Posts Tagged ‘野口雨情’

菊紋 -後鳥羽上天皇の維持が生み出した優美な紋-

Monday, January 12th, 2009

天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇からだといわれている。

後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。

しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。

おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。

そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。

それが菊紋のはじまりである。

その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。

比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。

さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。

楠木正成。不詳 – 1336年7月4日、南北朝時代の河内の武将。
楠木氏は、伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保の末裔という。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
足利尊氏の軍と戦い湊川で自害。明治以降「大楠公」と称される。後醍醐天皇から菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして、半分は水に流した菊水紋にしたという。


西郷隆盛。1828年1月23日 – 1877年9月24日、政治家。
西郷は、明治天皇に気に入られ、この「抱き菊の葉に菊」を下賜されたという。従って、大河ドラマの「篤姫」では幕末の禁門の変の時点で西郷隆盛がこの紋をつけていたのは、間違いではないか。一般的に、隆盛以外はこの紋を使用しないと言われるが、青山霊園の西郷家の墓(奥津城)にはこの紋が付けられている。


西郷従道。1843年6月1日 – 1902年7月18日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる。
西郷隆盛の弟だが、隆盛が西南戦争で反乱を起こした際、隆盛に加担しなかった。
伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。
1892年には元老として枢密顧問官に任じられる。


松方正義。1835年3月23日 – 1924年7月2日、薩摩藩士、第4代、6代内閣総理大臣
現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。
日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤・井上らに反論し、積極的に開戦を主張。
日本銀行の設立を経て、政府発行紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行を行った。
この政策によって深刻なデフレーションを招き、「松方デフレ」と呼ばれた。


夏目漱石。1867年2月9日 – 1916年12月9日、小説家。
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生した。ご存知の通り、漫画批評家の夏目房之介氏は、漱石に孫にあたる。
代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『それから』『こころ』など。
雑司が谷墓地にある墓は大きく、見上げるような場所に菊菱紋が彫られてある。


大橋新太郎。1863年 – 1944年5月5日、出版業者、政治家。
博文館創業者大橋佐平の三男として、新潟県に長岡生れる。
父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。
衆議院議員・貴族院議員もつとめる。
家紋は杏葉菊菱。護国寺の墓所にて撮影。


野口雨情。1882年(明治15年)5月29日 – 1945年(昭和20年)1月27日)、童謡・民謡作詞家。
茨城の廻船問屋を営む名家に生れる。
この菊水紋は、後醍醐天皇から楠木正成に下賜された紋として有名。
実際、野口家は、正成の弟、楠木正季が先祖と伝えられているという。
代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。

まさむね