばなを世界に発信した第一人者といえる。
草月流三代目家元、映画監督である勅使河原宏の父としても知られている。


嶋中雄作。1887年2月2日 – 1949年1月17日、編集者。
1916年、『婦人公論』を創刊し編集長となる。
1928年には中央公論社社長となる。
『西部戦線異状なし』レマルク著、『源氏物語』谷崎潤一郎訳等をベストセラーにする。
画像は、本願寺和田堀廟所の墓所。家紋は、折敷に九枚笹。


横溝正史。1902年5月24日 – 1981年12月28日、小説家、推理作家。
兵庫県神戸市東川崎に父・宜一郎、母・波摩の三男として生まれる。父の郷里は岡山。
金田一耕助を探偵役とする一連の探偵小説で有名。
代表作は、『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』『悪霊島』『悪魔が来りて笛を吹く 』など。


藤沢周平。1927年12月26日 – 1997年1月26日、時代小説作家。直木賞受賞作家。
本名:小菅留治(こすげ とめじ)。山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下に生まれる。父小菅繁蔵、母たきゑの第三子。実家は農家。
庄内藩をモチーフにしたと言われる架空の藩「海坂藩」を舞台にした作品は有名。
代表作は、『暗殺の年輪』『市塵』『たそがれ清兵衛』『蝉しぐれ』など。


谷川俊太郎。1931年12月15日 – 、詩人。
父は、哲学者で法政大学学長の谷川徹三。
石原慎太郎、大江健三郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
代表作は『ことばあそびうた』『二十億光年の孤独』『コカコーラ・レッスン』。家紋は九枚笹。


谷垣禎一。1945年3月7日 – 、弁護士、政治家。
京都府福知山市出身。父は、文部大臣を務めた谷垣専一。
産業再生機構担当大臣、食品安全担当大臣、財務大臣(第4・5・6・7・8代)、自由民主党政務調査会長、国土交通大臣(第9代)を歴任。宏池会(谷垣派)会長を務めた。
家紋は九枚笹。


明石家さんま。1955年7月1日 – 、のお笑いタレント。
本名、杉本高文(すぎもと たかふみ)。
笑福亭松之助に弟子入りした。当初の芸名は「笑福亭さんま」であった。
タモリ、ビートたけしとさんまの3人で日本のお笑い芸人BIG3と称される。
五枚笹は笑福亭一門の定紋である。

まさむね



五つ瓜紋 -五角形の木瓜紋の外輪紋-

Monday, January 19th, 2009

木瓜紋の中で特に、円を5つで割った外輪を持つ紋を五つ瓜である。

この紋の意味は、基本的には木瓜紋と同じだが、輪の中にバランスがよく、別の紋が入れやすいので広まった。

全国では、19位の普及。
地域別では、福島県が7位、長崎県で8位というのが多いところ。
逆に、宮崎県ではベスト30以下。長野県で27位、高知県と鹿児島県では26位だ。

使用している有名人は以下。

織田信長。1534年5月12日 – 1582年6月2日、戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として生まれる。
日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、大名(戦国大名)である。
重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。


大村純忠。1533年- 1587年6月23日、大名。
実父は有馬晴純。肥前の大村純前の養嗣子となり、家督を継いだ。
大村氏の先祖は藤原純友であるという。
キリスト教の宣教師から洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となった。領民に信仰を強制させたり寺社を破壊したりと過激な信仰を行っていた。家紋は大村瓜。


有馬晴信。1567年 – 1612年6月5日、安土桃山時代、江戸時代の大名。
肥前有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ、大友宗麟や大村純忠とともに、天正遣欧使節を派遣している。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。岡本大八事件で甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。家紋は左三巴と五瓜に唐花。


吉田松陰。1830年8月4日 – 1859年10月27日、明治維新の理論者。
長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。
私塾松下村塾にて、木戸孝允、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠等維新の指導者となる人材を育てる。
安政の大獄により斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。


松本楓湖。1840年10月9日 – 1923年6月22日、日本画家。
常陸国河内郡寺内村に生まれた。名は敬忠。通称:藤吉郎。
欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。
日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」「静女舞」等を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。


乃木希典。1849年12月25日 - 1912年9月13日、軍人。
長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
明治天皇の後を追って殉死。
青山墓地にある乃木家墓所より、写真の家紋を撮影。もう一つ別に四つ持ち合い井筒も使用。


朝永振一郎。1906年3月31日 – 1979年7月8日、物理学者。
東京市小石川区小日向三軒町に朝永三十郎(長崎県出身)の子として生まれる。
くりこみ理論の手法を発明して量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。1961年には東京教育大学長、1963年から1969年には日本学術会議会長を務めた。家紋は、五瓜に上り藤。


織田作之助。1913年10月26日 – 1947年1月10日、小説家。
大阪市南区生玉前町にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。
出世作となった「俗臭」「夫婦善哉」をはじめ、「競馬」「世相」など短編を得意とした。
また出身地である大阪に拘りを持ち、その作品には大阪の庶民(特に放浪者)の暮らしが描かれていることが特徴である。


武藤信義。1868年9月1日 – 1933年7月27日、陸軍軍人。
佐賀藩士・武藤信直の次男として生まれる。
関東軍司令官兼駐満大使兼関東長官・教育総監・軍事参議官等を歴任。
満州における軍事・行政・外交を掌握して「これほど権力を掴んだ者は明治維新以来いない」と評されたという。


河合玉堂。1873年-1957年、日本画家。
1907(明治40)年の文展設立の際には審査委員に任命される。以後、国民的画家としての地位をゆるぎないものとした。
代表作は「渓村春麗」「彩雨」「山水観月」「鵜飼い」など。
家紋は、五つ瓜に剣花菱。


春風亭昇太。1959年12月9日 – 、落語家。
静岡県清水市(現静岡市清水区)出身。
本名:田ノ下雄二。5代目春風亭柳昇の弟子。
2005年には落語を題材にしたドラマ「タイガー&ドラゴン」に出演。
2006年5月より日本テレビ系『笑点』の大喜利メンバーに加入。


藤森慎吾。1983年3月17日 – 、コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のオリエンタルラジオのツッコミ担当。
『武勇伝』ネタの知名度が圧倒的だが、しゃべくり漫才もする。
「笑っていいとも!」にて家紋は家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

まさむね



矢紋 -幸福を射止める武具または神具-

Monday, January 19th, 2009

矢は、武器であると同時に、儀礼や呪具でもある。
屋島合戦で、那須与一が平家の扇を射落としたのは有名な故事であるが、おそらく武士はこの紋に武運を託したのである。

また、時代が下ると、幸せを射止める神具としての矢という性格が強くなる。

「三ツ矢」の由来は、平安時代中期に摂津源氏の祖源満仲が住吉大社(大阪市住吉区)の神託に従い「三つ矢羽根の矢」を放ち、矢の落ちた多田(現在の兵庫県川西市市内)に居城を建てたという伝説による。
平野鉱泉は満仲が狩の際に発見したと伝えられている。
三ツ矢サイダーの起源は、宮内省の御料工場であったが、後に三菱に払い下げられたという。三つ矢と三菱のマークをあわせて現在のマークが誕生した。

矢紋の全国分布であるが、滋賀県が最高の13位。兵庫県、岡山県で16位が高いところ。全国的には21位。

有名人は以下。

世阿弥。1363年? – 1443年9月1日、猿楽師。
幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。
観阿弥とともに猿楽を大成。世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
代表作は『高砂』『井筒』『実盛』など。
世阿弥の家紋は十本矢車だが、現在の観世流の家紋は十二本矢車(画像)


片桐且元。1556年 – 1615年6月24日、武将・大名。
近江国浅井郡須賀谷の浅井氏配下の小領主・片桐直貞の子として生まれる。
織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。
石田三成らと共に長浜城時代の羽柴秀吉の家臣として仕えた。
福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」の一人。家紋は片桐違矢。


西郷局。1562年 – 1589年7月1日、戦国時代・安土桃山時代の女性。
西郷氏とは、九州の名門菊池氏の一門。
彼女に縁ある西郷氏は、三河国へ移住した者の末裔と伝えられている。
通称、お愛の方。徳川家康の側室として知られる。
松平忠吉、二代将軍秀忠の生母。


狩野探幽。1602年3月7日 – 1674年11月4日、絵師。
狩野孝信の長男として京都で生まれる。
江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い。
家紋は丸に三つ並び矢。池上本門寺の狩野家墓所にて撮影。


有吉佐和子。1931年1月20日 – 1984年8月30日、小説家。
曽祖父は、長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレナ。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした。
代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『和宮様御留』など。
家紋は亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


世耕弘一。1893年3月30日 – 1965年4月27日、政治家。
和歌山県東牟婁郡敷屋村(現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。
鈴木善幸内閣改造内閣で自治大臣を務めた世耕政隆は弘一の長男。
現在参議院議員である世耕弘成は孫。
家紋は丸に矢尻付き三本違い矢。多磨霊園で撮影。


石原裕次郎。1934年12月28日 – 1987年7月17日、俳優・歌手、石原軍団初代総帥。
山下汽船(現:商船三井)に勤める父・石原潔 母・光子の次男として生まれる。
石原プロモーション創始者。現東京都知事の石原慎太郎は実兄。
代表出演作『嵐を呼ぶ男』『太陽の季節 』『狂った果実』『黒部の太陽』等。
永遠の大スター(日本人が最も愛した男)と称される。家紋は七つ矢車。


服部半蔵。戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。
松平氏〜徳川氏の麾下で活躍。家紋は、源氏車に矢。
半蔵門は、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称(半蔵)に由来する。
「伊賀の影丸」「あずみ」「サムライスピリッツ」などのフィクションに登場。
藤子不二夫の「忍者ハットリくん(画像)」は服部半蔵の子孫。

まさむね



橘紋 -桜とは好対象、生命力と長寿の象徴-

Monday, January 19th, 2009

平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右には橘の樹、左には桜の樹があった。
一般に、右近の橘、左近の桜と対比される。

桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方、橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。
橘という植物は柑橘類、和歌山県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に自生している。

橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。
和歌山県、高知県で3位、奈良県、広島県、宮崎県で4位とやはり橘が自生している地域に広く分布している。

歴史上で、橘紋と言えば有名なのは、日蓮。

1222年の安房国長狭郡東条郷片海の小湊で誕生。
比叡山で学び、後に「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、日蓮宗の開祖となった。
そのため、日蓮宗関係の寺院では、この橘紋を使用するとところが多い。
写真は、谷崎潤一郎が眠る慈眼寺の寺門の井桁に橘紋を撮影したもの。

日蓮宗系の立正佼成会の関連施設である佼成学園の記章にも橘紋が使用されている。

また、奈良飛鳥地方に、聖徳太子生誕の地・橘寺があるが、そこの寺紋も橘紋だ。
そもそも、日本書紀によると、この橘とは、田道間守(たじまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めて持ち帰った種をまいて芽が出てきた植物であった。
そして、その種をまいた地を橘と呼ぶようになっとのこと。
その橘寺には、聖徳太子が乗ったという黒駒像があり、胴に橘紋がついていた。

日蓮、山中鹿之助、井伊直弼、勝新太郎、江川卓、小和田家、北島康介...なんとなく、意志の強い系譜を感じさせる。

さて、橘紋を持つ有名人は以下。

宇佐美定満。1489年 – 1564年8月11日、戦国時代の武将。
宇佐美氏は伊豆国宇佐美荘から出た一族である。
越後上杉氏の家臣。上杉謙信の軍師「宇佐美定行」の名で知られる。
坂戸城近くの野尻池で政景と共に溺死し、死後に宇佐美氏は没落して枇杷島城も廃城になった。上杉二十五将、上杉四天王の一人であり、後世に越後十七将に数えられる。


前田玄以。1539年 – 1602年7月9日、僧侶・武将・大名。
前田基光の子として美濃で生まれる。
比叡山延暦寺に入ったが、織田信長に招聘されてその家臣となる。
後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。
豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主である。


山中鹿之介。1545年9月20日 – 1578年8月20日、武将。
出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。
尼子氏の家臣。 本姓は源氏。
家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。
尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。


山鹿素行。1622年9月21日 – 1685年10月23日、儒学者・兵学者。
陸奥国会津(福島県会津若松市)に生まれる。
朱子学を批判し、播磨国赤穂藩へ流罪となり、赤穂藩士の教育などを行う。
後に、吉田松陰等に影響を与えた。
主著は『中朝事実』『武家事紀』等。


井伊直弼。近江彦根藩の第13代藩主。江戸幕府の大老。
第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城で生まれる。
安政の大獄により多数の志士や公卿らを粛清。
尊攘派の怨嗟をうけ、安政7年(1860年)3月3日に水戸藩、薩摩藩浪士により、江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。


井伏鱒二。1898年2月15日 – 1993年7月10日、小説家。
広島県福山市加茂町の生まれ。本名は、井伏満壽二(いぶし ますじ)。
『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞。『本日休診』などで第1回読売文学賞小説賞。
1966年、野間文芸賞を受賞。同年に文化勲章も受章した。
主な作品は「山椒魚」「駅前旅館」「黒い雨 」など。


沖牙太郎。1848年5月10日 – 1906年5月29日、技術者・実業家。
広島県沼田郡新庄村に生まれる。
実家の農業を嫌い27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。
我が国で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。
明工舎(沖電気の前身)創業者。


弘田龍太郎。1892年6月30日 – 1952年11月17日、作曲家。
高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった。
児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、「赤い鳥運動」に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲した。代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『春よこい』『叱られて』など。
家紋は丸に橘。


三遊亭圓生(6代目)。1900年9月3日 – 1979年9月3日、落語家、舞台俳優。
父は松田万助、母はさだの長男として、大阪市西区で生まれる。本名は山崎松尾。
演目数は落語史上最も多かったのではないか言われている。100以上もの演目をすべてLP化した。上野のパンダのリンリンと同日に亡くなったため、死亡記事は小さかった。
NHK連続ドラマ『おはなはん』等に出演。「バカウマ」という言葉を流行語にする。


勝新太郎。1931年11月29日 – 1997年6月21日、俳優。
長唄三味線の杵屋勝東治の次男。本名:奥村利夫、愛称:かつしん。
妻は二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎
映画関係者には勝の熱狂的ファンは多く原理主義的傾向を持つ信奉者が多い。
代表作は『兵隊やくざ』『座頭市』『悪名』『顔役』『人斬り』など。家紋は菊座橘。


池坊専永。1933年7月21日 – 、華道家。
華道家元四十四世池坊専威の長男。妻は衆議院議員の池坊保子。
もともと池坊の坊名は、聖徳太子が水浴したという池にちなんでつけられた。
国際科学技術博覧会で「いけばなときものの交響詩」で舞台用の超大作を制作する。
全国に広がる池坊家の華道教室『橘会』は家紋の橘紋からと思われる。


三遊亭楽太郎。1950年2月8日 – 、落語家。
東京都墨田区出身の落語家。円楽一門会所属。
師匠の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名予定。
1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。
家紋は、圓楽一門の定紋である三ツ組橘。(六代目三遊亭圓生と同じ形)


江川卓。1955年5月25日 – 、元プロ野球選手(巨人所属)、野球解説者。
福島県いわき市生まれ、栃木県小山市育ち。
作新学院高等学校のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回を記録。六大学野球では、法政大学で、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録。プロでは1981年に、最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振、最多完封の投手五冠に輝く。


朝潮太郎 (4代)。1955年12月9日 – 、元大相撲力士。
高知県安芸郡出身。本名は 長岡末弘。
高砂部屋所属。最高位は大関。北の湖に強かった。
現在は7代目高砂親方として協会役員待遇委員兼審判部副部長。
横綱朝青龍、朝赤龍等を育てた。


徳仁親王妃雅子。1963年12月9日 - 、皇太子徳仁親王の妃。
外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門病院にて誕生。
1993年6月9日、皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる。
2001年12月1日、敬宮愛子内親王を出産。
写真は、雅子様、ご先祖の墓参りの際の写真より転載。


琴光喜啓司。1976年4月11日 – 、佐渡ケ嶽部屋所属の現役大相撲力士。
愛知県岡崎市出身。本名は田宮啓司(たみや けいじ)。
最高位は東大関。
敬宮愛子内親王のお気に入り力士としても有名。
デヴィ夫人からは化粧回しが贈られている。


北島康介。1982年9月22日 – 、男子競泳の選手。
東京都荒川区出身で、実家は西日暮里の道灌山通りにある精肉店「肉のきたじま」(株式会社北島商店)を経営。アテネオリンピック並びに北京オリンピック100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。また、100m及び200m平泳ぎの世界記録保持者。
画像は実家の北島商店名物のメンチカツサンドのパッケージについた橘紋。


まさむね



沢瀉紋 -武人の心に芽生えた一時の優しさを表す紋-

Monday, January 19th, 2009

沢瀉は、全国の池や沼に自生する水草のこと。

戦国時代の武士。それこそ、地を這いずり回りながら戦いに明け暮れていた。
そんな時に、ふと水辺の水草にある沢瀉に目をやる。一時のやすらぎの時間だ。

あの毛利元就も、若い頃、出陣の際に沢瀉に蜻蛉が止まったのを見て「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍を鼓舞したというが、それを元に、この植物を紋として採用したという。
いずれにしても、猛々しい武人の心に芽生えた優しさ、そんなロマンチックな想像をさせてくれるのが、この沢瀉紋である。

全国的には、17位。長野県で5位、山梨県で7位。群馬県で8位。栃木県、愛知県、岐阜県で10位。
日本の中央部分の山間部に多いようである。

毛利元就。1497年4月16日 – 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。
安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。
家紋は毛利沢潟(右)、一文字三星紋(左)。


福島正則。1561年 – 1624年8月26日、武将・大名。
福島正信の長男として現在の愛知県海部郡美和町で生まれる。
幼少より秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いのときは一番槍として大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた。
九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。家紋は福島沢潟。


水野忠邦。1794年6月23日 – 1851年2月10日、大名・老中。
唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位。その後、老中首座に抜擢され、天保の改革(人返し令、株仲間の解散、上知令)を断行しようとするが各方面からの反対に逢い、失敗。強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。


水田三喜男。1905年4月13日 – 1976年12月22日、政治家。
千葉県曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐から移住。
大蔵大臣を数度に渡って務め、戦後日本の代表的な財政家である。
1965年に城西大学を創立した。
家紋は沢瀉に水。


伊藤整。1905年1月16日 – 1969年11月15日、評論家、詩人、小説家。
北海道松前郡に生まれ、1906年に塩谷村(現在の小樽市塩谷町)へ移住。
20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。私小説的文学の理論化をめざす。
代表小説は『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』などがある。


古川緑波。1903年8月13日 – 1961年1月16日、コメディアン。
男爵加藤照麿の六男(元東京帝国大学総長加藤弘之の孫)として生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。
1933年浅草で夢声らと劇団「笑(わらひ)の王国」を旗揚げ。
喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称せられる。


前田慧雲。1855年3月2日 – 1930年4月29日、学僧、教育者。
伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身。
尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となる。
東洋大学(明治39年)、龍谷大学(大正11年)の学長を歴任。
主著は『大日本続蔵経』『大乗仏教史論』『仏教思想講話』など。


高橋是清。1854年9月19日 – 1936年2月26日、第20代内閣総理大臣
嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。
大蔵大臣の際に、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。
二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺された。


鶴見祐輔。1885年1月3日 – 1973年11月1日、官僚・政治家・著述家。
岡山県生まれ。旗本水谷氏備中布賀知行所代官鶴見家の子孫。
1953年に参議院議員に当選し1期務めた。第1次鳩山内閣では厚生大臣に就任した。
鶴見和子(社会学者)・鶴見俊輔(哲学者)の父親としても知られている。主な著作は『母』『ナポレオン』など。


天知茂。1931年3月4日 – 1985年7月27日、俳優。
愛知県名古屋市出身。本名、臼井 登。
ニヒルの代表格で、死後20年以上経っても「ニヒルといえば天知茂」といわれている。
代表出演作は『ザ・ガードマン』『非情のライセンス』『土曜ワイド劇場』等
家紋は丸に抱き沢瀉だが、これは旗本・水野十郎左衛門の子孫だからか。


荻昌弘。1925年8月25日 – 1988年7月2日、映画評論家。
東京都出身。開成高等学校を経て東京大学文学部国文学科卒業。
TBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者を長年務めた。
長年日本レコード大賞の審査員を務めた。
食通としても知られ、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。

まさむね



目結紋 -人と人との団結の強さの象徴-

Monday, January 19th, 2009

目結とは、人と人との団結を意味する。
もともとは、コウケチという染めかたの事を目結染と言った。そこから来ている。

目結紋は、宇多源氏=近江源氏・佐々木一族の代表紋として知られているが、それは同時に一族の結束の強さをも表現しようとしていたのである。
絆への願望というのは現代の一つのテーマである。
それは、崩れつつあるものへのノスタルジーではないか。

そのノスタルジーは、この紋が持っている、無骨な安定感へのそこはかとない親しみに通じているようにも思える。

この紋は、全国で10位。特に青森県、岩手県で2位、宮城県で3位、北海道で4位。
これらの地域は、佐々木一族が移り住んだ地である。
逆に少ないところは、山梨県、愛媛県で19位。長野県で18位、兵庫県、岡山県で17位。

有名人では以下。

尼子経久。1458年12月25日 – 1541年11月30日、武将・大名。出雲守護代
尼子清定の嫡男として生まれる。幼名は又四郎。本姓は源氏。
室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領、勢力を広げる。
一代で尼子氏を中国地方11ヶ国の太守にのしあげた。
家紋は平四つ目。


佐々成政。1536年2月6日 – 1588年7月7日、武将。
佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族。
織田信長に仕え、馬廻りから戦功を重ねて頭角を表す。
九州平定で功をあげたことを契機に、秀吉から肥後国一国を与えられたが統治に失敗し改易される。家紋は隅立て四つ目、棕櫚。馬印は金の三階菅笠。


京極高次。1563年 – 1609年6月4日、武将、大名。
名門京極氏に生まれる。豊臣秀吉の側室である淀殿の妹である妻・初の七光りで出世した事から蛍大名とささやかれた。
関ヶ原の戦いの際には居城の大津城に篭もり、一万を超える西軍を引き付ける。
若狭国小浜藩初代藩主。丸亀藩京極家初代。家紋は平四つ目。画像は墓所。


木村重成。1593年 – 1615年6月2日、武将。
木村重茲の子とも言われている。
母、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。
家紋は四つ目菱。


佐々木小次郎。生年不詳 – 1612年5月13日、剣客。
豊前国田川郡副田庄に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる。
「秘剣燕返し」は福井市にある一乗谷で身につけ、中条流富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。
宮本武蔵と巌流島(船島、山口県下関市)で決闘し、敗死したとされる。


堀部安兵衛。1670年- 1703年3月20日、赤穂浪士四十七士の一人。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男。
四十七士の中では一番の剣客で、大石内蔵助に匹敵する人気を誇る人物。
江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格だった。
家紋は家紋は捻り四つ目二ツ。


間宮林蔵。1780年 – 1844年4月13日、探検家。
常陸国筑波郡上平柳村の農民(そして幕府隠密をつとめた役人)の子に生まれる。
近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
樺太が島である事、すなわち、間宮海峡を発見。
水戸藩へも出入りし、川路聖謨らと交友。徳川斉昭や藤田東湖にも献策。


箕作麟祥。1846年9月19日 – 1897年11月29日、啓蒙思想家、法学者。
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸に生まれた。
東京学士院会員・元老院議官・法典調査会主査委員・貴族院議員等を歴任。
ナポレオン法典を5年間の歳月をかけて全訳した『仏蘭西法律書』が著名。
家紋は平四目。


上原勇作。1856年12月6日 – 1933年11月8日、軍人。
日向国都城出身。都城島津家家臣・龍岡資弦の次男として生まれる。
1875年、上原家の養子となる。1881年に渡仏、フランス陸軍に学び、工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて経験した。家紋は隅立て四つ目結。


佐佐木信綱。1872年7月8日 – 1963年12月2日、歌人、国文学者。
三重県鈴鹿郡石薬師村にて歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。
息子の佐佐木治綱も歌人。同じく歌人の佐佐木幸綱(俵万智の師匠)は治綱の息子。
与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。
岩波文庫『新訓・万葉集』、『新古今和歌集』等の編者。


獅子文六。1893年7月1日 – 1969年12月13日、小説家、劇作家、演出家。
横浜弁天通の岩田商会に生まれる。実父は中津藩士。本名:岩田豊雄。
岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。
日本芸術院賞受賞、芸術院会員、文化勲章受章、文化功労者。
代表作は『てんやわんや』『自由学校』『ちんちん電車』など。


小津安二郎。1903年12月12日 – 1963年12月12日、映画監督。
東京深川の下町に、豪商湯浅屋の番頭の次男として生まれた。
本籍は、三重県の松阪。親類のつてで松竹蒲田撮影所に入社。
日本を代表する映画監督として活躍。代表作は『大学は出たけれど』『晩春』『麦秋』『東京物語』等。家紋は、丸四つ目結紋。


佐々木味津三。1896年3月18日 – 1934年2月6日、小説家。
愛知県北設楽郡下津具村出身。本名・光三。
1919年『大観』に載せた「馬を殴り殺した少年」で菊池寛に見出される。
代表作は『右門捕物帖』『旗本退屈男』など。
旗本退屈男は映画やテレビドラマ化され高い人気を得た。


寺山修司。1935年12月10日 – 1983年5月4日、歌人、演出家、映画監督。
青森県弘前市紺屋町生まれ。 本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と言っていたが、メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
代表映画「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」など。家紋は丸に四つ目菱。


櫻内義雄。1912年5月8日 – 2003年7月5日、政治家。
島根県能義郡広瀬町(現安来市)出身。
櫻内家は江戸時代、代々広瀬藩士として松平家に仕えた。
外務大臣、農林大臣、建設大臣、第67代衆議院議長等を歴任。
世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第9代会長。


水木しげる。1922年3月8日 – 、漫画家。
鳥取県境港市出身。本名は武良茂(むらしげる)。武良家は隠岐島の名族。
アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長。妖怪漫画の第一人者として活躍。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』等。家紋は、丸四つ目結紋。


亀井亜紀子。1965年5月14日 – 、政治家。参議院議員。
国民新党幹事長亀井久興の長女。東京都生まれ。本籍地は島根県鹿足郡津和野町。
旧津和野藩藩主亀井家の子孫にあたる。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に国民新党公認・民主党推薦・社会民主党県連支持で島根県選挙区より出馬。自由民主党の前職・景山俊太郎を破り初当選を果たした。家紋は隅立て四つ目結。亀井静香は遠縁。


貴乃花光司。1972年8月12日 -、第65代横綱。貴乃花部屋(二所ノ関一門)の師匠。
父は元大関の貴ノ花利彰、母は女優の藤田憲子。本名:花田光司。
元フジテレビアナウンサーの河野景子と結婚。
優勝22回は歴代4位タイの記録であり、平成の大横綱と称されている。
日本相撲協会の役員待遇委員・審判部副部長。


和泉元彌。1974年6月4日 – 、能楽師狂言方。
和泉流19世宗家・和泉元秀(画像は元秀の墓)の長男として生まれる。本名、山脇元彌。
株式会社和泉宗家取締役・和泉流宗家宗家会在籍。妻はタレントの羽野晶紀。
大河ドラマ「北条時宗」で主役を務める。所得隠し、接触事故等でワイドショーを騒がせる事がしばしばあり人気低迷している。和泉家の門には、雪輪に平四つ目結の家紋が飾られている。

まさむね



紅葉紋 -敢えて散りゆく紅葉を選ぶ粋な美意識-

Sunday, January 18th, 2009

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ  藤原定家

日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。

だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。

使用している有名人は以下。

福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。


いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。

まさむね



団扇紋 -悪鬼を払い、霊威を呼び寄せる神具-

Sunday, January 18th, 2009

団扇紋にはいくつか種類がある。

1)普通の団扇(うちわ)紋
2)大相撲の行司が持つのと同じ、軍配扇紋
3)天狗が持つという羽団扇紋

この中で数が多いのが軍配扇紋。
平安時代の武士勃興時代に関東で幅を利かせた児玉党武士団が使用しはじめたといわれる。
多くの家紋の中でも歴史が古い部類に入る。
軍配の采配一つによって、自らの武士団の運命が左右される重要な道具だ。
と同時に、古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきたのである。

羽団扇紋(左画像)は、駿河の浅間神社の神紋として知られている。
浅間神社は木花咲耶姫命を奉っているが、富士山信仰と深い結びつきがある。

団扇紋を使用はそれほど多くない。全国分布では、福井県で27位、埼玉県で28位。

有名人は以下。

奥平信昌。戦国時代から江戸時代にかけての武将。
三河国作手の有力国人・奥平貞能の長男として生まれる。
徳川家康の長女・亀姫を正室としたので、家康の娘婿として重用されるようになる。
長篠の合戦時に、長篠城で篭城し武田軍を苦しめる武功を上げ、信長より信昌という名前を賜る。奥平家は、豊前国中津藩幕末をむかえる。


鞍馬天狗。幕末期の勤王志士。
大佛次郎の大正・昭和期における時代小説の主人公。
幕末期を舞台にし、剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが定かではない。
何度も映画化され、特にアラカンこと嵐寛寿郎(写真)が主役の映画作品は有名。


児玉源太郎。1852年4月14日 – 1906年7月23日、武士、陸軍軍人。
周防国都濃郡徳山村に、徳山藩の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男として生まれる。
日露戦争全体の戦略の立案を担当。英雄として有名。
太陽にほえろ!」等のテレビ映画監督で有名な児玉進は曾孫。
家紋は、唐団扇笹。多磨霊園で撮影。


加藤高明。1860年1月25日 – 1926年1月28日、外交官、政治家。
第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。
尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。
首相在任中に、治安維持法、普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立する。東京日日新聞(後の毎日新聞)社長も務めている。家紋は六つ唐団扇。


福田康夫。1936年7月16日 – 、内閣総理大臣(第91代)
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。
『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。
2008年9月1日、記者会見で「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明。
あなたと違うんです」という名セリフを残した。

まさむね