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藤紋 -藤原氏に憧れた地方武士の紋-

Tuesday, January 13th, 2009

藤紋といえば、藤原氏の紋という印象があるが、公家・藤原氏では、牡丹紋の方が優勢だった。

中央で出世の道が塞がれた藤原氏が多く、地方に下り武士化した際に、この優美な藤紋を家紋として採用した。
おそらく、自家と藤原氏の関係を後世まで誇示したかったのだろう。爆発的に広まった。

元々、藤という植物は、他の木に依存して延びる植物である。
その植物の名前を冠した平安時代の藤原氏も、その名の通り、天皇家に依存して大きくなったといえなくも無い。

もしかしたら、この藤紋の広まりと日本人の依存心の強さはどこか通底しているのかもしれない。
実際は、片喰、木瓜、鷹の羽、柏についで、5位の使用数である。
全国分布では、岐阜県が1位、静岡県、香川県で2位、岩手県、宮城県、神奈川県、山梨県、愛知県、岡山県、山口県で3位全国くまなく多い。ただ、一見多そうな近畿地方は少ない。京都府、滋賀県は8位、大阪府は10位、和歌山県、兵庫県で12位。

藤紋を使用している有名人は以下の通り。

黒田孝高。1546年12月22日 – 1604年4月19日、武将・大名。
黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。近江国伊香郡黒田村の武家出身。
諱で通称の「官兵衛」並びに出家後の「如水」の号で有名である。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。家紋は左三つ藤。


後藤基次。1560年5月5日 – 1615年6月2日、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。通称は又兵衞
関ケ原の戦いでは東軍に与し武功で大隈城1万6000石の所領を与えられた。
大坂夏の陣で、部下に介錯を命じて自刃したという。
家紋は下り藤。


加藤嘉明。1563年 – 1631年10月7日、武将・大名。
三河国の徳川家康の家臣である加藤教明の長男として生まれる。
羽柴秀吉に見出され、その小姓として仕えるようになる。
賤ヶ岳の戦いで活躍し『賤ヶ岳七本槍』の一人に数えられた。
伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主となる。水口藩加藤家初代。


大久保主水。江戸水道開設者。菓子職人。
元々三河武士であったが、負傷以降、餅菓子を作る特技を生かして家康に菓子を献じる。
家康に用水事業を命じられ、井の頭池、善福寺池を源に江戸城並びに市中の引水に成功。
これが神田上水といわれるわが国の水道の先駆けとなる。この功により、以来、「主水」の名を賜り、幕府用達の菓子司を務めた。家紋は上り藤に大の字。


長谷川平蔵。1746年 – 1795年6月26日、江戸時代の旗本。
400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生れる。本名は長谷川 宣以。
火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。平蔵は通称。
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として、よく知られている。
家紋は藤巴。


吉村寅太郎。1837年5月22日 – 1863年11月8日、幕末の土佐藩出身の志士。
土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。
寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。
天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。家紋は上り藤。


江藤新平。1834年3月18日 – 1874年4月13日、武士(佐賀藩士)、政治家。
江藤家は肥前小城郡晴気保の地頭千葉常胤の末裔を称する。氏は、平氏。家紋は藤巴。
明治新政府では、近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して民法典編纂に取り組む。
明治6年の政変で西郷、板垣達と共に下野し、佐賀の乱を起こすが、捉えられ処刑される。


大久保一翁。1818年1月5日 – 1888年7月31日、政治家。
旗本の大久保忠尚の子として生まれる。
勝海舟の能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させる。
蕃書調所頭取・駿河奉行・京都町奉行などを歴任。
勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸幕府の無血開城に貢献。


狩野芳崖。1828年2月27日 - 1888年11月5日、日本画家。
下関の狩野派の絵師の家に生まれる。家紋は藤輪。
アメリカ人の美術史家フェノロサと出会い、西洋絵画の写実や空間表現を作品に取り入れ、名作「悲母観音」を描く。東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。


大久保利通。1830年9月26日 – 1878年5月14日、政治家。
薩摩国鹿児島城下高麗町に、下級藩士として誕生。
維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる。
維新後は、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正、徴兵令、殖産興業政策を推進した。家紋は三つ藤巴。


伊藤博文。1841年10月16日 – 1909年10月26日、政治家。
周防国熊毛郡束荷村字野尻の農家の長男として生まれる。
初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、「明治の元勲」と呼ばれる。家紋は上り藤。


黒田清輝。1866年8月9日 – 1924年7月15日、洋画家。
薩摩藩士黒田清兼の子として生まれる。
黒田家は本姓佐々木源氏で、福岡藩藩主家黒田家の遠縁にあたる。
東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。
代表作は、『読書』『湖畔』『朝妝(ちょうしょう)』等。


後藤新平。1857年7月24日 – 1929年4月13日、政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。
東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
時計メーカー「シチズン」の名付け親としても知られている。家紋は下がり散藤(ばらふじ)。


加藤弘之。1836年8月5日 – 1916年2月9日、政治学者。
但馬国に、出石藩士加藤正照、錫子の長男として生まれる。
福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、西村茂樹、津田真道らと、明六社を結成。
はじめは啓蒙思想の傾向が強かったが、後に社会進化論の立場をとるに至った。終生唯物論者であった。哲学館(現東洋大学)創立時の顧問。


藤原銀次郎。1869年7月25日 – 1960年3月17日、実業家、政治家。
長野県上水内郡安茂里村に、藍問屋も営む豪農に生れる。
戦前の三井財閥の中心人物の一人で王子製紙社長を務め「製紙王」といわれた。
藤原工業大学(昭和19年に慶應義塾大学工学部となる)を設立した。
米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任。


宇垣一成。1868年8月9日 – 1956年4月30日、軍人、政治家。
備前国磐梨郡潟瀬村大内の農家に5人兄弟の末子として生まれる。
陸軍大将従三位勲一等功四級。拓殖大学第5代学長。元参議院議員。
加藤内閣の陸軍大臣在任中、軍縮を要求する世論の高まりを受け、いわゆる宇垣軍縮を遂行。廣田内閣が総辞職した後、総理大臣に推挙されたが、陸軍によって組閣は阻止された。


朝永振一郎。1906年3月31日 – 1979年7月8日、物理学者。
東京市小石川区小日向三軒町に朝永三十郎(長崎県出身)の子として生まれる。
くりこみ理論の手法を発明して量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。1961年には東京教育大学長、1963年から1969年には日本学術会議会長を務めた。家紋は、五瓜に上り藤。


舟橋聖一。1904年12月25日 – 1976年1月13日、小説家。
1904年12月25日に、東京市本所区横網町に生れた。キリストの降誕日にちなんで「聖一」と名づけられる。
花の生涯」「新・忠臣蔵」は、NHKの大河ドラマの原作として採用された。
代表作に『悉皆屋康吉』『ある女の遠景』『好きな女の胸飾り』『お市御寮人』がある。


山岡荘八。1907年1月11日 – 1978年9月30日、小説家・作家。
新潟県北魚沼郡小出町の山内家に生まれ、加賀安宅の藤野家に入る。本名は藤野庄蔵。
第二次世界大戦中は従軍作家として各戦線で活動。戦後、大ベストセラー『徳川家康』によって国民作家となる。同作品で第2回吉川英治文学賞を受賞。
養子の山岡賢次は現在民主党衆議院議員。国会対策委員長。


加東大介。1911年2月18日 – 1975年7月31日、俳優。
兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という芸能一家に生まれる。本名、加藤徳之助。
甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。
自らの体験を基にした小説「南海の芝居に雪が降る」はベストセラー小説となった。
出演作『人情紙風船』『生きる』『用心棒』『七人の侍』など。


丸山真男。1914年3月22日 – 1996年8月15日、政治学者、思想史家。
ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府に生まれた。郷里は長野県。
丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれる。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、徹底した合理主義者と評することもできる。
著書『日本の思想』の発行部数は2005年5月現在、累計102万部。


中曽根康弘。1918年5月27日 – 、政治家。第71 – 73代内閣総理大臣
生家は群馬県高崎市末広町の、関東有数の材木問屋「古久松」である。
総理大臣在任中には、日米関係の改善、国鉄、電電公社、専売公社の民営化などを推進する。プラザ合意により、円高を容認する。
最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の生存者。


高峰三枝子。1918年12月2日 – 1990年5月27日は、日本の女優、歌手。
東京府芝区露月町に生まれる。実父・高峰筑風は、高峰流筑前琵琶の宗家。
『歌う映画スター』の草分け的存在。
代表出演映画「宵待草」「子供の眼」「戸田家の兄妹」「懐しのブルース」「リラの花忘れじ」「情熱のルムバ」「犬神家の一族」など。家紋は上り藤。


三波春夫。1923年7月19日 – 2001年4月14日、歌手。
新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身。長男は俳優として活躍する三波豊和。
「お客様は神様でございます」はあまりにも有名。
代表曲『チャンチキおけさ』『おまんた囃子』『世界の国からこんにちは』等。
日本を守る国民会議の代表委員となるなど、反共主義運動を展開。家紋は下り藤。


三木のり平。1924年4月11日 – 1999年1月25日、お笑い芸人、俳優。
東京市日本橋区浜町生まれ。本名は田沼 則子(たぬま ただし)。
名前は「のりこ」と読み間違えられ、女性と思われ徴兵検査を逃れた。
桃屋」のアニメーションCMのキャラクタとして有名。
家紋は下がり散藤。


渥美清。1928年3月10日 – 1996年8月4日、俳優。本名、田所康雄。
上野の車坂で新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。
代表出演作は、「男はつらいよシリーズ」(1969年 – 96年、全48作) 、「渥美清の泣いてたまるか 」など。家紋は軸付き三つ藤巴。


深作欣二。1930年7月3日-2003年1月12日、映画監督。
茨城県水戸市出身。妻は女優の中原早苗。映画監督の深作健太は実子。
仁義なき戦い』(脚本笠原和夫、主演菅原文太)シリーズは、映画史に残る大ブームとなり、「実録映画」の第一人者の地位を不動のものとする。
代表作は『火宅の人』『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』『いつかギラギラする日』等。


市川雷蔵。1931年8月29日 – 1969年7月17日、歌舞伎役者、映画俳優。
京都市堀川丸太町に亀崎章雄として生まれるが、生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優市川九團次に引き取られて養子となる。
1951年、3代目市川壽海と養子縁組、このとき戸籍名を太田吉哉に改名。
主な出演作品『眠狂四郎シリーズ 』『炎上』『破戒』等。家紋は藤輪。


黒柳徹子。1933年8月9日 – 、日本の女優、司会者、ユニセフ親善大使。
東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂生まれ。
テレビ放送開始以来50年以上にわたり第一線で活躍してきた、日本テレビ史を代表するタレント。30年以上続く日本初のトーク番組『徹子の部屋』の司会や、累計750万部を誇る戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者として知られる。


美空ひばり。1937年5月29日 – 1989年6月24日、俳優、歌手。
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。本名は加藤和枝。愛称「御嬢(おじょう)」。
昭和の歌謡界を代表する日本の歌手で、女性初の国民栄誉賞を受賞した。
代表曲は、「」「川の流れのように」「悲しい酒」「リンゴ追分」など多数。


津川雅彦。1940年1月2日 – 、俳優。
俳優。沢村国太郎、マキノ智子の間に生れる。本名は加藤 雅彦。
長門裕之は兄、沢村貞子は叔母、加東大介は叔父にあたる。妻は朝丘雪路
代表出演作品は『狂った果実』『マノン』『マルサの女』『寝ずの番』。
家紋は下り藤。


みのもんた。1944年8月22日 -、フリーアナウンサー。本名、御法川法男。
2006年に「一週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者(21時間42分)」としてギネス認定された。主な番組は、『みのもんたの朝ズバッ! 』『クイズ$ミリオネア』等。
紅白歌合戦の司会などでの紋付姿ではいつも「下がり藤」を着用。ちなみに、遠縁にあたる明治・大正期の製糸器発明家、御法川直三郎の墓所には鷹の羽の紋がある。


高城剛。1964年8月18日 -、ハイパーメディア・クリエイター。
東京都葛飾区柴又出身。
フューチャー・パイレーツ株式会社代表取締役。
映像制作、DJ、プロデューサー等、様々な分野で活躍。
2009年1月19日、女優沢尻エリカと結婚。その際に着用した紋付が下がり藤だった。


武藤敬司。1962年12月23日 – 、プロレスラー。
山梨県富士吉田市出身。全日本プロレス代表取締役社長。
新日本プロレス入門後、才能を開花させ、「天才」「GENIUS」「平成のミスタープロレス」「Legend」「天才を超えた魔術師」などの賞賛を欲しいままにして来た。
グレート・ムタとしての一面も持つ。家紋は下り藤。

まさむね