Archive for the ‘歴史・家紋・散歩’ Category

蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所-

Monday, January 12th, 2009

家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。

一般的には、この紋は、あの平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院はこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。
ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。

ところで、よく見ると、蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。

全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。

さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。

織田信長。1534年5月12日 – 1582年6月2日、戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として生まれる。
日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、大名(戦国大名)である。
重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。


池田輝政。1565年1月31日 – 1613年3月16日、武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。
小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の池田元助が討死したため家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築した。家紋は揚羽蝶(左画像は姫路城の瓦の揚羽蝶)、備前蝶。


大谷吉継。1559年 – 1600年10月21日、武将・大名。
近江国(滋賀県)で生まれ、秀吉の小姓となる。
九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となった。
賤ヶ岳の戦いの際に長浜城主柴田勝豊を調略して内応させる。
関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶。


佐野房綱。1558年- 1601年7月31日、武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。
豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。
戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


大塩平八郎。1793年3月4日 – 1837年5月1日、儒学者で、大坂町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。
大塩家は代々与力として禄を受けていた。
天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。
その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


芹沢鴨。1827年 - 1863年10月28日、幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。
江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。
新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


岡本綺堂。1872年11月15日 – 1939年3月1日、小説家、劇作家。
イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として東京高輪に生まれ、1歳から麹町に育つ。1913年まで24年間を、東京日日新聞の記者として過ごす。
1916年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、代表作となる。


池田亀鑑。1896年12月9日 – 1956年12月19日、国文学者。平安文学専攻。
鳥取県日野郡福成村(現・日南町)に生まれる。
「源氏物語」研究の権威で、文献学の知見を日本古典文学研究に導入。
3年かけて「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行った。紫式部学会の創設、雑誌「むらさき」の編集なども行う。


二代目・中村吉右衛門。1944年5月22日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶に平知盛が当たり役。
また、テレビドラマでは、池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役がはまり役。
写真は初代の墓所より。


トニー 谷。1917年10月14日 – 1987年7月16日、ヴォードヴィリアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、東京市日本橋区小伝馬町に育つ。本名は大谷 正太郎。
戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築した、キザでイヤミでバタ臭くてアクの強いゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。半被には蝶紋が施されていた。


平沼騏一郎。1867年10月25日 – 1952年8月22日、政治家。岡山県津山市出身。
日本の官僚で、第35代内閣総理大臣
法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。
戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。
元経済産業大臣の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である平沼淑郎の曾孫である。


藤原紀香。1971年6月28日 – 、女優。
1992年神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。
女優としては『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。
その他、国際活動や人道支援への協力でも知られている。
写真は陣内智則との結婚式の時のもの。晴れ着に蝶紋が見られる。


二代目・中村獅童。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。
代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「硫黄島からの手紙」「レッドクリフ」など。
萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。

まさむね



木瓜紋 -この紋はキュウリ?鳥の巣?女陰?-

Monday, January 12th, 2009

木瓜(もっこう)紋は不思議な紋である。

この紋の起源がよくわからないのだ。
代表的なものを上げてみると以下のようなものである。

1)キュウリの切断面を図案化したもの
2)鳥の巣を象ったもの
3)神社の御簾の帽額(モコウ)に使われた文様
4)女陰

いずれにしても、子孫繁栄や縁起のよいものにあやかろうという精神がこの紋の普及を促進したのであろう。

また、都道府県別でこの木瓜の割合が一番多いのは以下の県である。
(都道府県別姓氏家紋大辞典 千鹿野茂著より)

北海道、青森県、岩手県、栃木県、埼玉県、新潟県、富山県、和歌山県。

この中でも特に、富山では、他県に比べて著しい普及率(28%)を示している。
この地域は、戦国時代に朝倉氏が勢力を持っていて、この紋を広く門徒に使わせたためと言われている。
また、2位の地域は、秋田県、宮城県、福島県、石川県、福井県、鳥取県、島根県など。四国と南九州では比較的少ない。

有名人では以下の人々が使っている。

滝川一益。1525年 – 1586年10月21日、戦国時代の武将。
近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として生まれたという。
織田信長の家臣として、伊勢長島攻め長篠の戦い石山合戦で功を上げる。
信長から上野と信濃の一部を与えられ、関東管領を名乗ったとも言われている。
領地よりも、茶器(「珠光小茄子」)を所望したと言われている。家紋は丸に立木瓜。


朝倉義景。1533年10月12日- 1573年9月16日、越前の戦国大名。
越前の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。
信長と敵対したが、一乗谷城の戦いで敗れ、自刃した。
その際、往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った一乗谷の市街地は、灰燼に帰した。
家紋は三つ盛木瓜。


塙保己一。1746年6月23日 – 1821年10月7日、国学者。
武州児玉郡保木野村に生まれる。家紋は丸に木瓜。
塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自。
群書類従』『続群書類従』の編纂者として知られる。
『史料』編纂の事業は、現在も東京大学史料編纂所に引き継がれている。


二宮尊徳。1787年9月4日 – 1856年11月17日、農政家・思想家。
相模国足柄上郡栢山村に百姓利右衛門の長男として生まれる。家紋は木瓜。
日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、農村復興政策を指導した。
子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、寝る間も惜しんで読書をしたという。
薪を背負いながら本を読んで歩く銅像が小学校などに多く建てられた。


沖田総司。1842年夏の日 – 1868年7月19日、幕末の新選組の隊士。
父は陸奥白河藩士の沖田勝次郎で長男。
副長助勤、一番隊組長、撃剣師範。本姓は藤原を称した。
1864年6月5日の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる。1868年に死去。


田山花袋。1872年1月22日 – 1930年5 月13日の小説家。群馬県館林市出身。
1907年に、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。
女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。
家紋は丸に横木瓜。


樋口一葉。1872年5月2日 – 1896年11月23日、小説家。
元々父親である則義は甲斐国山梨郡中萩原村(旧山梨県塩山市、現在の甲州市)の百姓であった。7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
代表作は、「たけくらべ」「にごりえ」。五千円札の肖像となっている。
現在の墓所は、杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所。


上野英三郎。1872年1月19日 – 1925年5月21日、農業土木学者。忠犬ハチ公の飼い主
三重県出身の農業土木・農業工学の創始者。
大正14年5月、上野は大学で講演中に脳溢血で倒れ急逝。
愛犬ハチは帰らぬ上野を長期間待ち続け、「忠犬ハチ公」として秋田犬の名を世間に知らしめることとなった。


平田禿木。1873年2月10日 – 1943年3月13日、英文学者、随筆家。
東京生まれ。本名・喜一郎。
島崎藤村らの『文學界』同人として活躍。
のち英文学者として多くの翻訳を刊行、『禿木随筆』などがある。
またアーネスト・フェノロサの能楽研究に助力した。のち『平田禿木選集』全5巻が刊行された。


片山潜。1859年12月26日 – 1933年11月5日の社会運動家。
美作国粂郡羽出木村に庄屋藪木家の次男として生まれる。
明治30年12月『労働世界』を創刊し主筆を務め、日本で最初の労働組合である労働組合期成会の設立に大きな役割を果たした。明治34年(1901年)、日本で最初の社会主義政党である社会民主党の結成に幸徳秋水らとともに加わった。


梅ヶ谷藤太郎 (2代)。1878年3月11日 – 1927年9月2日、第20代横綱
石川県上新川郡(現在の富山県富山市)に生まれる。
常陸山谷右エ門と同時に横綱に昇進。「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代を築く。
168勝27敗47分2預116休、勝率.862。優勝相当成績3回。
家紋の木瓜は、本門寺の墓地にて撮影。


平塚雷鳥。1886年2月10日 – 1971年5月24日、思想家・評論家・作家。
東京府麹町区三番町に紀州藩士の出で明治政府の高級官吏・平塚定二郎の子として誕生。
関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広(大谷吉継の与力)の末裔とも言われる。
明治時代末からの女性解放運動・婦人運動の指導者で、後年には平和運動にも関わった。
日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を製作した。


西ノ海嘉治郎 (3代)。1890年11月2日 – 1933年7月28日、第30代横綱
鹿児島県西囎唹郡国分村浜の市出身。本名は松山伊勢助。
仕切りが長く、その間に観客が便所に立つため「小便相撲」と陰口をたたかれた。
幕内通算成績は30場所、134勝60敗2分2預116休、勝率.691。優勝1回。
年寄浅香山を襲名し、井筒部屋から独立して浅香山部屋を旗揚げした。


大槻文平。1903年9月27日 – 1992年8月9日、経営者、財界人。
宮城県丸森町に生まれる。
三菱鉱業セメント会長、日本経営者団体連盟会長、臨時行政改革推進審議会会長。
三菱鉱業の労務畑を長らく努め炭鉱合理化の際には「首切り文平」のあだ名があった。
勲一等瑞宝章受章。日勲一等旭日大綬章受章。


平林たい子。1905年10月3日 – 1972年2月17日、小説家。
長野県諏訪市出身。
体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として認められる。
代表作は『秘密』『かういふ女 』『黒札』など。
没後、遺言により「平林たい子文学賞」が創設された。


源氏鶏太。1912年4月19日 – 1985年9月12日、作家。
富山市出身。父親は富山の置き薬売り。本名、田中富雄。ペンネームの由来は「平家より源氏が好きなこと」。また、『鶏』という字が好きだからという。
代表作は『あすも青空』『英語屋さん』『口紅と鏡』等。
三等重役』は「社長シリーズ」として映画化され大ヒットする。家紋は丸に木瓜。


坂本九。1941年12月10日 – 1985年8月12日、俳優・歌手。
神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。
1961年の「上を向いて歩こう」は日本国外でも大ヒットした。
1963年にはアメリカのヒットチャートの「Billboard Hot 100」で3週連続1位を獲得た。
代表作は、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を 」「明日があるさ 」など。


三船敏郎。1920年4月1日 – 1997年12月24日、俳優。
中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。黒澤が脚本、谷口千吉が監督をつとめた映画『銀嶺の果て』でデビュー。
代表出演作品「羅生門」「レッド・サン 」「七人の侍 」「黒部の太陽」「椿三十郎 」「悪い奴ほどよく眠る」「用心棒 」など。三船美佳は内縁の妻(女優の喜多川美佳)との間にできた子供。


三波伸介。1930年6月28日 – 1982年12月8日、コメディアン・俳優・司会者・タレント。
東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。本名:澤登 三郎。
1970年代から1980年代にかけて日本のお笑いをリードしてきたエンターティナー。
代表出演『笑点』『日曜お笑い劇場 』『てなもんや三度笠』
当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。


樋口恵子。1932年5月4日- 、評論家。東京家政大学名誉教授。
父は考古学者の柴田常恵。広く首都圏各自治体主催の講演会などで活動。
男女共同参画審議会のメンバーの一人。
2003年東京都知事選挙に出馬したが、石原慎太郎の前に惨敗した。
元日本ジャーナリスト会議副議長の新井直之と事実婚関係にあった。


山本學。1937年1月3日 – 、俳優。
大阪府茨木市生まれ。東京育ち。
父は建築家の山本勝巳。弟は俳優の山本圭、山本亘。叔父は映画監督の山本薩夫
善人役の印象が強い反面、時代劇作品などでは狂気的な悪役、特異な存在感を持つ怪優としても個性を発揮した。出演作は『白い巨塔』『金環蝕』『梟の城』等。家紋は三つ割り木瓜。


桂歌丸。1936年8月14日 – 。神奈川県横浜市出身。
位階勲等は旭日小綬章。本名は椎名 巌(しいな いわお)。
演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利のメンバーとして活躍、現在では同番組の5代目司会者を務める。
その際に着る羽織には、木瓜紋をつけている。

ちなみに、その他の笑点メンバーの家紋は目視で、左から順に以下の通り。
三遊亭小遊三の高崎扇、三遊亭好楽の片喰、林家木久扇の光琳蔦、三遊亭円楽の三つ組橘、春風亭昇太の五瓜に唐花、林家たい平の花菱。

また、先の都道府県別姓氏家紋大辞典等から出身地、名字から類推して、木瓜系の家紋を持ってると思われる有名人は以下。
100%確実ではないのは、でご容赦ください。

大仁田厚。1957年10月25日 – 。プロレスラーで元参議院議員。長崎県長崎市出身。
全日本プロレスでプロレス入門。
自身が立ち上げたFMWにおける電流爆破マッチでブレイクした。
2001年7月29日に実施された第19回参院選に比例区で出馬、当選。
2007年6月23日に、政界引退。


広末涼子。1980年7月18日 -。女優。早稲田大学教育学部中退。
モデルでファッションデザイナーの岡沢高宏と結婚/離婚。
出演代表作『鉄道員(ぽっぽや)』『恋愛寫眞 Collage of our Life』『ロングバケーション』『聖者の行進 』『世界で一番パパが好き』『おとうさん』 等。
昨年も映画『おくりびと』、連続ドラマ『ヤスコとケンジ』等、一線で活躍。


枝野幸男。1964年5月31日 ‐。民主党所属の衆議院議員。
民主党の中でも政策通として知られるが、 その反面、政治的駆引や権力闘争的なことは苦手という面も併せ持つ。
労働者派遣法の規制緩和に一貫して反対している。
「朝まで生テレビ」など、メディアの露出が多い。

まさむね



何故、福男選びは足が不自由な恵比寿様の前で行われるのか

Sunday, January 11th, 2009

昨日、恒例の開門神事福男選びがあった。

西宮神社は”えべっさん”(恵比寿様)を奉る神社である。
ご存知の通り、恵比寿様は、イザナギ命とイザナミ命との間に生まれた最初の子である。
ところが、不具であったため葦の舟に入れて流され、この西宮に漂着し、海を司る神として祀られたという。

そのために、恵比寿像は座っている、あるいは膝立ちしている。
(写真はJR恵比寿駅前にある恵比寿像)
すなわち、恵比寿様は足が不自由な神様なのである。

さて、開門神事福男選びであるが、元々、1月9日の夜は、”えべっさん”が市中を廻られるということで、氏子は家に篭る風習があったという。
おそらく、その篭りには、”えべっさん”の不恰好な徘徊を見ては失礼だという氏子達の配慮という面もあったのではないかと、僕は思う。

そして、その忌篭りが解かれたと同時に、氏子達は、一斉に神社まで駆ける。
その風習が、現在の開門神事福男選びの起源ということなのだ。
     ◆
しかし、よく考えてみれば、足が不自由な”えべっさん”を前にして、氏子が足を競うというのはどこかおかしくないか。
普通の感覚ならば、逆にえ”べっさん”は嫉妬すると思うのだが。
例えば、弁財天をカップルでお参りすると、そのカップルは別れるという伝説があるみたいに。
しかし、逆に言えば、開門神事の賑わいは、そんな人間の無作法な行事を許してくれるほど”えべっさん”は太っ腹な神様、という事の証明なのではないだろうか。
それだけ太っ腹だからこそ、どんな人に対しても大漁安全、商売繁盛を約束してくれるのだ。
     ◆
あるいは、”えべっさん”は自らの御足を、ある種、スケープゴードにすることによって、氏子に健脚を保障したのかもしれない。
雛人形の川流しが元々、それらを生贄にすることによって、子供達の健康を守るように。
あるいは、縄文時代の土偶は必ず体の一部が壊されて、埋められたという話を聞いたことがある。
それは次に生れてくる子が、五体満足に生れてくるようにとの願いが込められていたというのだ。
     ◆
本当の事はわからない。

もしかしたら、何も考えないで、いつの間にか、なんとかく、そういう儀式になったのかもしれない。
おそらく、その確率が高い。
しかし、そうだとしても、それはそれで、日本的なおおらかさがあって、僕は好きである。

まさむね

引両紋 -無骨な武家紋の代表-

Friday, January 9th, 2009

引両紋は、源平時代からある古い紋である。

武家の紋が元々、戦場で自分を目立たせるためにつけたのが始まりであるため、引両のような簡単に描ける紋は実用的だったのではないか。

室町時代が全盛で、足利氏族の吉良、斯波、一色、山名、今川、細川、畠山等の大名がこの紋を使用した。
種類としては、線の数で、一引両、二引両、三引両がある。

江戸の有名人では、遠山の金さんも二つ引両である。
シンプルで、ある意味、無骨な紋のため、女性からは人気がなかったようである。

全国分布では18位。特に多い地域は、山梨県(11位)、東京都(12位)、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、愛媛県などが13位、栃木県、長野県が14位、青森県、群馬県、千葉県、兵庫県、岡山県、広島県で15位といったところ。

有名人では以下の人々が使っている。元々武家紋であるため政治家が多い。

新田義貞。1301年 – 1338年8月17日、鎌倉時代の御家人、南北朝時代の武将。
源義国の子。贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。家系は清和源氏の一家系。本姓は源氏。
足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。北条方を撃破、鎌倉幕府は滅亡する。
後醍醐天皇建武政権下において武者所頭人という要職に任じられる。家紋は大中黒。


三浦義同。生年未詳 – 1516年8月19日、東相模の武将、小大名。
父は扇谷上杉家の上杉高救。母は西相模の豪族大森氏頼の娘。
初期戦国大名の典型とされる北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主。
家紋は三つ引。


今川義元。1519年 – 1560年6月12日、駿河の守護大名・戦国大名。
駿河今川家第9代当主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる今川氏。
所領も駿河・遠江・東三河から、西三河や尾張の一部にまで拡大したが尾張に侵攻した際に桶狭間の戦いで織田信長軍の奇襲により戦死。家紋は赤鳥(左)と二引両(右)。


蘆名盛氏。1521年 – 1580年7月28日、戦国時代の陸奥の武将。
第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。
山内氏を討ち、天文19年からは会津から中通りにかけて勢力を拡大する。
その一方で、白河結城氏の白河義親の家督相続問題に介入したり、二階堂盛義を攻めて降伏させ、さらに二本松義国と同盟するなどして軍事的・政治的に勢力を拡大した。


吉川元春。1530年 – 1586年12月25日、武将。
毛利元就の次男で、毛利両川の一人。吉川国経の外孫。吉川氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉幕府御家人として安芸国に所領を得た。毛利両川の一人として、弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。生涯で76度の合戦に臨み、64度の勝利を収める。家紋は丸に三つ引両。歌手の吉川晃司は子孫と言われている(wikiより)。


足利義昭。1537年12月15日 – 1597年10月9日、室町幕府の第15代将軍
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。
織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任。後に信長と決裂し、京都を動座する。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として余生を送った。
家紋は二引両。


最上義光。1546年2月1日 – 1614年2月26日、武将・大名。
家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋。
最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長。
家紋は二引両。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国時代の武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
最も古い紋は縦三つ引き両(右上)。九曜紋(左下)は細川氏から使用許可される。竹笹紋(左上)は仙台笹、牡丹は仙台牡丹(右下)といわれる独特の形状をしている。


古田織部。1544年 – 1615年7月6日、戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子として生まれる。信長、秀吉の家臣(山城国西岡に所領3万5000石)だが、一般的には茶人として有名。利休七哲の一人に数えられる。
千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


間部詮房。1666年6月18日-1720年8月19日、江戸時代中期の側用人
6代将軍徳川家宣の側用人として活躍。新井白石とともに、「正徳の治」を断行した。
猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人として用いられ出世。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。
日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。


遠山金四郎景元。1793年9月27日 – 1855年4月15日、旗本、江戸北町奉行。
明知遠山氏の分家六代目にあたる人物。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。
正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)。
テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。
写真は杉良太郎。家紋は丸に二引き両。丸に九字直違も使用。


佐久間象山。1811年2月28日 – 1864年7月11日、武士、兵学者・思想家。
信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
私塾・象山塾には長岡藩士以外にも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが名を連ねる。
動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動し、一橋慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、尊皇攘夷派の刺客によって暗殺された。


近藤勇。1834年11月9日 – 1868年5月17日、新選組局長。晩年は幕臣。
農民宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。
幕末、京都警護のため、奔走。池田屋襲撃などにより、名を馳せる。
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れ、斬首される。京都の三条河原で梟首されたが、その後の首の行方は不明という。


松本楓湖。1840年10月9日 – 1923年6月22日、日本画家。
常陸国河内郡寺内村に生まれた。名は敬忠。通称:藤吉郎。
欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。
日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」「静女舞」等を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。


吉田稔麿。1841年3月16日 – 1864年7月8日、江戸時代後期、幕末の長州藩の活動家。
萩藩松本村新道に足軽吉田清内の嫡子として生まれる。名は栄太郎。
吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。
高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。
池田屋事件で、憤死。家紋は二引両。


新門辰五郎。1800年? – 1875年9月19日、町火消、鳶職、香具師、侠客。
父は中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の妾。
鳥羽伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れ、上野寛永寺に謹慎した際には寺の警護、上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。
歌舞伎の「め組の喧嘩」の当事者め組の辰五郎。


荻野吟子。1851年4月4日 – 1913年6月23日、医師。
武蔵国幡羅郡俵瀬村に、代々苗字帯刀を許された名主の末娘として生まれる。
近代日本における最初の女性の医師。
女性運動家としても知られ、廃娼運動に取り組む。
家紋は丸に二引両。


三木清。1897年1月5日 – 1945年9月26日、哲学者。
兵庫県揖保郡平井村小神出身。人間学を基礎とした独自のマルクス解釈を展開。
治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留される。
代表著作は『哲学入門』『人生論ノート』『哲学ノート』など。
家紋は丸の内にに三引両。


ディックミネ。1908年10月5日 – 1991年6月10日、徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手。本名は、三根 徳一
東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎(土佐中学校・高等学校・初代校長)を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つ。
代表曲は『波止場がらす』『二人は若い』『或る雨の午後』。


浜口雄幸。1870年5月1日 – 1931年8月26日、第27代内閣総理大臣
総理大臣在任中に、金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。


中勘助。1885年5月22日 – 1965年5月3日、作家・詩人。
東京神田生まれ。
1913年から1914年にかけて、漱石の推薦で自伝的小説『銀の匙』を東京朝日新聞に連載。嫌味のない美しい文章は、今なお評価が高い。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。野上弥生子の初恋の人としても知られる。


江戸川乱歩。1894年10月21日 – 1965年7月28日、小説家・推理作家。日本推理作家協会初代理事長。
代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。江戸川乱歩賞は第3回より長編推理小説の公募賞となっている。衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強かった。
祖父の代まで津藩士であったという平井家の紋は、七宝に二引両。


甘粕正彦。1891年1月26日 – 1945年8月20日、山形県出身の陸軍軍人。
甘粕事件で、軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、出獄。フランスに渡った後、満州に渡り、満州事変の陰謀に加わり、黒幕となる。
満州国民政部警務司長に就任するが、敗戦の時に新京で服毒自殺した。映画「ラストエンペラー」では坂本龍一が好演した。画像は、多磨霊園の墓所にて撮影。


古関裕而。1909年8月11日 – 1989年8月18日、作曲家。
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三」に生まれる。本名は古關 勇治。
早大応援歌「紺碧の空」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神の「六甲おろし」、巨人の「巨人軍の歌(闘魂こめて)」などの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がける。
家紋は丸に二引き。


オノ・ヨーコ。1933年2月18日 – 、前衛芸術家。平和運動家。
明治・大正期の銀行家、日本興業銀行の第4代総裁・小野英二郎の孫。
1969年、ビートルズのリーダー・ジョンレノンと結婚。レノン死後も、「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信し続け、世界各地で個展や音楽活動を行なうなど、今も精力的に活動。
画像は、多磨霊園にある小野英二郎の墓所にて撮影した一引両紋。


高橋悦史。1935年8月2日 – 1996年5月19日、俳優で、声優。
大阪府岸和田市宮本町にて、大工の息子として生まれる。
吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビューを果たす。
岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され、注目を浴びる。
出演作『日本の首領』『戦争と人間』『金環蝕』『皇帝のいない八月』など。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。
芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。
テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。
家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


ピーコ。1945年1月18日 – 、タレント、ファッション評論家。
出身地は神奈川県横浜市保土ケ谷区。
本名:杉浦 克昭。映画評論家のおすぎは一卵性双生児の弟。
古舘伊知郎のスタイリストを担当。『とくダネ!』『笑っていいとも!』に出演。
「笑っていいとも!」にて家紋は丸に三つ引であることを告白。


栃東。1976年11月9日 – 、玉ノ井部屋所属の元大相撲力士。
元関脇で現在玉ノ井親方の栃東知頼の次男として、東京都墨田区に生まれる。
最高位は大関。現在は年寄・栃東。
幕内最高優勝:3回。通算成績:560勝317敗169休(75場所)
家紋は丸に三つ引両。

まさむね



蔦紋 -遊女が好んだ優美な紋-

Friday, January 9th, 2009

蔦紋は、江戸時代におおいに広まった。
大名では、藤堂、松平、六郷などの諸氏が使用している。一方で、遊郭でも大流行。形が優美で、しかも、纏わりついて繁栄するという蔦の姿が、遊女達の心情を表現していたからであろうか。

石川県(1位)、新潟県(2位)、富山県(4位)、島根県(5位)など、日本海側の各県で使用者が多い。
逆に高知県では24位と断然少ない。また、佐賀県で16位、山梨県、長崎県で15位、青森県、岐阜県、和歌山県で14位と少ない。

使用している有名人は以下である。
何故か、政治家よりも文化人が多いのが目立つ。

藤堂高虎。1556年2月16日 – 1630年11月9日、武将・大名。
近江犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。
伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言が有名。
築城の名手としても知られている。家紋は藤堂蔦。


松永久秀。1510年 – 1577年11月19日、戦国時代の武将。
出身については、阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。
三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配。第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者。北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。一方で領国に善政を敷いた名君としても知られている。


有村次左衛門。1839年2月11日 – 1860年3月24日、幕末の尊攘派志士。
薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。
兄に後の貴族院議員・海江田信義。
大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、江戸城桜田門外で行列を襲撃した。
家紋は、変り紋であるが、一番近い浮線蔦とした。


森有礼。1847年8月23日 – 1889年2月12日、薩摩藩士・政治家、初代の文部大臣
薩摩国鹿児島城下春日小路町で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。
明治維新後に福澤諭吉、西周らと共に明六社を結成。
英語の国語化を提唱したことでも有名。
家紋は頭合わせ三つ鬼蔦。


幸田露伴。1867年8月22日 – 1947年7月30日、小説家。
第1回文化勲章受章。
五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。
尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。
娘の文も随筆家、後に小説も書いた。


東郷平八郎。1848年1月27日 – 1934年5月30日、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人。
明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。
特に、日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦でロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集めた。


谷崎潤一郎。1886年7月24日 – 1965年7月30日、小説家。
耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。
『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で、いわゆる日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。情緒的で豊潤でありつつ高い論理性を誇るその文体は、魅力的な日本語の文章が至りうるひとつの極致である。


円地文子。1905年10月2日 – 1986年11月12日、小説家。
はじめ劇作家として、小山内薫の薫陶を受けたが、処女作上演の記念パーティーの席上で小山内が倒れて死去している。女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され、文化勲章を受章するまでに至った戦前戦後を代表する、女流作家の一人である。


佐分利信。1909年2月12日 – 1982年9月22日)、俳優。
北海道空知郡歌志内村の炭鉱夫の家に生まれる。
1929年、日本映画俳優学校に入り、映画監督を目指す。上原謙、佐野周二と松竹三羽烏を結成し、翌年の三人で主演した「婚約三羽烏」が大ヒット。
代表出演作は「お茶漬けの味」「あゝ青春」「風雪二十年」「華麗なる一族」「日本の首領」。


田中義一。1864年7月25日 – 1929年9月29日、政治家。
第26代内閣総理大臣
総理大臣在任中に、張作霖爆殺事件が起き、それがもとで、昭和天皇にも「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」と強く叱責されたため内閣総辞職したという。
家紋は鬼蔦。


長谷川一夫。1908年2月27日 – 1984年4月6日、俳優。
京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。
戦前戦後の長きに渡って日本の二枚目の代名詞として大スターに君臨。
1937年に東宝に移る約束をすると松竹が雇った暴力団員に顔を切りつけられる。
代表作は『雪之丞変化』『沓掛時次郎』『忠臣蔵』など。


竹下登。1924年2月26日 – 2000年6月19日、政治家。
島根県飯石郡掛合村に竹下勇造・唯子の長男として生まれる。生家の竹下家は、江戸時代には庄屋を務め、幕末から現在まで代々造り酒屋を営む素封家。
内閣総理大臣(第74代)、衆議院議員(14期)を務めた。
タレント・ミュージシャンのDAIGOが孫にあたることは有名。竹下家の家紋は丸に蔦。


戸坂潤。1900年9月27日 – 1945年8月9日、哲学者。東京市生まれ。
京都帝国大学のマルクス主義の研究者。
西田左派に属し、1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人。
治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、栄養失調から全身疥癬に苦しめられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。家紋は丸に知り合わせ三つ蔦。


麻生三郎。1913年 – 2000年、画家。
東京都中央区に生まれる。
渡欧、独立美術協会入選後、新人画会を結成。
戦後 自由美術協会に参加。武蔵野美術学校教授
日本国際美術展優秀賞、芸術選奨文部大臣賞、自由美術協会退会後無所属。


阿佐田哲也。1929年3月28日 – 1989年4月10日、小説家、エッセイスト、雀士である。東京都新宿区出身。
本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「離婚」(直木賞受賞作品)、「麻雀放浪記」。「死んだ奴が負けだ」という「麻雀放浪記」の名セリフは、70年代に学生を過ごした世代の流行語にもなった。雀聖と呼ぶにふさわしい存在でもあった。
家紋はオリジナルな蔦紋。谷中墓地にて撮影。


いかりや長介。1931年11月1日 – 2004年3月20日、コメディアン、俳優。
東京府東京市本所区生まれ。本名、碇矢 長一。愛称は「長さん」。
父・碇矢一郎は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。
8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。
踊る大捜査線』のベテラン刑事・和久平八郎役で俳優としても認められる。


石ノ森章太郎。1938年(昭和13年)1月25日 – 1998年(平成10年)1月28日、漫画家。宮城県登米郡石森町出身。
代表作は『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』『仮面ライダー』など。500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集は、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネスブックに認定。


琴欧洲勝紀。1983年2月19日 – 、ブルガリア出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の現役大関力士。
身長202cm、体重155kg、握力120kg。長身と、懐の深さ、抜群の格闘技センスで番付を駆け上がり、初土俵から所要11場所で入幕。左上手を取ってからの強烈な投げや寄りが得意だが、総じてプレッシャーに弱いところが弱点とされている。
家紋の「蔦」は先代の伊勢ガ浜親方を継承。


林家木久扇。1937年10月19日 – 、落語家。
東京市日本橋区生まれ。東京大空襲で実家の雑貨問屋が全焼し、廃業。
1960年、落語界入り。「笑点」のレギュラーとなる。現在のメンバーで一番連続出演期間が長い。「全国ラーメン党」を結成し、「木久蔵ラーメン」を開店。かつては30店舗あったが(木久扇談)、現在は1店舗のみとなっている。家紋は「光琳の蔭蔦」。


春風亭小朝。1955年3月6日 – 、落語家、俳優。
東京都北区出身。本名は花岡 宏行。初代・林家三平の次女泰葉の元夫。
1980年に、真打昇進。36人抜きで話題となる。この記録は2008年現在未だ破られていない。
篤姫(NHK大河ドラマ)では近衛忠煕役として出演。
家紋は「光琳の蔭蔦」。(林家正蔵と同紋)

まさむね



桐紋 -日本を象徴する紋-

Friday, January 9th, 2009

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。

有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。

一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。

信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。

特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。

その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。

明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいいのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。

また、有名人でこの紋を使用する人も多い。

豊臣秀吉。1537年3月17日 – 1598年9月18日、武将・戦国大名。
家系は尾張国の百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。
織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、明智光秀柴田勝家を破り、その後も九州、北条、奥州征伐で日本全土を制圧。刀狩検地を行う。
その後、2度の朝鮮出兵を行うが失敗。桐紋を信長から下賜される。太閤桐はオリジナル。


橋本左内。1845年7月24日 – 1909年2月18日、医師。
河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。
一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。
井伊直弼が発令した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首された。
写真は、弟の橋本綱常の墓より。


板垣退助。1837年5月21日 – 1919年7月16日、土佐藩士、政治家。
高知城下中島町に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。上士身分であった。
戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として、新撰組を撃破。
自由民権運動の主導者として知られる。
100円札に肖像が用いられた。家紋は土佐桐。


海江田信義。1832年3月13 – 1906年10月27日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の長男。
1862年9月14日、生麦事件を引き起こした。
戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀として活動するが、長州藩の大村益次郎と事あるごとに対立し、大村の暗殺にも関わったと言われている。


下村観山。1873年4月10日 – 1930年5月10日、日本画家。
和歌山県和歌山市に生まれる。家紋は五三桐。
最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下ったときに行動を共にし、横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加。


五島慶太。1882年4月18日 – 1959年8月14日、日本の実業家。
東京急行電鉄(東急電鉄)の事実上の創業者。長野県小県郡出身。
会社買収などの強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪急電鉄の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。美術品のコレクターとして知られ、コレクションの公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。


山下奉文。1885年11月8日 – 1946年2月23日、日本の陸軍軍人。
第二次世界大戦当時の陸軍大将。高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。
太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本のマスコミからは「マレーの虎」と呼ばれた。シンガポールの戦いの終結時に、イギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に「イエスかノーか」と迫ったことで有名。


頭山満。1855年5月27日 – 1944年10月5日、思想家。
大正年間から昭和のはじめにかけて韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボースら、日本に亡命した革命運動家らに惜しみない援助を行った。日韓併合の際、奔走した。彼の理想は、合邦だったため、植民地化の状態には、幻滅したと言われている。アジア主義の立場で活動した国家主義者。右翼の巨頭・黒幕的存在。


安田善次郎。1838年11月25日 – 1921年9月28日、富山県富山市出身の実業家。
安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父。
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は彼の寄贈によるものである。
元々、安田家の家紋は「丸に木瓜」であったが、後に「釜敷梅鉢紋」に変更。墓所にはこの桐紋が付けられている。


芥川龍之介。1892年3月1日 – 1927年7月24日、日本の小説家。東京市京橋区出身。
羅生門」「鼻」「地獄変」「芋粥」「歯車」等代表作多数。
友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺。
死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いている。


高村光太郎。1883年3月13日 – 1956年4月2日、日本の彫刻家、評論家、詩人。東京都出身。
1929年に妻・智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。
1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
高村光太郎がこの紋ということは、妻・智恵子、父・光雲もこの紋と考えていいかと思う。


麻田駒之助。1869年10月14日 – 1948年11月24日、編集者。実業家。
中央公論社初代社長。
中央公論」は元々、西本願寺の普通教材で、民主主義など、当時としては新しい思想を積極的に取り入れ、大正デモクラシーのなかでその存在を示す。
また、築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として、力を尽くす。


宮城道雄。1894年4月7日 – 1956年6月25日、箏曲家。
兵庫県神戸市生。
クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。
作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。
十七弦の発明者としても知られる。


林芙美子。1903年12月31日 – 1951年6月28日、小説家。
林フミ子(本名)は行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に婚外子として生れる。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句はあまりにも有名。
代表作は『放浪記』 『うず潮』『めし』 など。
家紋は丸に五三桐。


東郷青児。1897年4月28日 – 1978年4月25日、日本の洋画家。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名。
東京・西新宿に東郷青児美術館(現在の損保ジャパン東郷青児美術館)がある。
この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。


東富士。1921年10月28日 – 1973年7月31日、大相撲の第40代横綱
東京市下谷区出身。本名は、井上謹一。
横綱土俵入りは迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われた。
幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715。
引退後、プロレスラーに転向したが、力道山の陰で伸び悩んだ。


池波正太郎。1923年1月25日 – 1990年5月3日、時代小説・歴史小説作家、映画評論家。
東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、。
母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。美食家としても知られ『うまいが一番』(フジテレビ)という池波作品の料理シーンを取りあげるミニ番組も制作されている。 代表作は『鬼平犯科帳』 『仕掛人・藤枝梅安』 『真田太平記』『人斬り半次郎』 等。


東野英治郎。1907年9月17日 – 1994年9月8日、俳優。
実家は日野商人(近江商人)の家系で、本宅は滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平。
長寿番組『水戸黄門』で、黄門を1969年から1983年までの足かけ14年、全381回にわたって演じた。葵御紋とは切っても切れない氏が実際は、葵紋のライバルの桐紋だったというのは皮肉である。「あばれはっちゃく」の父親役等で有名な東野英心は息子。


盛田昭夫。1921年1月26日 – 1999年10月3日、技術者、実業家。
愛知県知多郡小鈴谷村に代々続いた造り酒屋の子として生れる。
井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。
トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込む。
井深大とともにソニーを世界企業に育て上げる。


大江健三郎。1935年1月31日 – 、小説家。
愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。故郷の四国の森や知的障害のある子供(長男の大江光)という自身の体験とを重ね合わせ独自の文学世界を作り上げた。1994年ノーベル文学賞受賞。
代表作は『飼育』『同時代ゲーム』『万延元年のフットボール』等。家紋は五三の桐。


力道山。1924年11月14日 – 1963年12月15日、大相撲の力士出身のプロレスラー。
北朝鮮で生まれ、後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。
1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、廃業。
日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王座。
日本プロレス界の父と呼ばれている。


植村直己。1941年2月12日 – 1984年2月13日、登山家・冒険家。
兵庫県城崎郡日高町(現在の豊岡市)出身。実家は農家。
世界初五大陸最高峰登頂成功、北極点単独行等を果たす。
著書は、『北極点グリーンランド単独行』『冒険』『植村直己の冒険学校』など
1984年に国民栄誉賞を受賞。


太地喜和子。1943年12月2日 – 1992年10月13日、日本の女優。
和歌山県東牟婁郡太地町出身(芸名は出身地から命名)。
三國連太郎、中村勘三郎、尾上菊五郎とのロマンスが取り沙汰される。
文学座の大女優・杉村春子の後継者、実力派として活躍。
代表出演作品は『火まつり』。家紋は五三の桐。


沖雅也。1952年6月12日 – 1983年6月28日、俳優。
大分県別府市出身。本名: 日景城児。
、『おやじ、涅槃でまってる』という遺言を残して新宿京王プラザホテルの最上階(47階)より飛び降り自殺を行い、31歳の若さでこの世を去る。
代表出演作『金メダルへのターン!』『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』など。


曙太郎。1969年5月8日 – 、第64代横綱
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で東関部屋の元大相撲力士。
幕内優勝:11回。通算成績:654勝232敗181休 勝率.738 。
引退後は、格闘家、プロレスラーとして活躍。
現役横綱時代の化粧回しに桐がデザインされていた。


二代目・中村獅童。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。
代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「硫黄島からの手紙」「レッドクリフ」など。
萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。


朝青龍明徳。1980年9月27日 – 、第68代横綱
モンゴル国出身。1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学。
優勝23回。連勝:35連勝。連覇:7連覇などの記録を持つ。(2009年1月現在)
2009年初場所での優勝パレード、節分の豆まきで着用した紋付は桐だったため暫定的掲載。
ただし、その他、桜(相撲協会の紋)などの紋付の場合もあり、本人はこだわっていないようだ。

まさむね



西郷隆盛の銅像はなぜ上野の山にあるのか

Wednesday, January 7th, 2009

正月に、たけしの”教科書に載らない”日本人の謎~篤姫はなぜ上野の山に眠るのか~を見た。

東京(江戸)の真北(北辰の位置)にある日光・東照宮、鬼門にある東叡山・寛永寺、裏鬼門の増上寺等が江戸を霊的に守っていることを比較的よく知られている。
また、平将門の体の各部位を奉る神社が、以下のようにそれぞれ五街道の出発点に存在させることによって、悪鬼が江戸に侵入するのを防ごうとしたという話は、「神社の系譜」(宮元健次著)に詳しい。

首塚(首) -大手門(奥州道)
鳥越神社(手)-浅草橋門(奥州道)
神田神社(胴)-神田橋門(日光道)
世継稲荷神社(首桶)-田安門(中山道)
筑土八幡神社(足)-牛込門(中山道)
兜神社(兜) -虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) -四谷門(甲州道)

「神社の系譜」より

番組では、そういった江戸の霊的な守備陣営を紹介し、その一環として、寛永寺に13代将軍家定と篤姫が埋葬されていて、江戸を守っているという説明がされていた。
確かにその通りだろうし、興味深い話ではある。
しかし、僕としては、さらにもう一歩進めた推理を展開して欲しかったのも事実だ。

さて、上記の「神社の系譜」の最終章にはさらに面白い事実が指摘されている。
かの靖国神社(=東京招魂社)は、最初、彰義隊と官軍との戦い(上野戦争)で火の海と化した上野の寛永寺に営むことになっていたというのだ。
陸軍参与の木戸孝允がその決定をしたらしいのだが、おそらく彼は、寛永寺に換わる江戸の総鎮守として、官軍兵士を顕彰する神社を建てようとしたのだと思う。
しかし、その決定は上野戦争での功労者である大村益次郎の主張によって、現在の九段に再決定することになる。
「上野の山は、徳川軍の霊のさまよう『亡魂の地』だから」というのがその理由だったらしい。

しかし、僕は、当時の明治政府には、徳川の墓所をつぶして、その場所に自分達のための霊的施設を営むだけの自信がなかったのではないかと思う。
まだ、江戸には徳川親派が数多く潜伏している状況の中で、そのあたりに関して、センシティブにならざるを得なかったのであろう。
新政府は、上野の山には手を付けられなかったのである。
そして、その後の明治6年、この上野の山は公園として庶民に解放されることになる。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!とは、後の文学者・梶井基次郎の言葉であるが、彰義隊員の戦死の記憶は、江戸時代から有名だった上野の桜として記録されることになるのだ。

徳川の墓所は、こうして、上野に残存を許されたのである。
「篤姫はなぜ上野の山に眠るのか」と言うのならば、このあたりまで踏み込んでもらいたかった。

一方、九段には、靖国神社(=東京招魂社)が建てられるが、「神社の系譜」によると、その位置は浅草寺(寛永寺の前の江戸総鎮守)から見て、冬至の太陽が沈む方向に、そしてその参道は神田明神に続くような方角に延びているという。
すなわち、靖国神社は、浅草寺と神田明神という江戸の2大パワースポットから力をもらえるような位置、設計になっているというのである。
靖国神社は、徳川以前から存在していた江戸の地霊と真っ向対決するのではなく、協調する姿勢を見せているのだ。

ただし、その後(明治26年)、靖国神社境内に大村益次郎の銅像が建立される。
その視線は、上野の方角に向け、手には双眼鏡を持っている。
一方で地霊とは協調しながら、ここでは、逆にしっかりと徳川の霊に睨みを効かせているのが面白い。
徳川の復帰は認められないが、江戸の人々は味方に付けたかったという思惑が垣間見れるからだ。

さて、大村益次郎の銅像が建てられてから5年後、上野の山には、西郷隆盛の銅像が建てられる。
西郷と言えば、上野戦争で徳川軍を攻めた官軍の参謀であり、彰義隊を壊滅させた男である。
しかも、その後、西南戦争を起こして、新政府にとっても賊軍とされた男である。ちなみに靖国神社に彼の御霊は祭られていないのは有名な話である。
その西郷の銅像はなぜ、上野という地に建てられたのか。
一説によると西郷が上野の山によく散歩に出かけたからというが、どうも、その説には迫力が無い。

僕が思うに、日本には昔から「夷をもって夷を制す」という発想があるが、明治政府は、西郷という傑出した荒魂の力で、彰義隊の魂を未来永劫封じ込めようとしたのではないだろうか。
あるいは、敢えて、犬を連れた着流し姿という隙の多い銅像にすることによって、彰義隊にとって、いつでも殺れるようにと、西郷を差し出したのかもしれない。ようするに、徳川の霊の機嫌をとりたかったのかもしれない。そういえば、位置関係でも、南を向いている西郷像のすぐ背後に彰義隊の墓があるではないか。
申し訳ないが、僕には、ここで、真偽を語るほどの知見はない。

次回は、西郷隆盛の銅像はなぜ、上野の山にあるのか。という番組を、是非やってもらいたいと思うだけである。

まさむね

巣鴨地蔵通り商店街にある紋所

Monday, January 5th, 2009

巣鴨地蔵通り商店街はおばあちゃんの原宿と言われるだけあって、物凄い平均年齢の高い人口密集道路である。
僕は1月4日の朝9:30頃に行ってみたのだが、それでも大変な混雑だった。
    ◆
この商店街の両脇には煎餅屋とか人形焼屋とか、漬物屋、衣料品店、お土産屋などが並んでいる。
ここだけ昭和の匂いがする。
多分、他の商店街に比べて、店の人の売り声が大きいのと、値札と看板の文字も大きいからそう感じるのだろうか。

僕は、商店街にある家紋を見て歩く。
まずは、商店街に入ってすぐに左にある大きな漬物屋・河村屋さんの蕪の紋所。
おそらくこれは商標なのだろう。紋所というよりは、デザインされた社標だ。

さらに、その先にあったのが、ゼイタク煎餅と人形焼の向井商店さんの分銅紋。
この紋は、公平誤りのない心情を表すといわれ、武士魂を象徴する紋だったらしい。(「家紋を読む」能坂利雄著参照)
おそらく、向井商店さんも、商売に対する誠実さを現したかったじゃないかな?

さらに、しばらく行くと右側に塩大福のみずのさんがある。
ここの紋は、おそらくオリジナルで、水という字をデザインしたものかと思われる。

そして、その先に、とげ抜き地蔵(秘仏)があるのある高岩寺がある。
紋所は檜扇紋だ。そういえば、この商店街の提灯も檜扇が使われている。

ところで、この高岩寺は曹洞宗の寺院、だから境内には稲荷神社があった。
曹洞宗は、実はこの稲荷神社とタイアップする事によって、勢力を伸ばしたんだよね。愛知県にある豊川稲荷は、名前からすると神社だけど、実は曹洞宗の寺院なのである。豊川稲荷は江戸に進出し、大ブレイクした。
曹洞宗と言えば一般的には、厳しい禅修行の世界が思い浮かぶが、一方で、ビジネスに対して積極的であることでも知られているのだ。
例えば、ここの高岩寺のとげぬき地蔵もそうだけど、他に大船観音も曹洞宗の寺院、一般民衆へのアピール(と同時に、御布施集め)に長けている。
また、この高岩寺の近くの曹洞宗の寺院、總禅寺は手塚治虫の墓所があることで知られているが、墓地に入るだけで、線香代ということで200円かかる。
一方、昨年の11月、曹洞宗配下の駒沢大学が、投資に失敗して154億円の損出を出したという事件もあったけど...これはあんまり関係ないか。
    ◆
昨年に行った人形町以上に、庶民の街、巣鴨。
家紋も既成のものをそのまま権威として使うのではなく、わかりやすくオリジナル化しているところに特徴があった。

まさむね

花田家の家紋がいつの間にか替わった件に関して

Tuesday, December 23rd, 2008

先日、Yahooの特集に「【大相撲豪傑列伝】(13)力道山の肉を食いちぎった『土俵の鬼』初代若乃花幹士」という記事が掲載されていた。

記事の内容は、「二所ノ関部屋の兄弟子である力道山のシゴキを受けて強くなったが、けいこの途中で力道山の脛にかみつき、肉を食いちぎったことがある。力道山がプロレス転向後に黒いロングタイツをはいたのは、その傷を隠すためだったともいわれる。」とあるような武勇伝であるが、僕が気になったのは、その記事と一緒に掲載されていた写真だ。
おそらく、若乃花が優勝したときのパーティの写真(写真一番上の段)だろうが、若乃花の紋付の家紋が「丸に三つ柏」なのである。

花田家の家紋と言えば、思い出す事がある。
二子山親方(元大関貴ノ花)が亡くなった時の葬儀で、離婚した憲子さんが花田家の家紋のついた帯をしてきて、貴乃花親方(元横綱貴乃花)が激怒したあの件である。
この時、葬儀の壇上に大きく飾られた紋所は、「隅立ての四つ目結い」であった。
そして、憲子さんの帯にも「丸に隅立ての四つ目結い」が入っていたのだ。

勿論、その後、貴乃花親方、兄の三代目若乃花の正装の紋付にはこの紋が入っている。

さて、それでは何故、先代若乃花の家紋と二子山親方、あるいは貴乃花親方の家紋が違うのだろうか。
勿論、僕はここで、巷に流布している花田家に関するくだらない噂(真実の親子関係など)を云々しようとしているわけではない。
家紋というものが得てして、このように替わってしまうものだという事を確認したかっただけである。

花田家の家紋がいつの間に「丸に三つ柏」から「丸に隅立ての四つ目結い」になったのか。
そんなコロコロ替わってしまうものに対して何故、貴乃花はあれほどこだわったのか。
謎と言えば謎ではある。
しかし、それでもいいのである。
誰も真実をもって貴乃花に詰め寄るようなことはしない。
日本人というのは、おおらかなものなのである。
    ◆
本人が、これがウチの家紋だと言い張れば、それはそのウチの家紋になる。
これが、ウチの伝統だと思えば、それがウチの伝統になる。
正確な経緯とか、歴史の真実などどうでもいいのである。
例えば、井の頭公園弁財天の神紋にしても境内各所にある対い波に三つ鱗の紋の波の形が少しづつ違うではないか。
本当はどの形が正しいのかなどは野暮な疑問なのである。
これは推測であるが、二子山親方(元大関貴ノ花)が、「四つ目結い」は家族の絆の象徴だからと誰か(霊友会関係者?)に言われて、花田家の家紋として、採用しただけかもしれない。
ちなみに、和泉元彌の和泉家も「雪輪に隅立て四つ目結い」を家紋としている。
花田家、和泉家、ともに現代日本を代表する伝統芸の一家であるが、家紋の意味とは裏腹に、家族内のゴタゴタが事あるごとに漏れ伝わってきてしまうのは皮肉である。
    ◆
さて、歴史の真実と言えば、戦後、日本では戦前の日本がどうであったのかという論争がずっと続いている。
最近も、自衛隊の田母神氏の論文が問題になった。
おそらく、彼の論文に対して、真実はどうかという歴史考証のレベルで話をしてもそれほど実りがあるとは思えない。
重要なのは、田母神氏が信念を持って論文を発表したということだ。
おそらく、田母神氏が日本は決して悪くなかったと信じている。それは貴乃花が四つ目結いを伝統的に花田家の家紋であると信じているのと同じことだ。

それゆえに、もし、彼がいずれかの討論会などで完全に論破されたとしても、その後で一言つぶやくだろう。
「それでも、日本は悪くない」と。
    ◆
人が信じていることを替えさせるというのは、本当に難しいことだと思う。

まさむね

井の頭弁財天の恋人破局伝説とテレビドラマの結末

Monday, December 22nd, 2008

先日、吉祥寺の井の頭公園に行ってきた。
都会の中のオアシスという言葉があるが、まさに、そんな感じだ。

さて、井の頭公園と言えば、弁財天である。

ここの弁財天は歴史がある。
天慶年間(938-946)に清和源氏の祖・源経基が最澄作弁財天を奉納して建立したのが元だという。
その後、源頼朝が宮社を建立、新田義貞が戦勝祈願したとも伝えられている。(神社公式HPより)
さて、弁財天の神紋は、「対い波に三つ鱗の紋」。人形町の水天宮の弁財天の神紋もそうでした。
境内には、提灯、賽銭箱、手水場等、様々な所にこの紋が見られるが、それぞれ微妙に違う。

また、狛犬の古さが、この弁財天の歴史を物語る。
台座には明和八年とある。1771年のことである。この頃の狛犬は、胴長でユーモラスな御顔の創りのものが多いが、この狛犬もそうだ。
ちなみに、写真は、口をあけているので正確には、「阿形の獅子」というべきか。
    ◆
ご存知の方も多いかと思うが、井の頭公園にカップルで来ると、ここの弁財天が嫉妬して、別れさせてしまうという伝説がある。この公園はドラマロケが多い公園としても有名であるが、この公園でデートした男女がドラマの中で、その後、どうなったのかを見てみよう。

1)「愛していると言ってくれ」
1995年にTBS系で放映。主演は紘子(常盤貴子)と晃次(豊川悦司)。
この公園で何度と無く過ごす二人だが、結局は別れてしまう。
しかし、最後の何年後かのシーンで偶然再会。将来へ若干の含みは持たせてあるが...

2)「ひとり暮らし」
1996年TBS系で放映。主演は美歩(常盤貴子)、他出演は、恭子(永作博美)と高弘(高橋克典)、千勝(高橋和也)。
一方的に美歩のことが好きだった千勝は美歩を誘って、井の頭公園でデートするが、結局実らず。

3)「仔犬のワルツ」
2004年にNTV系で放映。主演は葉音(安倍なつみ)と芯也(西島秀俊)。盲目の葉音と一緒に散歩するシーンがある。
二人は、愛し合っていたが、ドラマの最後では結ばれず。
ラストシーンでは、葉音が芯也を銃で撃つ?らしい銃声が...

4)「ラストフレンズ」
2008年にCX系で放映。主演は美知留(長澤まさみ)、瑠可(上野樹里)、タケル(瑛太)。
タケルがこの公園で瑠可を抱きしめて告白するも、瑠可は性同一障害のため、永遠に実らず。

偶然なのか、意図的なのか、4つのドラマとも、愛のすれ違い、あるいは愛を超えた運命によって、カップルは結ばれることは無かった。
    ◆
ところが、この日は、日曜日。
二人で楽しそうにしているカップルが多かったこと。

まさむね