グルジア紛争と大相撲

August 23rd, 2008

北京五輪開会式と同じ日、グルジアは国内の南オセチアに軍事行動を起した。
そして、それに対抗する形で、ロシアがグルジア国内に侵攻した。いわゆるグルジア紛争が勃発したである。

この戦争の本質的なところには、アメリカとロシアの間での覇権争い、エネルギー争奪戦があると言われている。
不謹慎のようだが、僕は、とっさに、秋場所でのロシアン力士(若ノ鵬、露鵬、白露山、阿覧)とグルジアン力士(栃ノ心、黒海)との対戦(代理戦争)が楽しみになったなぁとワクワクしてしまった。僕の中には、俗っぽいプロレス体質がまだ残っているのだ。

ところが、こともあろうに、その後、若ノ鵬、露鵬、白露山がいわゆる大麻問題で続々と解雇されてしまった。
僕の夢は、しばらくお預けになってしまったのだ。(阿覧はまだ新十両のため)誠に残念だ。

そして、ここからは、妄想。

しかし、この大麻事件、意外な事実が出てきた。
露鵬、白露山がロサンゼルス巡業の際にアメリカ人から大麻から勧められて、思わず手を出してしまったというのだ。

それは、軍事同盟国である日本のロシアに対する心証を悪化させることを画策したCIAが、ロシアン力士に大麻(体内に残存しやすく改良された品種の)を吸わせ、ロシアがグルジアに攻め込んだタイミングで、日本で大麻事件を起したのではないだろうか?

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

近所の共同墓地で宝物、発見!!

August 20th, 2008

家の近所にあった何気ない共同墓地で、家紋の観察(採取)を行った。

その中で、宝物のような紋所を見つけた。
ムカデ紋だ。
しかも、その紋は、本橋家という墓に彫られていた。

「家紋辞典」(丹羽基次)によると、このムカデ紋は現在はその形状の不気味さから、多くが変更されてしまったが、まだ存在しているとすれば、それはれっきとした藤原秀郷流の本橋家とのことだ。
ご存知の通り、この秀郷は、平安時代の中期、関東の独立を企てた平将門を射殺したことで武名を上げた武将であるが、一方、三上山で大ムカデ退治をしたという伝説も残っている。

そのムカデが1000年以上の時を超え、この本橋家の家紋としてここに、ひっそり残っていることに感動したのだった。

日本の霊思想考

August 19th, 2008

以前、書いた「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想に関して考えた。

日本人は古来、悪事というものは、悪霊がその人に憑いて行わせると考えていた。
しかし、と同時に、悪霊は同時に強い力を持っているとも考えていた。

だから、逆に力の強い人に敢えて「悪」という形容詞をつけた。
例えば、保元の乱を起した藤原頼長は左大臣であったが、大変な切れ者で、別名、悪左府と呼ばれていた。
また、源義朝の長男で平清盛を暗殺しようとした源義平は悪源太と呼ばれていたのだ。

強い力を持った人の霊は、時に悪霊(=怨霊)にもなるが、手厚く敬えば、善霊になる。
こうして日本人は、怨みを持って死んだ強力な人、例えば、菅原道真や平将門を奉り続けてきた。

そして、同様の事は、生きている人の念(強い感情)にもあてはまると考えた。
強い怨念は、その人の意志を離れて回りに不幸をもたらすと考えられていたのだ。
例えば、「源氏物語」に登場する六条御息所の生霊(物の怪)は夕顔や葵上を死にいたらしめる(写真一番上:能の「葵上」での六条御息所の怨霊)。
光源氏は後にそんな御息所を見舞って機嫌をとり、生霊を鎮めようとする。

日本人の伝統的メンタリティでは、悪い人(悪霊)に対しては、おだてて、ほめて、いい人(和霊)に変わってもらおうとする事こそ、信仰の本質となる。
また、逆に、いい人(和霊)も、扱い次第では悪い人(悪霊)になってしまうことを恐れる。
例えば、靖国賛成派は、心ならずも戦死した英霊を粗末に扱うことによって、それが悪霊となってしまう事を懸念しているのだ(写真中:靖国神社)。

恐らく「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想は、信仰にも近い。

それを考えると、最近、「犯罪者に対して厳し刑を課せ」という論調がかまびすしいが、それは日本の伝統にあっているのだろうかと思わざるを得ない。
悪いことをした人は死刑にしろという人が同時に霊を粗末に扱うなというのがなんとなくしっくり来ないのだ。
靖国賛成派が死刑存置論者である事に違和感を感じるのはそのせいである。

ちなみに、アイヌの宗教では死者の魂を天に送るときに「こいつは悪いことをしたけど、本当はええ奴だから、神の国へ行ったら、ちゃんと心を改めて直るだろう。だから神様、受け取ってやってくれ」というような内容の葬送儀式をするという(梅原猛先生談)。これは上記の日本人の思想と通底しているのではないか。
アイヌ文化(写真一番下:アイヌの民)は、日本文化のルーツであるという魅力的な説は今後、より深く掘り下げて行くべきだと思う。

まさむね

安室奈美恵は孤高の戦士だ

August 17th, 2008

安室奈美恵の最近のベストアルバム「BEST FICTION」が久々にミリオンセラーを記録した。

90年代の後半にストリート系女子のリーダーとして、少女達に音楽は勿論、ファッション、その生き方にまで多大な影響を与えた安室奈美恵。
彼女の音楽は、そんな時代の共感者への応援歌であり、その存在は、時代のカリスマとでも呼ぶべき光を放っていた。
その後、結婚、出産、母の死、離婚、育児等の様々な人生経験を重ねる一方で、小室哲哉から離れて独自の音楽世界を追求していくが、一時期、ヒットチャートから見放された時期もあった。しかし、一昨年頃から、再び復活してきたのである。

時代が彼女に追いついたという事であろうか。
あるいは、時代と彼女が再び邂逅したという事なのであろうか。彼女の音楽の一途さ(HIP
HOPへのこだわり)が、かつてのアムラー世代だけでなく、現在の高校生も含んだ幅広い層の女の子達の共感を呼び起こし、その生き方のカッコ良さ、すなわち、リアルな安室に対する憧れがそのまま、今回の大ヒットにつながったということなのかも知れない。

しかし、ファンが彼女の姿に憧れれば憧れる程、「みんなが見ている私のキャラクタはリアルじゃないのよ。ウソなのよ。誰も私の事なんてわかってないわ。」とでも言わんばかりに世間に対して屹立しつづける安室奈美恵。
自分で名付けたという「BEST FICTION」(最高の虚構)というアルバム名はそのことを明確に表現している。

彼女は、何物にも媚びず、逆に突き放すことによって、常に、上の次元をキープし続けるのだ。その孤独な強さこそが、安室奈美恵のカッコ良さの本質なのではないだろうか。

僕には、彼女が踊りながら歌う姿は、我々のあずかり知らない別次元の何物かと一人闘い続ける孤高の戦士にも見える。
そして、その姿は10年の時を超え、再び、時代への応援メッセージとして現代の女の子達に届いているのである。

まさむね

60 年代のギャグ作家・赤塚不二夫

August 12th, 2008

7月30日に赤塚不二夫が亡くなった。
赤塚漫画は、昭和30年前半に生れた僕達にとって、多大なる影響を与えてくれたんだよね。
遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。

赤塚不二夫における3大ギャグ漫画といわれる「おそ松くん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」。
面白いのは、3つの漫画とも、主人公は普通の人なのに、その周りのキャラクタが個性的なことだ。
ア太郎は、父に先立たれた少年の八百屋であるが常識的なキャラであり、バカボンは、おっとりした普通の少年だ。
さらに、おそ松くんに至っては、六つ子だから、誰がおそ松くんかわからない程度の個性しかもっていない。

一方、周辺キャラを挙げてみると、

「おそ松くん」のダヨーン、イヤミ、チビ太...
「もーれつア太郎」のニャロメ、ココロのボス、ケムンパス...
「天才バカボン」のパパ、レレレのおじさん、おまわりさん...

このキャラクタの雑多さが赤塚ワールドの本質なのだろう。

さて、これらのキャラクタの中で、僕が最もお気に入りなのがニャロメだ。
個人の思い出で言えば、イヤミのシェーをやった記憶はないのだが、学習ノートにニャロメは何匹描いたことか。

ニャロメは、いつもみんなとは逆の事を言い、みんなを扇動し、すぐに欲に目が眩むが、一方で純情で仲間思い。
そして、最終的にはいつも失敗する愛すべきキャラクタである。
赤塚不二夫は後に、ニャロメを全共闘のゲバルト学生の象徴だったと打ち明けているが、言われてみれば、ニャロメはまさに、60年代の混沌を具現化したキャラだ。

赤塚不二夫の漫画は寺山修司のアングラ芝居、大島渚のヌーベルバーグ映画、北山修のフォークソングと同じように60年代の空気を作品化したんだって言えるかもしれない。
それまで、江戸小噺や落語の世界みたいに大人の文化を前提としたお笑いがメインストリームだったのを、ナンセンスギャグっていう若者文化を背景とした世界を漫画というフィールドで構築したのが赤塚不二夫だったと思う。

実は、上記3作品に「ひみつのアッコちゃん」も含めた赤塚不二夫のスタンダード漫画は全部、60年代に生れている。残酷な言い方をするならば、70年代以降の赤塚不二夫は、キャラクタ管理者になっちゃうんだよね。

まさむね

復活しました

August 11th, 2008

ブログ復活します。

C型肝炎の人工透析治療をしたんですが、まだ数値が下がりません。
インターフェロン注射+レベトールは引き続き続けます。

最近、注射した後、発熱しちゃうんだよね。
また、肌も荒れてくるし、副作用とのことだけど、嫌だ。顔や頭や耳がかゆいし。

8月~9月の文章はおいおいアップしたいと思います。

まさむね

ROOKIES の思想の起源

July 28th, 2008

遂に、入院が明日に迫った。
本ブログも最低、2週間程度、休止させていただきます。

さて「ROOKIES」の最終回で川藤先生はナインに向かって檄を飛ばした。

臆病でためらいがちな人間にとっては一切が不可能だ。
なぜなら、一切が不可能のように見えてしまうからだ。
あきらめて振ったバットには絶対、ボールはあたってくれない。
だが、自信を持って振れば目をつぶってだってあたることがある。
お前たちが努力して、手にした最大の宝、可能性だ。

確かに素晴らしい言葉だ。

でも、これは自分の悪い癖なのだが、素晴らしい言葉は、そのまま受け取ればいいものの、この思想の起源は何か?などと余計な事を考えてしまう。
恐らく、この発想は、アメリカ発祥のニューソート思想(気持ちを前向きに持つ事によって運命が開けるという考え方)が、生長の家等の新宗教や、自己啓発セミナー等に乗って入ってきたもので、日本の伝統社会の中から自然に出てきたものではないだろう。

僕も大好きな「ROOKIES」であるが、上記の川藤先生の言葉に対して、「じゃあ、その可能性を保証するのは何?」という疑問をぶつけてみれば、容易に「神」という発想に行き当たるような気がする。そして、この発想は「大事なのは、信じる事だ」という信仰にも近いように思える。

心の中にすんなりと入り込んで来る考え方でも、ちょっと距離を置いて見てみると、微妙な問題が透けて見える事がある。

まさむね

源氏物語を世界遺産に

July 27th, 2008

oosawa.gif先日、源氏物語の写本が見つかった。

これは、藤原定家がまとめた「青表紙本」とは別の系統の写本も含まれており、大沢という人物が豊臣秀吉から拝領したもので「大沢本」(写真)と呼ばれている。
今回、この写本の発見が重要と思われるのは、現在、流布している写本とは異なる記述の箇所がある事。今後の研究が楽しみだ。

さて、この源氏物語、今から約1000年前に書かれた奇跡の文学である。現代にいたるまで、多くの研究者がこぞって、研究しているが未だに定説が存在しない、その奥深さは尋常ではないのだ。

一般的にこの物語は光源氏という色男の恋の話として通っているが、見方を180度替えると、それは、源氏と右大臣家と左大臣家、三つ巴の政治闘争の話だ。
例えば、光源氏の朧月夜(右大臣家系)への誘惑は、右大臣家に対する挑戦に他ならないし、左大臣家に対する秘密兵器は、源氏が密かに後見していた玉鬘(左大臣家系)である。
一方、朱雀院(右大臣家系)は、出家を機会に娘の女三宮を光源氏に降嫁させるが、この女三宮は源氏と紫の上との関係に微妙なヒビを入れ、しかも、柏木(左大臣家系)との間に不義の子をもうけてしまう。源氏、晩年の暗転の物語は、女三宮の降嫁から始まるのである。
これは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった源氏に対する右大臣家と左大臣家が連携した周到な復讐という見方も出来る。

勿論、上記は僕のオタク的な勝手な解釈であるが、そういった解釈の幅を許す豊かな物語。

日本が誇る文化的世界遺産を一つ上げろと言われれば、建物でも彫刻でもなくこの文学かもしれない。

まさむね

ROOKIES に心奪われた俺って何?

July 26th, 2008

ROOKIES最終回は感動的だった。

一人の主人公の人気で引っ張るのではなく、各メンバーがそれぞれの見せ場を作った脚本と演出の力量は素晴らしかった。

個人的には、安仁屋(市原隼人)がベンチ裏で泣くシーンが一番。
野球帽のひさしが、男の涙を隠すためにあるという事を改めて思い出させてくれた。
また、御子柴(小出恵介)が奇跡の満塁ホームランを打って、感動のあまり歩きながらダイヤモンドを一周するシーンが二番。
実際に虫垂炎で入院したという小出君。本当に痛くて走れなかったのかも。
そして、球場に入れず、携帯ラジオを聴く川藤先生(佐藤隆太)が、不良達に絡まれた場面で、彼を救った上坂(遠藤要)の男気もGJ。
こういったサイドストーリーがこの物語を豊かにしてくれている。

恐らく視聴率では、「ごくせん」や「CHANGE」のほうが上であろうが、視聴率では計れないインパクトこそ、今の時代、重要だ。
例えば、そのインパクトは、2chのテレビドラマ板のスレ数に現れる。
「ROOKIES」は91にまで伸びた。通常のヒットドラマのスレ数の3倍以上だ。ちなみに、「CHANGE」は30、「ごくせん」は25だった。

しかし、一方で、今回の「ROOKIES」にかけるTBSの番宣攻勢は辟易の感がある。
ドラマの全放送時間が13時間位なのに、なにせ番宣に40時間以上かけたそうだ。
去年、今年とスポット広告料の激減という現実的な背景はあるにしても、一昔前まではあった「公共の電波でこんなことを…」という自制心はどこへいったのか。
しかも、その、なりふり構わない力の入れ方を番宣内で自慢する。
恥じらいのカケラも無い。

しかし、本放送は勿論の事、番宣(再放送やダイジェスト版も含)もほとんど、全て視聴し、さらにYoutubeで各本放送をそれぞれ3回は再確認(再涙)してた俺って、何?

まさむね

ドラマに見る階層とテレビ

July 25th, 2008

テレビ各局で地デジキャンペーンが激しい。

僕個人的には、デジタルになって画像の質がよくなることによって、葬式時に紋付を着た芸能人の家紋が確認しやするくなる(だろう)という楽しみがあるが、一般の人にとってはどうなんだろう。面倒くさいというデメリットの方が大きいような気もする。まぁ、あと3年後だから、その時の混乱は別の意味で楽しみだ。

さて、その地デジと連動して、一方で徐々に普及しつつあるのが、薄型テレビだ。
総務省の統計によると2008年に入って、約3分の1の世帯に普及しているという。(本当か?)

最近のドラマで気になるのが、所有するテレビによって登場人物の所属階層を表現しているという巧妙な嫌らしさだ。
無意識的に薄型=上流、ブラウン管=下流というメッセージ(すなわち、早く買い換えろメッセージ)が送られているような気がする。

典型的なのは、テレビ朝日の「四つの嘘」だ。

高級官僚の家=巨大な薄型テレビ(※しかも背面はガラス張りの庭)
独身の女医の高級マンション=巨大な薄型テレビ
仏壇屋のリビング=普通の薄型テレビ
ボクサーのアパート=普通のブラウン管テレビ
古本屋の奥の居間=テレビ確認できず

今後、他のドラマでもチェックしていきたいと思う。

まさむね