Archive for January, 2000

久米ヒロシと孫

Sunday, January 23rd, 2000

ルミコの件はそうなったら凄いけどね
昔の映画みたいな話で現代じゃありえないかも

筑紫じゃないけど、先日、ニュースステーションに孫がゲストででていて、久米とまあどーしょーもない対談をしたのだけど、その中で久米の孫の月収を突然質問し出して、孫はモゴモゴしなから500万程度とこたえていたけど、孫には逆に久米にイクラか切り替えして聞いてほしかったですね
久米はその胸元への質問でインタビューアとして自我自賛したかったのだろうけど、なんか引いてしまいました。
まあ、その後、儲けているのにその程度とフォローしていましたけど、久米はあいかわらず庶民の見方みたいなポジションに立ちたかったのでしょう
でも、もう、誰でも感じているとおもいますが、
孫も虚像に満ちているけど久米も大差ないと感じていると思います

筑紫はもう知識人として自分でアガリの立場にいることを認識していて、その立場の立脚点が今までの文学やヨーロッパ映画やオペラだったりするのでインターネットとか新興勢力を毛嫌いしていますよね

立花隆や筑紫や久米も扱っているものが多少違うだけでワイドショーの司会の小倉某と大差ないと感じてます
逆に扱っているものが等価であることに気づかずにいる分裸の王様なのでしょう

ところざわ

ルミ子と賢也&筑紫と馬場さん

Friday, January 21st, 2000

賢也とルミ子の「攻防」について、確かに、賢也がルミ子に渡したお金をずっと貯めていて、最後にそっくりそのまま、返すというのはロマンチックなシナリオですね。
で、多分、ルミ子がこの「攻防」に逆転勝ちするにはそうするしかないかも。
先日、ルミ子の母親が、特ダネで独占インタビューやっていて、ルミ子の出した条件がキツイのはそれほど、ルミ子が賢也を愛していて、賢也に帰ってきて欲しいからだ。とルミ子を擁護していたそうですが、だったら、逆に1億円あげるから、帰ってきてと言うべきじゃないかと思いました。
さて、筑紫哲也の知ったかぶりの件ですが、僕が他の人に比べて少しは知識があるのはプロレスというジャンルだと自負しているんですが、だからこそ、ニュース番組の真のクォリティを計るのに、そのニュース番組がプロレスを扱った時の情報の正確さとか、視点のするどさというのを使います。もしも、その記事がいいかげんな物なら、それから類推して他のニュースだって結構、アレだなと思うわけです。
そこで、筑紫哲也のニュース23を僕が信用しないのは、昨年1月末に馬場さんが亡くなったときの23のいい加減な報道に根拠を置いています。そこには、若き日の馬場の姿として、台湾出身の相撲上がりの羅生門というレスラー(このレスラーも巨人症で確かに馬場さんに似ている)が堂々と出ていました。あの時は悲しみを通り越しました。
また、筑紫哲也じゃないけど、日刊スポーツのコラムで、この羅生門が出演していた黒沢監督の「用心棒」を誉め、黒沢の目にかなった馬場という紹介の仕方をしていたのには、黙っていられず、その著者に思わずメールを送ってしまいました。その時は一応、返事が来たんですが、悪びれる様子もなく、「その件はすでに訂正しました。」という文面で、ますます腹がたちました。

まさむね。

とりあえず立花隆(他の話題は後日)

Thursday, January 20th, 2000

よくぞ、話を振ってくれたという感じですが、僕も立花隆に関しては言いたい事がありました。
おそらく立花隆というのは一つのシステムなんでしょうね。今、最も新しくて、知的で、意義深いテーマを見つけてきては、手の者に(昔は)大宅文庫とか(今は)インターネットで情報収集させたり、その道何十年という人から話しを聞いたりして、武装し、これで大丈夫となったら、世間に啓蒙するというシステムとしての立花隆。
それはそれで、存在意義はあると思いますが、僕が気になるのは、その彼が選ぶテーマに関してです。結局のところ、どんなテーマを選ぶかというのが彼の唯一知的なところなわけだから、そこに偏見とか、カンの悪さとか、権威主義とかが入ってくると、それは見れたモノではないですよね。
数年前、彼が大宅壮一ノンフィクション賞の審査委員をやっていましたが(今もやっているかもしれないけど)その時、井田真木子というライターの「少女プロレス伝説」という、女子プロレスという場で見た現代少女考が最終選考まで残りました。長与千種とか神取忍とかのルポは、プロレスファンから見ても優れたものでした。
そこには、例えば、神取が元ビューティペアのジャッキー佐藤にガチンコを仕掛けた時の子細なプロセス等が記されていました。相手を完全にギブアップさせるには、次の3つが必要なのだそうです。
1:相手に激痛を与える事
2:相手の動きを完全に封じる事
3:もしかしかた殺されるという恐怖を与える事
僕は寡聞にして、今までこれほど明確な格闘技の思想を聞いた事がありませんでした。こんな神取の声を聞き出すだけでもこの「少女プロレス伝説」はすごい。(その他の部分も勿論、面白い)
で、この本を前にして立花隆はこういう主旨の論評をしたというのです。
「作者の筆力は認めざるを得ない。ただ、ノンフィクション作品はそれが扱っている対象がとるに足りないようなものでは全く価値が無い。」
具体的には、それ以来、私は立花隆の敵となったのでした。
追伸 それにしても、あの風貌は20年も変わっていないというのは不気味だ。

まさむね。

ルミコ&個性的&立花隆

Wednesday, January 19th, 2000

ルミコに関しては、究極の選択みたいで
ちょっと笑っちゃいました。
二人が結婚して干された時期、再登場のきっかけになったのが、視聴者から寄せられたレシピで料理する後ろで、二人、料理のイメージにあわせて踊るという番組が合ったのだけど、それは、二人には愛があるって感じで、よかったのだけど、こうなっちゃうとは、思いもよらずって感じですね。10年後にルミコがあなたのため思ってといってお金をケンヤに返したら恩讐のかなたにって感じで、菩薩の深い慈愛を感じると思うけど、そんな長い伏線は今の芸能界じゃありえませんね
所ホザいるのもいるけど、単純に集団適合できなかっただけじゃねーの感じだけだけど、そのうち、「個性的」な集団がふえていったらそんな戯けた奴ばかりになって、そっちのほうが多数派になったら、今の平凡な無個性が希少価値が高まるかもしれないですね

それから、さっきNHKのニュース解説番組でロボット特集してたけど、解説が立花隆でした。
で、立花隆なんだけど、こいつ、ホンとこいつナニモノって感じです。角栄本はよく知らないけど、その後の「宇宙からの帰還」はトムウルフのライトスタッフのエピゴーネンだし、臨死体験だってキュポラロスの一連の著作のアトオイでしょう。知の巨人とか言われているらしいけど、そりゃ南方熊楠とは比べ物にならないでしょうって感じです。たしかに。何語らせてもそつなく答えるけど。そりゃ、専門の研究者や学者の話すことを聞きかじって代弁している詮、男は商品化された存在なのかもしれません

それから、ゆとり教育とか個性化とかまったく幻想ですよね。みんな自分だけは特別とか個性的であると思いたいけど、実はそんなに大差あるわけじゃないと思うのです。
外人がただ喚くだけの番組のように、中身のない、個性的と思い込んだ自己主張の強いものだらけの集団になったら、ほんとヤだなあ。
よくミニコミ雑誌みたいなのに大企業辞めて田舎や東南アジアで自然とともに暮らして自分を見つけたとかに過ぎないんじゃないのって感じです。
実際には何にもしていないのに何であんなにありがたがるのって感じです。まあ、それは筑紫テツヤや久米ヒロシにもいえるけど彼らは専門分野じゃカッコつけようとしてすぐボロ出すからね。

ところざわ

ルミ子の離婚等

Wednesday, January 19th, 2000

やはり触れなければならないのがルミ子と賢也の離婚の件であろう。
圧倒的に世論の同情を集める賢也側が支払う金額が1億2千万円とも言われているが、それはルミ子が被った心労の対価だとすると、確かにあまりにも法外だ。
ノック辞任の時も結局はお尻を触ったか触らないかわからない状況で、1千万円以上+失職という対価を彼は払わざるを得なかった。
いいか悪いかという二分法で言えば悪いに決まっているのだが、しかし相手の「嫌」というのはそんなに価値のあるものだろうかと考えさせられる。
人と人とが暮らせば別に嫌な人でなくても、あるいは親友相手でも当然、「嫌」なことはある。それは人間として宿命的な事だと思うのだが、これから男VS女に限らずあらゆるところで、他人の「嫌」を気にしなければならないような不自由な社会になるかと思うとそれこそ「嫌」である。
一方で、21世紀をひかえて、政府が夢のような構想をぶちまけた。それによると、義務教育が週3回になるかもしれないという。詰め込み教育に対する反省という事なのだろうけど、これで、自由で、のびのび育った個性的な人を増やそうとしているのだろうか。
でも、大体、社会が必要とする「個性的な人の必要率」というのがあると思うんだけど、そうなると、「個性的になりたかったけどなれなくて誰のせいにも出来ない不幸な人」が確実に増えるだろう。
今まで、学校というガチガチの制度の「せい」にすることによって己の不甲斐なさから目をそらす事の出来た面々にとっては、大変な事態とならざるを得ない。
また、その頃には週4日は適当に遊んでいた多くの人と、その時間を使って勉強させられる金持ちとのその後の人生も大きく変わっていくだろう。ようするにアメリカみたいに、建前は機会の平等があるけど、実際は、WASPしか出世できないシステムに近づくはずである。
さらに、それまで週3回しか学校に行っていなかった学生を引き受ける会社はまた新たなストレスを生むに違いない。ようするに「嫌」なことをしないですんでいた人々がいきなり「嫌」な事に直面しまくるのだ。
一方で、「嫌」を犯す事の罰が重くなるのに、もう一方で他人の「嫌」を想像して、STOPするだけの教育は十分に出来ないのではないだろうか。
まぁ、実際にそうなるという事はないと祈るが、文部省もヒールとしての己を放棄したとき、存在意義を失うという事を考え直して欲しいものだ。

まさむね。

朋ちゃん残念 続き。

Tuesday, January 18th, 2000

僕も朋ちゃんの最近の何曲にはかなりいい印象を持っていました。最近は、あんまり歌詞をしっかり歌わなかったりわざとずらして意味を無化する歌い方が全盛だけど、彼女の歌は自信に満ち溢れていて好感が持てます。

もちろん、歌詞の露骨さはあるんだけど、プロデューサ的にはそれがウリなんだろうから、彼女の純粋さと制作側の柔らかい悪意が上手く手を結んだといったところでしょう。

ある情念なり、感情なり、ちょっと他人にはもてあまさざるを得ない物を商品化するのっていろんな方法があるんだろうな。ブリグリの不機嫌な顔と聞き取れない声っていうのも、川瀬智子の情念を商品化するには必要だったんだと思います。

あっ、なんだか今日は中途半端ですみません。

まさむね。

朋チャン休業残念-2

Monday, January 17th, 2000

私も同感です。
彼女も小さいころは特殊学級で学んだと聞きます
でも、彼女の歌とその資質はその負性を負かすものがあると思います。
大江健三郎の息子とはその点が大きく違うと思います。

同じピュアさを売りものにしていますが
かたや映画のパブリシティ程度の一発屋だったのに比べて
彼女のちょっと前の恨み節のような曲でさえ
凛とした雰囲気をかもし出しそこそこヒットしていたのはやはり、資質や才能の有無は正当に評価されているのでしょう

どんな形であれ歌っていてほしいものです
まあ、大先生と近かったので
周りの人も無下にはできないと思いますが・・・
いらぬことさえ口にさえしなければ・・・

ところざわ

朋ちゃん休業残念

Monday, January 17th, 2000

でも、元々「見られる者」達というのは、日本の白拍子にしろ、ヨーロッパのジプシーにしろ、そういった負性を帯びているものですよね。歌舞伎役者だって、江戸時代は一般の人ではなかったわけです。それがいつのまにか特権階級になっていますが。

朋ちゃんが今年の4月から年末まで休業というのはあまりにも残念です。彼女こそ、天然の「見られる者」としての素質が有り余っているのに。来年、グレードアップした彼女を見るのが逆に楽しみですが、野次馬の一人としては、テレビのブラウン管に収まる程度のグレードでとどめてほしいものです。見られなくなったらもともこもないですからね。

まさむね。

背負うもの

Monday, January 17th, 2000

明菜にしても朋チャンにしても
いろいろ背負っちゃうと
見ているほうには辛いものがありますよね
歌の世界だけじゃないものも連想しちゃいますからね

アムロの暗さに関しては何なんでしょうね
幸せと不幸の振幅が激しかったら
歌の世界もあっちの世界にいっちゃったのかもしれませんね

ところざわ

安室の暗さ

Monday, January 17th, 2000

暗さという事で言うならば、ここで是非とも触れておきたい歌手がいる。

それは安室奈美恵だ。昨年のあの「事件」の影響を引き合いに出すまでもなく、彼女の素の暗さは、歌番組での背景に登場した時に十分窺い知れる。

例えば、昨年末の紅白歌合戦の開会式の時、よりによって、司会者の真後ろに位置取った彼女はほとんど、不機嫌な表情でうつむき、明るくあるべきその場所の雰囲気を一気にかき消していたという点で、逆に存在感を醸し出していた。その彼女が唯一笑顔を見せたのが、そのまた隣にいた問題大物歌手・石川さゆりに何事か話し掛けられた瞬間だったというのも、また妙なリアリティがあり、もしも、その配列、話し掛け、微笑、全てが演出だとすれば、NHKの奥の深さを感じざるを得なかった。

さらに、この安室の新曲のLove2000の踊りの演出が、なぜ、ここまで、うつむかせるのかと思わせる。踊りというのが本来、エロスを謳歌すべきものなのに対して、彼女の表情はこれまた逆に際立っており、お子様に悪い影響が出ないかものと老婆心までをもくすぐる作品になっている。

ちょっと関係ないが、僕がこの踊りを見たテレ朝のミュージックステーションという番組は、タモリの司会のやる気の無さはさておき、タモリが一人づつインタビューするの歌手の背景に映っている他の面々の「そんなことどうでもいいだろ。」という無関心の表情とそれに反比例するスタッフの過剰な笑い声がとても気になる番組だ。「夜のヒットスタジオ」のように出演者が過剰に同調する必要もないのだが、そんな雰囲気の中、タモリの後ろに稲垣吾郎を配置すれば、どういう事になるのか想像はつきそうなものだ。

もっとも、私はそれをこよなく楽しんでいるのであるが。

まさむね。