「イノセントラブ」では結局、誰が死ぬのだろうか

December 2nd, 2008

「イノセントラブ」が急展開を見せている。

植物人間だった聖花(内田有紀)が奇跡的に起き上がったのだ。
しかも、彼女が好きだったは婚約者で、彼女が植物人間だった間、献身的に看病していた殉也(北川悠仁)ではなく、殉也の親友・昴(成宮寛貴)だったことが、殉也にも明らかになってしまう。

それによって、殉也は、二人が結婚する直前に聖花が自殺(その後遺症で植物人間になる)した意味も知ってしまうのだ。
殉也は泣き崩れる。
我々凡人には、自分がこんなにも聖花を愛して、尽くしてきたのに、彼女の心が殉也になかったことから来る悔し涙と思ってしまうのだが、そこは、イノセントラブ(無垢な愛)というだけあって、彼女が自殺までして好きでもない自分と結婚しようとしたことへの申し訳なさから来る涙、あるいは、その結果として植物人間になってしまった彼女への不幸を想う涙だったのである。

この涙のリアリティに関しては、もうそれほど純情ではなくなってしまった僕には推し量りがたいところがあるが、他の視聴者はどのように思ってみているのだろうか。
第一、元々、殉也が聖花を好きになったのは、いわゆる一目惚れである。
それがここまでの純愛として一途に進行するというのは、ドラマというよりは、おとぎ話として見るべきなのだろうか。

僕には、殉也の性格があまりにも紋切り型に過ぎるように思えてならないのだ。ようするに、殉也は、”純粋に聖花を愛する人”っていうキャラそのものであるため、悪く言えば、ロボットのように見えてしまうのだ。

さらに、殉也の佳音(堀北真希)への態度もロボット的なところがある。
聖花が起き上がり、殉也が喜び、その狭間で自分の居場所を無くしつつあると感じて、家を出た佳音を殉也が「君が必要なんだ」と引き止めるのだが、その際、佳音の気持ちは全く配慮されていない。
若干の悪意を込めて言うならば、殉也の佳音への行動は、「都合のいい住み込みのお手伝いさんが居なくなっては困る」から引き止めたという風に取られてもしかたがないのではないか。しかし、そんな殉也の”優しさ”をあっさりと受け入れる佳音。それはそれで別のロボットか?

さて、この純愛ドラマの顛末予想であるが、恐らく、恋の巴関係・殉也>聖花>昴、(昴は男として殉也に好意を抱いている)そして佳音、そして兄の耀司(福士誠治)の誰かが、純愛相手のために命を落とすという展開が最もオーソドックスのような気がする。

まずは、一番可能性がありそうなのは、耀司が佳音をかばって(のために)死して禁断の兄弟愛を貫くという事。これもひとつのイノセントラブである。別の視点からすると、彼が死んでも、その他の人間関係は壊れないため、制作的に「殺しやすい」立場ではある。
あるいは、浅野妙子が脚本を手がけた前作「ラストフレンズ」とのアナロジーで言えば、聖花が殉也(あるいは昴)の子供を残しながら、何らかの犠牲になって死に、残った子供を殉也と佳音、昴が育てるっていうのが収まりがいいかもしれない。
また、犠牲死ということがキーになって来るとするならば、ひとつ気になるのが、殉也という名前。”殉”というのは、まさしくその事を意味しているから、もしかしたら彼が...

でも、この結末予想は現時点ではストーリーの流れを無視した全く根拠のない想像なんだけどね。

まさむね

「29歳のクリスマス」と「ラストフレンズ」の埋め難い時代差

December 1st, 2008

「29歳のクリスマス」(以下「29X」と略す)の再放送を見ていると、今年の春に放映された「ラストフレンズ」(以下「LF」と略す)とどうしても比較してしまう。

男女(3人以上)が一つ屋根の下に暮らす青春群像ドラマである点、木曜日22:00~といういわゆる大人のドラマ枠での放送という共通点はあるものの、2つのドラマには、どうしようもない時間の隔たりがあるような気がする。
その隔たりは14年間。
その間、平成の大不況、金融ビックバン、構造改革等いろいろな事があった。
多くの人の生活実感として、時代は閉塞感を増している。あらゆる意味で、将来に対する希望がなくなってきているのだ。

おそらく、それらの社会状況の変化がこの2つのドラマの間に横たわっているのではないか。

2つのドラマを比べてみると、登場人物の元気さがまるで違う。
「29X」における典子(山口智子)、彩(松下由樹)、賢(柳葉敏郎)はお互い同士、思いやるが、それは、互いに世話を焼きあうという積極的な振る舞いで表現する。
だから、すぐに喧嘩になる。自分の価値観を相手に押し付けようとして、そして反省して、の繰り返しなのだ。

一方、「LF」における岸本瑠可(上野樹里)、藍田美知留(長澤まさみ)、水島タケル(瑛太)がお互いを思う気持ちは「29X」には劣らない。
ただ、彼女らは極めて大人しいのだ。
ある意味、老成しているといっていいかもしれない。
そして、「LF」の3人は、お互いの領域に踏み込む事はしない。あくまでも、相手にとって、好ましいキャラになろうとする。
それが現代の優しさの倫理なのであろう。
最終的に、3人は、お互いのトラウマを癒しあう関係になるのだ。

これは、いわゆる時代の閉塞感という事と大いに関係があると思う。バブルと地続きの90年代前半、「29X」の時代、彼女達はまだ、努力すれば社会的に上昇出来るという価値観の中にいる。
しかし、一方、「LF」では、そういった社会に対する、あるいは、努力に対する信頼感が感じられない。だからこそ、彼女達は手に職をつけて生きていこうとするのだ。

また、「29X」の登場人物達はいつも、目の前の世界に対して戦いを挑んでいるのに対して、「LF」では、いつまでも過去のトラウマ、自分の宿命との戦いがメインとなっている。
例えば、「29X」では、典子は、仕事上の挫折や恋愛等の外の世界と戦うが、「LF」の瑠可は、性同一性障害に悩み抜く。
彼女の戦う相手は、自分の中にあるのだ。
ACとか性的虐待とか、性同一性障害などという極めて限定的だと思われていた症例が、社会の前面に出てきて、人々にリアリティのある言葉として認知されてきた現代、とそれ以前の時代。
大げさに言えば、「29X」と「LF」の間には、そういった時代の段差を感じさせるのである。

また、2つのドラマに横たわる幸福観の違いにも目を惹かれる。
「29X」では、幸福=結婚という価値が素朴にも信じられている。
典子が彩に叫ぶ。「どうして私だけ幸せになっちゃいけないの?!」
ここで言う幸せとは、恋愛=結婚のラインに乗る事なのだ。

ところが、「LF」では、結婚は全く大きなテーマではない。
シェアハウスでにおいて、脇役として存在していた滝川エリ(水川あさみ)と小倉友彦(山崎樹範)が結婚はするのだが、それはあくまでもサブの扱い。
そういう生き方もありますよ的な扱いにすぎないのだ。

こんなに異なった世界の2つのドラマではあるが、面白い事に、最後の結末が奇妙な一致を見せる。
両方とも、みんなで育児をすることによって、新しい関係を築こうとするのだ。
もちろん、「29X」ではそうなる過程で、さんざん罵倒、葛藤、喧嘩があるのに対して、「LF」では微笑み一つで物事が進んでいく。
確かにその違いはある。
ただ、2つのドラマの最後に提示される新しい生き方が近いという事に、もしかしたら、時代が変っているように見えるのは表面的なことで、実は女の情(子供に対する愛情)というものは根本的には変らないという事を見るべきなのかもしれない。

また、ちょうど本日、今年の流行語大賞を獲得した「アラフォー」というもう一つのドラマでも、最後に、森村奈央(大塚寧々)の子供を、 緒方聡子(天海祐希)と竹内瑞恵(松下由樹)が可愛がるというシーンが出てくるが、それも「29X」と「LF」と同様に、子供をみんなで育むことこそ時代の閉塞感を打破することに繋がるということなのであろうか。

まさむね

姜尚中の魅力は低音だけではない ~『悩む力』書評~

December 1st, 2008

私は青春とは、無垢なまでにものごとの意味を問う事だと思います。
それが自分にとって役に立つものであろうとなかろうと、社会にとって益のあるものであろうとかなろうと、「知りたい」という、自分の内側から湧いてくる渇望のようなものに素直にしたがうことではないかと思うのです。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P87-

この本は、いわゆる力本(「老人力」とか、「鈍感力」とかの)の一つにカテゴライズされるかもしれないが、真正面からの、正々堂々とした青春論である。40万部を越えるベストセラーとなったのもうなずける。
とにかくわかりやすいのだ。そして、姜尚中の魅力は低音だけではないことを教えてくれる。

思えば、僕もいわゆる青春時代に、「おおいに悩め」「解決するよりも、問題を見つける事が大事だ」「考え抜けば何かが見つかる」と教授・先生達に言われたものだ。
悩む事が青春と特権だと言わんばかりの言動という意味では、その当時(70年代~80年代初頭)の教授・先生が学生にのたまわった言葉と、この「悩む力」とは全く同一地平にある。
ということは、もしかしたら、最近の教授・先生達はこういった言葉を学生に伝えなくなったのか。だから、逆にこの本が受け入れられたのだろうか。

しかし、本当に悩む事はいいことなのであろうか。ていうか、あの教授・先生達は幸せになったのだろうか。
姜尚中氏はこう続ける。

誰の人生の中にもあるはずの「青春」というものを知らずに終わる。あるいは青春という大切なものを、毎日一枚ずつ脱ぎ捨てていく。それは不幸なことではないでしょうか。
そのようにして生きていって十年後に自分の人生を振り返ったら、そこには空漠としたものしか残っていないと思います。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P91-

悩むということは、自分の意志で行う行為ではない。
それは、著者が言うように、自分の内側から湧き出てくるものである。
だとしたら、悩まないで老成出来た人は、それはそういう星のもとに生れた幸福な人とも言えるのではないか。
また、「人は悩まなければ幸せにならない」という、実は根拠のない人間観は、他人を悩みの世界に突き落とす事によって、己の存在価値を高めようとする教授・先生達の無意識的なセールストークだったのでは、と疑う視線もあると思う。
というか、今の時代、そのような、意地悪な視線こそ、皮肉にも説得力を持ってしまうのではないだろうか。

一方で、この本のマーケッティングに関して、気になることがある。それは、この本は一体、どういった層に読まれているのかということだ。

上記の記述でも明らかなように、この本は一見、若年層に向けて書かれているのだが、もしかしたら、ターゲットユーザー(読者層)は中高年を狙ったものではなかったのではないだろうか。
そして、またお決まりの「今の若者は...云々」というセリフのための、新しいネタ本として、この本が読者の手に取られたのではないだろうか。

何故って、こんな事を言っている僕が中高年だからこそ、この本を思わず手にとってしまう気持ちがわからなくもないからだ。

まさむね

第7話 急展開の「スキャンダル」を読み解く

November 30th, 2008

TBS日曜劇場「スキャンダル」が急展開している。

新藤たまき(桃井かおり)の夫の哲夫(石原良純)が、理佐子(戸田菜穂)をホテルで匿っていたのだ。
しかも、結婚式から3日の間は、新藤家に理佐子が居たという。

ということは、駿介はそこには居なかったということだ。
しかし、この事は、たまきのトラウマになっているらしく、勝沼刑事(小日向文世)が駿介の部屋に踏み込もうとすると、たまきは異常に拒む。

ここで、一つ引っかかるのは、前回放送時、たまきは勝沼に、息子の事を相談しようとしていた事だ。
勝沼には、奥さんに逃げられたという過去がある。だからこそ、たまきは勝沼に共感するものがあったということなのか。

という事は、たまきも同様にかつて、夫に逃げられている、しかも息子も道連れにして逃げられているのではないのだろうか。
しかし、夫はともかく、息子に去られたたまきはその事を心の中で整理しきれず、部屋から出てこない息子という虚構を自分の中で作り上げて、固執していたのではないか。

その後、たまきと結婚した哲夫は、結婚生活においても、たまきの精神状態をそのまま受け入れるしかなかったが、それは相当ストレスになっていた。
その哲夫のストレスが、今回の理佐子を匿うという行為とどのように結びつくのはは現時点では不明である。

もしも、理佐子と哲夫の二人の間に男女の関係があるとするならば、理佐子が結婚式でみんなに言った「私は勝ったわ」というセリフは、ほぼ、説得力を持つ。
貴子(鈴木京香)の夫の秀典(沢村一樹)、真由子(吹石一恵)の夫の賢治(遠藤憲一)とは理佐子は付き合っていた事が判明しているが、ひとみ(長谷川京子)の夫・雄一(光石研)に関しては、少なくとも上司の金沢が付き合っており、その金沢が雄一にこう言った「八年前の一件は元々君が画策したんだ。 いいか、私と君は同罪だ。忘れてはいけないよ」。
ようするに、なんらかの秘密を共有をさせられているのだ。(もしかしたら乱交パーティ的な性的行動もあったか?)

そこで、一つ考えられるのは、久木田慶介(加藤虎ノ介)が起した8年前の傷害事件に関してだ。
この事件は、雄一が画策し、なんらかの挑発をして久木田に事件を起させたという事が考えられる。
そして、それをネタに、金沢&雄一が久木田から金を巻き上げようとしたのではないかという事も想像できる。(財務官僚は金が無いという雄一のたびかさなるつぶやきが気になる)
その時、哲夫が弁護士として、賢治が医者として、その事件にかかわっているのではないかというのはまだ未確認だがありえる話だ。
弁護士が示談をまとめ、示談を有利にすすめるために、医者が偽りの診断書を書いたというのが2人の役割だ。

そして、もう一つが、結婚式当日の夜にあのラブホで金沢と理佐子の間になにがあったのか、そして、その後始末に誰がどう動いているのかという点だ。
番組HPによるとたまきの家の駿介の部屋に理佐子の指紋と血痕のついたナイフが見つかるという。
という事はあの晩、ラブホで理佐子は金沢を刺し、その後始末を哲夫に依頼。哲夫は理佐子を自分の家に連れてきて、駿介の部屋に置くということではないだろうか。

では、何故、あの晩、ラブホで刃傷沙汰が起こったのか。
理佐子が金沢に別れを迫ったが、そのための手切金が用意できなくて、話が紛糾して、思わず刺して逃げてしまったのではないか。
おそらく、理佐子が賢治や秀典に借金を無心していたのは、そのための手切れ金の工面だったのではなかと思うのだ。

さて、ここでまだ判然としない伏線を整理してみよう。
★理佐子の携帯電話を久木田が持っていた事(これは、少なくとも結婚式の前の時点では理佐子と久木田はグルになって、金沢を陥れようとしていたが、ただ、あの晩の顛末によって、理佐子は久木田の前からも姿を消した?)。
★久木田が貴子にモーションを掛けつづける理由(これは、最終的には久木田が貴子から、金を引き出そうとしているとの推理が出来る。と同時に、久木田は、実は国際ピアニストではない。別人なのを偽っている可能性がある)。
★理佐子が久木田の前から逃げなければならない理由(理佐子は金沢と別れるという前提で久木田と結婚するが、その約束が果たせなくて失踪か?あるいは、逃げているように見せている狂言か?)
★結婚式の晩、金沢と一緒にラブホに入るときの理佐子が貴子を見る表情(敢えて、貴子にその姿を見せつけようとしているような表情にも見えなくはない)

まだまだ、未整理のスキャンダルではあるが、残り数回、ますます楽しみだ。

まさむね

誰か、小沢さんに「あれじゃダメですよ」と進言してほしい

November 29th, 2008

麻生首相と小沢党首の党首論争は、最悪だった。
残念だった。
期待したこちらが悪かったのか。
僕は、不覚にも、今回の党首討論のお膳立てを整えた段階で、ついに小沢党首が本気を出すに違いないと微かな幻想をいだいてしまっていた。
でも、正直言って、僕の買いかぶりだったようだ。

はっきり言って、小沢党首は論争に全く向いていない。
とりあえず、党首討論をやったというアリバイ作りのために出てきたとしか思えなかった。

彼は、本当に麻生首相を追い込もうと思ってやってきたのだろうか。

小沢「経済対策優先と言いながら、何故、今国会で2次補正を出さないのか?」
麻生「それより、金融強化法を採決してくれ。それが先だ。」
小沢「2次補正を出さないのなら、解散しろ。」
麻生「政治的空白を作るから、解散しない。」
小沢「今までの経済優先という主張と矛盾するのではないか。」
麻生「矛盾しない。そちらこそ金融強化法を採決してくれ。」

簡単に言えば、こんなやりとりだった。凡庸だ。

実は、党首討論というのは、野党党首が首相を追い詰めるところではない。
その追い詰めてなくても、追い詰めたという印象を国民にわかりやすく「プレゼン」するところである。

小沢党首にはこの「見せる」という意識がまるで無い。
自分は言いたい事を主張したから、それでいいと思っているのではないか。
まるで知恵の無い話だ。

さらに問題なのは、、民主党は党として、戦略がなさすぎる事だ。
あるいは、あったとしても、誰も小沢党首に進言出来ない状態なんだろう。
これは不幸な事だ。

かつて小泉元首相は小沢党首の事を、あの人は、政略というものが分かっていないと言った。
どこを押せば、他人はどう動くのかというような人間というものの本性に対する洞察がないという事だ。
一般的に、小沢党首は、権謀術策の人と思われているが、他人の弱みに付込んでを追い込んでいくといった、本当の意味での政治的知恵の無い人なのだろう。

朴訥といってしまえば、悪く聞こえないが、ようするに場当たり的な人な人なのかもしれない。

僭越ながら言わせてもらえば、僕だったら、
「本来、党首討論というものは政治の大局を語るべきところという事は理解しておりますが、現在は、みぞゆうの、いや、失礼、未曾有の1度の危機ということなので、細かい話をさせていただきます」
と場の空気を変えてから、細かい点を次々に指摘し、麻生首相に謝らせまくる。
「首相は、老人医療に関して、病気の人の分を自分が払いたくないと言ったそうですが、その件に関してどう思われますか。」
「首相は、医者に対して、世間知らずの人が多いと言ったそうですが、その件に関してどう思われますか。」
「定額給付金に関して、配布を地方に任せると言われた事に関して、地方から批判があるが、それに関してどう思われますか。」
等など、他に、田母神氏の件、社保庁のデータ改ざんの件、さらに、中山元国交省の件、総裁選で名古屋だから大丈夫と言った件まで、ネチネチと、しかも、短くどんどんと持ち出して、その都度、謝罪させて、首相をイライラさせればよかったのだ。
僕だったら、とにかく蒸し返し作戦(だって、初めての党首討論なわけだから、それはそれで正当だろう)を採用して、スネイクになる。
そして、最後に民主党の経済対策案をプレゼンして、これと自民党案とで選挙をしようと言えばいいのだ。

恐らくテレビは、首相の謝罪シーンを編集して伝えるだろう。視聴者はそれを見て何を感じるのか?誰にでもわかるだろう。
そして何よりも、麻生首相に、党首討論をもうやりたくないと思わせる事ができる。
元々、小沢党首はやりたくないのだから、一石二鳥ではなかったのか。

少なくとも、小沢党首は、今回の討論が、大失敗だったという事を自覚し、民主党の他の面々はそのことを彼にわからせてほしい。
それからじゃないと何も変らない。麻生首相云々はそれからの話だ。

まさむね

田無における幕末動乱と住民のリアリズム

November 29th, 2008

年末も近くなってきて「篤姫」も、江戸城無血入場のクライマックスが近づいてきた。

こういう歴史的な変動の時期は、当然、江戸だけじゃなくて、日本中それぞれの土地でも、様々な変動が起きているはずである。
江戸郊外であるが、当地・田無も無関係ではなかった。

江戸城無血入場後、慶喜は水戸へ退くが、腹の中が収まらない幕臣たちは、彰義隊を組織して上野に集結した事は知られている。(写真一番上、上野の彰義隊の墓)
しかし、内部で作戦方針が定まらず、一部(渋沢成一郎の一派)は彰義隊を離脱して、振武軍という部隊を結成した。
そして、この振武軍は、一隊ごと、田無にやってきたのである。

彼らは、田無の総持寺(写真二番目、三番目)に陣を張って、近隣の農民に、「徳川家再興のための軍資金集め」を要求した。
特に、地元の下田半兵衛(写真一番下は総持寺にある彼の墓)には、食事や夜具など様々な世話を命じたようである。

元々、この血は、江戸時代は、尾張徳川家の御鷹場(鷹狩りのための用地)であったため、比較的税制は優遇されていた。
だから、この辺りの農家の屋敷は、みんな大屋敷である。

後に、国木田独歩は「武蔵野」で、このあたりの土地の自然の豊かさを描写したが、それも、この土地が御鷹場であり、適度に自然を残す事が義務付けられていたという事情を背景としていたのだ。
しかし、一方で、そういった事情は同時に、いざという時には、幕府からの臨時徴収を覚悟しなければならなかったのである。

さて戦況は、どうなったのか。
まず、すぐに彰義隊が官軍に包囲されたという報告が入る。
振武軍は援軍として江戸に援軍として向かおうとしたが、途中で彰義隊壊滅の知らせが入り、再び田無に戻る。
すぐに官軍がこちらに向かっているという報が入り、急遽、臨戦態勢で陣を張る。
ところが、その陣にやってきたのは、官軍ではなく、傷ついた彰義隊だった。田無の村人は彼らの手当てを手伝ったという。
その後、振武軍は、田無から飯能へ後退。

そして、すぐに、振武軍を追ってやってきた官軍が田無へ大挙押し寄せる。そして田無で一泊した。
村では、官軍向けの炊き出しをしたという記録がある。

村人の意識としては、幕軍でも官軍でもどっちでもいいから、自分達の生活は乱さないでくれって思っていたんじゃないかな。そういう本音が垣間見れると、ちょっと微笑ましい。

戦局の方は、結局、振武軍が飯能で壊滅。
大将の渋沢成一郎は品川へのがれ、その後、榎本武揚達と一緒に、函館・五稜郭の戦いまで戦い抜く。
しかし、時勢が落ち着くと、渋沢は大蔵省に出仕、そして最終的には横浜で、生糸貿易を手がけ、成功して大富豪となったという。

なんかいろいろとあったけど、終わりよければ全て良しっていうのが渋沢の人生だった、ってことか?ちなみに、この渋沢成一郎は、日本・実業の父、渋沢栄一の従兄にあたる。

※多摩の歴史(武蔵野郷土史刊行会、有峰書店)参照
まさむね

14年前の「29歳のクリスマス」再放送の評価は?

November 28th, 2008

「29歳のクリスマス」(以下、「29X」と略す)の再放送が始まった。

最近は、再放送と言えば、リアルタイムで放送しているドラマの番宣的位置づけで、主役の前作(例えば「セレブと貧乏太郎」番宣のための「暴れん坊ママ」再放送など)を流すというのがオーソドックスパターンなんだけど、いきなり、14年前のこの作品が時を越えて登場したのだ。
このドラマを見ていると、いろんなところに、14年の間の社会の変化を感じる。

僕は、「29X」に特徴的なキャラクタ、価値観を以下の10点にまとめてみた。

1)友達同士、すぐに会う。
これは、携帯電話まだ普及してないっていう技術的要因が大きいんだけど、お互い何かといえば、すぐに会う。仲がいいのだ。
そして、会っては、飯を食い、酒を飲み、大騒ぎする。

2)基本的に真面目
「29X」の彼・彼女達は、生き方に関して真面目である。
自分が決めた生き方に関して、頑張ろうとするプライドと意志と行動力を持っている。

3)女性の化粧が大きく変った。
基本的に、14年前の化粧はケバい。っていうか、色っぽい。とにかく、女を前面に出している化粧なのだ。

4)女性が男社会と闘っている。
男女雇用機会均等法が改正され、雇用差別が撤廃されたのが、1985年。
それから、男社会に徐々に進出しはじめた女性達が、個々の現場で奮闘する姿がドラマ主題の一つとなる。
「29X」でもまさに、これが一つのテーマ。
レストランの店長をさせられる典子(山口智子)、テレビカメラマンの彩(松下由樹)、彼女達は闘う女としての一面を色濃く持っている。

5)男女それぞれが異性を見る目が野生的。
図式的に結婚に関して言えば、70年代にお見合いのシステムが崩れ、80年代に職場結婚(総合職男子と一般職女子の結婚)が崩れ、そして、80年代末~90年代にかけて、いわゆる野生的婚活時代になるのである。
今から見ると、みんなギラギラしていた。

6)恋愛と結婚が近い
大前提として、付き合うって事は、最終的には結婚する可能性をどこかに抱きながらの行為なのだ。

7)結婚における家の存在感がある
これは、「29X」だけの話かもしれないが、結婚というのが、まだ二人だけの関係というところまでは行っていない。
それはお互いの家と家との結婚という面がまだ残っているのだ。

8)結婚相手の条件として三高が残っている
三高(高学歴、高収入、高身長)の男が価値の有る存在として描かれている。
「29X」では、木佐裕之(仲村トオル)が、それに当てはまっている。

9)30歳というのが大きな意味を持つ
このドラマでは、典子(山口智子)の有名なセリフがある。「30歳の誕生日には 最高に幸福になってやる 絶対に!」。
そのために、逆算して、29歳のクリスマスには男をゲットしなければならないのだ。

10)お互い干渉しまくる
「29X」では、お互いの恋愛、結婚、生活、仕事に関して、お互い干渉し合って、エキサイトしてくると罵り合ったりもする。
「29X」は、「ラストフレンズ」同様に、男女のルームシェアが行われるが、お互いの関係性は全く違い。
「ラストフレンズ」では、一緒に住みながら、お互いの価値観を押し付けあおうとしないのだ。

おそらく、上記のような価値を持つ人は現在でも多く存在していると思う。
ただ、そういった価値観を持つ人が相対的に少なくなったのである。

どちらかと言えば、現代では、上記のような価値観は上流指向的発想と言われるものに属する。
15年前位では、これがいわゆるメジャーな考えだと思われて、しかも当たり前とも思われていた。だから、そうでない状況の人々も、ある種、憧れとして認知して、見ていたのではないか。

ところが、現代は、上記価値観に関して、それはそれとして、残存しながらもっと多様な価値観がどんどん出てきた。
オタク派、手に職派、ヤンママ派、キャリアウーマン派、環境派等が混在していて、それぞれがあまり交流を持たないような状況になってきているため、ドラマとして、一つの物語に収める事が難しくなってしまったのかもしれない。

そういえば、最近は普通の人々を主人公にした普通の恋愛ドラマが全くなくなってしまった。
物語の要素として、必ず、過去のトラウマ、不治の病、特殊な職業、特別な事件、サスペンス的要素などが無いと、現代では、ドラマとして、成立出来なくなってきているのだ。

さらに、29歳というか、30歳位の年齢の人たちが主役になるドラマっていうのも無くなって来てると思う。

「イノセントラブ」「流星の絆」「ラストフレンズ」のように、いわゆる恋愛物と言われるドラマですら、主役達は、20代前半である。
これは、恐らく、ドラマのメインターゲットである女子高校生達が、30歳位の女性を自分の延長的存在として見られなくなってきている事、せいぜい、25歳くらいまでのドラマにしか共感できなくなってきている事がまずある。
さらに、同時に30歳位の女性も、気持ち的には20代前半でいる(無意識的に強引にいようとする)ため、彼女達が共感出来る年齢が下方に伸びて、20代前半になっているからだ。

かくして、恋愛、結婚、仕事、友情という”みんなが共有する”大テーマを扱うTVドラマが死滅してしまったわけであるが、今回の「29X」の再放送は、現代人にどう評価されるのか。
今回の再放送は、最近打つ手がなくなってきている感のある、テレビ局にとっても一つの市場調査的意味合いがあるのかもしれない。

まさむね

田無神社は、武蔵野面影を残す緑と水の神社

November 27th, 2008

田無の氏神、田無神社までちょっと足をのばした。

田無神社のご祭神は、尉殿大権現と大国主命。
公式HPには、「尉殿大権現(級津彦命、級戸辺命)は、すべての命の源である水と、よろすの災を祓う神を司る豊饒と除災の守護神で、その御姿は金龍神として顕現いたします。」とある。

田無周辺は、典型的な武蔵野の台地だから、生活、農業をするには水がとっても大事だったんだろうね。由緒書によると、元々、ちょっと離れた谷戸という所にあった神社を、人々が幕府からの指示(石灰の伝送のため)で青梅街道沿いに移り住んだタイミングで持ってきたらしい。
谷戸は水が豊富だったけど、この田無はそうでもなかったから、みんな苦労したらしいね。
水への感謝の意を込めて、龍神を奉っている。

だから、この神社には龍が多い。神社内の天水桶の所に龍(写真一番上)、本殿の彫刻にも龍(写真二番目)、そして狛犬までも龍のマネをしているのか低身のポーズ(写真三番目)、ちょっとカワイイ。

大国主命は、明治になって、田無神社が、熊野神社、八幡神社を合祀してから祭神になった。
これは全国、いたるところで起きた現象(政策)で、いろんな神社を国家神道傘下に位置づける過程で、合祀したりして整理したんだよね。
日本人はおおらかというかいい加減だから、そういう措置に関して、特に不平も言わないで従った。

元々、神社に何か(誰が)奉られているなんてことは、日本人は、それほど関心ない。どんなご利益をもたらしてくれるかって事の方が重要。まぁ当たり前のことなんだけどね。

ちなみに、境内には、他に、相撲場があったり、五木寛之が境内に早稲田在学中に居候していたっていう記念板(写真四番目)があった。

一番下の写真は、神社からの帰路、青梅街道沿いに、いつも気になっていたお肉屋さん。逆さから読むと「野生の肉」に読めるのがなんとも、いい味出してるでしょ。

まさむね

今日の「久米宏のTVってヤツは!?」の印象雑感

November 27th, 2008

本日の「久米宏のTVってヤツは!?」は、三浦展氏の「女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?」(光文社新書)を踏まえたキャバクラ特集だった。

この三浦展氏って一連の下流ブームの仕掛け人。僕も下流三部作は面白く読ませてもらった。
この下流という言葉、最初はマスコミ的にも、僕らが日常使う言葉としてもちょっと刺激的にすぎるかなと思っていたんだけど、この人の著書のおかげで、世間に認知された感はあるよね。
そう意味で、新しいリアリティを創造できた人の一人だと思う。

でも、最近、ちょっと多作すぎて、内容が薄くなってきているような気もする。
特に「下流大学は日本を滅ぼす!」とか。まぁ、本エントリでは三浦展論は、本題ではないので、改めて書評することにする。

さて、番組に戻る。
気付いた点は2つ。

一つ目は、杉田かおるさんて意外に視野が広く、しかも常識的だって事。

杉田さんは、女の子が何故、キャバクラ嬢になりたいのかという番組構成上の大きな問いかけに対して、「バブルが崩壊して、普通の人が地道に生きていっても幸せになれるとは限らなくなったという時代背景」を説明し、さらに、昔(自分が子役の頃)は、「このままだと君は、銀座のホステスになっちゃうよ」って共演者(例えば石立鉄男さん)に言われたっていう経験を踏まえて、水商売というものが、昔は「なりたい商売」ではなく「なってしまう商売」だったのが、現在は「なりたい商売」になっている、この価値の転倒はどうしたものかという問題まで提起していた。

ちなみに、一方では、進行役の八木亜希子アナは、一方、女子アナっていう職業が、昔は憧れの職業だったのに、今はキャバクラより下なのかという事を嘆く作法だけを繰り返し見せて、ただ、嫌味な印象だけを振り撒いていた。
もう一人、チョイ悪風のCM業界者が出ていたが、残念ながら番組内では存在意味無し。俺はクライアントには媚びないって胸を張っておきながら、年末年始にはみんなで、テレビを見ましょうって言ってた。

さて、そうなのだ。杉田さんが言うように、この日本では従来の価値観がいつのまにか転倒してしまっているのだ。

そのうち、キャバクラの専門学校が出来るかもしれない。
また、花嫁修業のためにキャバクラで働くような時代が来るかもしれない。
接客のための知識の習得、美への研鑽、周囲への目配り力の強化、しっかりした経済観念の育成、っていう具合に、花嫁としてのリアルスキルを、生け花教室よりも学ぶことが多いのかもしれないのだ。

もう一つは、経済評論家の森永卓郎さんの指摘がうやむやになってしまった点。

男は何故、キャバクラに行くのか。10,000円/1時間だったら、普通の女の子を誘って飯を食いに行った方が、安上がりではないのか。エッチなサービスは無いと言いながら、アフターとかあるんでしょ..と森永さんは聞く。

そこで、スタジオのキャバクラ嬢たちは、そんな事は無い的な素振りをしていたが、はっきりは言っていなかった。でっ、残念ながら、久米氏はそこでCMに行ってしまったのだ。

どんな職業にでもいい面と悪い面がある。
キャバクラ嬢になる事のリスク、嫌な点は、ただ、年齢を重ねると出来なくなるって事だけなのだろうか。
ある種の人々には野暮な質問かもしれないが、そのあたりは番組として、明確に示すべき一線ではないのかと思われた。

ちなみに、僕は、何度か仕事でキャバクラには行ったが、そんなに面白いところではなかった。

まさむね

安馬の大関昇進はモンゴルの文化的勝利だ

November 26th, 2008

安馬改め日馬富士(はるまふじ)(24)が大関昇進を果たした。

安馬という名前は、旧安冶川部屋所属力士の「印」として、安冶川親方(元横綱・旭富士)が”安”+”馬”として、つけたものだが、安冶川親方が伊勢ヶ濱親方への名跡変更したのに伴い、順次、進めている改名の一貫という事になる。

日馬富士は、幕の内で最も体重が少ない小兵力士であったが、持ち前の努力とスピードで大関昇進を見事はたした。
しかし、これまでの道のりは決して平坦ではなかったはずだ。
入門は16歳の時。右も左も言葉も文化もわからない日本という異国の地でなめた辛酸は尋常ではなかっただろう。

しかし、彼は大きなチャンスを一度でものにした。
その尋常ではない努力と精神力はもっと賞賛されるべきだと思う。
ところが、僕が今日見ていた18時からのTBSニュースのスポーツコーナーでは全く触れられず。
八百長とか大麻だとかの時はあれだけ大きく憤って見せた面々が、本当は全く大相撲に興味の無い事が露呈。編集権という名の横暴と言うべきか。

さて、一方で、最近、日本人力士の低迷が続いているといわれている。
次の横綱は誰かと問われるならば、どちらかと言えば日本人贔屓の僕でさえ、琴光喜、魁皇、千代大海ではなく、琴欧洲、日馬富士、把瑠都という外国人勢の名前を上げざるを得ない。
それでは、何故、日本人力士がなかなか活躍できなくなってしまったのだろうか。
一般的には、力士になるような才能や体躯を持つ子供達が他のスポーツに流れてしまったために、元々力士志望者が減ったという事が言われている。
また、志望者が入門しても、すぐに辞めてしまう(いわゆる根性が無い)という事も多いようだ。

しかし、辞めたくなるという事に関しては、日本人も外国人も同じ。嫌、角界というところは、外国人にとっての方がより過酷な状況ではないのか。

実は、日馬富士も、相撲が嫌になった時期があったという。
入門1年半後、初めて許されたモンゴルへの帰国時、里心がついたのか父親に「日本に戻りたくない」とつぶやいたと言われている。
しかし、その際、父親は、「男は目標を持ったら最後まで目指さないといけない。ここで逃げたら何をやっても成功しないぞ」と言って日馬富士をたしなめ、日本に送り出した。

教育の基本方針として、子供の自由意志を尊重するという現代日本文化において、上記のような威厳のある父親はどれだけ存在するのであろうか。
心を鬼にして、息子を再び、荒海に戻す勇気 という親子文化を日本は正しく継承してきたのだろうか。

確かに、日馬富士の大関昇進は、喜ばしいことではあるが、一方で、それは、モンゴル文化の日本文化に対する勝利を、逆に言えば、日本文化のある種の危機を象徴していないだろうか。

ちなみに、紋付で登場した日馬富士の胸についていたのは、茗荷紋(上図)のように見えた。
茗荷紋はもともと、大陸からやってきた憤怒の神様、摩陀羅神の象徴だ。日本を代表する紋の一つで、三島由紀夫、向田邦子、角川春樹、うつみみどり等がこの紋であることが確認出来ている。

しかし、未確認ではあるが、杏葉紋(下図)のようにも見えなくもない。
もしも杏葉紋であれば、それはそれで粋だと思う。元々、この紋はシルクロードの馬具の飾りが起源と言われているから、日馬富士という名前との整合性もバッチリではないか。

まさむね