Archive for the ‘歴史・家紋・散歩’ Category

扇紋 -佐竹家を800年以上も守った魔除け紋-

Thursday, January 15th, 2009

昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。

扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインはいかにも”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。

一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのはまさに、その扇の力だったのかもしれない。

扇紋は全国では、23位だ。特に突出した地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが多い。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。

扇紋を使用した有名人は以下。

佐竹義宣。佐竹氏十九代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主
天正17年(1589年)、父・義重の隠居により家督を相続する。
豊臣秀吉の小田原征伐が始まると義宣は秀吉のもとに参陣し、所領(常陸54万石)を安堵された。関が原の戦い時に、西軍の立場に立つが、父が東軍についたため、常陸水戸54万石から出羽久保田21万石へ減転封されるが、佐竹家の家名は存続する事が出来た。


長野業政。1491年 – 1561年12月28日、戦国時代の武将。
長野憲業の子として生まれる。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。
長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。
関東管領・山内上杉家に属する勢力。上野国箕輪城主
家紋は檜扇。


貝賀友信。1650年 – 1703年3月20日、赤穂四十七士の一人。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。
貝賀新兵衛の養子となる。穂藩では中小姓・蔵奉行。
吉良邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。
家紋は重ね扇。


三遊亭圓朝。1839年5月13日 – 1900年8月11日、幕末から明治期に活躍した落語家。
橘屋円太郎の子として江戸に生れる。本名は出淵 次郎吉。
歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。
芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」「四谷怪談」等を創作。言文一致体を一代で完成させ、現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇(ただし扇の骨は5本)。


金子堅太郎。1853年3月13日 – 1942年5月16日、官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として生れる。
岩倉具視欧米使節団に同行した藩主黒田長知の随行員となり、アメリカ留学。
伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画する。
専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。


北里柴三郎。1853年1月29日 – 1931年6月13日、医学者・細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。
破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。
「日本の細菌学の父」として知られる。
北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設する。


七代目・尾上菊五郎。1942年10月2日 – 、俳優、歌舞伎役者、人間国宝。
本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。
妻は、富司純子。長女は、女優の寺島しのぶ、長男は、歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。
現代歌舞伎のスターにして、三之助の一人。かつては女形中心だったが、年を増すごとに男っぽさが強くなり現在は立役中心。家紋は「重ね扇に抱き柏」。


三遊亭小遊三。1947年3月2日 -、落語家。
本名は天野 幸夫、山梨県大月市出身。
古典落語専門で、長屋ものを得意としている。
1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演。
家紋は高崎扇。


タモリ。1945年8月22日 – お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名:森田一義。
株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』『世にも奇妙な物語』でMCを務める。
「笑っていいとも!」にて家紋は丸に五本骨扇であることを告白。


藤森慎吾。1983年3月17日 – 、コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のオリエンタルラジオのツッコミ担当。
『武勇伝』ネタの知名度が圧倒的だが、しゃべくり漫才もする。
「笑っていいとも!」にて家紋は家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

まさむね



茗荷紋 -謎の神・摩多羅神のシンボル-

Thursday, January 15th, 2009

茗荷は摩多羅神という神のシンボルである。

それでは、この摩多羅神とはどういった神なのか?
最澄が唐から帰って来た時に、守護神としてついてきた神と言われている。

憤怒の神、性の神、食人の神などといろいろな説があるが、実はよくわかっていない。
ただ、不道徳と混沌の匂いがする事は確かだ。
それなのに、出雲大社、比叡山・延暦寺、日光東照宮など、名立たる日本の寺社で祭られている。

まったく不思議な存在である。
茗荷を食べると物忘れが激しくなるというが、日本人全部が、この茗荷のシンボル・摩多羅神のことを忘れてしまったということなのか。

茗荷を家紋にしている人々は心のどこかに忘れてしまった神、摩多羅神を宿しているのかもしれない。

全国では12位。岡山県と鹿児島県では5位、富山県、兵庫県では6位。一番少ない山梨県、山形県でも17位。

茗荷紋の有名人は以下。

堀尾吉晴。1544年 – 1611年7月26日、武将・大名。
父は、尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、出雲富田24万石に加増移封された。豊臣政権三中老の一人。出雲松江藩の初代藩主。松江城を建造し松江に本拠を移した。
家紋は抱き茗荷。墓には六つ目結紋、分銅紋がある。


森田草平。1881年3月19日 – 1949年12月14日、作家・翻訳家。
岐阜県方県郡鷺山村生まれ。本名森田 米松。家紋は抱き茗荷。
夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。代表作は『吉良家の人々』『細川ガラシヤ夫人』。翻訳は『カラマゾフ兄弟』『アンナ・カレニナ』等。


伊藤左千夫。1864年9月18日 – 1913年7月30日、歌人、小説家。
上総国武射郡殿台村の農家出身。本名 幸次郎。
正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。
代表作は『野菊の墓』『隣の嫁』『春の潮』など。


岡田啓介。1868年2月13日 – 1952年10月17日、軍人、政治家。第31代内閣総理大臣
福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。
二・二六事件で襲撃を受けるが、女中部屋の押入に隠れ、難を免れた。その年の3月9日、岡田内閣は総辞職した。
この家紋は、多磨霊園の墓所にて撮影。大割り抱き茗荷。


植芝盛平。1883年12月14日 – 1969年4月26日、合気道の創始者。
和歌山県田辺市の農家に生まれる。
宗教団体大本に入信し「植芝塾」道場を開設。
出口王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武道」と呼称した。
合気道関係者は開祖、特に古い高弟は大先生、翁先生と呼ぶことが多い。


本間雅晴。1887年11月27日 – 1946年4月3日、陸軍軍人・陸軍中将。
本間賢吉の長男として新潟県佐渡島に生れる。
太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。
バターンでは米比軍の頑強な攻撃を受け、多数の死者を出し作戦に失敗する。
マニラ軍事裁判において法務死。


保利茂。1901年12月20日 – 1979年3月4日、政治家、内閣官房長官。
生家は佐賀県東松浦郡鬼塚村(現唐津市)の零細農家。
佐藤派の大番頭と呼ばれ、佐藤政権において田中角栄・福田赳夫と並ぶ三本柱として内閣官房長官、自民党幹事長を務めた。また、三木武夫内閣当時「三木おろし」を画策した。
文部大臣、自治大臣、政調会長を務めた衆議院議員の保利耕輔は息子。


升田幸三。1918年3月21日 – 1991年4月5日、将棋棋士。
広島県双三郡三良坂町(現三次市)出身。
実力制第4代名人。木見金治郎九段門下。
三冠独占などの輝かしい戦績は勿論のこと、その独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は、将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。「将棋は創作だ」等の名言がある。


角川春樹。1942年1月8日 – 、実業家、映画監督、映画プロデューサー。
富山県中新川郡水橋町に生まれ、東京都杉並区に育つ。
父は角川書店創業者の角川源義(画像は源義の墓所)。角川家は富裕な米穀問屋。
1970年代後半から1980年代にかけて、いわゆる角川映画で一世を風靡。
メディアミックスによるエンターテイメント中心の文庫戦略は文庫本のあり方に変革をもたらす。


稲垣浩。1905年12月30日 – 1980年5月21日、映画監督。
東京本郷区駒込千駄木町に、小芝居小屋の俳優の息子として生まれる。
1934年、山中貞雄らと会社の枠を超えたシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成。
三船敏郎主演の『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。
代表作は、『無法松の一生』『宮本武蔵』『風林火山』等。


牧野富太郎。1862年5月22日 – 1957年1月18日、植物学者。
土佐国佐川村の裕福な商家にうまれる。
命名は2500種以上、自らの新種発見も600種余りとされる。
25歳で、津村順天堂の協力を得て、『植物研究雑誌』[を創刊。
誕生日は「植物学の日」に制定される。


水谷八重子(初代)。1905年8月1日 – 1979年10月1日、女優。
東京牛込区神楽坂に、時計店の娘として生れる。芸術座の舞台に端役で出演。
後に、新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。
「日本芸術院賞」「紫綬褒章」「文化功労者」などを受賞。
家紋は「一つ茗荷巴」。


松村謙三。1883年1月24日 – 1971年8月21日、政治家。
富山県福光町(現在の南砺市)出身。
衆議院議員選挙に通算13回当選。厚生大臣・農林大臣・文部大臣を歴任。
幣原内閣の農相として農地改革を提案推進した。松村自身の土地もこの時没収されている。
環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力。


田中六助。1923年1月23日 – 1985年1月31日、政治家。
福岡県田川郡上野村に布団屋の三男として生まれる。遠賀川沿いに住む人を「川筋者」といい、侠客めいた気性で知られるが、田中自身も典型的な川筋者として育った。
鈴木内閣成立の裏の立役者とされる。
自民党政務調査会長、通商産業大臣、自民党幹事長を歴任する。


三島由紀夫。1925年1月14日 – 1970年11月25日、小説家・劇作家。
本名・平岡公威。平岡家の墓は、兵庫県加古川市にある。
代表作は、『仮面の告白』『禁色』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など。
1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促すが、失敗し、割腹自殺。
しかし、この事件は世間を騒然とさせ、「檄文」は現在でもまだ影響力を持つといわれている。


向田邦子。1929年11月28日 – 1981年8月22日、テレビドラマ脚本家、小説家。
東京府荏原郡世田ヶ谷町若林生まれ。父親が転勤族であるため、日本各地で育つ。
代表作は、ドラマ脚本では『時間ですよ』『阿修羅のごとく』、小説では『あ・うん』『だいこんの花』等。他界後20年以上を経た今もなお、自分の好きなものと徹底して向き合うライフスタイルが注目を浴びている。


うつみ宮土理。1943年10月1日 -、タレント、女優。
東京都世田谷区出身、本名:内海 三重子。愛称は「ケロンパ」。
代表出演ドラマ「おくさまは18歳」「なんたって18歳!」
夫は、「キンキン」こと愛川欽也。
出演バラエティ「ロンパールーム」「さんまのSUPERからくりTV」「情報ライブ ミヤネ屋」等。


日馬富士。1984年4月14日 – 、
モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋所属。
本名:ダワーニャム ビャンバドルジ。
2009年1月場所から大関として活躍。
幕内最軽量の力士。尊敬している力士は初代貴ノ花。

まさむね



菱紋 -武家の正統としてのプライドと信玄の威光-

Thursday, January 15th, 2009

菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。

武田家はもともと、清和源氏の義光流の正統的な武家である。
菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。
武田家は、分家として、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用した。
左の画像は南部家で使用された鶴菱

すなわち、菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのだ。
全国では11位。やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。

北畠親房。1293年3月8日 – 1354年6月1日、南北朝時代の公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。
後醍醐天皇が即位すると、後醍醐の皇子世良親王の養育を託される。
吉田定房・万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


大内義興。1477年 – 1529年1月29日、周防の戦国大名。
父は周防守護で大内氏の第29代当主・大内政弘。
幼名は亀童丸。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ね、織田信長らが登場する前の戦国時代前期の事実上の天下人として君臨した。家紋は大内菱。


武田信玄。1521年12月1日 – 1573年5月13日、甲斐の守護大名・戦国大名。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。
越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。
晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。
左絵は、高野山持明院蔵の信玄像。花菱の衣装を着ている。


陶晴賢。1521年 – 1555年10月16日、戦国時代の武将。
大内氏の重臣・陶興房の次男として生まれる。
本姓は多々良氏。家系は大内氏の庶家・右田氏の分家にあたる。初名は隆房。
1551年に大内義隆を殺害。厳島の戦い毛利元就に敗北、自害。
武勇に秀でた人物で「西国無双の侍大将」と呼ばれた。 家紋は大内菱。


内藤昌豊。1522年 – 1575年6月29日、武将。武田氏の家臣。
武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれる。
馬場信春、山県昌景、高坂昌信らとともに武田の4名臣の1人として数えられた。
第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。家紋は丸に花菱、下り藤。


三好長慶。1522年3月10日 – 1564年8月10日、戦国時代の武将。
管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。
家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。
信長出現以前に、畿内を平定。摂津国芥川城を居城に。
将軍足利義輝と和睦し、幕府の相判衆となり実権を握る。家紋は三階菱。


馬場信房。1515年 – 1575年6月29日、戦国時代の武将。
馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光のひ孫の源仲政を遠祖とする源姓の氏族。
武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。
武田四名臣の一人。家紋は花菱。


安国寺恵瓊。1539年 – 1600年11月6日、禅僧・大名。
安芸武田氏の一族である武田信重の子と伝わる。
毛利氏の外交僧。大友氏との和睦、秀吉への臣従する際の交渉に活躍。
関ケ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功。
西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された。家紋は武田菱。


穴山信君(梅雪)。1541年 – 1582年6月21日、戦国時代の武将。
穴山信友の嫡男として生まれる。幼名は勝千代。
穴山氏は代々武田氏と婚姻関係を結ぶ親族衆。武田姓の使用を許される名門。
武田左衛門とも称する。武田二十四将の一人に数えられる。織田信長の甲斐侵攻による土壇場に至って勝頼を裏切り、徳川家康を通じて信長に内応した。家紋は三盛花菱。


板垣信方。1489年 – 1548年3月23日、戦国時代の武将。
武田氏の宿将として信虎の代から活躍したといわれる。
晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。「風林火山」では千葉真一(左写真)が演じる。家紋は花菱。


南部利直。1576年4月13日 – 1632年10月1日、南部氏第27代当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて生まれる。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは、領内で一揆が起こったため、帰国して1601年までに一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。
家紋は割り菱(左)、南部鶴(中央)、鶴菱(右)を使用。


龍造寺隆信。1529年3月24日 – 1584年5月4日、肥前の大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男本姓は藤原氏。
五州太守”の称号を好んで用い、「肥前の熊」ともいわれた。
大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。家紋は日足(左)、剣花菱(中央)、杏葉(右)。


柳沢吉保。1658年- 1714年、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。
上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれる。
家系は清和源氏の流れを引く。河内源氏の支流甲斐源氏武田氏の一門。
将軍綱吉の諱の一字を与えられ、吉保と名乗る。
第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。


田中久重。1799年10月16日 – 1881年1月11日、発明家。
筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。
国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、アームストロング砲を完成。
1851年には重要文化財に指定されている「万年自鳴鐘」を完成させた。
田中製造所を設立。現在の東芝の基礎となる。


小笠原長行。1822年6月29日 – 1891年1月25日、江戸幕府の老中。
肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として唐津城二の丸で生まれた。老中職の際、生麦事件で、幕府に無断で賠償金をイギリスに支払い、老中職を罷免される。その復職するが、第2次長州征討に際しては、小倉口の総督として指揮をとったが連敗を重ね、二度目の老中罷免。戊辰戦争では函館戦争まで戦う。幕府に忠誠を誓ったことは評価されている。


勝海舟。1823年 – 1899年1月19日、幕臣、政治家。
父は旗本小普請組の勝小吉。曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた。
幕末の動乱期、幕臣として、神戸海軍操練所の創設、江戸城無血開城などの偉業を成し遂げる。明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍。
家紋は丸に剣花菱。


木戸孝允。1833年8月11日 – 1877年5月26日、武士・政治家。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。
1840年、7歳で向かいの桂家の末期養子となり、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。家紋は、菊葉菱。


岩崎弥太郎。1835年1月9日 – 1885年2月7日、三菱財閥の創業者。
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人の子として生れる。
海援隊の経理を担当。
娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出。
家紋は、三階菱紋だが、生家の土蔵には三菱マークが付いている。


三条実美。1837年3月13日- 1891年2月18日、公卿、政治家。
藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。
尊皇攘夷(尊攘)派の公家として活躍。
明治国家創立期の中心人物の一人として内大臣、右大臣、太政大臣等を歴任。
家紋は、三条花角。


井上馨。1836年1月16日 – 1915年9月1日、長州藩士、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として生まれる。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。
外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。
彼の遺産を元にした井上育英会の親睦会はこの紋の名前をとって「桜菱会」という。


永倉新八。1839年5月23日 – 1915年1月5日、新撰組二番隊組長、撃剣師範。
本姓は「永倉」ではなく「長倉」。幼名は栄吉、栄治。
池田屋事件では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦。戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが、敗れ、江戸に戻る。新選組幹部の生き残りとして、板橋に近藤勇、土方歳三の墓を建立した。
家紋は石持地抜き松皮菱。


三好学。1861年 – 1939年、植物学者、理学博士。
美濃国岩村藩出身。生まれは岩村藩江戸藩邸。
桜、菖蒲の研究、及び天然記念物保存事業に力を注いだ。
日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた。
「景観」という言葉を生み出した。


大隈重信。1838年3月11日 – 1922年1月10日、佐賀藩士、政治家、教育者。
佐賀城下会所小路に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。上士身分。
東京専門学校(現早稲田大学)の創設。
1898年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣就任。
左写真は護国寺の墓所の手水鉢の剣花菱を撮影。


高杉晋作。1839年9月27日 – 1867年5月17日、長州藩士。
長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男として生まれる。
吉田松陰の松下村塾などで学び、攘夷論を信奉する。
下関戦争、長州征伐などで奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍。
家紋は丸に割菱。


福地源一郎。1841年5月13日 – 1906年1月4日、ジャーナリスト、作家。
長崎で医師福地苟庵の息子として誕生。
1868年閏4月(旧暦)に江戸で「江湖新聞」を創刊。
新政府側の怒りを買い、新聞は発禁処分となる。
立憲帝政党を結成、東京日日新聞社長、歌舞伎座開設等を行う。


夏目漱石。1867年2月9日 – 1916年12月9日、小説家。
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生した。ご存知の通り、漫画批評家の夏目房之介氏は、漱石に孫にあたる。
代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『それから』『こころ』など。
雑司が谷墓地にある墓は大きく、見上げるような場所に菊菱紋が彫られてある。


常陸山谷右エ門。1874年1月19日 – 1922年6月19日、第19代横綱
旧水戸藩士であった市毛高成の長男として生れる。本名は市毛 谷。
幕内通算成績は32場所150勝15敗22分2預131休、勝率.909。〝角聖〟の異名を冠された。
引退して後は、年寄・出羽ノ海として横綱栃木山守也以下の名力士を多数育成。
現在まで続く出羽海一門の礎を築いた。


上田敏。1874年10月30日 – 1916年7月9日、文学者、評論家、翻訳家。
旧幕臣上田絅二(けいじ)の長男として生れる。
。「山のあなたの空遠く 『幸』(さひはひ)住むと人の言ふ」(カール・ブッセ(Karl Busse))や、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine))などの訳詞は、今なお、広く知られている。


宇野円空。1885 -1949、宗教学者、民族学者。
京都生まれ。
東大教授。姉崎正治に学び、宗教民族学の分野を開拓。
学位論文「マライシアに於ける稲米儀礼」で恩賜賞を受賞。
主著「宗教学」「宗教民族学」


尾崎放哉。1885年1月20日 – 1926年4月7日、俳人。
現在の鳥取県邑美郡に士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。
季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。
代表作は「咳をしても一人 」「墓の裏に廻る」「いれものがない両手でうける」など。
家紋は五つ松皮菱。


小笠原三九郎。1885年4月5日 – 1967年12月13日、政治家、実業家。
愛知県幡豆郡室場村(西尾市)花蔵寺町の農家に生まれる。
実業家としては極洋捕鯨社長、日本貿易振興会会長等を務める。
商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣を歴任。
家紋は、丸に三階菱。


武者小路実篤。1885年5月12日 – 1976年4月9日、小説家。
東京府東京市麹町区に公卿の家系である武者小路家に子爵の子として生まれた。武者小路家は、右大臣三条西実条の次男公種を始祖として創立。家紋も三条と同じ三条花角。
1910年には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。
代表作は『人間万歳』『友情』『真理先生』など。


山屋他人。1866年4月18日 – 1940年9月10日、海軍軍人。
岩手県盛岡市に盛岡藩士山屋勝寿、ヤスの長男として生まれる。
日露戦争時に秋山真之がとったT字戦法の元となる円戦法を発案。
軍令部次長、第二艦隊司令長官などを経て第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となる。
皇太子妃雅子は曾祖父にあたる。家紋は三つ割剣花菱。


湯川秀樹。1907年1月23日 – 1981年9月8日、理論物理学者。
東京府東京市麻布区市兵衛町に地質学者・小川琢治の三男として生れる。
1949年にノーベル物理学賞を受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞。
核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わった。
家紋は、横木瓜に割菱。


笠置シヅ子。1914年8月25日 – 1985年3月30日、歌手、俳優。
香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)に生れる。本名:亀井静子。
戦後、「ブギの女王」として一世を風靡した。
黒澤明監督の映画『醉いどれ天使』ではキャバレーの歌手を演じる。
代表作は『東京ブギウギ』『ジャングル・ブギー』『買物ブギー』など。


児玉誉士夫。1911年2月18日 – 1984年1月17日、右翼運動家、黒幕。
福島県安達郡本宮町出身。児玉家は、二本松藩の御典医の家だった。
ロッキード社の秘密代理人。ロッキード事件の際に一般にその名が広く知れ渡る。
スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(後のデヴィ夫人)を送り込んだ。
「政財界の黒幕」「フィクサー」と呼ばれた。家紋は、丸に松皮菱。


由利徹。1921年5月13日 – 1999年5月20日、喜劇俳優。
宮城県石巻市出身。本名:奥田清治(おくだ きよはる)。
南利明、八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成。
代表的一発ギャグは、「オシャ、マンベ」「カックン」。
代表出演作『トラック野郎 シリーズ』『ムー一族』『寺内貫太郎一家』等


林家三平。1925年11月30日 – 1980年9月20日、落語家。
7代目林家正蔵の実子で長男。
テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の異名をほしいままにした。
家紋は花菱。息子の林家正蔵、2代目林家三平、林家こん平、林家たい平も同紋。泰葉の父。


木村庄之助(27代)。1925年12月3日 – 、大相撲の立行司。
岩手県盛岡市出身。本名は熊谷宗吉。立浪部屋所属。
木村庄之助としての在位期間は1977年11月~1990年11月。
1977年11月に51歳の若さで27代庄之助に昇格。庄之助の在位期間79場所は行司停年制実施以降では最長で、庄之助として通算1185番を裁いた。


浅利慶太。1933年3月16日- 、劇団四季創設者の一人で芸術総監督。
大叔父は二代目市川左團次。
キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた。
長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。
写真は、谷中霊園の浅利の実家の墓所より。


寺山修司。1935年12月10日 – 1983年5月4日、歌人、演出家、映画監督。
青森県弘前市紺屋町生まれ。 本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と言っていたが、メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
代表映画「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」など。家紋は丸に四つ目菱。


内海好江。1936年2月23日 – 1997年10月6日、漫才師。
両親は夫婦漫才師の荒川小芳、林家染寿。1945年にデビュー。
女剣劇や父娘漫才を経て、1950年に内海桂子とコンビ結成。
ウッチャンナンチャンの師匠としても知られている。
家紋は、内海家の丸に出鉄砲松皮菱(幸龍寺の墓所で撮影)を使用か。


大野伴睦。1890年9月20日 – 1964年5月29日、政治家、衆議院議長、自民党副総裁。
岐阜県山県郡美山町(現・山県市)出身。地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致。
力道山を可愛がり、プロレスのコミッショナーを務めていた。
「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」の名言を残す。
家紋は三階菱。


九代目・松本幸四郎。1942年8月19日 -、俳優、歌舞伎役者。
八代目松本幸四郎の長男。
1981年10月~11月 歌舞伎座にて『勧進帳』の弁慶役ほかで九代目松本幸四郎を襲名。
テレビドラマ「黄金の日日」「王様のレストラン」、ミュージカル「ラ・マンチャの男」「屋根の上のバイオリン弾き」などを好演。


森進一。1947年11月18日 – 、歌手。
山梨県甲府市生まれ。本名は森内一寛。母子家庭で育ち、各地を転々とする。
港町ブルース』でレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。演歌を代表する人気歌手であるとともに、常に新たな音楽の領域に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。
代表曲は『襟裳岬』『おふくろさん』『冬のリビエラ』『新宿・みなと町』等。

まさむね



鶴紋 -最も優美で華やかな紋-

Thursday, January 15th, 2009

多くの家紋の中で最もデザインが優れた家紋はおそらく、鶴の丸紋であろう。

その証拠にこの紋のデザインは様々に、変形され、社章などになって進化しているのである。
一番有名なのが、日本航空の鶴のマークだ。
既に、JASとの合併によって、この鶴の丸が機体についた飛行機は姿を消してしまったが、いまだに我々の心の中に残っている。
もともと、日航が社章を作るときに、フランスの高名なデザイナーに依頼したのだが、そのデザイナーから「日本の伝統にも素晴らしいものがある」と切り返され、鶴の丸をベーシックデザインとして採用したとの話が伝わっている。

また、清酒・白鶴のイメージも鶴の丸の影響を受けている。
鶴の首の方向、円の歪みなど、いくつかの点で異なっているが、鶴の丸をもとにしたデザインであることは確かなようだ。
白鶴酒造公式HPにはこのマークについて以下のような記載がある。

シンボルマークは、白鶴酒造が伝統的に使用してきた商標名「白鶴」を、現代的に感動あふれる形で表現したものです。
この躍動感あふれるフォルムは、力強い翼で鶴が天高く飛翔する姿を示しています。翼は鶴の頭部を保護するように楕円形になっており、日輪のような羽がダイナミックな感じを与えています。
このシンボルマークは昭和54年、業界に先駆けてCI(コーポレート・アイデンティティー)システムを導入した際に、スローガン「時をこえ 親しみの心をおくる」とともに設定されました。
現在では、このマークは多くの人々から認知され、親しまれており、日本のCIの代表例の一つとされています。

さらに、鶴の丸は、日蓮宗の寺紋としても知られている。
寺紋を見るには、門の脇の塀の端に瓦を見るのが一番わかりやすい。
写真は、「恐れ入りやの鬼子母神」で有名な真源寺の寺紋だ。
ちなみに、真源寺が所属する本門流には、信長が討たれた本能寺も所属している。

さて、鶴紋の普及に関してであるが、全国で29位、決して多くは無い。ただ、青森県だけは12位と多いようだ。
確かに、鶴紋を使用していた南部家から別れた津軽家の領地だったという事が一因かもしれないが、南部家の本家である岩手県ではそれほど多くない(29位)を考えるとそうともいえないかも。その他、比較的に多い地域は、北海道(21位)、秋田県(21位)、宮城県(22位)、愛媛県(22位)、広島県(25位)、福井県(26位)、徳島県(26位)。

さて、鶴紋を使用している有名人だが、以下。

日野富子。1440年5月20日- 1496年6月30日、室町幕府8代将軍足利義政の正室。
山城国(京都府)の生まれ。室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身。
応仁の乱の時代、関所、米相場、高利貸しからの賄賂等で得た彼女の財力によって室町幕府が運営されていた。
NHK大河「花の乱」の主役として三田佳子が演じた。


森蘭丸。戦国時代の戦国武将。
家系は清和源氏のひとつ河内源氏の棟梁 源義家の七男(六男とも)源義隆を祖とする森氏。
信長と衆道の関係にあったとされる。そのため、稚児・児小姓として信長に優遇されたとの俗説が広く流布している。
本能寺の変で主君・信長とともに討ち取られた。


南部利直。1576年4月13日 – 1632年10月1日、南部氏第27代当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて生まれる。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは、領内で一揆が起こったため、帰国して1601年までに一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。
家紋は割り菱(左)、南部鶴(中央)、鶴菱(右)を使用。


蒲生氏郷。1556年 – 1595年3月17日、武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主
またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。
家紋は蒲生対い鶴。


関孝和。1642年3月? – 1708年12月5日、江戸時代の和算家(数学者)。
本姓内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。家紋は鶴の丸。若くして関家の養子となる。幼少時から独学し、高度な数学を学ぶ。『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念をヨーロッパより早い時期に提案したことはよく知られる。円周率を小数第11位まで算出した。


杉田玄白。1733年10月20日 – 1817年6月1日、江戸時代の蘭学医。
江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれる。
杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系だが家紋は鶴の丸。
前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を和訳し、『解体新書』として刊行。
回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊される。


大鳥圭介。1833年4月14日 – 1911年)6月15日、幕臣、官僚。
播磨国赤穂郡赤松村の医師・小林直輔の子として生まれる。
戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて宇都宮や今市、会津を転戦。
榎本武揚と合流するが、箱館五稜郭で降伏して投獄された。
出獄後、新政府に出仕して殖産興業政策に貢献した。


太宰治。1909年6月19日 – 1948年6月13日、小説家。
青森県北津軽郡金木村に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)の6男・津島修治として生まれた。
太宰自身「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。」(「苦悩の年鑑」にて)と述べている。
代表作は「斜陽」「人間失格」「走れメロス」など。


網野善彦。1928年1月22日 – 2004年2月27日、歴史学者。
山梨県東八代郡御坂町にて、江戸時代から続く地主の末男として誕生。
中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に大きな影響を与えた。代表作品「異形の王権」「日本中世の非農業民と天皇」など。


魁皇博之。1972年7月24日 -、現役の大関。(2009年1月時点)
福岡県直方市出身で友綱部屋所属。本名は古賀博之。
幕内在位92場所は、大関在位51場所は、ともに史上2位。
優勝5回、殊勲賞10回、敢闘賞5回、金星6個。
家紋は「向かい鶴」。


渡辺小五郎必殺仕事人2009に出てくる南町奉行所見廻り同心。
東山紀之が演じる。
普段は、事なかれ主義の情けない同心だが、仕事人としての腕は一流。
渡辺という姓に対応する紋は一般的には三星に一の字の”渡辺星”であるがここではおしゃれな、六角光琳鶴を使用している。

まさむね



桔梗紋 -反骨と悲劇の紋-

Wednesday, January 14th, 2009

桔梗紋は反骨と悲劇の紋である。

元々は、清和源氏流土岐氏の使用紋であった。
一族の明智光秀は、主君の織田信長を襲撃した本能寺の変の後、豊臣秀吉との山崎の合戦に破れ、最期は土民の竹槍にさされて死んだ。
水色の桔梗紋は、明智の印として、栄光の目印から一気に、反逆の、そして悲劇のイメージを帯びるようになった。

時が経ち、その水色の桔梗紋をシンボルマークとして、急成長するも、最終的に倒産してしまった会社が現れる。
英会話のNOVAである。
NOVAは英会話産業というニッチな市場を、「駅前留学」というコンセプトで開拓。時代の寵児ともてはやされた。
しかし、その急成長の影で会員との間で様々なトラブルが発生していたのだ。

それが元で悪評判が広まり、一方で社内の不正も発覚。急速に収益が悪化、一気に倒産してしまった。
その後、名古屋市の学習塾経営会社、ジー・コミュニケーションが事業引継を行うのだが、NOVAから桔梗のマークは消えた。

桔梗紋の全国分布では、鹿児島が3位、和歌山が6位、本家の岐阜では7位である。

桔梗紋の有名人は以下。

太田道灌。1432年 – 1486年8月25日、武将。武蔵国守護代。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。
扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。最期は暗殺死。家紋は丸に細桔梗。


山県昌景。1529年 – 1575年6月29日、武将。
飯富虎昌の弟とされている。旧名は飯富源四郎。はじめ武田信玄の近習として仕える。
武田軍が圧勝した三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康本陣に突進し、武田軍の背後を狙ったはずの家康軍を返り討ちにした。
長篠の戦いでは撤退を進言したが容れられず、体中に銃弾を浴びて戦死する。


明智光秀。1528年 – 1582年7月2日、武将。
明智氏の本姓は源氏。美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流。
家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流と言われている。
信長の家臣として功を重ね、織田大名の総合指揮権を与えられた。
本能寺の変で信長を倒すが、山崎の合戦で秀吉に破れ、最期は土民の竹槍に突かれて死す。


加藤清正。1562年 – 1611年、武将・大名。
尾張の鍛冶屋の子として、尾張国愛知郡中村に生まれる。
豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し。秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。
関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。
家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は供養塔(本門寺)で撮影。


坂本龍馬。1836年1月3日 – 1867年12月10日、幕末の日本の政治家・実業家。
清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智左馬助秀満の末裔を称する。
土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動したが暗殺される。
龍馬の桔梗紋は、「組合角に桔梗紋」。


大村益次郎。1824年5月30日 – 1869年12月7日、長州藩の医師、西洋学者、兵学者。
周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に村医の村田孝益の息子として生れる。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となったが暗殺される。事実上の日本陸軍の創始者。靖国神社の境内(参道)に銅像が建っている。
NHK大河ドラマ「花神」の主人公。原作は司馬遼太郎。


山岡鉄舟。1836年7月23日 – 1888年7月19日、武士・幕臣。
江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。
江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、西郷と会談。
その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。


川上眉山。1869年4月16日- 1908年6月15日、小説家。
大阪生まれ。本名・亮。別号、煙波山人。
帝国大学文科大学在学中から創作をし、「墨染桜」で注目される。
「書記官」、随筆「ふところ日記」などが代表作。
39歳という若さで自殺。家紋は丸に桔梗。


正宗白鳥。1879年3月3日 – 1962年10月28日、劇作家、文学評論家。小説家。
岡山県和気郡穂浪村に生まれる。江戸時代の正宗家は代々網元であり、高祖父の雅明の代までは材木商も営んだ財産家であった。本名は正宗忠夫。
自然主義文学に新分野を開き注目された。代表作は『何処へ』『人間嫌ひ』『銀座風景』等。家紋は、桔梗。


野呂栄太郎。1900年4月30日 – 1934年2月19日、マルクス経済学者。
北海道長沼町に生れる。
戦前の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに党幹部として実践活動にも関わった。
1933年11月、スパイの手引きで検挙され、品川警察署での拷問により病状が悪化し、絶命。
『日本資本主義発達史』が主著として有名。


東儀鉄笛。1869年7月24日 – 1925年2月14日、雅楽家・作曲家・俳優。
1300年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内庁雅楽寮に勤める。同じ姓でも、江戸幕府に仕えた楽師の末裔にあたる雅楽演奏家・東儀秀樹とは別家系。「都の西北 早稲田の森に…」の歌い出しで有名な早稲田大学校歌の作曲者として知られている。
家紋は、桔梗の花弁の間に剣を配する「丸に剣桔梗」。


柳田國男。1875年7月31日 – 1962年8月8日、民俗学者。
兵庫県神東郡田原村辻川に儒者・松岡操の六男として生まれる。松岡家は代々の医家。
柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(旧・飯田藩士)は大審院判事であった。
農商務省のエリート官僚という立場で日本民俗学を確立する。
代表作は『遠野物語』『山の人生』等。家紋は大の字桔梗。


小池朝雄。1931年3月18日 – 1985年3月23日、俳優、声優。
東京都出身。オーバーアクションの怪優として映画、テレビに脇役として数多く出演。『仁義なき戦い』シリーズを始めとする東映ヤクザ映画で印象を残す。また、勝新太郎にたいへん気に入られ、勝製作の映画、ドラマの常連でもあった。『刑事コロンボ』の吹き替え、『あしたのジョー』のエンディング・テーマ『ジョーの子守唄』では歌手での歌手としても知られている。


山田康雄。1932年9月10日 – 1995年3月19日、俳優、声優、テレビ司会者。代々役人の家系で、父は日本銀行勤務であった。劇団民藝、テアトルエコーなどの劇団を渡り歩くが、海外テレビドラマ『ローハイド』の吹き替えにおいてクリント・イーストウッド演じるロディ役に抜擢され、一躍有名になった。一般に「ルパン三世の山田康雄」として知られていたが、風貌までルパンに似ていた。映画では、ジャン・ポール・ベルモンド、ピーターフォンダの吹き替えもしている。


14代・井筒。1961年6月18日 – 、元大相撲力士、親方。
鹿児島県姶良郡加治木町出身。鶴ヶ嶺(元関脇)の次男。本名は、福薗 好昭。
最高位は関脇。「相撲巧者」と言われ、技能賞の常連となる。
井筒3兄弟と言われ、長兄が鶴嶺山、次男が逆鉾、三男が寺尾。
現在は年寄・井筒を襲名し、井筒部屋で後進の指導に当たっている。


SHOCK EYE。1976年12月14日 – 、レゲエミュージシャン。
神奈川県鎌倉市出身。血液型A型。本名:植村家浩。初代高取藩の藩主:植村氏の末裔。
人気レゲエグループ「湘南乃風」のファッションリーダー。
湘南乃風代表作品『カラス』『純恋歌』『黄金魂』『睡蓮花』等。
家紋は、丸に竜剣に一文字、「植村桔梗」とも呼ばれている。

まさむね



梅紋 -菅原道真の霊の魂が眠っている紋-

Wednesday, January 14th, 2009

梅紋は菅原道真の象徴である。

平安時代、右大臣にまで上り詰めた道真は、藤原時平の讒言のせいで大宰府に左遷され、そこで亡くなった。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

かの地で詠んだ有名なこの歌の力で、梅が京都から飛んできたという。
しかし、道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになった。
そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として現在まで篤い信仰の対象となっている。

したがって、梅紋あるいは、梅鉢紋は、天神信仰と関係があるか、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用した。
有名なのは加賀の前田の梅鉢紋。元々は利仁流藤原氏の一族とされていたが、後に菅原氏の子孫と自称。
天神信仰が盛んだった加賀地方を治めるために、梅鉢紋を利用したとの見方もある。

優雅なデザインの底に怨霊の魂が眠っている奥深い紋である。

全国では7位。多い地域では、山口県と鹿児島県が3位。広島県、佐賀県、熊本県が4位。
逆に、江戸時代に前田氏が統治した石川県、富山県では少ない。庶民が藩主の紋をはばかったためとのこと。

芸術家が多いのが目立つ。武将としてもどちらかと言えば文化の香りが高い人々が名を連ねている。これは菅原道真とのつながりを意識した振る舞いがあるのか??

梅紋・梅鉢紋の有名人は以下。

前田利家。1539年1月15日 – 1599年4月27日、武将、大名。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。
小姓として織田信長に仕え「槍の又左」の異名をもって怖れられた。
信長の死後、秀吉に臣従。豊臣政権の五大老の一人として、豊臣秀頼の後見人を任じられ、徳川家康の牽制に尽力する。家紋は梅鉢。


筒井順慶。1549年3月31日 – 1584年9月15日、戦国時代の大名。
大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。
松永久秀によって居城・筒井城を追われるが、三好三人衆と手を結んで筒井城を奪還。大和国で松永久秀と抗争の上、平定。山崎の戦いで光秀への援軍を迷ったことから、「洞ヶ峠の日和見」の故事のもととなる。茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であった。家紋は梅鉢。


金森長近。1524年 – 1608年9月20日、織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。
美濃源氏土岐氏の支流。近江国野洲郡金森に居住した。
美濃の斎藤氏、柴田勝家、秀吉の家臣時代に功あり、飛騨一国を与えられた。、関が原では東軍に値し、初代高山藩主となる。茶の湯の才にも秀でており、秀吉から利休の嫡男である千道安をかくまったともされる。家紋は裏梅。


梅田雲浜。1815年7月13日- 1859年10月9日、幕末期の儒学者。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。
アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて幕政を激しく批判したが、安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となる。
拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。家紋は梅鉢。


榎本武揚。1836年10月5日 – 1908年10月26日、武士・幕臣、政治家。
父は箱田良助といい、備後福山藩出身。幕臣榎本家の株を買い、養子縁組みして幕臣となる。
新政府軍が江戸城を無血開城すると、幕府軍艦を率いて、蝦夷地(北海道)に逃走、箱館の五稜郭に拠り、蝦夷島政府を設立。1872年1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用され、外務大輔、議定官、海軍卿、を歴任。


清岡公張。1841年7月10日 – 1901年2月25日、政治家。
安芸郡田野浦の郷士で野根山殉難23士の首領清岡道之助の弟。
福島県権知事、白河権知事、二本松県権令などを歴任。
元老院議官、貴族院議員として活躍。
画像は護国寺にある墓所より。家紋は梅鉢。


副島種臣。1828年10月17日 – 1905年1月31日、佐賀藩士、官僚、政治家。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった国学者・枝吉南濠。
早くから尊王攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わり、大隈重信らと脱藩、奔走する。
明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務める。家紋は星梅鉢。


土井晩翠。1871年12月5日 – 1952年10月19日、詩人、英文学者。
仙台の北鍛治町に、質屋の土井林七の長男として生まれた。本名、林吉。
男性的な漢詩調詩風で、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。
代表作は『荒城の月』『星落秋風五丈原』など。
日本心霊科学協会の設立に顧問として関わっている。


倉田百三。1891年2月23日 – 1943年2月12日、劇作家。
広島県庄原市出身。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。
代表作『出家とその弟子』 は、鎌倉時代に浄土真宗を創始した親鸞とその弟子唯円との物語を描いた戯曲。発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持され、大ベストセラーとなる。世界各国で翻訳され、フランスの文豪ロマン・ロランが絶賛したことでも有名である。


高塚竹堂。1889年5月23日 – 1968年3月30日、書道家。
静岡県清水市に生まれる。本名は錠二。
戍申書道会・泰東書道院・東方書道会の創立に尽力し、役員・審査員を経る。
国定教科書・台湾教科書を揮毫。
松本芳翠と共に書道同文会を創設。書道連盟監事を勤めた。


前田夕暮。1883年7月27日 – 1951年4月20日、歌人。
神奈川県大住郡南矢名村の豪農の家に生まれる。
1928年『詩歌』復刊、口語自由律短歌を提唱。1942年、定型歌に復帰。
代表作『収穫』『陰影』『生くる日に』
代表歌:向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ


幣原喜重郎。1872年9月13日- 1951年3月10日、政治家、外交官。
大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。家紋は「鞠ばさみに梅鉢紋」
外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称された。


双葉山定次。1912年2月9日 – 1968年12月16日、大相撲の第35代横綱
大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。
本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。
双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」の言葉のようにまさに不世出の大横綱であり、相撲の神様と呼ぶ人も居るほどで、名実共に史上最強の横綱であるとする評は多い。


中村八大。1931年1月20日 – 1992年6月10日、作曲家・ジャズピアニスト。
中国青島出身。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。
ジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバー。
黒い花びら』『こんにちは赤ちゃん』で、2回、日本レコード大賞を受賞。
代表作は『上を向いて歩こう』『遠くへ行きたい』『明日があるさ』等多数。


永田雅一。1906年1月21日 – 1985年10月24日、実業家。
京都市の染料と友禅の問屋で生れる。
羅生門』のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。五社協定締結を主導。
大毎オリオンズのオーナー。パ・リーグの父と呼ばれた。
大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称で知られる。


長岡半太郎。1865年8月15日 – 1950年12月11日、物理学者。
長崎県大村市で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子。
土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。
初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任。
家紋は「隅切り角に四つ梅鉢」。珍しい紋である。


仁科芳雄。1890年12月6日 – 1951年1月10日、物理学者。
岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。
日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。
湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。死後、仁科記念財団が設立された。


池田勇人。1899年12月3日 – 1965年8月13日、政治家。第58~60代までの内閣総理大臣
広島県吉名村(現・竹原市)に造り酒屋を営む父・池田吾一郎、母・うめの子として生まれる。
首相時に所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした。「貧乏人は麦を食え」「私はウソは申しません」「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」などの微妙な有名発言を残している。


梶井基次郎。1901年2月17日 – 1932年3月24日、小説家。
志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残す。死後次第に評価は高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。
代表作は「檸檬」「櫻の樹の下には」。
1932年3月24日、肺結核のため死去。


浜田広介。1893年5月25日 – 1973年11月17日、童話作家。
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。
作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。
代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」など。


團 琢磨。1858年9月7日 – 1932年3月5日、工学者、実業家。
筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男として生まれる。幼名は駒吉。三井三池炭鉱の経営を行い、炭鉱経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であったが、血盟団事件で狙撃、暗殺される。
作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。


栃木山守也。1892年2月5日 – 1959年10月3日、第27代横綱。
栃木県下都賀郡赤麻村出身。本名:横田(のち中田)守也。
体重103kgで「史上最軽量の横綱」と形容される。
引退後、年寄・春日野(8代目)を襲名。春日野部屋を創立。
春日野部屋の力士(栃ノ心、栃乃洋、栃煌山等)の「栃」の字は栃木山が由来。


古今亭志ん生 (5代目)。1890年6月28日 – 1973年9月21日、落語家。
東京・神田亀住町の生まれ。本名、美濃部 孝蔵。
出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本であった美濃部家で、菅原道真の末裔を称する。
長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。
20世紀を代表する名人に数えられる。


奥むめお。1895年10月24日 – 1997年7月7日、婦人運動家、政治家。
福井県福井市に和田甚三郎の長女として生まれる。本名・奥梅尾。
日本初の婦人団体である新婦人協会で平塚雷鳥、市川房枝と共に理事に就任。
主婦連合会を結成し会長に就任。
主婦会館設立、初代館長となる。家紋は匂い梅。


美濃部亮吉。1904年2月5日 – 1984年12月24日、経済学者、政治家。
憲法学者で、天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した美濃部達吉の子。
日本社会党を支持基盤とする革新都知事として活躍。
1971年の都知事選で獲得した361万5299票は日本の選挙史上最多得票記録
後に参議院議員に転進。家紋は丸に星梅鉢。


植草甚一。1908年8月8日 – 1979年12月2日、ジャズ、映画の評論家。
東京市日本橋区小網町にて、木綿問屋の一人息子として生まれる。
雑誌『ワンダーランド』(のちの「宝島」)の創刊、責任編集者。
代表作『ぼくは散歩と雑学が好き』はサブカルチャーバイブルとして大きな影響力を持つ。
彼の死後、そのレコードコレクション(4000枚)はタモリが買い取った。


岡本太郎。1911年2月26日 – 1996年1月7日、日本の芸術家。
神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。
芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した。
写真は太郎と同じ敷地にある岡本かの子の墓にある梅鉢紋。


栃錦清隆。1925年2月20日 – 1990年1月10日、第44代横綱
東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身。本名、大塚清。
相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。
幕内最高優勝 10回。幕内通算成績 513勝203敗1分32休 勝率.716
引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめる。


山下清。1922年3月10日 – 1971年7月12日、画家。
東京府東京市浅草区田中町に生まれる。
3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」とよばれた。日本中を放浪していたことで知られる。家紋は丸に梅鉢。 


中上健次。1946年8月2日 – 1992年8月12日の小説家。
和歌山県新宮市に父・鈴木留造と母・木下ちさとの間に生まれる。
紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。
代表作は、「枯木灘」「地の果て至上の時」「軽蔑」など。


筒井康隆。1934年9月24日 – 、小説家、劇作家、俳優。
大阪府大阪市住吉区粉浜に出生。
日本を代表するSF作家の一人で、小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも称される。
代表作は『七瀬ふたたび』『筒井順慶』『虚人たち』『時をかける少女
戦国大名筒井順慶の末裔のひとつと伝えられているため、ここでは梅紋扱いとする。


菅直人。1946年10月10日 – 、民主党代表代行。
山口県宇部市に出生(本籍地は岡山県御津郡建部町(現・岡山市))。
菅原道真の子孫の一派、美作菅家党の流れを汲む。
厚生大臣(第74代)、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代)等を歴任した。
演説、国会質問における鋭さに特徴がある。

まさむね



藤紋 -藤原氏に憧れた地方武士の紋-

Tuesday, January 13th, 2009

藤紋といえば、藤原氏の紋という印象があるが、公家・藤原氏では、牡丹紋の方が優勢だった。

中央で出世の道が塞がれた藤原氏が多く、地方に下り武士化した際に、この優美な藤紋を家紋として採用した。
おそらく、自家と藤原氏の関係を後世まで誇示したかったのだろう。爆発的に広まった。

元々、藤という植物は、他の木に依存して延びる植物である。
その植物の名前を冠した平安時代の藤原氏も、その名の通り、天皇家に依存して大きくなったといえなくも無い。

もしかしたら、この藤紋の広まりと日本人の依存心の強さはどこか通底しているのかもしれない。
実際は、片喰、木瓜、鷹の羽、柏についで、5位の使用数である。
全国分布では、岐阜県が1位、静岡県、香川県で2位、岩手県、宮城県、神奈川県、山梨県、愛知県、岡山県、山口県で3位全国くまなく多い。ただ、一見多そうな近畿地方は少ない。京都府、滋賀県は8位、大阪府は10位、和歌山県、兵庫県で12位。

藤紋を使用している有名人は以下の通り。

黒田孝高。1546年12月22日 – 1604年4月19日、武将・大名。
黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。近江国伊香郡黒田村の武家出身。
諱で通称の「官兵衛」並びに出家後の「如水」の号で有名である。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。家紋は左三つ藤。


後藤基次。1560年5月5日 – 1615年6月2日、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。通称は又兵衞
関ケ原の戦いでは東軍に与し武功で大隈城1万6000石の所領を与えられた。
大坂夏の陣で、部下に介錯を命じて自刃したという。
家紋は下り藤。


加藤嘉明。1563年 – 1631年10月7日、武将・大名。
三河国の徳川家康の家臣である加藤教明の長男として生まれる。
羽柴秀吉に見出され、その小姓として仕えるようになる。
賤ヶ岳の戦いで活躍し『賤ヶ岳七本槍』の一人に数えられた。
伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主となる。水口藩加藤家初代。


大久保主水。江戸水道開設者。菓子職人。
元々三河武士であったが、負傷以降、餅菓子を作る特技を生かして家康に菓子を献じる。
家康に用水事業を命じられ、井の頭池、善福寺池を源に江戸城並びに市中の引水に成功。
これが神田上水といわれるわが国の水道の先駆けとなる。この功により、以来、「主水」の名を賜り、幕府用達の菓子司を務めた。家紋は上り藤に大の字。


長谷川平蔵。1746年 – 1795年6月26日、江戸時代の旗本。
400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生れる。本名は長谷川 宣以。
火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。平蔵は通称。
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として、よく知られている。
家紋は藤巴。


吉村寅太郎。1837年5月22日 – 1863年11月8日、幕末の土佐藩出身の志士。
土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。
寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。
天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。家紋は上り藤。


江藤新平。1834年3月18日 – 1874年4月13日、武士(佐賀藩士)、政治家。
江藤家は肥前小城郡晴気保の地頭千葉常胤の末裔を称する。氏は、平氏。家紋は藤巴。
明治新政府では、近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して民法典編纂に取り組む。
明治6年の政変で西郷、板垣達と共に下野し、佐賀の乱を起こすが、捉えられ処刑される。


大久保一翁。1818年1月5日 – 1888年7月31日、政治家。
旗本の大久保忠尚の子として生まれる。
勝海舟の能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させる。
蕃書調所頭取・駿河奉行・京都町奉行などを歴任。
勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸幕府の無血開城に貢献。


狩野芳崖。1828年2月27日 - 1888年11月5日、日本画家。
下関の狩野派の絵師の家に生まれる。家紋は藤輪。
アメリカ人の美術史家フェノロサと出会い、西洋絵画の写実や空間表現を作品に取り入れ、名作「悲母観音」を描く。東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。


大久保利通。1830年9月26日 – 1878年5月14日、政治家。
薩摩国鹿児島城下高麗町に、下級藩士として誕生。
維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる。
維新後は、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正、徴兵令、殖産興業政策を推進した。家紋は三つ藤巴。


伊藤博文。1841年10月16日 – 1909年10月26日、政治家。
周防国熊毛郡束荷村字野尻の農家の長男として生まれる。
初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、「明治の元勲」と呼ばれる。家紋は上り藤。


黒田清輝。1866年8月9日 – 1924年7月15日、洋画家。
薩摩藩士黒田清兼の子として生まれる。
黒田家は本姓佐々木源氏で、福岡藩藩主家黒田家の遠縁にあたる。
東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。
代表作は、『読書』『湖畔』『朝妝(ちょうしょう)』等。


後藤新平。1857年7月24日 – 1929年4月13日、政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。
東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
時計メーカー「シチズン」の名付け親としても知られている。家紋は下がり散藤(ばらふじ)。


加藤弘之。1836年8月5日 – 1916年2月9日、政治学者。
但馬国に、出石藩士加藤正照、錫子の長男として生まれる。
福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、西村茂樹、津田真道らと、明六社を結成。
はじめは啓蒙思想の傾向が強かったが、後に社会進化論の立場をとるに至った。終生唯物論者であった。哲学館(現東洋大学)創立時の顧問。


藤原銀次郎。1869年7月25日 – 1960年3月17日、実業家、政治家。
長野県上水内郡安茂里村に、藍問屋も営む豪農に生れる。
戦前の三井財閥の中心人物の一人で王子製紙社長を務め「製紙王」といわれた。
藤原工業大学(昭和19年に慶應義塾大学工学部となる)を設立した。
米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任。


宇垣一成。1868年8月9日 – 1956年4月30日、軍人、政治家。
備前国磐梨郡潟瀬村大内の農家に5人兄弟の末子として生まれる。
陸軍大将従三位勲一等功四級。拓殖大学第5代学長。元参議院議員。
加藤内閣の陸軍大臣在任中、軍縮を要求する世論の高まりを受け、いわゆる宇垣軍縮を遂行。廣田内閣が総辞職した後、総理大臣に推挙されたが、陸軍によって組閣は阻止された。


朝永振一郎。1906年3月31日 – 1979年7月8日、物理学者。
東京市小石川区小日向三軒町に朝永三十郎(長崎県出身)の子として生まれる。
くりこみ理論の手法を発明して量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。1961年には東京教育大学長、1963年から1969年には日本学術会議会長を務めた。家紋は、五瓜に上り藤。


舟橋聖一。1904年12月25日 – 1976年1月13日、小説家。
1904年12月25日に、東京市本所区横網町に生れた。キリストの降誕日にちなんで「聖一」と名づけられる。
花の生涯」「新・忠臣蔵」は、NHKの大河ドラマの原作として採用された。
代表作に『悉皆屋康吉』『ある女の遠景』『好きな女の胸飾り』『お市御寮人』がある。


山岡荘八。1907年1月11日 – 1978年9月30日、小説家・作家。
新潟県北魚沼郡小出町の山内家に生まれ、加賀安宅の藤野家に入る。本名は藤野庄蔵。
第二次世界大戦中は従軍作家として各戦線で活動。戦後、大ベストセラー『徳川家康』によって国民作家となる。同作品で第2回吉川英治文学賞を受賞。
養子の山岡賢次は現在民主党衆議院議員。国会対策委員長。


加東大介。1911年2月18日 – 1975年7月31日、俳優。
兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という芸能一家に生まれる。本名、加藤徳之助。
甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。
自らの体験を基にした小説「南海の芝居に雪が降る」はベストセラー小説となった。
出演作『人情紙風船』『生きる』『用心棒』『七人の侍』など。


丸山真男。1914年3月22日 – 1996年8月15日、政治学者、思想史家。
ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府に生まれた。郷里は長野県。
丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれる。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、徹底した合理主義者と評することもできる。
著書『日本の思想』の発行部数は2005年5月現在、累計102万部。


中曽根康弘。1918年5月27日 – 、政治家。第71 – 73代内閣総理大臣
生家は群馬県高崎市末広町の、関東有数の材木問屋「古久松」である。
総理大臣在任中には、日米関係の改善、国鉄、電電公社、専売公社の民営化などを推進する。プラザ合意により、円高を容認する。
最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の生存者。


高峰三枝子。1918年12月2日 – 1990年5月27日は、日本の女優、歌手。
東京府芝区露月町に生まれる。実父・高峰筑風は、高峰流筑前琵琶の宗家。
『歌う映画スター』の草分け的存在。
代表出演映画「宵待草」「子供の眼」「戸田家の兄妹」「懐しのブルース」「リラの花忘れじ」「情熱のルムバ」「犬神家の一族」など。家紋は上り藤。


三波春夫。1923年7月19日 – 2001年4月14日、歌手。
新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身。長男は俳優として活躍する三波豊和。
「お客様は神様でございます」はあまりにも有名。
代表曲『チャンチキおけさ』『おまんた囃子』『世界の国からこんにちは』等。
日本を守る国民会議の代表委員となるなど、反共主義運動を展開。家紋は下り藤。


三木のり平。1924年4月11日 – 1999年1月25日、お笑い芸人、俳優。
東京市日本橋区浜町生まれ。本名は田沼 則子(たぬま ただし)。
名前は「のりこ」と読み間違えられ、女性と思われ徴兵検査を逃れた。
桃屋」のアニメーションCMのキャラクタとして有名。
家紋は下がり散藤。


渥美清。1928年3月10日 – 1996年8月4日、俳優。本名、田所康雄。
上野の車坂で新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。
代表出演作は、「男はつらいよシリーズ」(1969年 – 96年、全48作) 、「渥美清の泣いてたまるか 」など。家紋は軸付き三つ藤巴。


深作欣二。1930年7月3日-2003年1月12日、映画監督。
茨城県水戸市出身。妻は女優の中原早苗。映画監督の深作健太は実子。
仁義なき戦い』(脚本笠原和夫、主演菅原文太)シリーズは、映画史に残る大ブームとなり、「実録映画」の第一人者の地位を不動のものとする。
代表作は『火宅の人』『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』『いつかギラギラする日』等。


市川雷蔵。1931年8月29日 – 1969年7月17日、歌舞伎役者、映画俳優。
京都市堀川丸太町に亀崎章雄として生まれるが、生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優市川九團次に引き取られて養子となる。
1951年、3代目市川壽海と養子縁組、このとき戸籍名を太田吉哉に改名。
主な出演作品『眠狂四郎シリーズ 』『炎上』『破戒』等。家紋は藤輪。


黒柳徹子。1933年8月9日 – 、日本の女優、司会者、ユニセフ親善大使。
東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂生まれ。
テレビ放送開始以来50年以上にわたり第一線で活躍してきた、日本テレビ史を代表するタレント。30年以上続く日本初のトーク番組『徹子の部屋』の司会や、累計750万部を誇る戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者として知られる。


美空ひばり。1937年5月29日 – 1989年6月24日、俳優、歌手。
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。本名は加藤和枝。愛称「御嬢(おじょう)」。
昭和の歌謡界を代表する日本の歌手で、女性初の国民栄誉賞を受賞した。
代表曲は、「」「川の流れのように」「悲しい酒」「リンゴ追分」など多数。


津川雅彦。1940年1月2日 – 、俳優。
俳優。沢村国太郎、マキノ智子の間に生れる。本名は加藤 雅彦。
長門裕之は兄、沢村貞子は叔母、加東大介は叔父にあたる。妻は朝丘雪路
代表出演作品は『狂った果実』『マノン』『マルサの女』『寝ずの番』。
家紋は下り藤。


みのもんた。1944年8月22日 -、フリーアナウンサー。本名、御法川法男。
2006年に「一週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者(21時間42分)」としてギネス認定された。主な番組は、『みのもんたの朝ズバッ! 』『クイズ$ミリオネア』等。
紅白歌合戦の司会などでの紋付姿ではいつも「下がり藤」を着用。ちなみに、遠縁にあたる明治・大正期の製糸器発明家、御法川直三郎の墓所には鷹の羽の紋がある。


高城剛。1964年8月18日 -、ハイパーメディア・クリエイター。
東京都葛飾区柴又出身。
フューチャー・パイレーツ株式会社代表取締役。
映像制作、DJ、プロデューサー等、様々な分野で活躍。
2009年1月19日、女優沢尻エリカと結婚。その際に着用した紋付が下がり藤だった。


武藤敬司。1962年12月23日 – 、プロレスラー。
山梨県富士吉田市出身。全日本プロレス代表取締役社長。
新日本プロレス入門後、才能を開花させ、「天才」「GENIUS」「平成のミスタープロレス」「Legend」「天才を超えた魔術師」などの賞賛を欲しいままにして来た。
グレート・ムタとしての一面も持つ。家紋は下り藤。

まさむね



菊紋 -後鳥羽上天皇の維持が生み出した優美な紋-

Monday, January 12th, 2009

天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇からだといわれている。

後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。

しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。

おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。

そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。

それが菊紋のはじまりである。

その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。

比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。

さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。

楠木正成。不詳 – 1336年7月4日、南北朝時代の河内の武将。
楠木氏は、伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保の末裔という。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
足利尊氏の軍と戦い湊川で自害。明治以降「大楠公」と称される。後醍醐天皇から菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして、半分は水に流した菊水紋にしたという。


西郷隆盛。1828年1月23日 – 1877年9月24日、政治家。
西郷は、明治天皇に気に入られ、この「抱き菊の葉に菊」を下賜されたという。従って、大河ドラマの「篤姫」では幕末の禁門の変の時点で西郷隆盛がこの紋をつけていたのは、間違いではないか。一般的に、隆盛以外はこの紋を使用しないと言われるが、青山霊園の西郷家の墓(奥津城)にはこの紋が付けられている。


西郷従道。1843年6月1日 – 1902年7月18日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる。
西郷隆盛の弟だが、隆盛が西南戦争で反乱を起こした際、隆盛に加担しなかった。
伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。
1892年には元老として枢密顧問官に任じられる。


松方正義。1835年3月23日 – 1924年7月2日、薩摩藩士、第4代、6代内閣総理大臣
現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。
日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤・井上らに反論し、積極的に開戦を主張。
日本銀行の設立を経て、政府発行紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行を行った。
この政策によって深刻なデフレーションを招き、「松方デフレ」と呼ばれた。


夏目漱石。1867年2月9日 – 1916年12月9日、小説家。
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生した。ご存知の通り、漫画批評家の夏目房之介氏は、漱石に孫にあたる。
代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『それから』『こころ』など。
雑司が谷墓地にある墓は大きく、見上げるような場所に菊菱紋が彫られてある。


大橋新太郎。1863年 – 1944年5月5日、出版業者、政治家。
博文館創業者大橋佐平の三男として、新潟県に長岡生れる。
父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。
衆議院議員・貴族院議員もつとめる。
家紋は杏葉菊菱。護国寺の墓所にて撮影。


野口雨情。1882年(明治15年)5月29日 – 1945年(昭和20年)1月27日)、童謡・民謡作詞家。
茨城の廻船問屋を営む名家に生れる。
この菊水紋は、後醍醐天皇から楠木正成に下賜された紋として有名。
実際、野口家は、正成の弟、楠木正季が先祖と伝えられているという。
代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。

まさむね



雁金紋 -群れ飛ぶ雁に希望を仮託した紋-

Monday, January 12th, 2009

群れをなして空を飛ぶ雁の家紋が雁金だ。

鳥に対する人間の願望が家紋として表出したのだと思う。
現代人の発想だと、鳥は自由の象徴ということになるのだが、昔はそうではなかった。

彼岸にいるであろう先祖との使者としての雁、仲良く群れをなす絆の強さの象徴としての雁。
そんなことを考えて家紋として採用したのであろう。

雁金紋で有名なのは、戦国武将の柴田勝家の「二つ雁金」だ。
この家紋の図案は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した武将・勝家の悲劇を物語っているようにも見えるから不思議だ。

現在の県別分布では、雁金紋の発祥地・長野県と、何故か鹿児島県で比較的多い。
そういえば、梶紋も元々は長野県発祥の紋であるが、鹿児島県にも多い。
長野と鹿児島の間には何か独特の繋がりがあるのであろうか。

さて、雁金紋を持つ有名人は以下だ。

柴田勝家。1522年 – 1583年6月14日、武将・大名。
尾張国愛知郡上社村で土豪階層の家に生まれる。
織田信長の家臣として近江、摂津など各地を転戦。長篠の戦いにも参加。
信長死後、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害。
家紋は二つ雁金。


平岩親吉。1542年 – 1612年2月1日、武将・大名。
三河国額田郡坂崎村で生まれる。家康の小姓として仕える。
小田原征伐に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後甲府6万3,000石を、その後、犬山藩主として12万3,000石を領した。
家紋は丸に結び雁金。


肝付直五郎。天保6年10月14日(1835年12月3日) - 明治3年7月20日(1870年8月16日)、幕末の薩摩藩士。後の小松帯刀。
大河ドラマ「篤姫」で有名になった帯刀であるが、生家は肝付家。この「尻合わせ四つ結び雁金」が家紋。「篤姫」でも、肝付直五郎(瑛太)はこの紋付きを着ていた。
ちなみに、小松家の養子入ってからの使用家紋は、「抱き鬼梶の葉」(「抱き鬼菊の葉」とも)。


花房義質。1842年2月10日 – 1917年7月9日、外交官。
岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。
壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国、済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。
宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長なども歴任した。


犬養毅。1855年6月4日(安政2年4月20日)- 1932年5月15日、第29代内閣総理大臣。「嘴合わせ三つ雁金」
1931年(昭和6年)12月に立憲民政党(民政党)の若槻禮次郎内閣が崩壊したため、反対党(立憲改進党)の総裁である犬養が内閣総理大臣に就任する。
五・一五事件で、海軍将校の凶弾に倒れてしまった。享年77。


鳩山一郎。1883年(明治16年)1月1日 – 1959年(昭和34年)3月7日、第52・53・54代内閣総理大臣。「尻合わせ三つ結び雁金」
初代自民党総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。
ご存知の通り、鳩山由紀夫と鳩山邦夫は氏の孫にあたる。

参照サイト:家紋の話あれこれ

まさむね



亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋-

Monday, January 12th, 2009

亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。

ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。

また、商標、後には会社名としても採用した。

また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。

全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。

さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。

浅井長政。1545年 – 1573年9月26日、武将で、北近江の戦国大名。
浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下で生まれる。
浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。妹のお市を正室に迎え、織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、のちに信長と決裂して織田軍との戦い(姉川の合戦)敗れるなど追い詰められ自害し、浅井氏は滅亡した。家紋は三盛亀甲花菱。


直江兼続。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大河ドラマの「天地人」の主人公。
直江兼続という人物は、戦国から安土桃山時代にかけて、上杉家の生き残りを賭けた戦いと外交に尽力した傑物。
ただ、その三つ盛り亀甲の中の文様は、細い葉だったという説と、剣花菱だったという説がある。
2009年節分の成田山での豆まきの際、兼続役の妻夫木聡も三つ盛り亀甲の紋付だった。


竹本義太夫。1651年 – 1714年10月18日、浄瑠璃太夫。
摂津国(大坂)に生まれる。農家の出身。
大坂道頓堀に竹本座を開設し、近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。
近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。
浄瑠璃の義太夫節の創始者である。家紋は竹亀甲に九枚笹。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト、新聞史研究家。
讃岐国阿野郡小野村(香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。
反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。
画像は染井霊園の墓所にて撮影。


馬場孤蝶。1869年12月10日 – 1940年6月22日、作家、英文学者、評論家、翻訳家。
高知市出身。本名は勝弥。島崎藤村や北村透谷、上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。
本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。
作品は『片羽のおしどり』 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。
家紋は、違い一重反り亀甲。


有吉佐和子。1931年1月20日 – 1984年8月30日、小説家。
曽祖父は、長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレナ。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした。
代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『和宮様御留』など。
家紋は亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


夏目雅子。1957年12月17日 – 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として生まれる。旧姓は小幡。写真はその実家の紋。
代表出演作はドラマ『西遊記』『徳川家康』、映画『瀬戸内少年野球団』など。
夫は、『ギンギラギンにさりげなく』の作詞で有名な伊集院静。27歳の若さで突然の死去。
「美人薄命」そのものの生涯と当時多くのファンからその死を惜しまれた。


手塚治虫。1928年11月3日-1989年2月9日、日本を代表する漫画家。
大阪府に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。
代表作は、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。
ストーリー漫画の父と言われている。

まさむね