Archive for November, 2008

第6話までの「スキャンダル」を読み解く

Tuesday, November 25th, 2008

TBS日曜劇場「スキャンダル」。前回までの放送で、張りまくった伏線の回収が行われると思いきや、まだまだ新しい謎が出てくるエキサイティングな展開である。
これは、TVドラマとしては新しい挑戦のような気もするが、数字的にはジリジリ落ちているのが気になる。
話が複雑になりすぎると、脱落者も増えるし、新入視聴者に対する壁が高くなって、再浮上が難しいからね。

それはともかく、現時点で、このドラマを解いていってみよう。

数ある伏線の中で、最も気になる伏線が、初回放送で花嫁の理佐子(戸田菜穂)が、結婚式の招待客である貴子(鈴木京香)、ひとみ(長谷川京子)、真由子(吹石一恵)、たまき(桃井かおり)の4人を前にして言った「私は勝ったわ」というセリフである。

一体、花嫁はどういった場合に、このような言葉を吐けるのか。

勿論、花嫁が、それらの来客とあまり仲が良くないという大前提もあるだろう。
親友にはそんな事言わないものだからね。
しかし、一般的には、その前提プラス、以下の3つのシチュエーションのうちのどれかが加わる事によって、そのセリフが出てくると思われる。

1)4人の夫よりも、自分の結婚相手の方が格上であることが明らかな場合。
2)4人の夫と過去に付き合っていた事がある場合。
3)4人の夫が、現在でも理佐子に頭が上がらないなんらかの弱みを握られている場合。

まず1)であるが、確かに、国際的ピアニストの妻というステータスは、弁護士、医者、財務官僚、大手代理店社員と比べて遜色無いようにも思えるが、決定的とは言い切れない。

また、2)に関してであるが、少なくとも貴子の夫の秀典(沢村一樹)とはそういった関係にあった。それによって、現在、二人の関係は最悪に冷え切っている。

そして、真由子の夫の賢治(遠藤憲一)も、確かに過去にはつきあっていたと思われる。
しかし、それは真由子も承知済みだ。なぜなら、真由子は理佐子から雄一を奪っているからだ

また、ひとみの夫・雄一(光石研)は、以前、理佐子が働いていた高級クラブに、ひとみに連れて来られ、それ以降、その高級クラブを見知るようになり、その後、上司の金沢(春田純一)にこの店を紹介した。
結局、理佐子は、金沢の愛人となるのだが、可能性として、雄一は、上司の金沢と理佐子が付き合う前に、客とホステスとの関係、あるいはその先の関係を持っていた可能性も捨てきれないのだ。

そして、最後、たまきの夫・哲夫(石原良純)と理佐子との男女関係だが、これは、まだはっきりしていない。

さて、3)に行く前に、ここで、登場人物を関連付ける過去の事件に関しても触れておきたい。

理佐子は、8年前にある、高級クラブで働いていたが、その時、そこでピアニストをしていた久木田慶介(加藤虎ノ介)が、客だった金沢に対して傷害事件を起していたのだ。
そして、その現場には、雄一もいた。さらに、その事件を示談に持ち込む時に依頼された弁護士が、哲夫だったのだ。

それを踏まえて、3)に関してである。

まず貴子の夫・秀典だが、男女関係に関しては締りが無いところがある。いまだに理佐子に会えば、思わず優しくしてしまいがちな性格なのだ。
後日、行方不明中の理佐子(疲れている)が高柳家をフラフラと訪問するが、これは、理佐子ではなく、秀典を頼って来てしまったではないか。
いや、逆に秀典に金を無心に来たのかもしれない。ただし、秀典が応じるには、なんらかの弱みを理佐子に握られている可能性が高いが、それが何なのかは、わからない。

そして、真由子の夫の賢治(遠藤憲一)と理佐子の関係についてだが、先ほどは過去の関係について書いたのだが、現時点でも二人の関係は続いている可能性がある。
まずは、賢治の携帯履歴には、理佐子からの電話が沢山ある事、しかもそれは真由子に見られているのだ。
さらに、理佐子は結婚式の一ヶ月前に賢治に借金を依頼していた。
しかも、賢治は、二人の関係を、理佐子にバラされたくないという引け目がるあったためか、一旦は借金依頼を断ったにもかかわらず、理佐子が失踪した原因が断った事にあるのではと心配し、久木田に500万円の小切手を強引に渡しに行っているのである。

また、ドラマ公式HPによると来週放送のあらすじでは、「様子のおかしい哲夫を尾行したたまきは、あるホテルに夫が入ったのを知り確認を取ろうとした」とある。
ということは、そのホテルに理佐子がいる可能性がある。しかし、理佐子疾走事件に哲夫が絡んでいるという確証は現時点ではない。
あくまでも推測の範囲での話であるが、哲夫のキャラ、弁護士能力からして、哲夫が8年前の事件の示談の弁護士をした際になんらかの下手を打ち、久木田のための示談金を用意した理佐子になんらかの引け目がある可能性があるだけだ。

さらに、雄一だが、彼は財務官僚だから、上司の失態は必ず隠さなければならない。その雄一の立場こそが、理佐子に対する弱みになる可能性があるのだ。

上記を勘案すると、現時点での推理にはなるが、それぞれの結婚相手に対して...

★秀典と賢治は、過去だけではなく、現在も理佐子と付き合っている。
★雄一は、理佐子と過去に付き合っていた事に加え、その事を上司に伝えてない弱みを理佐子に握られている。
★そして哲夫は、過去の事件の処理での不手際から、理佐子に弱みを握られている。

という関係があるのではないだろうか。そして、それを持ってして、理佐子は、4人に対して「私は勝ったわ」と言ったのではないかと思うのだ。

しかし、それでも、まだまだ回収されていない伏線がある。代表的なものとして、以下のものが思いつく。

◆理佐子の携帯電話は久木田が所持していた事。(これは、久木田と理佐子がグルであることを示唆。)
◆久木田がなかなかアメリカに行かず、度々、貴子と会おうとする事。(久木田が実は国際ピアニストではない、また、貴子の気を引こうとしている事を示唆。)
◆理佐子が賢治に結婚式の前に借金を申し込んでいる事(これは何のために必要な借金だったのか?)
◆結婚式の夜に理佐子と一緒にラブホに入った金沢が後日、杖をついていた事。(これはその夜に、ラブホで何らかのトラブルがあった事を示唆。)
◆かおりと哲夫の息子・駿介がまだ部屋から出てきていない事。(来週放送の哲夫が入っていくというホテルに、引篭り息子・駿介が居て、駿介の部屋には理佐子が...という事も考えらなくもない。)
◆夜の町で、理佐子が、秀典に向かって吐いた「女なら誰でもこうなる可能性があるわ!」というセリフ(浮気をした妻達は、最終的に夫と別れなければならないという事を示唆。)
◆たまきが勝沼刑事(小日向文世)に息子について相談しようとしている事。(たまきと勝沼との新たな関係を示唆。)

今後、展開としてどうなっていくのか、はなはだ未知数ではあるが、僕には、最終回の最後のシーンとしては、貴子、真由子、たまき、ひとみの4人だけで楽しそうに街を歩いているというセックス&シティ的な映像が思い浮かぶ。
そして、おそらく、それはそれぞれ、秀典の浮気癖、賢治の束縛、哲夫の不甲斐なさ、雄一の世間体、から解放された(って事は離婚した)姿が最もよく似合うシーンでもある。

しかし、逆から見れば、それは4人の夫の解放でもある。そのあたりが今後の展開の鍵を握っているのかも。

まさむね

養老令では本当に女系容認していたのか ~『万世一系のまぼろし』書評~

Monday, November 24th, 2008

注目すべきなのは、718年に編纂された養老令(継嗣令)は、それ以前の大宝令とほとんど同文だが、女帝の存在を認めていて、次のように明記されている。
現代語に訳して紹介する。

「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)。それ以外はいずれも諸王とすること。親王より五世は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。」

男系説を強引に主張する論者の中には、この継嗣令を曲解したり、無視したりする人達がいる。
-「万世一系のまぼろし」中野正志 P54-

天皇制などの、歴史、伝統に関して議論をすることはむずかしい。
ほとんどの論者は、言葉を発する前に、既に、己の感情的立場に絡め取られているからだ。
女系天皇に関しても、推進する立場と容認する立場と否認する立場とで、それぞれが都合の良い史実、資料を持ってきてそれぞれの論を組み立てる。
だから、客観的な議論が極めてしにくいのである。

さて、本書の著者・中野氏だが、彼は、明らかに女系天皇容認(あるいは推進)の立場に立っている。
だから、冒頭の記述の養老令で女帝が認められていた条文に関して、金科玉条の如く、取り上げているのだ。
たしかに、養老令は、その廃止令が出ていないため、法形式上には、明治時代まで上記法律は生きていたことになる。

しかし、実際に、上記の法令が発動されることは無かった。すなわち、女帝の子が親王になることはなかった。っていうか、女帝が子を生むれることがなかったのだ。

一方、僕の興味は、この条文が編纂、あるいは、施行された時の政治状況にある。
法律というものが、時代状況抜きにして語られないからだ。
これを見ることによって、この条文が必然として作られたのか、苦し紛れに作られたのか、状況を糊塗するために作られたのか、まぁいいんでないの的に作られたのか、間違って作られたのか等がわかるのである。

編纂時は、718年。ちょうど元正天皇の御世である。
元正天皇は、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇である(ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、男系の血統は維持されている)。(wikiより)
次の天皇になる聖武天皇(弟の文武天皇の子)は既に生れていたが、まだ子供だ。無事成長して即位できるかどうかも718年の時点では不安が残る。
そうした状況下、朝廷では、男系維持という建前よりも、女帝の子も親王と規定しておく事による可能性の広さを選択したんだと思う。
当時、既に38歳だった天皇だが、(まだ見ぬ)自分の御子を天皇にと内心思っていた可能性は否定できない。

また養老令が施行されたのは、757年である。
この頃、橘諸兄が失脚(756年)したのに続き、この年には、時の孝謙天皇とは別系統の道祖王が廃され、藤原仲麻呂の推挙で、さらにまた別の系統の大炊王(後の淳仁天皇)が皇太子となった。
ようするに、この時期、皇太子の選別が時の権勢者の恣意に左右される状況があり、それが政情不安の大きな原因となっていたのだ。
そこで、これらの状況を安定させるために、立太子に関して、時の天皇が主導権を握れるように手を打ったのが、長い間(約40年間も)寝かせてあった養老令の施行だったのでないだろうか。

尤も、養老令編纂時の元正天皇と同様に、孝謙天皇も女性である。今後、自分が結婚し、子供を設けることは大いに考えられた。
それを踏まえての「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)。」の一文だったという見方も出来るのだ。

このように見てくると、例の条文の編纂、施行は、極めて時代の特殊性に依存していた出来事のように思われる。
おそらく、これらの時代の特殊性がその後の時代の変化のなかで忘れ去られるも、条文としては立派に残ったというのが正直なところではないだろうか。

しかし、一方、日本という国は、そのような時代状況のちょっとした変化(危機)によって、国の根幹になるような法律(女系天皇がありや否や)が右往左往するって可能性を常にはらんでいるというのも事実だ。

例えば、先の小泉政権時に、皇室典範改正案が、国会に提出される直前まで行った。
紀子様が第3子を御懐妊されている最中の出来事だ。
世論はむしろ、女系天皇容認に傾いていたようにも思えるが、悠仁様誕生でそれまでの議論は潮が引くように消えてしまった。
しかし、状況や議論の方向によっては、日本は分裂する可能性ですらあった。実際、平沼さんを初めとする保守派は、断固阻止の態度を表明していたからだ。

一方、結果として、女系天皇が正統化され、実現する可能性も十分あった。
しかし、潮目が変わってしまうと、野暮は言うな的空気によって、誰もその議論を口にしなくなってしまったのである。

それにしても、この、状況に流されるいい加減さ、物事を確定したくないという曖昧さ、この済んだことは口にするな的空気の力、これらはまさしく、極めて日本的なメンタリティではないだろうか。

まさむね

麻生首相はついに、小沢氏の格下になったか

Sunday, November 23rd, 2008

麻生首相と小沢代表が17日に党首会談を行った。

その席上での、やりとりを踏まえ、麻生首相は、記者団のこう述べたといわれている。

「小沢氏は(今国会での第2次補正予算案の審議に協力するという約束を守らなければ)『辞める』と、合計7人の前で言ったのに、後で『言っていない』と言っている。この人の話は、危ない。あまり信用できなくなった」

自民党としては、党内がまとまりきれずにいるから、第2次補正予算案は今の臨時国会には出したくない。定額給付金の件もあったし、不況で税収の予測計算も出来ていない、ようするに、またいろいろと混乱が予想されるからね。
でも、麻生首相は、先月の記者会見で、「政局より、経済優先」ということで一刻も早く、この補正予算案を出す(だから選挙どころじゃない)って言ってしまっているのだ。

追い詰められた麻生首相、経済が第一課題だったら、小沢氏が何といおうと、今年中に補正予算案を出さないと筋が通らない。
しかし、出せるような状況じゃなくなってきた。だから、ここは時間を置いて、潮目を戻したい。
一方、小沢氏の方は、とにかく国会が閉幕しちゃったら、もう与党を追い込むチャンスが無い。だから、なんとか自民党をリングに上げたい、しかも相手の準備不足をつけば、一気にダメージを与えられそうなのである。

双方の思惑が交錯する中での、麻生発言である。

おそらく、麻生首相は、今年中に予算案を提出しない言い訳が欲しかったの。
だから、思わず、小沢氏のせいにしようとする。その浅知恵から出てきたのが、小沢は信用できない発言なのだ。

「信用出来ない」っていうセリフ、実はこれは、格下の相手が格上に使う言葉であり、決して逆ではない。
日本では古来、上に立つものは格下の批判をするものではない。日本文化は、鷹揚に構えるのをよしとする文化なのである。
例えば、小泉元首相、政策的にはいろいろ問題があったけど、トップとしての倫理観は持っていたように思う。
下(他者)の悪口を決して言わなかったというのだ。それは、おそらく、下に気遣ってというよりも、権力者としてのセルフイメージを本能的に守ろうとしたのだ。

しかし、麻生首相は小沢氏の計略に引っかかった。
この発言によって、麻生首相と小沢氏との力関係は逆転したと僕は見る。
これは権力争いにおける、格上・格下論理としてそうなのだ。

この状況を、国民は、辞めるの辞めないのっていう会談の中身はどうでもよくて、オスとオスの力関係と移動として、敏感に察知するだろう。

前の前の首相の安倍さんは、小沢氏に会ってもらえなくて、下痢ピーで辞めた。前の首相の福田さんも、小沢氏に振り回されて、あなたとは違うんですって言って辞めた。

さて、麻生首相は、小沢氏の次の一手にどう対応するのか。っていうのか対応出来るのか。

「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、そして2度目は喜劇として。」とマルクスは言ったが、3度目はよりパワーアップした喜劇になるような予感もする。

まさむね

元厚生次官宅襲撃事件の結末が示唆するもの

Sunday, November 23rd, 2008

元厚生事務次官宅連続襲撃事件が意外な結末をむかえた。
埼玉に住む46歳の独り暮らしの男が自首したのだ。

「34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである。やつらは今も毎年、毎年、何の罪も無い50万頭のペットを殺し続けている。無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」

これは、彼が自首直前にマスコミに送りつけた(と思われる)メールでの一節だ。

他人にとっては、理解しがたい苦悩、煩悶、怒りが、ばらばらになった個々人の心の中でマグマのように、それぞれ渦巻いている。
それが現代社会である。

さて、現代の格差社会は、地域と地域の間の格差ではない。より、本質的なのは、地域社会内でのコミュニティ格差である。
今、地域社会には、ヨネスケが隣の晩御飯のしゃもじを持って訪問しそうな団欒家族、木更津キャッツアイ的な仲間、そしてそれらの結びつきから墜ちた人々、この3つの階層がある。

僕には小泉容疑者が、三番目の墜ちてしまった人の一人ではないかと思えてならない。

しかし、現実的に、結びつきから墜ちてしまった人々の心情を汲み取る政治的回路が無い(彼らの心情を唯一汲み取れるのがネットか?)ことは、大きな問題だ。
小沢さんや麻生さんが、地方を回りましたって行っても、決してこれらの人々と会うことは無いだろう。
という事は、物事の重要性には気付かないだろう。

ドストエフスキーは、”一杯の紅茶のためなら世界が滅んでもいい”と記しているが、19世紀の文豪のつぶやきが、21世紀には普通の人々の心にまで浸透しているのか。
なにか手を打てば、政治は、小泉容疑者を救うことが出来たのだろうか。今回の事件が提示する問題は小さくない。

まさむね

大相撲九州場所、悲喜こもごも

Sunday, November 23rd, 2008

九州場所の千秋楽、白鵬と安馬が相星で優勝決定戦。
白鵬が、安馬に首根っこを押さえつけて、引きずるような上手投げで格上を見せ付けた。

実は、白鵬は、本割りでも琴光喜に、同様に強引な上手投げで相手をひっくり返している。
白鵬が今日の2番で見せた強引さは、ある意味、格上意識を相手に植え付けるという意味で有効だ。
横綱としての自意識の強さがなせる業だろう。

一方、決定戦で敗れたとはいえ、安馬の今場所の充実ぶりは特筆もの。
あの小さい体から繰り出す喉輪(のどわ)のスピードと威力は本割りでの把瑠都戦でも証明された。
僕は把瑠都の大きな体の下に潜り込んで揺さぶる戦法でいくのかと思っていたが、いい意味で裏切られる内容だった。

相手の把瑠都も、今場所は素晴らしかった。
あの肩越しの上手からクレーンのように相手を持ち上げるその大技は、大相撲新時代を予感させる。
僕は、エストニア出身の把瑠都のことを、密かに「史上最強のバルチッククレーン」と呼んでいる。

さて、海外の力士が、それぞれの国で培った体躯と技と文化でもって、大相撲の新しいスタイルを創造する。そんな時代の幕開けかも。
同様の意味で、僕達に大いに期待感を抱かせてくれるのが、ロシア(実は北オセチア)出身の阿覧だ。
あの格闘技チックな左右の張り手と腕力の強さからの強引な取り口は魅力たっぷりだ。
今後、この自分のスタイルを守りながら上位を目指してほしい。
決して、「とにかく前に出ろ」といった凡庸な大相撲イデオロギーに染まらないでほしい。
その点、親方の三保関は、元大関の増位山だ。
関取というようりもヒット曲「そんなゆうこに惚れました」を持つ演歌歌手として有名な彼だが、現役当時の柔軟性でもって、阿覧には優しく指導してほしいものだ。

また、今場所で目立った力士。
武蔵川親方が、新理事長になって2場所目。武蔵川勢の活躍が目立った。
ずっと全勝を守り、優勝争いに食らいついていった雅山。
前半の台風の目となった出島。
「大きいがしかし、くたびれた」感じがいい味を出していた、32歳で新入幕を果たした武州山。
見事、十両優勝を飾ったモンゴル出身の翔天狼。

幕の内の下位まで落ちてしまい、最悪、十両陥落まで想定された高見盛、今場所はさし身が冴えて、11勝の大活躍だった。
初日に白鵬を破り、今場所の大勝が期待された安美錦は、結局は8勝で終わったが、見事殊勲賞を獲得した。
負け越しても印象に残ったのが、グルジア出身の栃ノ心。初めての上位との対戦で、ボロボロだったけど、新しい技を引っさげての再登場に期待したい。
十両上位で勝ち越した山本山は、相手の腕をキメてその巨腹で相手をグイグイ押すスタイルで来場所はさらに、人気者になるだろう。
同様に、十両に堕ちていた岩木山。モンゴルで魁皇の次に人気があった日本人力士だが、そのおっとりとした表情と巨体がまた幕の内で見られるのが楽しみだ。

最後に大関勢だが、琴欧洲は千秋楽でようやく勝ち越すという状況。仕切り時に時折見せる内向的な暗さは、内面での不安を感じさせる。
今年の夏、「オーラの泉」に出演した際に、「他に、江原さん美輪さんに聞きたいことありませんか?」と国分に振られ、「番組が終わってから」とつぶやいた彼がどうしても気になる。
番組終了後、何が話されたのだろうか?
また、結局、優勝争いに残れなかった琴光喜は安馬、白鵬戦での完敗が気になる。愛子様涙目...か!?
千代大海の8勝は、それはそれで名人芸だ。既得権益を必死に守ろうとする老獪な突き押しは、名脇役としての存在感を示した。
一方、途中休場してしまった魁皇だが、左腕が相当悪いらしい。来年の初場所が相撲人生の正念場になるかもしれない。

こうやって大相撲の事を書き連ねていくと、話が無限になってしまうのでこのあたりで終わりたいが、最後に一言。

大相撲を、夜のスポーツニュースだけを眺めて印象批評する輩に、客が入っていないとか、八百長云々などと言われたくはない。

まさむね

成子天神、時代の流れと庶民のおおらかさ

Saturday, November 22nd, 2008

先日、新宿に所用があって行った時に、西新宿(青梅街道沿い)のあたりに行ってきた。

実は、今から25年位前に、僕が最初に就職した会社が、この辺にあったので、懐かしさもあって足を伸ばしたのだ。
ところが、この辺りの風景、結構変っているんだよね。

特に、青梅街道から1本道を入ったあたりの様変わりは凄い。
実は、このあたりは、25年前、一見、普通の住宅街なのだが、数件おきにスナックがあった。
なんでこんなところにスナックがあるんだろう?儲かるのかななんて思って、当時、会社の物知りの先輩に聞いたところ、これは青線の名残だそうだ。
青線というのは、1957年に施行された売春防止法以前に、黙認で売春させていたスナックや飲み屋街の非合法地域のこと。
下はカウンターだけ、2階に3畳の部屋が2つ位並んでて、そこで、男女が乳繰り合わせるような飲み屋があったんですね。この辺りに。

そういえば、80年代頃になっても、このあたりの壁に古い鉄板の看板(代表例:アース製薬の水原弘の看板)が残っていて、

「マンモスキャバレー開店。全席100席、近代女性募集!」

と書いてあったのを思い出す。マンモスキャバレーって、60年代の、植木等の映画なんかに、出てくるよね。
僕はというと、この近代女性っていう言葉にインパクトを感じたものです。

さて、これらが混在していたエリアだけど、今は、地上げにため、更地(写真一番上)になっている。
昔、この土地で様々な男と女のドラマがあったんだなぁ、それらのドラマはみんなブルドーザーに持っていかれたんだなぁって、更地を見ながら妙な感慨に浸ったりする僕。

さて、そんなエリアのすぐワキに成子天神がある。
更地から、成子天神に上がっていく脇の道(写真上から2番目)は、ここは東京かと思われるほど、ガタガタの石道路。
この道路もいつか舗装されちゃうかもしれないから、一応撮っておこう。

さて、成子天神だけど、このあたりの氏子の信仰に支えられて立派な本殿(写真上から3番目)がある。

天神っていうのは、菅原道真公を祭った神社で一般的には、学問の神様と言われています。
九州の大宰府天満宮が勧進元。山口の防府天満宮、京都の北野天満宮が有名だよね。
東京では、湯島天神、亀戸天神など、どちらかと言えば、下町(東東京)に多い。っていうか、その昔、農業エリアに学業の神様があってもしょうがないので、やっぱりに、人の多い、江戸に多いって事なんだろうな。

ここの成子天神は、菅原公の威光だけじゃ人が集められないと見えて、境内に、富士塚というのがある。さらに、その塚の各所に七福神が配置されているが、勿論、菅原公とは全く関係無い。
とにかく、庶民に人気のがあるっていんで、混在させているんだろう。
現在では、その富士塚は公開されていないけど、25年前はなんとなくそこにあって、いつでも見られたんだよ。

僕はこの神道系の人々の発想の、いい意味でのおおらかさが好きだ。なんでもありなのだ。

さて、天神様の神紋といえば、有名な梅紋。
菅原道真の梅好きって有名だったからね。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

大宰府に流された菅原公が、都に残してきた梅を想ってこの和歌を作ったら、梅が京都から飛んできたっていう伝説がある。

狛犬の台座(写真上から4番目)と、神社の門(写真上から5番目)等にみつけた。
よく見ると、若干違うんだよね。狛犬の台座の方は、梅の花びらと花びらの間の物体が、鉢の形をしているんだけど、門の方は梅の花弁の形なんだよね。

同じ神社なんだから、統一しろよというのは、現代の広告代理店的発想。いいんだよ、似てるんだから。有難い事には変わりないんだから、細かいこと言うなというのが庶民の発想。

さて、この梅紋だけど、加賀の前田家の家紋として超有名だ。ただし、前田家の家紋は上記の物体は剣でした。
僕が思いつく限り、有名人だと、文学者の中上健次氏、筒井康隆氏、芸術家の岡本太郎氏、政治家ならば、池田隼人首相(写真一番下)、そしてこれはあくまでも想像なんだけど、名前からして(菅原公と管 の管つながりから)民主党の管直人氏もそうだと思う。

まさむね

ジョンレノンは労働者階級の歌が作れなかった

Saturday, November 22nd, 2008

ジョンレノンに「労働者階級の英雄」という歌がある。
ビートルズが解散した後、初めてリリースした本格的アルバム「ジョンの魂」(写真一番上)の収録曲だ。

実は、僕は、ずっとこの曲の歌詞の抽象性(観念性)が気になっていた。
その歌詞の中でジョンはこう歌う。

Keep you doped with religion and sex and tv,
And you think you’re so clever and you’re classless and free,
(宗教とセックスとテレビに酔わされて誰もが平等で自由だと信じ込まされていた)

確かに、この一節、労働者階級が置かれている現状を、ジョン独自の鋭い視線でえぐった歌詞であるかもしれない。しかし、この歌詞には、労働者からのリアルな視線、そしてその生活実感はない。ここに歌われているのは観念としての”労働者階級”ではないのか。

それに対して、僕は、労働者階級の生活の情景を、歌詞に歌いこんだブルース・スプリング・スティーンやビリー・ジョエルの歌の方に、より具体性(ある種の肉体性)を感じる。以下の歌詞は、ブルース・スプリング・スティーンの代表曲「Born in the USA」(写真真ん中)の一節だ。

Got in a littletown jam so they put a rifle in my hand
Sent me off to a foreign land to go and kill the yellow man
(小さな町でちょっとした騒ぎを起し、そうしたら、奴らは俺に銃を握らせた。黄色人種を殺すために俺は海の向こうに送られた)

60年~70年代アメリカの暗い一面。マーチン・スコセッシ監督の映画「タクシードライバー」にも通じるダーティリアリズムの世界がここにある。

僕の知っている限り、ジョンは労働者階級と自負しながらも、ダーティリアルズムの世界を描く事をしなかった、いや、出来なかったんだと僕は思う。

ビートルズの4人の生い立ちを見てみよう。

その中で一番、典型的なの労働者階級出身者はリンゴ・スターである。
彼の父親はパン職人だった。彼は典型的な労働者階級の街、ディングル地区で生まれ育った。

ジョージ・ハリスンも似たようなものだ。
彼の父親は、市営バスの運転手だった。ただし、彼は暖かい家庭に育った。4人兄弟の末っ子だった彼はみんなからかわいがられて育った。

ポール・マッカートニーの父親は綿花のセールスマンだった。彼の家にはピアノがあったというから、それなりに裕福だったのかもしれない。

そしてジョン・レノン。彼の父親は船乗り(ウェイター)だったという。そういう意味で彼の出自は、労働者階級である。
しかしその後、両親が離婚し、彼は母親の叔母であるミミの家で育てられた。
ミミの夫のジョージは、中流階級の教養人だったため、ジョンは子供の頃から、沢山の豊かな書籍に囲まれて育ったという。

ジョンが自分の置かれた状況(労働者階級の父親に捨てられ、母親にも先立たれた事)を把握したのは、彼が中学の頃だった。
彼は恐らく自身の境遇を恐る恐る理解した。出自は労働者階級、頭脳・感性は中流階級という自分の境遇を。

その後、ジョンはポールと出会い、そしてジョージと出会い、ビートルズの前身となる音楽活動を始める。
特にドイツのハンブルグで彼らはロックンローラーとしての修行を積む。

日本から漠然と見ると、ドイツって環境大国だったり、リベラルだったりそんな印象があるが、当時のハンブルグはそれこそ暴力とセックスと犯罪の温床みたいなところだったらしい。
そんなメチャクチャな環境の中で彼は、どうしたら観客に受けるのか、いかに自分達の存在をアピールしたらいいのかを、それこそガチンコで学んでいったのだ。

彼が、その地で選んだファッションスタイルは、リーゼントに革ジャン。いわゆる労働者階級ファッションである。しかし、長い間、彼らの芽は出ることはなかった。
ただ、彼らの活躍は、徐々に広まる。そして、遂にイギリスでデビューする事となる。ジョンがポールと出会い、バンドを始めてから実に7年間も経っていた。

しかし、その時、彼らが選んだのは、中流階級向けのスタイルだった。ハイスクールの制服(襟無しジャケット)に、脱リーゼント=マッシュルームカット、笑顔、深々としたお辞儀に象徴される行儀の良さ等である。
恐らく、このあたりのスタイリングは辣腕マネージャーのブライアン・エプスタインの指示に違いない。
エプスタインはビートルズを階級を超えたスターにしたかったからである。

その後、ビートルズは、ロイヤル・バラエティ・ショーに出演。ビートルズの脱階級化の目論見が見事成功した象徴的な出来事である。
ちなみに、その時にジョンの有名な一言が出る。「安い方の席の方は手拍手をお願いします。そのほかの方は宝石をジャラジャラ鳴らしてください。」

勿論、一方で、エプスタインの意向を汲み取ったビートルズメンバーとジョージ・マーチンは、楽曲面、作詞面でもアイドルとしてのハニカミを前面に出す。

ここでビートルズの初期のヒット曲のタイトルを見てみよう。

Love me do
(僕を愛しておくれ)
Please please me
(僕を喜ばしておくれ)
I wanna hold your hand
(君の手を握りたいんだ)
She loves you
(彼女は君が好きなんだよ)

ここにはマッチョで男尊女卑的な労働者階級的発想は無い。ここにいるのはあくまでも上目遣いのアイドルの4人なのである。

しかし、ジョンはこういったエプスタイン&マーチンプロデュースの”ビートルズスタイル”に欺瞞を感じ始める。
1965年あたりから彼の作る曲は、内省的でよりファンタジスティックになっていく。その極致が以下の楽曲群だ。

Strawberry fields forever
(苺畑よ永遠に)
I am the Walrus
(僕はセイウチだ)
Across the Universe
(宇宙を超えて)

ジョンが、いわゆる初期のビートルズスタイルを捨てたときに戻った場所は、労働者階級の音楽ロックンロールではなく、頭脳・感性を全開にした中流階級的ファンタジーだった事は重要である。
実は、彼にとって、労働者階級という場所は、戻れる場所でも、本来所属していた場所でもなかった事を証明しているからだ。
これは僕の主観なのだが、ジョンのビートルズの後期から、ソロの初期のストレートなロックンロール(ブルース)は、Yer Bluesにしても、I want youにしても、Cold turkeyにしても、I found outにしても観念的に感じられる。
ようするに、サウンドは激しいが、体がノッて来ないタイプの楽曲なのである。

繰り返そう。ビートルズにおいても、解散後もジョンは、労働者階級の生の生活を楽曲に描く事が出来なかったのである。

また、解散後に出した「ロックンロール」(写真一番下)。実はこのアルバム、ジョンの個性がまるで発揮されていない。
あのギラギラとしたジョンが不在なのである。
ここには、懐メロとしてのロックンロールしか存在しないのだ。

ジョンは聡明で正直だ。恐らく彼は、この事、いわゆる労働者階級的ロックンロールでは自分を表現出来ない事を悟っていたんだと思う。

この後、彼は長い沈黙期に入って、子育てに没頭してしまうのであった。

まさむね

「源氏物語千年紀 Genji」は3つの困難を克服出来るか

Friday, November 21st, 2008

源氏物語関連での最近のニュース(11/12)にこんなのがあった。

フジテレビで09年1月から木曜深夜のアニメ枠「ノイタミナ」で放送予定だった、「源氏物語」の世界を描くテレビアニメ「あさきゆめみし」のアニメ化が中止となり、「源氏物語」を原作としたオリジナル作品「源氏物語千年紀 Genji」を制作することに変更されたというのだ。

僕は、アニメの源氏物語というのは、今まで見た事がないが、映像化された源氏物語にいつも幻滅を感じさせられてきた。
例えば、2000年に公開された『千年の恋 ひかる源氏物語』(主演:吉永小百合、天海祐希)は鳴り物入りでの登場だったが、残念な結果だった。

僕が思うに、源氏物語を映像化する際に問題となる点は以下の3点だ。

1)オカルトシーン(葵上が六条御息所の生霊に殺されるシーン等)の処理が難しい
2)数々の姫の元に通い続ける光源氏の身勝手さに感情移入させるのが難しい
3)光源氏が紫君を誘拐したり、夕顔が腹上死したりするシーン等の唐突さの処理が難しい

しかし、一方で、源氏物語を将来的にも渡って人々の心に残していくには、秀逸な映像化源氏、アニメ化源氏の誕生が不可欠だと思う。
特に、今後、日本に多くの外国人が移住してきた際、彼らに、日本文化の源泉を理解させるという意味でも、これは、重要な文化的事業ではないだろうか。

今回の企画には、是非、以上3点を克服した新しい源氏の世界を見せてほしいものである。

まさむね

その他紋

Thursday, November 20th, 2008

このエントリーでは、これまで取り上げた以外の家紋をまとめて取り上げる。

唐花紋:大陸から伝来した架空の花を紋章にしたのが、この唐花。「必殺仕事人」の中村主水も使用している。宮崎県で22位、奈良県で27位、高知県で28位というのが比較的多いところ。

伊能忠敬。1745年2月11日 – 1818年5月17日、測量家。
上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。
江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。
全国を歩いて測量し、「大日本沿海輿地全図」を作成。
大変精度の高い日本地図として評価された。


銭紋:貨幣は呪術的な側面がある。縁起物として紋として使用された。

真田昌幸。1547年 – 1611年7月13日、武将・大名。
甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。
真田氏は滋野氏流を称する海野氏の傍流とされる。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、戦国時代きっての知将、謀将と言われる。家紋は六文銭。


仙石秀久。1552年2月20日 – 1614年6月13日、武将・大名。
美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流。
秀吉最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。家紋は永楽銭。


独楽紋:独楽は子供の遊戯。遊び心とそのあやういバランス感覚、不思議さを紋とする。

千利休。1522年 – 1591年4月21日、戦国時代、安土桃山時代の茶人。
和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えたが、後に、秀吉と対立。切腹させられる。
画像は、利休ゆかりの大徳寺・聚光院にて。


木下家定。1543年- 1608年10月4日、武将。
本姓は豊臣氏。家系はもともと桓武平氏流の杉原氏だったが、後に木下氏と改称。
豊臣秀吉の正室であった高台院の兄弟。五男に小早川秀秋がいる。
関が原の戦いでは、高台院の警護を務めた功績により備中足守に2万5千石を得る。
備前足守藩初代藩主。家紋は木下独楽。


夕顔紋:夕顔はウリ科。ヒョウタンの一種。かんぴょうの原料にもなる。

種田山頭火。1882年12月3日 – 1940年10月11日、俳人。
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。
荻原井泉水の門下となる。熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度し、全国を放浪する。
自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。
代表作「分け入つても分け入つても青い山」「鴉啼いてわたしも一人」等。


違い棒紋:藤原秀郷の百足退治伝説が家紋化した。棒は矢が簡略化したものと言われている。

丹羽長秀。1535年10月16日 – 1585年5月15日、武将・大名。
丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれる。元々、斯波氏家臣の家。
信長の家臣として、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。
本能寺の変後は、秀吉派につくが、賤ヶ岳の戦いの2年後に病死。
丹羽氏は代々二本松藩主として江戸時代生き残る。家紋は丹羽違い木。


丹羽基二。1919年9月5日 – 2006年8月7日、苗字研究家。
栃木県佐野市生まれ。國學院大学国文科で柳田國男、折口信夫らに師事した。
全国の100万基の墓を巡った。日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表 。
在野の研究家として苗字だけにとどまらず、家紋、墓、仏足石、紋様などの研究も行う。
代表作品『日本の伝統紋様』『お墓のはなし』『日本苗字大辞典』。


茶の実紋:橘紋に類似。お茶の名産地、静岡で29位に食い込んでいるが、他府県では少数派。

佐藤春夫。1892年4月9日 – 1964年5月6日、小説家、詩人。
和歌山県東牟婁郡新宮町に医師の長男として生まれる。家紋は三つ茶の実。
代表作は『黒潮』『田園の憂鬱』詩集『我が一九二二年』等。
慶應義塾普通部、桐朋中学・高等学校等の校歌の作詞も担当。
門人に井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、柴田錬三郎、遠藤周作などがいる。


鎌紋:鎌は農民の象徴だが、いざという時に武器になる。怖い紋。

小早川秀秋。1582年 – 1602年12月1日、大名。
木下家定の子で、豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたる。
筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承する。秀吉死後、越前北庄15万石へ転封。
関ケ原の合戦で西軍を裏切ったことによって日本の歴史に名を残した。
家紋は、丸に違い鎌。


七宝紋:七宝は、仏教でいうところの七つの宝。仏教の加護の願いをこの紋に込める。石川県、福井県、岐阜県、鳥取県、島根県、滋賀県、愛媛県、高知県などで比較的多く見られる。

大岡忠相。1677年 – 1752年2月3日、幕臣・大名。
1700石の旗本大岡忠高江戸屋敷での四男として生まれる。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。 将軍徳川吉宗が進めた享保改革を町奉行として支える。
大岡政談』や時代劇での名奉行として知られている。
家紋は大岡七宝。


江戸川乱歩。1894年10月21日 – 1965年7月28日、小説家・推理作家。日本推理作家協会初代理事長。
代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。江戸川乱歩賞は第3回より長編推理小説の公募賞となっている。衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強かった。
祖父の代まで津藩士であったという平井家の紋は、七宝に二引両。


綿の花紋:結綿紋は、真綿を結んだもので、祝儀に用いられたもの。綿の花紋は中岡慎太郎のオリジナル。

中岡慎太郎。1838年5月6日 – 1867年12月12日、志士、陸援隊隊長
土佐国安芸郡北川郷柏木村に北川郷の大庄屋 中岡小傳次の長男として生まれる。
土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
近江屋事件で襲撃を受け、2日後に絶命。家紋は丸に綿の花。


柿の花紋:柿の花をデザイン。武市氏だけが使用。

武市瑞山。1829年10月24日 – 1865年7月3日、土佐藩郷士。
土佐国吹井村に生まれる。父は土佐藩郷士の武市正恒。武市半平太と呼称される。
武市家はもともと土地の豪農であったが後に郷士に取り立てられた家である。
坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成。
「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。家紋は柿の花紋。


垣紋:垣とは、神社に張り巡らされた瑞垣のこと。名奉行、大岡越前守もこの紋を使用。

大岡昇平。1909年3月6日 – 1988年12月25日、小説家・評論家・フランス文学翻訳家。
東京市牛込区新小川町生まれ。両親は和歌山出身で父・貞三郎は株式仲買人、母・つるは元芸妓であり、結婚後上京したという。
代表作は『俘虜記』『武蔵野夫人』『野火』等。
家紋は、丸に大岡玉垣。写真は多磨霊園の墓石。


烏紋:古代、烏信仰は絶大であった。八咫烏は神武東征を先導。サッカー日本代表のシンボルでもある。

鈴木孫一。1534年 – 1589年5月2日、雑賀衆の有力者の一人。
平井(和歌山市平井)あたりを本拠地としていた土豪。。
石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。
その後、関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取るなどの軍功を挙げ、浪人を経て水戸藩に仕官した。家紋は八咫烏。


升紋:升は昔から「増す」の意味で、めでたいものとされていた。四角い升を上からみたデザイン。

市川団十郎。歌舞伎役者の名跡。
屋号は成田屋。定紋は三升。
歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。
歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。現在は、十二代目。
写真は、青山霊園の市川団十郎の墓所の、花入れを上から撮影したもの。


鳥居紋:神社の鳥居を紋所とした。神職関係者で多く使用される。

天津乙女。1905年10月9日 – 1980年5月30日、宝塚歌劇団の男役スター。
本名:鳥居栄子。愛称:エイコさん。
芸名は僧正遍昭の「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」から。
紫綬褒章受章。勲四等宝冠章受勲。
家紋は鳥居垣紋。谷中霊園にて撮影。


甲貝紋:甲貝は、テングニシとも呼ばれる貝。その味は、さざえと並び称され、美味と言われている。

渡辺崋山。1793年10月20日 – 1841年11月23日、政治家・画家。
田原藩士(上士の家格)である父・渡辺定通の長男として生まれる。
代表画は「鷹見泉石像」「佐藤一斎像」「市河米庵像」など。
幕府の保守的海防方針を批判し、国元田原で蟄居(蛮社の獄)。
写真は谷中霊園、息子の小華の墓で撮影。地元、田原中学校の校章もこの甲貝を使用。


源氏香図紋:香道で使用される組香の一種、縦5本の線を基本として構成される源氏香図の紋章。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。家紋は、源氏香紋の中でも「紅葉賀」。


角紋:カク紋と読む。八角のものを折敷紋、六角のものを亀甲紋という。

八千草薫。1931年1月6日 – 、女優。
大阪出身。幼少時父を亡くし以後母一人子一人で育つ。
本名、谷口瞳。旧姓、松田。家紋は、隅入鉄砲角。
第27回日本アカデミー賞「優秀助演女優賞」『阿修羅のごとく』
代表作は『宮本武蔵』『ハチ公物語』『田園に死す』『阿修羅のごとく』


銀杏紋:いろんな意味がある。中国文化の象徴としての銀杏。知識の象徴として東京大学の校章にも使用。または、火災避けの力があると信じられている。

中村勘三郎 (18代目)。1955年5月30日 – 、俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。十七代目中村勘三郎の長男。姉は女優の波乃久里子。本名は波野哲明。
屋号は中村屋。定紋は角切銀杏。歌舞伎名跡「中村勘三郎」の当代。江戸の世話狂言から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作と、どんな役でもこなす。代表出演作『元禄繚乱』(大河ドラマ)『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎)『真夜中の弥次さん喜多さん』(映画)。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。
芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。
テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。
家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


猿紋:猿は日吉権現の眷属として神紋となっている。

市川猿之助。歌舞伎役者の名跡。
屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。
初代は、役者の門人から立役へ出世、澤瀉屋を門閥にのしあげる。
二代目は、欧米に留学して舞台芸術を学び、生涯新しい形の歌舞伎を模索した風雲児。
三代目は、「スーパー歌舞伎」という新境地まで切り開いた「歌舞伎の異端児」。


蛙紋:蛙紋はめずらしい。おそらく、下記の澤田正二郎の蛙紋はオリジナル紋。

澤田正二郎。1892 – 1929年3月4日、俳優。
松井須磨子と対立し、術座を脱退した後、新国劇を立ち上げる。
歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物で男性客の人気を得る。
1987年、創立70周年記念公演を終えた後、解散。
写真は谷中墓地の墓石。柳に蛙紋とでも呼ぶべき紋。


牡丹紋:牡丹は藤原氏宗家近衛家の紋。鷹司家も使用。武家では島津家、伊達家、津軽家などが使用。

陸奥宗光。1844年8月20日 – 1897年8月24日、政治家、外交官。
紀州藩藩士伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。勝海舟の神戸海軍操練所に入り、坂本龍馬の海援隊に 加わるなど始終坂本と行動をともにした。
日墨修好通商条約、日英通商航海条約等を締結。 「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。家紋は仙台牡丹。


近衛文麿。1891年10月12日 – 1945年12月16日、政治家。
公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区で生まれた。日中戦争(支那事変)勃発、日独伊三国軍事同盟時の内閣総理大臣。
第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣
細川護熙(内閣総理大臣) は外孫にあたる。


車前草(おおばこ)紋:薬草の車前草。代々医者の家系の丹波氏にふさわしい。

丹波哲郎。1922年7月17日 – 2006年9月24日、俳優。
大久保の名家の三男。祖父敬三は大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着くという。
心霊学と霊界に造詣を持ち、心霊関係著書は70冊。
代表出演作『砂の器』『二百三高地』『Gメン75』『丹波哲郎の大霊界』等。


以下の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


井筒紋:地上に出た井戸の枠を紋章化した。井桁紋は菱形、井筒紋は正方形。全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。

司馬江漢。1747年 – 1818年11月19日、絵師。蘭学者。
鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。
浮世絵師だったが、後に洋風画を描くに至った。
天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち、日本に紹介した。安藤広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある。家紋は、「六つ追い重ね井筒」


乃木希典。1849年12月25日 - 1912年9月13日、軍人。
長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
明治天皇の後を追って殉死。家紋は、四つ持ち合い井筒。
青山墓地にある乃木家墓所にて撮影。もう一つ別に五瓜も使用。


創作紋:墓所には時に、故人を記念するようなオリジナルな紋が付けられることがある。

田尻稲次郎。1850年8月6日 – 1923年8月15日、経済学者・法学者・政治家・官僚。
薩摩藩士の三男として薩摩藩京都上屋敷で生まれた。日本初の法学博士。日露戦争時に戦費調達、債務処理に功績をあげ、退官後、東京市長を務める。
また、専修大学創始者の一人。
家紋は、田尻の「田」と稲次郎の「稲」から「稲妻」を連想して作ったオリジナル紋。


内田吐夢。1898年4月26日 – 1970年8月7日、映画監督。
岡山市に菓子店の息子として生まれる。
日本映画の創生期から戦後にいたるまで、骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」。
代表作は『大菩薩峠』『宮本武蔵』『飢餓海峡』等。
これは家紋というには若干違和感もあるが、墓所にて撮影した魚紋。

まさむね



久米さんは本当に危険な地雷からは逃げた?

Thursday, November 20th, 2008

昨晩は、久米宏のテレビってやつは!?のチャンネルを合わせた。

まずは大麻の話だ。
久米さん曰く「大麻を持っているだけで逮捕なのに、タバコは全く問題なし。って落差が激しくありませんか」
いまさらながら、その通りだと思った。
僕も以前から、大麻ってそんなに悪いの?って思っていたからね。
でも、テレビで、大麻というタブーをここまで、擁護するのもめずらしい。さすが久米さんの番組だって思って関心。

ところが、次は麻生首相の話。
登場は小泉さんの懐刀、飯島秘書官。
麻生さんが秋葉原やネットで人気という話になり、飯島さんが「ネットの書き込みを世論と思うのは間違い、所詮便所の落書」って発言した途端に、話題を変える久米さん。

大麻という、既に踏みやすくなっている地雷は、積極果敢に踏んだ久米さんだが、本当に危険な地雷からは逃げた...と感じたのは僕だけだろうか。

まさむね