Archive for January, 2000

ブリグリいいですね

Friday, January 14th, 2000

意識して聴いたことはなかったけど
こうして歌詞を読んでみるといいですね。
たしかに、歌うときに
「なんて楽しくなさそうに歌うのだろう」とは
思っていたのですけど、
タナトスまでモチーフになって商品化されてるなんて
凄いですね。
たしかに才能あれば、文学なんかで数千人数万人に読まれるよりCDで何十万何百万人相手のほうを選びますよね

いまは社会全体が黙り込んでいますよね
声を荒げて喋るのって、
聞くほうみんな引いちゃいますよね
ノックの件にしても声高々に追及している人たちのほうが
たとえ正論だとしても品がないような気がします

ところざわ

ブリグリとダーティリアリズム

Friday, January 14th, 2000

ブリグリの歌詞についての僕の評価は、それがベトナム戦争以降のアメリカ現代文学の一つの流れ、「ダーティリアリズム」的センスと通底している事かもしれないと思った。
「ダーティリアリズム」とは私の浅い知識によると、村上春樹の翻訳で知られるレイモンドカーヴァとかのアメリカ人白人労働者階級の生の生活を描いた作品群の事で、アメリカが構造的にかかえる人種差別とか階級といった難問をそのままに描いている(といわれている)。
その彼らの一つの倫理的仕草が「黙り込む」という事で、その黙り込みかたがブリグリの歌詞と似ていると思った。

今朝、久しぶりに、本当に久しぶりに身動きの取れないような満員電車で田無から西武新宿まで電車に揺られてきたのだが、近くのおそらく30代位の男性は、マルクスの「共産党宣言」の文庫を呼んでいた。隣の女性は、おそらくヨーロッパに住んでいる友達からの手紙を読んでいた。車両のどこかで、ウォークマンから漏れている椎名林檎の「本能」が聞こえた。そして、今や携帯のベル音は雑音とも呼べないくらい当たり前の音になってしまっているのに気づいた。
そして、僕を含め全員が当たり前だが、黙り込んでいた。

そして、西武新宿からおよそ20分間歩いて、オフィスまでやってきた。そろそろ仕事開始しなきゃ。

まさむね

突然、ブリグリ

Thursday, January 13th, 2000

ところざわさんからのメールを見て、自分で書いた過去の全日本プロレスものを読み返してみたら、今とほとんど考えが変わっていない事を確認。自分のお里が知れました。

さて、オブライトの体型ですが、確かにマンガチックですね。おそらく馬場さんは技術よりも体型から彼を選んだのでしょうね。腹が出ていて手の長い人って僕はそれだけで、そのプロレスラーを信用してしまいます。

さて、今回僕が書きたいのは、ブリグリ(TheBrilliantGreen)の事だ。1年ちょっと前までまったく歌謡曲に興味の無かった私は、ELTもブリグリも同じようなものだと思っていたのだが、ちょっと聞けばすぐに分かる事だが、ブリグリはかなり違う。
フロイトを持ち出すまでもなく、一般に人間の根源的欲望には二つの方向がある。一つはエロスでもう一つがタナトスだ。簡単に言ってしまえば、エロスというのは、現世的な快楽を追求する欲望で、金や女や権力が欲しいということ。一方、タナトスは現世を否定したあの世への願望の事だ。通常、社会はその生産性を維持するためにこのタナトスを抑圧すべく機能するので、テレビとか学校とかでは、このタナトスは存在しないかのように扱われる事が多々ある。
昨日来から話題になっているSPEEDを始め、ELTとかジャニーズとかは、前面エロスで押してくる。「夢を大事にしろ」とか「頑張ってる君が好きだ」とか、露骨ではないにしろ、生を肯定するのが歌謡曲の役割の一つだと思えるほどである。
ところが、ブリグリはめずらしく、タナトスに足場を置くアーチストなのである。以下は「長いため息のように」の一節である。

10秒前の過去に脅えた。わけもわからずに。
目覚めて、少し、思わず泣いた。悲しい夢だった。
・・・
あなたがくれた本を開いてここから抜け出そう。
今や明日や現実よりも少しはマシだから。

私は、そのささやかな暗さに唖然とさせられたのだ。一般的に暗い歌手といえば、中島みゆきとか尾崎豊とかあるけど、彼らの暗さはかなり具体的だ。例えば、分かれた男に後悔させようとして一生懸命、化粧して最後の言葉を言いに行く女とか、学校に反抗して窓ガラスを割って歩く少年とか。
でも、ブリグリの暗さはもっと根源的な暗さだ。普段は明るく暮らしている人でも、フと陥るような現実にぽっかり空いた穴のようなささやかな暗さである。
彼らがこれからどれだけ続くかわからない。適当なところで、歌手を辞めて、運送屋になりたいと公言してはばからない所をみると、もしかしたら、本当に現世のエロスに興味が無いのかもしれないという想像までさせてくれる。

どうですか。

まさむね

オブライトは手塚マンガチックな肉体でしたね

Thursday, January 13th, 2000

過去の一本木の中にオブライトの全日移籍に関するものがあって読み返してみて懐かしかったです
馬場さんの、そいつはレスリングができるのか発言が最高でした
文章はどんなものでも書き溜めて量があると、それだけで価値ありますね。この往復書簡もできるだけ長く続けましょう。

ところざわ

朝のたわ言

Thursday, January 13th, 2000

SPEED達のコメントは大体想像がつくような気がします。おそらく、「本当」の自分が出てきたとしても、それはそれで、面白くもなさそうな、自分探し宣言とか、同世代の若者への単純な応援(エール)のようなものでしょう。
かと言って、さらに抑制を失った宴会後の深夜のダベリのようなたわ言(パフィの得意技)が聞きたいわけではないのですが....
彼女たちに我々の想像を平気で裏切るようなダンディズムを求めるのも酷なのでしょうね。

まさむね

オブライトの死に馬場さんを思い出す

Wednesday, January 12th, 2000

プロレスラーのゲーリーオブライトが亡くなったそうだ。昨年の12月に世界最強タッグリーグ戦に出ていたのに、あまりにも突然の死であった。
そういえば、馬場もアンドレも大熊もこの1月に亡くなっている。全日本の選手にとって1月というのは死の月なのだろうか。もともと全日本プロレスは現役レスラーが死ぬとそれらのレスラーの回忌を毎年行っている。供養としての興行というのを一つの特徴にしてきたのだが、それに新たな命日が加わったということだ。
さて、馬場さんも亡くなって早くも一年が経とうとしている。晩年の馬場さんはそのリング上の動きに農耕民族的な日本人の原風景を思わせる動きを映し出していた。さらにその動きは他のレスラーの洗練されたプロレスラーとしての動きに独自の老いの美学を付加した、滑稽且つ奥深い世界をかもしだしていた。
ちょうど日本舞踊が見立てで成り立っている事、そして老いを排除しない事の2つで西洋舞踊と対峙しているのとパラレルな関係で馬場さんのプロレスは他の人のプロレスに対して独自性を保っていたのだった。
しかも、プロレスラーにとって最も大事な事はプロレスの技を見せる事ではなく、肉体の存在感を見せる事だという独自の哲学そのままに、その異様な姿は他の追随を許さないものがあった。もちろん、その伝統はあらゆる肉体のバラエティを誇る全日本プロレスに息づいているわけである。
馬場さんが亡くなってプロレスファンを辞めた私であるが、どうしても馬場さんの事になると饒舌になってしまう。オブライトの死をきっかけにまた馬場さんを思い出してしまった。

まさむね。

今日は初雪

Wednesday, January 12th, 2000

インタビューか何かで歌詞の内容を聞かれて
実体験とかじゃなくってリスナーの聞きたい
内容を考えて書いている云々
の発言もあったみたいです。
SPEEDが、ミンナ愛してるだの、質問に
4人声を揃えて返事するとか、子供の浅知恵が
小賢しかったけど、解散前後はテンションが落ちたのか
アザトイことも言わなくなったし、
答えもバラバラだったね

彼女の通う高校にはアンルイスの息子もいるそうで
教室内の葛藤を考えると楽しくなりますね

今日は初雪みたいなので風邪も完治していないので
JRがトロイ対応しそうだから早く帰ろう

ところざわ

唖然とさせる蹴散らし

Tuesday, January 11th, 2000

前の書き込みはちょうど始業時間になってしまい中途半端になってしまったので、続きです。

唖然とさせると言えば、昨年の東西の横綱は、松坂大輔と宇多田ヒカルだろう。僕はこの二人、実績もさることながら、彼らの発言に唖然とさせるものを感じた。

先日、野球選手が集まって行われた運動会みたいな粗雑な番組の1コーナーに松坂と上原の対談みたいなのがあって、そこで、松坂ははっきり自分の方が上原よりも投手として上であると言いきった。客観的事実はわからないが、僕はその正直さに唖然とさせられた。謙虚で知られる上原だが、目の前で、5才も年下の奴に格下扱いされたのだ。
その時の複雑な表情は今後、彼を見ていく上でも記憶にとどめておくべきものであった。

一方、宇多田ヒカルだが、年末の有線大賞の授賞式でのビデオでのコメントで「今後も、みんなが喜ぶようなズルい曲を作っていきたい。」と言った。これまた僕はその正直さに唖然とさせられてしまった。
ナンシー関だったか、宇多田ヒカルはいろんなものを蹴散らしたと言っていたが、まさしくこの発言で、さらに蹴散らされた業界の人は多かったに違いない。さらに今日のスポーツ紙には、宇多田ヒカルが飛び級でコロンビア大学入学か(?)とあった。
またまたこれで蹴散らされる人々が増えるのではないか。(別のサッチーのことだけじゃなく)
まったくもって、これらの若き天才達の「蹴散らし」は、まさにロードウォーリアーズの入場シーンのように快感でしかたがない。

まさむね

岡村とお茶の水

Tuesday, January 11th, 2000

僕のポン友のS君は早稲田大学の広報部勤務だが、彼の話によると、現場での岡村は終始、試験中もうつ伏せで寝ていた(寝たふりをしていた)そうで、現場としての面白味は全く無かったようだ。
一方、お茶の水博士のほうは、休み時間中も外部と携帯で連絡を取り、「入っちゃえばこっちのもんッスよ。」などとうそぶいていたところ、そのS君に注意されるなど、現場では、他の受験生の顰蹙を買いまくり、逆に言えば、面白かったそうだ。
そう考えていくとライブ的センスでは、お茶の水に軍配があがったような気もする。勿論、番組やタレントとしての格も考慮に入れなければならないのだが、あるいは、結果としての番組の面白さという基準で物事を考えなければならないという話も一理あるのだが、僕はその2人にプロレスを通過したものとそうではないものという区別を嗅ぎ取りたいのであった。
例えば、昨年、全日本プロレスの武道館大会にやってきた岡村は格闘技映画のパブリシティかなんかだったと思うけど、ラッシャー木村とのマイクのやりとりを披露したが、完全に木村に負け、「木村さん、あなたは面白い。」と終いには露骨に負けを認め、観客にも媚びるしまつだった。そこに岡村のプロレス童貞としての側面を見たのだ。

まさむね

唖然とすること

Monday, January 10th, 2000

ずっと風邪でダウンしてました

郷ひろみのその場面はみてませんでしたが唖然とすることは現実のほうが先いっちゃってますからね

ちょっと前に広末受験のときに、99の岡村と浅草キッドの御茶ノ水博士も受験していましたが、岡村のほうのは帯番組での企画のせいか、各教科毎の家庭教師軍団やライバル受験生との交流など、手を変え品を変え丁寧にいろいろな場面で笑いをとってました。
御茶ノ水博士のほうは単発の受験ぽくて、才能あると思うし個人的には大好きなのですが余り成功はしてなかったと思います。

プロレスもそうだけど、いろいろな状況を作って少しづつ盛り上げていかないと、テンションがあがらないのかもしれませんね

テレビってドキュメンタリーとか取材ものしかみないですドラマも最近見ないけど、大河ドラマとか、一年で50数回放送するなら、予定調和や結末のわかっている時代劇はやめてもっと目新しいのを見せてほしいよなあ

むかしインディジョーンズのテレビシリーズがあったけど、歴史上の史実や実在の人物に架空の事柄を掛け合わせて唖然とさせてほしいって感じです

ところざわ