Archive for the ‘テレビドラマ’ Category

篤姫の行動原理は極めて現代的だ。

Monday, July 21st, 2008

NHK大河ドラマの主人公の思想には放送当時の社会の価値観が反映されている。

例えば、私が見た限り、何度もドラマ化された戦国時代の信長や秀吉、家康達は、例外なく、「いくさの無い平和な世の中」を最終目標としていた。そこでは、”家”を存続させるためには、敵は滅ぼさなければらないという、当時としては当然の価値観は周到に隠されているのである。

そして、現在、放映されている「篤姫」においても、歴史上人物の行動原理に、現代の価値が入り込んでいるという現象はいくつか見られる。
気付いたものの一つ目。篤姫の薩摩時代、義父の島津斉彬に「何故、薩摩が軍備増強するのかわかるか?」と問われた篤姫は「それは戦をしないためです」と明確に回答し、斉彬を驚かせるという場面があった。
これは、(いい悪いは別にして、)明らかに、現在の自衛隊を正当化する理論と一致する。

もしかしたら、このような価値は、ここ10年位前から、ようやく表明できるようになったのではないだろうか。
例えば、1973年の「国盗り物語」における信長、1981年の「おんな太閤記」における秀吉が、このような価値表明をしていただろうか。興味深いところだ。

そして二つ目は、篤姫の「己の心に従って行動せよ。」という行動原理だ。これは、何度も繰り返し放送されているが、母からの言葉であり、先週放送の「二つの遺言」では斉彬からの最後の手紙にも記されていた。

恐らく、この行動原理は、砕いて言えば、「価値観は人それぞれだ」「自分が何をしたいのかを考えろ」「自分の感性に従って行動しろ」「自分の行動は自分で責任を持て」という極めて現代的、民主的なものだ。
今回の「篤姫」の人気の秘密は、彼女のこうした現代的行動原理が、様々な旧弊かつ閉塞的な状況を打破していく痛快さにあるに違いない。

さて、本日(20日)の放送でも、他言は禁止されていた将軍の死という秘密を、自分の感性のおもむくままに側室と生母に伝える事によって、それぞれのギクシャクした女同士の関係を修復し、篤姫から天璋院へと成長していく。

今後、ドラマは、大老の暗殺、和宮降下、江戸城開城というように劇的な展開を迎えることが予想されるが、その都度、彼女の行動原理はどのように状況を打開していくのか。楽しみである。

まさむね

「四つの嘘」と「アラフォー」

Saturday, July 12th, 2008

テレビ朝日系ドラマ「四つの嘘」(木曜、午後9:00~)が今週から始まった。

原詩文(永作博美)は、高校時代の同級生の戸倉美波(羽田美智子)の恋人の河野圭史(仲村トオル)を奪って、結婚するが、娘出産後に離婚。
河野が海外で事故死したというニュースをきっかけに、同級生の西尾満希子(寺島しのぶ)、灰谷ネリ(高島礼子)と再会するが、さらに、その場に河野と同じ事故で美波も死んだというニュースが飛び込んでくる。

第1回目のあらすじはこんなところだが、今後、高校時代の同級生4人の日常生活、過去に潜むそれぞれの嘘があばかれつつ、それぞれの人生が展開していくという予告だ。

前クールの「Around 40~注文の多い女たち~」(以下「アラフォー」と略す)と近接したテーマを扱っているだけあって視聴者としては、「アラフォー」との対比で「四つの嘘」を見ていくというのも一興か。

40歳という、女性にとっては自分の人生の価値観(方向)を決める最後のターニングポイントで、女性達は、主に以下の価値観の間で揺れ動くようだ。
「仕事」「家庭」そして「男性」だ。
2つのドラマでは、この3つの典型的な価値観を以下のような女優達が体現している。

仕事に価値を求める女は、「アラフォー」では、天海祐希が、「四つの嘘」では、高島礼子が演じる。

双方ともこの歳になるまで独身。年下の男性との恋と仕事との間で揺れる。「仕事」という価値で突っ張りきれるのかがテーマだ。
ちなみに、二人とも医者であるが、天海が精神科医なのに、対して、高島は脳外科医だ。

とりあえず、家庭の主婦として収まっているのは、「アラフォー」では松下由樹、「四つの嘘」では寺島しのぶだ。
子育ても一段落しているが、退屈な日常への嫌悪感から、他の男性や仕事に憧れをいだく。

が、結局は家庭中心主義の枠から出られないのであろうか?

そして、最後に「男性」に頼って幸せを見つけようとするタイプ。「アラフォー」では、大塚寧々、「四つの嘘」では、永作博美である。
「アラフォー」での大塚の結婚は見事に失敗するが、「四つの嘘」での永作の若いボクサーとの恋はどうなるのか?
いずれにしても、自分の価値観とは微妙に違う「男性」との付き合いがこの年齢で可能かというテーマをかかえる。

「アラフォー」の演出がコミカルを基調としていたのに対して、「四つの嘘」はシビアで暗い。
出演者も微妙に映画系の女優を配しているのは、作品に奥行きを持たせようとしているのか。

視聴率はともかく、しばらくは見続けてみようかと思う。

さて、最後に苦言。4人の配役であるが、現在の4人と、高校時代の4人とのキャラ的結びつきが甘い。もっとちゃんと選べばいいのに。
また、若い男優陣が無名。のちに有名になった時に、「あの時のあの人か」って思い出す楽しみもあるんだけど。
予算不足(主要4人のギャラ使いすぎ)の感は否めない。

まさむね

「モンスターペアレント」とは誰だ?

Tuesday, July 8th, 2008

フジテレビ火曜日22:00からの「モンスターペアレント」が面白い。

大筋で言えば、米倉涼子扮するやり手の国際弁護士が、ある町の教育委員会の依頼を受け、学校に理不尽な要求を突き付ける保護者と対決するドラマである。

しかし、法律を駆使して、白黒つけるようなグローバリゼーションの世界の住人が、突然に、談合と協調を行動原理とする村落共同体(教育委員会と学校)に迷い込み、法律も協調性も無いモンスターペアレント達に向き合い、自分の手法で物事を解決しようとするが、うまくいかない(結局いつも頭を下げさせられる)のである。

モンスターペアレントの第一回目は木村佳乃、そして二回目が南野陽子。

はたから見ていると(ワイドショー的感覚で見ていると)、全く不条理な要求を突きつけて来るそれらの保護者に対して、法律という武器を封印された米倉涼子が二連敗。

二回目までを見る限り、強さから言えば、個人の論理>共同体の論理>法の論理の順とされてしまっているところに、妙なリアリティがある。

米倉のストレスの溜め方、あるいは、いつ反撃出来るのかという興味が、次回からの放映をさらに楽しみにさせるという演出は、毎回、視聴者に対して、ストレスを解消させる事を主目的として提供されている他のドラマに比べてユニークである。

しかし、話の主題はおそらく、毎回登場するモンスターペレント達に手を焼き、その人間的レベルの低さを軽蔑していた米倉が、共同体の論理を理解できていないという意味では、実は母親達と全く同じなのだという事に気付いていくという方向になっていくに違いない。

おそらく、国際司法の現場では負け知らずの米倉が、己の知らない自分自身のモンスター性に気付くという展開がオーソドックスだと思われるが、はたしてどうなるであろうか。

まさむね

ROOKIESと戦後処理

Monday, July 7th, 2008

今後、日本社会が、増加する下流層をどうすべきかという方向性(価値観)は2つあると言われている。

下流の人々の幸せを完全に保障するEU型
下流の人々にも等しく階級上昇の思想とチャンスを与えるというアメリカ型

TVドラマ「ROOKIES」のストーリーは、上記の2つの葛藤ドラマであると以前に書いたが、ここ数回の放送を見ていると上記に加えて、別のテーマが浮上してきているように思える。

それは過去の罪は消せるのか?消せるとしたら、どうしたらいいのか?というテーマだ。

前の年の夏の甲子園大会予選で大乱闘を起した二子玉川学園野球部員は周囲の、教師、他の生徒、先輩、後輩、他の高校、そしてマスコミ等から、過去の過ちを攻め立てられる。
それに対して、野球部員は、暴力を抑制し、努力している姿を周囲に見せる事によって、自分達がもう、かつての彼らではない事を証明しようとする。

これは、ちょうど、戦後の日本が先の大戦での罪科をどのように乗り越えていけばいいのかという戦後処理のテーマのアナロジーとなっている。
このドラマを、憲法九条によって武力を抑制された日本が、今後も繰り返されるであろう他国や反体制勢力からの謝罪/賠償要求に対して、どのように対応したらいいのかという事の一つの解決策を提示しているというのは評価しすぎであろうか。

まさむね

ROOKIESの喧嘩とIWGPの暴力

Sunday, June 22nd, 2008

「ROOKIES」は何かと古典的なドラマである。

学ラン、リーゼント、麻雀等、不良学生達のアイテムが古典的であるというのは言うまでもなく、喧嘩の作法がそうなのである。
例えば、今から8年前に放送された「池袋ウエストゲートパーク」の暴力に比べると、正拳+涙によって成り立っている「ROOKIES」の喧嘩は極めて正統的だ。

恐らく「拳」は、蹴りや、ましてや武器使用に比べ、正義のイメージが強い。
そして、涙はその正義を心情的にバックアップしているのだ。

「ROOKIES」での新庄(城田優)の正拳
同様に、感情を爆発させる新庄

それに比べると「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」では、感情の発露による已むに已まれぬ喧嘩というよりも、敵を徹底的に潰す暴力が際立っている。

「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」」でのタカシ(窪塚洋介)の裏拳
同様に、タカシのマウントポジションからのボコボコ
そして、喧嘩後のふざけたデモンストレーション

「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」」の時代は、PRIDEを初めとする残酷系格闘技全盛時代だ。
マウントポジションも裏拳も、その時代の空気を十分に吸ったパフォーマンスであったに違いない。
「ROOKIES」の喧嘩とは同じ暴力とはいえ、それはあまりにも異質だ。

先ほども述べたが、一方「ROOKIES」の喧嘩の作法は、時代を超えた正統性を備えている。
恐らく、この作法は、日本人にとっては、歌舞伎、時代劇、ヤクザ映画、青春ドラマ等によって延々と刷り込まれ続けたイメージである。

そして、その裏には以下のような日本古来の人間洞察がある。

「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」

「ROOKIES」が古典的というのはそういう意味である。

まさむね

ラストフレンズとは誰だったのか

Saturday, June 21st, 2008

俺は最初から、このドラマのタイトルの「ラストフレンズ」とは誰にとっての誰と誰なんだろうというのを一つのテーマとして見続けてきた。

ところが、最終回の最後の手紙の朗読を聞いて、驚愕した。


元気ですか。エリ、オグリン。
赤ちゃんの名前を決めました。
藍田ルミ。
ルカのルに、ミチルのミ、ルにはタケルのルも入っているんだよ。
私達は4人でまたあのシェアハウスに暮らします。

家族、友達、夫婦、恋人
そのどれかであるようで、どれでもない私達だけど、
壊れやすいこの幸せを大事にして、
行けるところまでいこうと思っています。

これまでもずっと友達でいよう。
出来ればずっと別れずにいよう。
そして、たとえ何かがあって分かれても
また、いつか出会って笑い合おう。

My dear friends.
You are my last friends.

ラストフレンズ とは、ミチルにとって、エリ(水川あさみ)とオグリン(山崎樹範)の事だったのだ。
この手紙は、差出人のミチルが、宛先のエリとオグリンに対して、私とルカとタケルとルミ(ミチルとソウスケの子)の4人は、家族、友達、夫婦、恋人のうちどれでもない特別の関係だけど、「あなた達は、最後に残った友達だ。」と差別する内容になっている。かなり冷たいではないかとも受け取れる。
しかし、逆に言えば、このドラマの中で、シェアハウスの一員でありながら、常に地味な存在だった二人の脇役に、ドラマタイトルでもあるラストフレンズの称号を与えたこの結末は、やさしさに満ち溢れた結末だったとも言えるかもしれない。

また、このドラマの主題を敢えて上げるならば「大事なのはありのままの自分とそんな自分を大目に見てくれる友人」という価値観の確認ということだろうか。

ミチル(長澤まさみ)は最後まで状況の変化に流されるキャラクタを脱皮することができない。すなわち、自立という道から逃げる。
ルカ(上野樹里)の性同一性障害を踏まえて、別のパートナーを探すという道を閉ざす。
また、タケル(瑛太)は、姉との問題も残されたままで、SEX恐怖症を解決しようともしない。(来週、放映されるという特別編に期待!!)

結局3人(ミチルの子を含めると4人)は、自分達の価値観や生き方を温存してくれるパラダイス、シェアハウスに戻って話は終わるのだ。

最終回は「未来へ」という副題であったが、その内容は恐ろしく臆病で現状肯定的なものであったと言えなくもない。

まさむね

ドラマに見る階級の残酷さ

Saturday, June 21st, 2008

TBSドラマ「Around40-注文の多いオンナたち-」の最終回は、格差社会を反映してか、階級の異なる男女がことごとく結婚しない、あるいは離婚するという、ある意味、残酷な結末となった。

結婚せずに医者として、自己実現しようとするす聡子(天海祐希)は臨床心理士の恵太朗(藤木直人)との婚約を破棄し、病院の院長に就任する。
雑誌編集者の奈央(大塚寧々)は、いわゆる勝ち組のセレブ夫との仮面生活に嫌気がさし、ゴージャスな生活を捨てて、離婚して一人で子育て自立を目指す。後に、幼なじみのシェフ(筒井道隆)と結婚か?
また、瑞恵(松下由樹)は、長年連れ添って子供もいた旦那との間にいろいろ問題もあったが、結局は結婚というシステムの中で幸せを再確認する。

もちろん、上記のように階級の残酷さという現実(リアリティ)はオブラードに包み込まれ、口当たりのいいドラマとして仕上がっていたと思う。
人生いろいろと言った人がいたが、まさしく、それぞれの生き方を尊重した、ターゲットユーザーの嗜好にあったいい意味での予定調和を見せてくれた。

しかし、この「Around40」で示された、建前(人それぞれの価値観重視)と現実(階級の残酷さ)は、実は、もう一つのTBSドラマ「ラストフレンズ」とも通底している。

結局、一般的な意味での勝ち組である航空会社の正社員であったエリ(水川あさみ)とオグリン(山崎樹範)の2人が結婚。
そして、無職の母子家庭のミチル(長澤まさみ)と、アルバイトをしながら一流のモトクロスレーサーを目指すルカ(上野樹里)、バーテンとヘアメイクアーティストで食いつなぐタケル(瑛太)は共同生活を選択するのだ。

「Around40」と「ラストフレンズ」。双方とも友情、個性という言葉で曖昧にされているが、階級の残酷さこそ共通テーマという見方も出来るのではないか。

まさむね

ラストフレンズは盗聴ドラマだ

Friday, June 20th, 2008

 ラストフレンズは盗み聞きドラマだ。
主なシーンの順を追ってみよう。
ミチルの母が部屋で男と乳繰り合っている所をミチルが盗み見(第1話)
ソウスケがミチルに暴力を振るっている所をルカが盗み見(第2話)
ミチルが卒業アルバム(ソウスケにルカの顔を塗りつぶされた)を見ている所をソウスケが盗み見(第3話)

オグリンが妻が別の男とデートしているシーンを、オグリンとエリが盗み見(第4話)
シェアハウスを出ようかと思っているとミチルがタケルに話している所をルカが盗み聞き(第6話)
タケルがルカに優しくするも、ルカに拒絶された所をミチルが盗み聞き(第7話)
ミチルがタケルにした告白をルカが盗み聞き(第7話)
オグリンが妻と会っている所をエリが盗み見(第7話)
ルカが見ていた性同一障害のサイトをエリが盗み見(第8話)
ルカとタケルが井の頭公園で抱き合っている所をミチルが盗み見(第8話)
ルカとタケルの楽しそうな会話をミチルが盗み見(第9話)
ルカがミチルを異性として好きだとタケルに話している所をミチルが盗み聞き(第10話)
ミチルがシェアハウスを出たいとタケルに相談している所をルカが盗み聞き(第10話)

ほぼ、1話に1回のペースだ。上記の他にもの覗き見(特にソウスケのミチルに対する)は別途満載、街での偶然の見掛けは沢山あったがここでは省略。

恐らく、5人の男女が一つ屋根の下で暮らすという設定は、盗み聞きドラマには欠かせない設定だったんだろうか。

しかし、我々の感覚からすると、彼らの不用意さは、あまりにもリアリティがない。
この不用意さは、若者特有の経験不足と解釈すべきなのか。あるいは現代の若者に特有の思いっきりのよさと解釈すべきなのだろうか?

ちなみに最終回は、話を回収する会だったため、盗み聞きはありませんでした。

まさむね

道路建設の末路としての木更津キャッツアイ

Thursday, June 19th, 2008

道路特定財源の一般財源化の方針が決まり、これから秋にかけて、どの道路を作るの作らないのという激しい論議が水面化で始まりそうだ。

道路を作ることの大きな理由は、地域の活性化とのことである。
確かに、工事中は、地元民にいくばくかの労賃が落ちて若干は潤うのだろうが、開通後は、逆に経済活動が低迷するケースがあまりにも多い。
有名なのはアクアライン開通によって、大型店舗(そごう、ダイエー)が相次いで撤退し、駅前がシャッター街となってしまった木更津である。

そして、この寂れた地方都市の現実を斬新な手法で描いたのが、「木更津キャッツアイ」であった。

このドラマは、時流に取り残された木更津という街で、まったりと生きる野球青年達の群像話である。

主人公のぶっさんは、シャッター通りにある床屋の息子。癌宣告を受け、余命数ヶ月と診断されるが、なかなか死なない。
彼は、財政破綻寸前だが、補助金、交付金、市債等で生き延びる木更津市(というか全国の地方都市)の象徴だ。

オジー(古田新太)は、木更津の高校の先輩。過去の記憶を失い、木更津の守り神(石像)となる。
こちらは、古くからの共同体が崩壊した地方都市が、町おこしと称して、わけのわからないハコモノやオブジェを作成する事によって、逆に土地固有の匂いを消し去っていくという矛盾を婉曲に批判。
木更津的に言えば、海ホタルくんのパロディとも見られる。

また、それ以外のメンバーも、それぞれが、土地の呪縛と閉塞的な現状の中、中途半端な時間を過ごす。

道路による地域活性化は幻想だということを再度、検討すべきだ。

まさむね

篤姫 幕末に迷い込んだ現代女性

Sunday, June 8th, 2008

NHK大河ドラマ「篤姫」は大雑把に言えば、薩摩の片田舎に、島津の分家の娘として生まれた女の子がその運命の糸に引かれて、御台所として、幕末の日本を泳ぎ渡る話だ。

それにしても、篤姫の人間力はたいしたものだ。島津斉彬、島津斉興、近衛忠熙、徳川斉昭、阿部正弘、そして徳川家定と次々と登場する男達を、その実直な物言いと、笑顔でコロっと行かせつづける。

まるで、大河ドラマに朝の連ドラの主人公が迷い込んだかのような篤姫が、一体、どこまで驀進するのか?

歴史物の本によると徳川慶喜とは馬があわなかったらしいので、そのあたりはどう描かれるのか楽しみだ。

まさむね