知的であるということには2つのタイプがあるように思う。
一つは、『読書進化論』の著者・勝間和代氏のような、知性を前向きに活用できるタイプ。
そして、もう一つは『悩む力』の著者・姜尚中氏のように、内向的に思考を掘り下げていけるタイプだ。
多くの人は両極の間を行ったりきたりする。
僕はというと、知的かどうかは別にして、タイプとしては、基本的に姜的なタイプだが、一方で限りなく勝間的なものに憧れている。
それは、矛盾しているのだが、時に、姜的な世界に対してはその暗さを揶揄してみたりするものの、勝間的な世界の明るさを軽んじてみたくもなるのだ。
では、この勝間的明るさとはいったい何なんであろうか。
『読書進化論』のなかで彼女はこう語っている。読書に関してのところだが、典型的なところを抜き出してみよう。
よく「本を読め、本を読め」といいますが、「読んだ本の成果は仕事や生活で活用しなければならない」と、私はずっと思ってきました。(『読書進化論』P22)
繰り返しになりますが、本は全部を隅々まで、読む必要は無いのです。ウェブを頭から全部読む人はいないのと同じように、本の全体像の中から、好きなところだけ拾い読みしていけばいいのです。(同書P121)
(本の)著者たちは、私たちが自分の人生のミッションを達成するための、よりよい人生経験、楽しさ、知的好奇心、豊かさ、考え方、教養、興味、哲学、そのようなさまざまな刺激を本を通じて与えてくれるのです。(同書P231)
自分の人生に活用するために本を読むこと。これは、全く正しい姿勢だ。反論の余地も無い。
しかし、僕のように長年、そのようには本を読めてこなかったタイプの人間にとって、それは、1%の違和感を感じざるを得ないのも事実だ。
僕は買った本の9割以上は全部読む。途中で、自分の関心外の本だとわかっても一応、全部読む。だから結果として無駄の多い本読みになってしまう。
それは、意地みたいなものだ。
しかし、そうやって苦労して頭を通過させた本の中の言葉達は、フッとした瞬間に、頭の中で氾濫を起す。
それが、1日後なのか、1ヶ月後なのか、1年後なのか、それはわからないのだが、僕にとっては、それが面白いのだ。しかし、それが実生活で役立つものかといえば、100%あり得ない。
僕は、ナンパしてつきあってみて、「あ、違った」と思ったときに、「お友だちになりましょう」とさよならする、のと同じ(同書P82)ようには、本が読めない性分なのだ。
ていうか、現実の人間に対してもナンパしてつきあってみて、「あ、違った」と思ったときに、「お友だちになりましょう」とさよならする事自体もなかなか出来ない性分なのである。
もしかしたら、僕は、勝間氏の拠ってたつ価値観に、どうしても同調出来ないのかもしれない。
勝間氏が言うところの、人生のミッションというような考え方に馴染めないのかもしれない。
おそらく、彼女の発想の起源は、アメリカ発祥のニューソート思想(気持ちを前向きに持つ事によって運命が開けるという考え方)が、生長の家等の新宗教や、自己啓発セミナー等に乗って入ってきたものに近いのではないか。
しかし、この考え方は意識しようとしまいと、現代日本人の正しいとされる発想の根本に根付いている考え方だと僕は思っている。
例えば、今年の春に大ヒットしたTBS「ROOKIES」というヤンキー系野球ドラマがあった。
そこにおいて、最後、川藤先生(佐藤隆太)がナインにこう叫ぶ。
臆病でためらいがちな人間にとっては一切が不可能だ。
なぜなら、一切が不可能のように見えてしまうからだ。
あきらめて振ったバットには絶対、ボールはあたってくれない。
だが、自信を持って振れば目をつぶってだってあたることがある。
お前たちが努力して、手にした最大の宝、可能性だ。
この前向きさは、おそらく、多くの現代日本人の心にスッと入ってくる強いメッセージ性を持っている。
そして、同時に、これは、勝間氏の価値観と通底しているように思える。
さらに、これは、僕にとって、宗教の世界とも、深い親和性があるように思えるのだ。
この著書の中でも、いわゆる勝間信者からの報告が掲載されている。いくつか抜粋してみよう。
《蓮》さん
『時間』の本を契機に10年やめられなかった煙草をやめられました!(中略)日々の小さな努力を大切にできるようになったのが、私にとって一番のご利益です。(同書P107)
《あんちゃん》さん
私も「ご利益体験」を挙げれば数え切れませんが、みなさんが多く書かれていないようなものを紹介させていただきます。(同書P114)
会社員《とらぬ狸》さん(47歳)の話
勝間さんの本は、ほぼ全部読ませていただいております。(中略)また、「自分にとって大切だと思うことには出費を惜しまない!」という発想の転換を得て、興味を持った本は迷わず買う/出張時の宿泊ホテルをランクアップするといった行動に結びつき、大変なご利益を得ております。
彼、彼女達が口にする”ご利益“という言い方。
これはまさしく、勝間氏の発想自体は優れて知性的だが、受け取るほうは宗教として受容している、という皮肉を表しているようにも思える。
でもそれが悪い事なの?って言えば、全くそんな事は無い。
先ほどの読書論と同様、これは、全く正しい姿勢だ。反論の余地も無い。それはわかっている。
しかし、もしも、僕が勝間氏の考えを受容したとしても、体のどこかで姜的なものが、時々、違和感の氾濫を起すような予感がするのだ。
だから、どうしても勝間本に関しては、距離を置いてしまう。
ただ、一方で、その氾濫を逆に『悩む力』と肯定する気にもなれない僕もいる。
なかなか簡単にいかないのである。
「わかっちゃいるけど止められない」とはスーダラ節の一節だが、僕は49歳になっていまだにその言葉から出れていない。
まさむね