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茗荷紋 -謎の神・摩多羅神のシンボル-

Thursday, January 15th, 2009

茗荷は摩多羅神という神のシンボルである。

それでは、この摩多羅神とはどういった神なのか?
最澄が唐から帰って来た時に、守護神としてついてきた神と言われている。

憤怒の神、性の神、食人の神などといろいろな説があるが、実はよくわかっていない。
ただ、不道徳と混沌の匂いがする事は確かだ。
それなのに、出雲大社、比叡山・延暦寺、日光東照宮など、名立たる日本の寺社で祭られている。

まったく不思議な存在である。
茗荷を食べると物忘れが激しくなるというが、日本人全部が、この茗荷のシンボル・摩多羅神のことを忘れてしまったということなのか。

茗荷を家紋にしている人々は心のどこかに忘れてしまった神、摩多羅神を宿しているのかもしれない。

全国では12位。岡山県と鹿児島県では5位、富山県、兵庫県では6位。一番少ない山梨県、山形県でも17位。

茗荷紋の有名人は以下。

堀尾吉晴。1544年 – 1611年7月26日、武将・大名。
父は、尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、出雲富田24万石に加増移封された。豊臣政権三中老の一人。出雲松江藩の初代藩主。松江城を建造し松江に本拠を移した。
家紋は抱き茗荷。墓には六つ目結紋、分銅紋がある。


森田草平。1881年3月19日 – 1949年12月14日、作家・翻訳家。
岐阜県方県郡鷺山村生まれ。本名森田 米松。家紋は抱き茗荷。
夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。代表作は『吉良家の人々』『細川ガラシヤ夫人』。翻訳は『カラマゾフ兄弟』『アンナ・カレニナ』等。


伊藤左千夫。1864年9月18日 – 1913年7月30日、歌人、小説家。
上総国武射郡殿台村の農家出身。本名 幸次郎。
正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。
代表作は『野菊の墓』『隣の嫁』『春の潮』など。


岡田啓介。1868年2月13日 – 1952年10月17日、軍人、政治家。第31代内閣総理大臣
福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。
二・二六事件で襲撃を受けるが、女中部屋の押入に隠れ、難を免れた。その年の3月9日、岡田内閣は総辞職した。
この家紋は、多磨霊園の墓所にて撮影。大割り抱き茗荷。


植芝盛平。1883年12月14日 – 1969年4月26日、合気道の創始者。
和歌山県田辺市の農家に生まれる。
宗教団体大本に入信し「植芝塾」道場を開設。
出口王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武道」と呼称した。
合気道関係者は開祖、特に古い高弟は大先生、翁先生と呼ぶことが多い。


本間雅晴。1887年11月27日 – 1946年4月3日、陸軍軍人・陸軍中将。
本間賢吉の長男として新潟県佐渡島に生れる。
太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。
バターンでは米比軍の頑強な攻撃を受け、多数の死者を出し作戦に失敗する。
マニラ軍事裁判において法務死。


保利茂。1901年12月20日 – 1979年3月4日、政治家、内閣官房長官。
生家は佐賀県東松浦郡鬼塚村(現唐津市)の零細農家。
佐藤派の大番頭と呼ばれ、佐藤政権において田中角栄・福田赳夫と並ぶ三本柱として内閣官房長官、自民党幹事長を務めた。また、三木武夫内閣当時「三木おろし」を画策した。
文部大臣、自治大臣、政調会長を務めた衆議院議員の保利耕輔は息子。


升田幸三。1918年3月21日 – 1991年4月5日、将棋棋士。
広島県双三郡三良坂町(現三次市)出身。
実力制第4代名人。木見金治郎九段門下。
三冠独占などの輝かしい戦績は勿論のこと、その独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は、将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。「将棋は創作だ」等の名言がある。


角川春樹。1942年1月8日 – 、実業家、映画監督、映画プロデューサー。
富山県中新川郡水橋町に生まれ、東京都杉並区に育つ。
父は角川書店創業者の角川源義(画像は源義の墓所)。角川家は富裕な米穀問屋。
1970年代後半から1980年代にかけて、いわゆる角川映画で一世を風靡。
メディアミックスによるエンターテイメント中心の文庫戦略は文庫本のあり方に変革をもたらす。


稲垣浩。1905年12月30日 – 1980年5月21日、映画監督。
東京本郷区駒込千駄木町に、小芝居小屋の俳優の息子として生まれる。
1934年、山中貞雄らと会社の枠を超えたシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成。
三船敏郎主演の『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。
代表作は、『無法松の一生』『宮本武蔵』『風林火山』等。


牧野富太郎。1862年5月22日 – 1957年1月18日、植物学者。
土佐国佐川村の裕福な商家にうまれる。
命名は2500種以上、自らの新種発見も600種余りとされる。
25歳で、津村順天堂の協力を得て、『植物研究雑誌』[を創刊。
誕生日は「植物学の日」に制定される。


水谷八重子(初代)。1905年8月1日 – 1979年10月1日、女優。
東京牛込区神楽坂に、時計店の娘として生れる。芸術座の舞台に端役で出演。
後に、新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。
「日本芸術院賞」「紫綬褒章」「文化功労者」などを受賞。
家紋は「一つ茗荷巴」。


松村謙三。1883年1月24日 – 1971年8月21日、政治家。
富山県福光町(現在の南砺市)出身。
衆議院議員選挙に通算13回当選。厚生大臣・農林大臣・文部大臣を歴任。
幣原内閣の農相として農地改革を提案推進した。松村自身の土地もこの時没収されている。
環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力。


田中六助。1923年1月23日 – 1985年1月31日、政治家。
福岡県田川郡上野村に布団屋の三男として生まれる。遠賀川沿いに住む人を「川筋者」といい、侠客めいた気性で知られるが、田中自身も典型的な川筋者として育った。
鈴木内閣成立の裏の立役者とされる。
自民党政務調査会長、通商産業大臣、自民党幹事長を歴任する。


三島由紀夫。1925年1月14日 – 1970年11月25日、小説家・劇作家。
本名・平岡公威。平岡家の墓は、兵庫県加古川市にある。
代表作は、『仮面の告白』『禁色』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など。
1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促すが、失敗し、割腹自殺。
しかし、この事件は世間を騒然とさせ、「檄文」は現在でもまだ影響力を持つといわれている。


向田邦子。1929年11月28日 – 1981年8月22日、テレビドラマ脚本家、小説家。
東京府荏原郡世田ヶ谷町若林生まれ。父親が転勤族であるため、日本各地で育つ。
代表作は、ドラマ脚本では『時間ですよ』『阿修羅のごとく』、小説では『あ・うん』『だいこんの花』等。他界後20年以上を経た今もなお、自分の好きなものと徹底して向き合うライフスタイルが注目を浴びている。


うつみ宮土理。1943年10月1日 -、タレント、女優。
東京都世田谷区出身、本名:内海 三重子。愛称は「ケロンパ」。
代表出演ドラマ「おくさまは18歳」「なんたって18歳!」
夫は、「キンキン」こと愛川欽也。
出演バラエティ「ロンパールーム」「さんまのSUPERからくりTV」「情報ライブ ミヤネ屋」等。


日馬富士。1984年4月14日 – 、
モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋所属。
本名:ダワーニャム ビャンバドルジ。
2009年1月場所から大関として活躍。
幕内最軽量の力士。尊敬している力士は初代貴ノ花。

まさむね



安馬の大関昇進はモンゴルの文化的勝利だ

Wednesday, November 26th, 2008

安馬改め日馬富士(はるまふじ)(24)が大関昇進を果たした。

安馬という名前は、旧安冶川部屋所属力士の「印」として、安冶川親方(元横綱・旭富士)が”安”+”馬”として、つけたものだが、安冶川親方が伊勢ヶ濱親方への名跡変更したのに伴い、順次、進めている改名の一貫という事になる。

日馬富士は、幕の内で最も体重が少ない小兵力士であったが、持ち前の努力とスピードで大関昇進を見事はたした。
しかし、これまでの道のりは決して平坦ではなかったはずだ。
入門は16歳の時。右も左も言葉も文化もわからない日本という異国の地でなめた辛酸は尋常ではなかっただろう。

しかし、彼は大きなチャンスを一度でものにした。
その尋常ではない努力と精神力はもっと賞賛されるべきだと思う。
ところが、僕が今日見ていた18時からのTBSニュースのスポーツコーナーでは全く触れられず。
八百長とか大麻だとかの時はあれだけ大きく憤って見せた面々が、本当は全く大相撲に興味の無い事が露呈。編集権という名の横暴と言うべきか。

さて、一方で、最近、日本人力士の低迷が続いているといわれている。
次の横綱は誰かと問われるならば、どちらかと言えば日本人贔屓の僕でさえ、琴光喜、魁皇、千代大海ではなく、琴欧洲、日馬富士、把瑠都という外国人勢の名前を上げざるを得ない。
それでは、何故、日本人力士がなかなか活躍できなくなってしまったのだろうか。
一般的には、力士になるような才能や体躯を持つ子供達が他のスポーツに流れてしまったために、元々力士志望者が減ったという事が言われている。
また、志望者が入門しても、すぐに辞めてしまう(いわゆる根性が無い)という事も多いようだ。

しかし、辞めたくなるという事に関しては、日本人も外国人も同じ。嫌、角界というところは、外国人にとっての方がより過酷な状況ではないのか。

実は、日馬富士も、相撲が嫌になった時期があったという。
入門1年半後、初めて許されたモンゴルへの帰国時、里心がついたのか父親に「日本に戻りたくない」とつぶやいたと言われている。
しかし、その際、父親は、「男は目標を持ったら最後まで目指さないといけない。ここで逃げたら何をやっても成功しないぞ」と言って日馬富士をたしなめ、日本に送り出した。

教育の基本方針として、子供の自由意志を尊重するという現代日本文化において、上記のような威厳のある父親はどれだけ存在するのであろうか。
心を鬼にして、息子を再び、荒海に戻す勇気 という親子文化を日本は正しく継承してきたのだろうか。

確かに、日馬富士の大関昇進は、喜ばしいことではあるが、一方で、それは、モンゴル文化の日本文化に対する勝利を、逆に言えば、日本文化のある種の危機を象徴していないだろうか。

ちなみに、紋付で登場した日馬富士の胸についていたのは、茗荷紋(上図)のように見えた。
茗荷紋はもともと、大陸からやってきた憤怒の神様、摩陀羅神の象徴だ。日本を代表する紋の一つで、三島由紀夫、向田邦子、角川春樹、うつみみどり等がこの紋であることが確認出来ている。

しかし、未確認ではあるが、杏葉紋(下図)のようにも見えなくもない。
もしも杏葉紋であれば、それはそれで粋だと思う。元々、この紋はシルクロードの馬具の飾りが起源と言われているから、日馬富士という名前との整合性もバッチリではないか。

まさむね