菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。
武田家はもともと、清和源氏の義光流の正統的な武家である。
菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。
武田家は、分家として、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用した。
左の画像は南部家で使用された鶴菱
すなわち、菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのだ。
全国では11位。やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。
北畠親房。1293年3月8日 – 1354年6月1日、南北朝時代の公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。
後醍醐天皇が即位すると、後醍醐の皇子世良親王の養育を託される。
吉田定房・万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。
大内義興。1477年 – 1529年1月29日、周防の戦国大名。
父は周防守護で大内氏の第29代当主・大内政弘。
幼名は亀童丸。室町幕府の管領代となって
将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ね、織田信長らが登場する前の戦国時代前期の事実上の天下人として君臨した。家紋は大内菱。
武田信玄。1521年12月1日 – 1573年5月13日、甲斐の守護大名・戦国大名。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。
越後の上杉謙信と5次にわたると言われる
川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。
晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。
左絵は、高野山持明院蔵の信玄像。花菱の衣装を着ている。
陶晴賢。1521年 – 1555年10月16日、戦国時代の武将。
大内氏の重臣・陶興房の次男として生まれる。
本姓は多々良氏。家系は大内氏の庶家・右田氏の分家にあたる。初名は隆房。
1551年に大内義隆を殺害。
厳島の戦いで
毛利元就に敗北、自害。
武勇に秀でた人物で「西国無双の侍大将」と呼ばれた。 家紋は大内菱。
内藤昌豊。1522年 – 1575年6月29日、武将。武田氏の家臣。
武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれる。
馬場信春、山県昌景、高坂昌信らとともに
武田の4名臣の1人として数えられた。
第4次
川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。家紋は丸に花菱、下り藤。
三好長慶。1522年3月10日 – 1564年8月10日、戦国時代の武将。
管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。
家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。
信長出現以前に、畿内を平定。摂津国芥川城を居城に。
将軍
足利義輝と和睦し、幕府の相判衆となり実権を握る。家紋は三階菱。
馬場信房。1515年 – 1575年6月29日、戦国時代の武将。
馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光のひ孫の源仲政を遠祖とする源姓の氏族。
武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。
武田四名臣の一人。家紋は花菱。
安国寺恵瓊。1539年 – 1600年11月6日、禅僧・大名。
安芸武田氏の一族である武田信重の子と伝わる。
毛利氏の外交僧。大友氏との和睦、秀吉への臣従する際の交渉に活躍。
関ケ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功。
西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された。家紋は武田菱。
穴山信君(梅雪)。1541年 – 1582年6月21日、戦国時代の武将。
穴山信友の嫡男として生まれる。幼名は勝千代。
穴山氏は代々武田氏と婚姻関係を結ぶ親族衆。武田姓の使用を許される名門。
武田左衛門とも称する。
武田二十四将の一人に数えられる。織田信長の甲斐侵攻による土壇場に至って勝頼を裏切り、徳川家康を通じて信長に内応した。家紋は三盛花菱。
板垣信方。1489年 – 1548年3月23日、戦国時代の武将。
武田氏の宿将として信虎の代から活躍したといわれる。
晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。「風林火山」では千葉真一(左写真)が演じる。家紋は花菱。
南部利直。1576年4月13日 – 1632年10月1日、南部氏第27代当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて生まれる。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは、領内で一揆が起こったため、帰国して1601年までに一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、
盛岡藩の藩祖となった。
家紋は割り菱(左)、南部鶴(中央)、鶴菱(右)を使用。
龍造寺隆信。1529年3月24日 – 1584年5月4日、肥前の大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男本姓は藤原氏。
“
五州太守”の称号を好んで用い、「肥前の熊」ともいわれた。
大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。家紋は日足(左)、剣花菱(中央)、杏葉(右)。
柳沢吉保。1658年- 1714年、江戸時代前期の
幕府側用人・譜代大名。
上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれる。
家系は清和源氏の流れを引く。河内源氏の支流甲斐源氏武田氏の一門。
将軍綱吉の諱の一字を与えられ、吉保と名乗る。
第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。
田中久重。1799年10月16日 – 1881年1月11日、発明家。
筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。
国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、アームストロング砲を完成。
1851年には重要文化財に指定されている「万年自鳴鐘」を完成させた。
田中製造所を設立。現在の
東芝の基礎となる。
小笠原長行。1822年6月29日 – 1891年1月25日、江戸幕府の老中。
肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として唐津城二の丸で生まれた。老中職の際、生麦事件で、幕府に無断で賠償金をイギリスに支払い、老中職を罷免される。その復職するが、第2次長州征討に際しては、小倉口の総督として指揮をとったが連敗を重ね、二度目の老中罷免。戊辰戦争では函館戦争まで戦う。幕府に忠誠を誓ったことは評価されている。
勝海舟。1823年 – 1899年1月19日、幕臣、政治家。
父は旗本小普請組の勝小吉。曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた。
幕末の動乱期、幕臣として、神戸海軍操練所の創設、
江戸城無血開城などの偉業を成し遂げる。明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍。
家紋は丸に剣花菱。
木戸孝允。1833年8月11日 – 1877年5月26日、武士・政治家。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。
1840年、7歳で向かいの桂家の末期養子となり、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「
維新の三傑」として並び称せられる。家紋は、菊葉菱。
岩崎弥太郎。1835年1月9日 – 1885年2月7日、
三菱財閥の創業者。
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人の子として生れる。
海援隊の経理を担当。
娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出。
家紋は、三階菱紋だが、生家の土蔵には三菱マークが付いている。
三条実美。1837年3月13日- 1891年2月18日、公卿、政治家。
藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。
尊皇攘夷(尊攘)派の公家として活躍。
明治国家創立期の中心人物の一人として内大臣、右大臣、太政大臣等を歴任。
家紋は、三条花角。
井上馨。1836年1月16日 – 1915年9月1日、長州藩士、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として生まれる。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。
外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。
彼の遺産を元にした井上育英会の親睦会はこの紋の名前をとって「桜菱会」という。
永倉新八。1839年5月23日 – 1915年1月5日、新撰組二番隊組長、撃剣師範。
本姓は「永倉」ではなく「長倉」。幼名は栄吉、栄治。
池田屋事件では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦。
戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが、敗れ、江戸に戻る。新選組幹部の生き残りとして、板橋に近藤勇、土方歳三の墓を建立した。
家紋は石持地抜き松皮菱。
三好学。1861年 – 1939年、植物学者、理学博士。
美濃国岩村藩出身。生まれは岩村藩江戸藩邸。
桜、菖蒲の研究、及び天然記念物保存事業に力を注いだ。
日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた。
「景観」という言葉を生み出した。
大隈重信。1838年3月11日 – 1922年1月10日、佐賀藩士、政治家、教育者。
佐賀城下会所小路に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。上士身分。
東京専門学校(現
早稲田大学)の創設。
1898年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣就任。
左写真は護国寺の墓所の手水鉢の剣花菱を撮影。
高杉晋作。1839年9月27日 – 1867年5月17日、長州藩士。
長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男として生まれる。
吉田松陰の松下村塾などで学び、攘夷論を信奉する。
下関戦争、長州征伐などで
奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍。
家紋は丸に割菱。
福地源一郎。1841年5月13日 – 1906年1月4日、ジャーナリスト、作家。
長崎で医師福地苟庵の息子として誕生。
1868年閏4月(旧暦)に江戸で「
江湖新聞」を創刊。
新政府側の怒りを買い、新聞は発禁処分となる。
立憲帝政党を結成、
東京日日新聞社長、歌舞伎座開設等を行う。
夏目漱石。1867年2月9日 – 1916年12月9日、小説家。
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生した。ご存知の通り、漫画批評家の夏目房之介氏は、漱石に孫にあたる。
代表作は『
坊ちゃん』『
我輩は猫である』『
それから』『
こころ』など。
雑司が谷墓地にある墓は大きく、見上げるような場所に菊菱紋が彫られてある。
常陸山谷右エ門。1874年1月19日 – 1922年6月19日、
第19代横綱。
旧水戸藩士であった市毛高成の長男として生れる。本名は市毛 谷。
幕内通算成績は32場所150勝15敗22分2預131休、勝率.909。〝角聖〟の異名を冠された。
引退して後は、年寄・
出羽ノ海として横綱栃木山守也以下の名力士を多数育成。
現在まで続く出羽海一門の礎を築いた。
上田敏。1874年10月30日 – 1916年7月9日、文学者、評論家、翻訳家。
旧幕臣上田絅二(けいじ)の長男として生れる。
。「山のあなたの空遠く 『幸』(さひはひ)住むと人の言ふ」(カール・ブッセ(Karl Busse))や、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine))などの訳詞は、今なお、広く知られている。
宇野円空。1885 -1949、宗教学者、民族学者。
京都生まれ。
東大教授。姉崎正治に学び、宗教民族学の分野を開拓。
学位論文「マライシアに於ける稲米儀礼」で恩賜賞を受賞。
主著「宗教学」「宗教民族学」
尾崎放哉。1885年1月20日 – 1926年4月7日、俳人。
現在の鳥取県邑美郡に士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。
季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。
代表作は「
咳をしても一人 」「墓の裏に廻る」「いれものがない両手でうける」など。
家紋は五つ松皮菱。
小笠原三九郎。1885年4月5日 – 1967年12月13日、政治家、実業家。
愛知県幡豆郡室場村(西尾市)花蔵寺町の農家に生まれる。
実業家としては極洋捕鯨社長、日本貿易振興会会長等を務める。
商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣を歴任。
家紋は、丸に三階菱。
武者小路実篤。1885年5月12日 – 1976年4月9日、小説家。
東京府東京市麹町区に公卿の家系である武者小路家に子爵の子として生まれた。武者小路家は、右大臣三条西実条の次男公種を始祖として創立。家紋も三条と同じ三条花角。
1910年には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『
白樺』を創刊。
代表作は『人間万歳』『
友情』『真理先生』など。
山屋他人。1866年4月18日 – 1940年9月10日、海軍軍人。
岩手県盛岡市に盛岡藩士山屋勝寿、ヤスの長男として生まれる。
日露戦争時に秋山真之がとったT字戦法の元となる円戦法を発案。
軍令部次長、第二艦隊司令長官などを経て第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となる。
皇太子妃雅子は曾祖父にあたる。家紋は三つ割剣花菱。
湯川秀樹。1907年1月23日 – 1981年9月8日、理論物理学者。
東京府東京市麻布区市兵衛町に地質学者・小川琢治の三男として生れる。
1949年にノーベル物理学賞を受賞した。これは日本人として初めての
ノーベル賞受賞。
核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わった。
家紋は、横木瓜に割菱。
笠置シヅ子。1914年8月25日 – 1985年3月30日、歌手、俳優。
香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)に生れる。本名:亀井静子。
戦後、「ブギの女王」として一世を風靡した。
黒澤明監督の映画『醉いどれ天使』ではキャバレーの歌手を演じる。
代表作は『
東京ブギウギ』『ジャングル・ブギー』『買物ブギー』など。
児玉誉士夫。1911年2月18日 – 1984年1月17日、右翼運動家、黒幕。
福島県安達郡本宮町出身。児玉家は、二本松藩の御典医の家だった。
ロッキード社の秘密代理人。
ロッキード事件の際に一般にその名が広く知れ渡る。
スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(後の
デヴィ夫人)を送り込んだ。
「政財界の黒幕」「フィクサー」と呼ばれた。家紋は、丸に松皮菱。
由利徹。1921年5月13日 – 1999年5月20日、喜劇俳優。
宮城県石巻市出身。本名:奥田清治(おくだ きよはる)。
南利明、八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成。
代表的一発ギャグは、「
オシャ、マンベ」「
カックン」。
代表出演作『トラック野郎 シリーズ』『ムー一族』『寺内貫太郎一家』等
林家三平。1925年11月30日 – 1980年9月20日、落語家。
7代目林家正蔵の実子で長男。
テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の異名をほしいままにした。
家紋は花菱。息子の林家正蔵、2代目林家三平、林家こん平、林家たい平も同紋。
泰葉の父。
木村庄之助(27代)。1925年12月3日 – 、大相撲の立行司。
岩手県盛岡市出身。本名は熊谷宗吉。立浪部屋所属。
木村庄之助としての在位期間は1977年11月~1990年11月。
1977年11月に51歳の若さで27代庄之助に昇格。庄之助の在位期間79場所は行司停年制実施以降では最長で、庄之助として通算1185番を裁いた。
浅利慶太。1933年3月16日- 、劇団四季創設者の一人で芸術総監督。
大叔父は二代目市川左團次。
『
キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた。
長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。
写真は、谷中霊園の浅利の実家の墓所より。
寺山修司。1935年12月10日 – 1983年5月4日、歌人、演出家、映画監督。
青森県弘前市紺屋町生まれ。 本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と言っていたが、メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
代表映画「書を捨てよ町へ出よう」「
田園に死す」など。家紋は丸に四つ目菱。
内海好江。1936年2月23日 – 1997年10月6日、漫才師。
両親は夫婦漫才師の荒川小芳、林家染寿。1945年にデビュー。
女剣劇や父娘漫才を経て、1950年に
内海桂子とコンビ結成。
ウッチャンナンチャンの師匠としても知られている。
家紋は、内海家の丸に出鉄砲松皮菱(幸龍寺の墓所で撮影)を使用か。
大野伴睦。1890年9月20日 – 1964年5月29日、政治家、衆議院議長、自民党副総裁。
岐阜県山県郡美山町(現・山県市)出身。地元岐阜県に東海道新幹線
岐阜羽島駅を誘致。
力道山を可愛がり、
プロレスのコミッショナーを務めていた。
「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」の名言を残す。
家紋は三階菱。
九代目・松本幸四郎。1942年8月19日 -、俳優、歌舞伎役者。
八代目松本幸四郎の長男。
1981年10月~11月 歌舞伎座にて『勧進帳』の弁慶役ほかで九代目松本幸四郎を襲名。
テレビドラマ「
黄金の日日」「王様のレストラン」、ミュージカル「
ラ・マンチャの男」「屋根の上のバイオリン弾き」などを好演。
森進一。1947年11月18日 – 、歌手。
山梨県甲府市生まれ。本名は森内一寛。母子家庭で育ち、各地を転々とする。
『
港町ブルース』でレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。演歌を代表する人気歌手であるとともに、常に新たな音楽の領域に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。
代表曲は『
襟裳岬』『
おふくろさん』『
冬のリビエラ』『
新宿・みなと町』等。
まさむね