隣の晩御飯と地域格差の実態

September 26th, 2008

ヨネスケの突撃・隣の晩御飯は、日本テレビの情報番組の名物コーナーである。

毎回、ヨネスケが突然、晩飯時のお宅を訪問し、そこの家の晩御飯を紹介し、時には勝手につまんでしまうという全く持ってずうずうしい企画だ。
かつては、朝のワイドショーのコーナーだったのだが、現在は、夕方のNEWSリアルタイムに時間を移して放送されており、なんと、今まで16年間で2000軒以上のお宅を訪問しているという。

ヨネスケが入っていくと、人々は一様に「何にもないんですよ」とか「たまたま、嫁がいなくて」とか「もう、ご飯は済んじゃったんですよ」とか「これ、残り物なんですよね」と言いながらも、彼を導きいれ、次々におかずを紹介する。

突然、ヨネスケに踏み込まれた家の人たちの、羞恥心と自慢心がいやらしくも交錯する、その気まずい瞬間を垣間見えるところがこの番組の一番、楽しいところだ。

前回、9月4日の放送では、ヨネスケは千葉の漁師さんの家を突撃した。
お決まりのように、「イヤーだ。イヤーだ。」と言いながら、食卓にヨネスケを案内するお母さん。
その食卓には、ランニング姿のお父さんが、カレーを食っていた。
驚いたのは、そこに並べてあった品々だ。

1.アジのなめろう
2.瓜の漬物
3.エビチリ
4.ハンバーグ
5.巻き寿司
6.主食のカレーライス(何もなかったということで出前した:お母さん談)

この人たちは食べ物の喰い合せというものを考えないのだろうか。
とにかく、いろんな食べ物を並べれば、「豊かな食生活」が演出出来ると考えているのだろうか。
僕は、その食卓のコンセプトの無さにある種の”貧困”を感じざるを得ない。
(ちなみに、こういう家は大抵、ゴチャゴチャいろんな物が置き散らかっており、ガラスの人形棚には、例えば、マトリョーシカとコケシとバービーと博多人形が混在している。)

しかし、同時に、こういったタイプの家には、おじいちゃん、おばあちゃん、息子(長男)、その嫁、子供、赤ちゃん、それに近所の人...という感じの人たちが居て、大笑いしながら楽しそうに暮らしている。その大家族の繋がりは、まだまだ生き残っている地方の共同体の”豊かさ”を感じさせる。最近、地域格差という事が
よく言われている。しかし、「突撃・隣の晩御飯」の世界は、決して地方の疲弊を感じさせる事はない。
ちょうど、この頃は、ガソリンの値上げで漁師達が、「もう我慢できない」と一斉操業休止をアピールしていたタイミングだったのだが、ここのお父さん(アジ漁師)にはそういった苦悩は全く感じられなかった。

恐らく、地方の疲弊の本質は、こういった”豊かな”お宅にではなく、一方で確実に存在する人的ネットワークが遮断された孤独な個人にこそ、宿っているのではないかと思われる。
ようするに、格差社会は、都会VS地方というよりは、地方の中での、共同体の人々VS孤独な人々という図式の方が深刻なのではないだろうか。

私の見た限り、ヨネスケは、例えば、一人暮らしの老人が、漬物とご飯だけで食を済ませているような安アパートや、フリータが一人でコンビニ弁当を食べているような1Kの簡易マンションを突撃した事はない。この番組はそういった地方のもう一つの顔を周到に無視しながら、今日も明るく進むのである。

まさむね

王貞治 残酷な現実との戦い

September 25th, 2008

だいぶ、昔の話。僕が小学生の頃だったと思う。

スタジオで王さんと長島さんが大勢の子供達からの質問を受けるというテレビ番組があった。
司会が子供達に質問する。

「長島さんが好きな人、手を上げて下さい。」
子供達「はーい」
複数の子供が手を上げる。

司会が一人の子供を指名して「どうして長島さんが好きなんですか?」
ある子供「王さんは台湾人だから嫌いです。」

子供達は笑った。王さんは、無表情だった。

この残酷なシーンは何故か僕の心の中に残っている。

そして時が流れる。

先日、8年連続200安打という記録を達成したイチローに、王さんは祝福の電話をかけて、その偉業を祝福したという。その時の会話に関してイチローが以下のように述べている。

「アメリカという国は差別的、という言葉を王監督は使われなかったですけど、そういうニュアンス――まあ、白人至上主義というか、そういうのが残っていて、要は『その中で、日本人が誰もやったことのないことを打ち立てることというのは、想像以上に難しいことだ』って言ってもらったんですよ。そのとき、僕は本当に泣
きそうになって、『この人、すげえ』と思って感動してね。
普通、そこまでは想像できないんじゃないですか。テレビとか、メディアからの情報だけでは。本当に(メジャーの)中でやらないと、そういうことって分からない。すごいですよ。やっぱ、この人のためにやりたいって思うよね。まあ、宝物ですね。王監督と同じ空間で、時間を過ごさせてもらったことは」(スポーツナビ 大本
大志より)

イチローのこの言葉の後で、王さんの事を今再び、心の中で思い出してみる。
なんとも言えないジワーとした感情が沸きあがってくる。

まさむね

王監督の普通の言葉には説得力がある

September 25th, 2008

その会見で、今シーズンのソフトバンクの不調を分析して王監督らしい発言があった。

「まぁ、今考えますと、”監督生命を賭けて”という形といいますか、昨年のシーズン終了後に、選手達に向かって、そういう発言をしたことがかえって選手達に変なプレッシャーを与えてしまったんではないかと。
ウチの選手は大変素晴らしい選手が多いですから、普通に闘っていけば絶対に、優勝は勿論の事、クライマックスシリーズには当然出れる戦いが出来る戦力でありました。..(中略)..これが私の、監督14年間の中で一番の反省点と考えております。」

王監督はここで、”監督生命を賭けて”というような過重な”思想”が敗因だったと語っている。
逆に言えば、ここで王監督は、「優秀な選手達が、”普通に”戦うという事が最も勝利に近い」という定石を普通に維持していくことの難しさを語っているのだ。

人は苦しくなると思わず思想や美学や宗教等の言葉に身をゆだねてしまいがちになる。
しかし、それは、逆に勝利への道を遠ざけてしまうのだ、時として無用のプレッシャーにしかならないのだ。

さらに、記者からの、辞任の決意はいつだったのかとの質問に答えて、淡々と述べる。

「いつというよりも、この9月に入ってからの不思議な戦いの連続ですよね。
まぁここで6対2で勝ってて、抑えのエースの馬原投手を出して、橋本君にホームランを打たれて同点になって最終的には負けたとかですね。まぁ考えられないような戦いが再三出てきてしまいまして...」

あっさりと部下の名前を出して、説明する王監督。
その冷静で普通の言葉は、あの星野監督が北京五輪の後で披露した、(ワシは個人攻撃などしない。あくまで選手を守るぞ的な)己の美学、(一度や二度失敗してもワシはその選手を使い続けるぞ的な)野球論、(挑戦こそワシの人生だ的な)精神論の暑苦しさとは対極にある。
その言葉には、スッキリとした説得力があった。

王監督の辞任をもって、ニッポンの古き良き、職人気質の伝統の一つが、静かに幕を下ろした。

まさむね

福田首相の最後っ屁

September 24th, 2008

fukuda.gif福田首相の辞任会見で記者の質問に応えた「あなたとは違うんです。」というセリフは、早くも今年の流行語大賞になるのではと言われている。

最初、NHKの生中継で聞いた時、これは月9ドラマ「CHANGE」で、木村拓也が与党総裁に立候補した時の演説の最後の締めの言葉「僕の全ては、みなさんと同じです。」に対抗した福田さん一流の嫌味ではないかと思った。

しかし、この一言は、まるでイタチの最後っ屁のように、最後に強烈なインパクトの悪臭を残したてくれたよね。

そして、最新のぶら下がり会見でも、こんな見苦しいやりとりをしている。

記者:消費者庁を仮に作ったとしても、こういった事(汚染米問題)がまた起きるのではないでしょうか?
福田:じゃあどうしたらいいと思います?どうしたらいい?どうしたらいいかな?

記者:行政府を監督するのは内閣総理大臣だと思うんですが...
福田:末端まで?全部?大変だな。総理大臣も...

最後っ屁が飛び出したケツの穴が、小さいながら、まだダラダラと空いていて、体内の腐臭が無責任に漏れ続けているっていう感じだろうか。
最初から、福田さんというのは、顔は地味だが屁は臭そうな爺さんだなって思っていたんだけど、嫌な予感は的中してしまった。

もう、辞任直前だから、後はどうにでもなれってことなんだろうか。こんな人が日本の代表者だったのかと思うと、情けなくなるよね。

思い起こせば、福田さんは「国民目線」という事をよく口にしていた。
でも、こういった辞任会見を踏まえて、よく考えてみれば、この国民目線っていうのは、自分は国民とは違うって事を前提とした傲慢な言葉だったって事だよね。

まさむね

大麻ってそんなに悪いの?

September 24th, 2008

大相撲の大麻問題が連日報道されている。
僕は、この種の事件が起きるたびに、大麻を絶対的な悪として無批判に報道するマスコミの姿勢に、いつも違和感を感じさせられる。

60年代には、厚生省に大麻の取材をしに行った平凡パンチの記者が、担当役人から「これですよ。吸ってみますか?」とハシシタバコを勧められたという伝説が残っている。
また、70年代には、例えば、吉本隆明あたりは「宝島」誌上で、「ジャーナリストたる者、大麻を自分で吸ってみる程度の好奇心が無くてはいかん。」みたいな事を、堂々と書いていたよね。
最近のマスコミ連中は、そのあたりの事、どう考えているんだろうか?

言うまでも無い事なんだけど、大麻が悪っていう観念自体、歴史的に形成されてきたということ。
そもそも、大麻取締法は、戦後、GHQがいつの間にか導入した法律である。戦前は大麻吸引は、法律的には全く問題なかったんだ。明治天皇の御墨付がある植物の研究書に、大麻の活用例として、その吸引方法も紹介されていたっていう話もあるよね。
実際、大麻には常習性は無いし、悪酔いも無い。酒やタバコに比べればよっぽど体にいいっていう医学の報告もされているのは常識だ。

しかし、不思議な事に、日本人は、歴史的に大麻吸引を生活に関わらせてこなかったんだよね。
例えば、インドネシア等で祭りの時に大麻吸引が公に行われていたような形で、日本には大麻吸引の記憶、または記録は無いんだ。
ただ、山に柴を刈りに行った男達がラリって帰ってくる現象を「樵酔い」っていう隠語で伝えている地方もあるそうだ。知る人ぞ知るという秘め事だったんだろうね。

一方、神道では、大麻は神聖は植物として扱われる事もしばしばだ。天岩戸伝説でも、榊と大麻というのは、岩戸の前に飾られる。伊勢神宮への奉納品にも大麻は入っている。
また、大相撲でも初日の前日に行われる「神迎え」の儀式(土俵祭)にも大麻は使われているんだよね。

大麻検査で陽性が出ただけで、見せしめ的に協会から解雇された露鵬、白露山は、その不当さを提訴するんだろうか?
最終的な判決はどう出るんだろうか。
今後、興味深く見守っていきたい。

まさむね

ロシアン力士が持っていた可能性

September 23rd, 2008

これは僕の持論なのだが、大相撲は約10年毎にそのスタイルを微妙に進化させる。

70年代、輪島が相撲の稽古にランニングを取り入れ、近代相撲が始まる。
80年代、千代の富士によって、筋肉相撲が全盛となる。
90年代、大型のハワイ系関取の登場で、体格相撲、全盛となる。
00年代、モンゴル相撲の多彩な投げ技、足技、スピードが、朝青龍達によって導入される。

そして、次の時代の可能性だが、僕はロシアン力士のユニークな相撲スタイルに密かに期待を寄せていたのだ。

ロシアン力士達のユニークさは、”叩きこみ率”が異常に高い事である。
大相撲協会の公式サイトの決まり手ランキングによると、若ノ鵬は27%、露鵬は24%、そして白露山に至っては31%の”叩きこみ率”を誇っている。
恐らく、それは、彼らがレスリングという相撲とは全く別の格闘技のベースを持っているという技術的特質と、手足が長く懐が深いという肉体的特質によっているのではないか。

彼らの技術がさらに磨かれていけば、その先に相撲の新しい可能性があったかもしれないと、僕は考えていたのだ。
しかし、残念なことに、今回の大麻事件で、その可能性の萌芽が摘まれてしまった。

ここからは、妄想。

大相撲は、昔から”寄り切り”や”押し出し”等、前に出て勝つ相撲こそが正しい相撲であるというイデオロギー(美学)が圧倒的に強い。
それゆえ”叩きこみ”は嫌悪されてきた。
しかし、ロシアン力士達は、その美学をどうしても受け入れられない。相撲をスポーツとしてしか捉えられない彼らには、”叩きこみ”が何故、問題なのかが理解できない。
スポーツなんだから、ルールの範囲内で、勝つのは当然ではないかと彼らは考える。ある意味、当然の事だ。

そんな兆候に対して、大相撲の美学の崩壊を懸念した協会は、彼らをひっかける。それが、大麻事件だ。

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

北京五輪を覆う座り心地の悪さ

September 19th, 2008

チベット問題や、国内の人権問題等が事前から報道されていたせいもあって、北京五輪は、もろ手を上げて楽しめるという状況ではなかったにもかかわらず、大会が始まってしまうと、日本選手の活躍のに心を奪われてしまった。
でも、僕の心の中では、北京五輪そのものに対する嫌悪と日本人選手の活躍に引き裂かれた座り心地の悪さを常に感じていたんだよね。
でも、一方で、開会式で、花火がCGだったって事や、独唱した少女が口パクだった事、少数民族の衣装を着ていた子供達のほとんどが漢民族だった事をテレビは偽装五輪の象徴と言わんばかりの報道をしていたけど、そんなに過剰につっこむところか?とも感じた。
実際、シドニーやトリノでもオーケストラとかが手パクだったって事は明らかになっているけど、その時は、五輪自体が偽装だという事にはならなかったでしょ。
それにしても、テレビの報道はひどかった。
選手の活躍を、各局、例外無く、ほとんどが、家族間の人情話にからめてたよね。
姉妹関係(伊調、谷本)、家族関係(上野、太田)、息子との関係(内柴)、夫婦関係(朝原)、父親との関係(石井、浜口)…
でも情けない事に、僕自身もその一つ一つに感動してしまった。冒頭の件とは別の意味で、座り心地の悪さを感じさせられ続けたよね。
一方で、今回の五輪で圧倒的に強かった北島康介、吉田沙保里、上野由岐子の3人に関しては、本人との戦いがメインテーマだったような気がする。
アスリートとしての圧倒的な凄みは、陳腐な人情話を寄せ付けないという事なのだろうか。

まさむね

内柴正人が見せた武士道精神

September 1st, 2008

今回の五輪の柔道は、前回に比べるとメダルが取れなかった。
その理由として、国際化した柔道が、一本を取る柔道から、ポイントを稼ぐJUDOに変ったからという説明がなされていた。
今後、日本柔道界は、心中覚悟で美学を貫くのか、時代の流れに対応して勝利を目指すのか。興味深いところだ。

さて、今回の五輪で最も印象的だったのが、66kg級で金メダルを奪取した内柴選手が決勝戦で、縦四方固めでフランスのダルベレ選手を破った瞬間だ。

彼は、喜びを表現する前に、相手の怪我を気遣い、そして相手の心情を忖度して、畳上ではガッツポーズをしなかった。
テレビの報道では、畳から降りた後のガッツポーズと、その後の「ひかる ひかる」という息子への叫びが何度も流されたが、僕的には、この畳上での立ち振る舞いの方が印象に残っている。

これは、まさに、「惻隠の情」という武士道精神が、国際舞台で表現された瞬間だったのではないか。

新渡戸稲造は「武士道」の中で「惻隠の情」というものを最高の美徳としているが、惻隠の情とは、簡単に言えば敗者への思いやりのことだ。
大相撲でも勝った後に土俵上では喜びを表さないが、それも同じ思想から来ている。

恐らく、起源は、敗者からの怨念を受けないための所作なのであろう。
日本人の心の中に潜む宗教観がこんなところにも現れているのだ。

まさむね

星野監督のドラマ体質と残酷な五輪

August 31st, 2008

北京五輪の野球の結果は誠に残念だった。

敗因はいろんな解説者が出し尽くした感があるので、ここで素人の僕が付け加えることは特に無い。

ただ、気になったのは星野監督の、己のドラマに対するこだわりだ。

決勝戦、3位決定戦での采配ミスに関して、彼は、テレビインタビュー(ZERO 8.25)でこう述べている。

質問「選手起用ついてお伺いしたいんですが、調子が良くない、あるいはミスした選手、実名を挙げますとGG佐藤選手ですとかピッチャーで言うと岩瀬投手、準決勝であまりよくないパフォーマンスの中で3位決定戦でも使い続けました...」
星野「はい、言われますね。これが私のやり方なんです。挽回させてやろう。もう一回チャンスを与えてやろうという。一度や二度、失敗したからと言って、という...(後略)」

このやりとりを聞くにつけ、星野監督は、勝負にこだわる以上に「部下思いのいい上司でありたい」という自分と、期待を意気に感じて大活躍する選手との感動的なドラマに、取り付かれれて生きるタイプの人間と思わざるを得ない。

その直後、キャスター氏は当然のごとく以下の質問を続ける。

質問「それは、僕は長期決戦だったらわかる気もするんです。ただ短期決戦の場合には、そうも言ってられないじゃないかなと私なんかは思ってしまうんですが。」
星野「そうなんですけれども、代わる選手がいないんですよ。正直言って。体調面を考えるとか、台所事情が。その苦しさはありましたね。え~。」

だったら、最初から正直に、現実を言えばいいではないか。しかし彼は、上記の判断を己の美学として語ろうとするのだ。

しかし、五輪という場は残酷だった。
戦いの最中には、星野的ドラマが入り込む余地は無かった。
そこに必要なのは、勝利を得るためのリアリズムのみであった。

そして、ドラマは勝った者のみが許される特権である。
例えば、フェンシングの太田選手や体操の内村選手、柔道の石井選手を見るまでも無く、彼らは勝利したがゆえに、ドラマを手に入れることが出来た。そして、マラソンの土佐選手や柔道の鈴木選手はドラマを作ってもらえなかった。

一方、星野監督は上記のように、ドラマを己で演出するようなタイプの人間である。すなわち、ドラマ体質の人なのだ。
勿論、それはプロとしても稀有な才能だ。だから彼は成績は超一流ではなかったが、男・星野の反骨精神というドラマを武器に、全日本の監督にまでのし上がることが出来たのだ。
しかし、彼は五輪の監督しては、あまりにもファンタジックではなかったのか。

あの準決勝と3位決定戦の惨敗を目の前にして、かつて、プロレスラー達がリアルファイトのリングでボコボコにやられ続けた。あの風景を思い出してしまった。

まさむね

五輪に見た漫画的超人

August 30th, 2008

人は、あまりにも凄い現実を見せられると逆に虚構のように感じるものである。
今回のオリンピックで、そういう意味での「虚構」を見せてくれたのが、100M走りでの金メダリストのウサイン.ボルトとソフトボールのアメリカチームのスラッガー、クリストル.ブストスである。

ボルトの世界新記録の瞬間、「史上最速の欽ちゃん走り」と実況でアナウンサーが評していたが、誰が見ても、彼の存在は現実を超えていた。「勝負は時の運、勝った者が一番、速いのだ。」というような詭弁にも似た表現を横目に、「一番速い者が、当然勝つ」という当たり前の事を教えてくれた。

一方、ブストスの片手ホームランは、まるで「ドカベン」に出てくる雲竜のようだった。
決勝戦で彼女が打った打球は、一瞬、外野フライかと思われたが、そのままライトスタンドに飛び込んだ。
その瞬間、上野選手は里中に見えたのは私だけだろうか。

まさむね