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田無神社は、武蔵野面影を残す緑と水の神社

Thursday, November 27th, 2008

田無の氏神、田無神社までちょっと足をのばした。

田無神社のご祭神は、尉殿大権現と大国主命。
公式HPには、「尉殿大権現(級津彦命、級戸辺命)は、すべての命の源である水と、よろすの災を祓う神を司る豊饒と除災の守護神で、その御姿は金龍神として顕現いたします。」とある。

田無周辺は、典型的な武蔵野の台地だから、生活、農業をするには水がとっても大事だったんだろうね。由緒書によると、元々、ちょっと離れた谷戸という所にあった神社を、人々が幕府からの指示(石灰の伝送のため)で青梅街道沿いに移り住んだタイミングで持ってきたらしい。
谷戸は水が豊富だったけど、この田無はそうでもなかったから、みんな苦労したらしいね。
水への感謝の意を込めて、龍神を奉っている。

だから、この神社には龍が多い。神社内の天水桶の所に龍(写真一番上)、本殿の彫刻にも龍(写真二番目)、そして狛犬までも龍のマネをしているのか低身のポーズ(写真三番目)、ちょっとカワイイ。

大国主命は、明治になって、田無神社が、熊野神社、八幡神社を合祀してから祭神になった。
これは全国、いたるところで起きた現象(政策)で、いろんな神社を国家神道傘下に位置づける過程で、合祀したりして整理したんだよね。
日本人はおおらかというかいい加減だから、そういう措置に関して、特に不平も言わないで従った。

元々、神社に何か(誰が)奉られているなんてことは、日本人は、それほど関心ない。どんなご利益をもたらしてくれるかって事の方が重要。まぁ当たり前のことなんだけどね。

ちなみに、境内には、他に、相撲場があったり、五木寛之が境内に早稲田在学中に居候していたっていう記念板(写真四番目)があった。

一番下の写真は、神社からの帰路、青梅街道沿いに、いつも気になっていたお肉屋さん。逆さから読むと「野生の肉」に読めるのがなんとも、いい味出してるでしょ。

まさむね

成子天神、時代の流れと庶民のおおらかさ

Saturday, November 22nd, 2008

先日、新宿に所用があって行った時に、西新宿(青梅街道沿い)のあたりに行ってきた。

実は、今から25年位前に、僕が最初に就職した会社が、この辺にあったので、懐かしさもあって足を伸ばしたのだ。
ところが、この辺りの風景、結構変っているんだよね。

特に、青梅街道から1本道を入ったあたりの様変わりは凄い。
実は、このあたりは、25年前、一見、普通の住宅街なのだが、数件おきにスナックがあった。
なんでこんなところにスナックがあるんだろう?儲かるのかななんて思って、当時、会社の物知りの先輩に聞いたところ、これは青線の名残だそうだ。
青線というのは、1957年に施行された売春防止法以前に、黙認で売春させていたスナックや飲み屋街の非合法地域のこと。
下はカウンターだけ、2階に3畳の部屋が2つ位並んでて、そこで、男女が乳繰り合わせるような飲み屋があったんですね。この辺りに。

そういえば、80年代頃になっても、このあたりの壁に古い鉄板の看板(代表例:アース製薬の水原弘の看板)が残っていて、

「マンモスキャバレー開店。全席100席、近代女性募集!」

と書いてあったのを思い出す。マンモスキャバレーって、60年代の、植木等の映画なんかに、出てくるよね。
僕はというと、この近代女性っていう言葉にインパクトを感じたものです。

さて、これらが混在していたエリアだけど、今は、地上げにため、更地(写真一番上)になっている。
昔、この土地で様々な男と女のドラマがあったんだなぁ、それらのドラマはみんなブルドーザーに持っていかれたんだなぁって、更地を見ながら妙な感慨に浸ったりする僕。

さて、そんなエリアのすぐワキに成子天神がある。
更地から、成子天神に上がっていく脇の道(写真上から2番目)は、ここは東京かと思われるほど、ガタガタの石道路。
この道路もいつか舗装されちゃうかもしれないから、一応撮っておこう。

さて、成子天神だけど、このあたりの氏子の信仰に支えられて立派な本殿(写真上から3番目)がある。

天神っていうのは、菅原道真公を祭った神社で一般的には、学問の神様と言われています。
九州の大宰府天満宮が勧進元。山口の防府天満宮、京都の北野天満宮が有名だよね。
東京では、湯島天神、亀戸天神など、どちらかと言えば、下町(東東京)に多い。っていうか、その昔、農業エリアに学業の神様があってもしょうがないので、やっぱりに、人の多い、江戸に多いって事なんだろうな。

ここの成子天神は、菅原公の威光だけじゃ人が集められないと見えて、境内に、富士塚というのがある。さらに、その塚の各所に七福神が配置されているが、勿論、菅原公とは全く関係無い。
とにかく、庶民に人気のがあるっていんで、混在させているんだろう。
現在では、その富士塚は公開されていないけど、25年前はなんとなくそこにあって、いつでも見られたんだよ。

僕はこの神道系の人々の発想の、いい意味でのおおらかさが好きだ。なんでもありなのだ。

さて、天神様の神紋といえば、有名な梅紋。
菅原道真の梅好きって有名だったからね。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

大宰府に流された菅原公が、都に残してきた梅を想ってこの和歌を作ったら、梅が京都から飛んできたっていう伝説がある。

狛犬の台座(写真上から4番目)と、神社の門(写真上から5番目)等にみつけた。
よく見ると、若干違うんだよね。狛犬の台座の方は、梅の花びらと花びらの間の物体が、鉢の形をしているんだけど、門の方は梅の花弁の形なんだよね。

同じ神社なんだから、統一しろよというのは、現代の広告代理店的発想。いいんだよ、似てるんだから。有難い事には変わりないんだから、細かいこと言うなというのが庶民の発想。

さて、この梅紋だけど、加賀の前田家の家紋として超有名だ。ただし、前田家の家紋は上記の物体は剣でした。
僕が思いつく限り、有名人だと、文学者の中上健次氏、筒井康隆氏、芸術家の岡本太郎氏、政治家ならば、池田隼人首相(写真一番下)、そしてこれはあくまでも想像なんだけど、名前からして(菅原公と管 の管つながりから)民主党の管直人氏もそうだと思う。

まさむね

秩父の街 紋所散歩2

Saturday, November 15th, 2008

秩父散歩記-1からつづく。

秩父神社の境内に入る。
本殿の四方には、南面に虎、東面に龍、北面に梟、西面に猿の彫刻がある(写真一番上)。
日光東照宮と同様、江戸初期の彫刻様式だ。この時代の作品に対するある種のお決まりだが、左甚五郎作と伝えられている。

北面にある梟(写真二番目)は「北辰の梟」と呼ばれているが、梟が知恵を表すことから、最近では受験の守り神として学生達に人気が高い。っていうか神社側もそれを当て込んでPRしているようだ。
そういえばローマ神話でもミネルバの梟って知恵の象徴だ。梟=知恵みたいな観念って世界共通なのか。あるいは、西洋から東洋に伝播したものか。興味深いところだ。

さて、秩父神社のどこに紋所があるのか探す。

それらを勝手にピックアップして推理し、秩父神社、そして土地の歴史を妄想してみたい。

秩父神社は神仏習合時に、妙見宮も奉られていたという社伝もあって、平氏系の紋を探すが、残念ながら、慈眼寺で見られた九曜、七曜等の紋は見つからなかった。

しかし、消火用の天水桶の正面に、抱き銀杏紋(写真三番目)があった。
さて、この銀杏紋の起源は何か?

1:銀杏といえば、原産が中国大陸だ。銀杏紋は、古代にこの地を開発した大陸系の一族の名残か。ちなみに、彼らは古くからこの地で養蚕を営んだという。和同開珎用の自然銅もこのあたりで産出している。
2:いや、中世に、南関東を支配した大石氏の支配の痕跡か?
3:それとも、保水力のある大木・銀杏にあやかって、火除けの象徴としての銀杏を天水桶に彫っただけか?
4:また、銀杏と言えば、東京大学の学紋でも知られた通り、北辰の梟と同じく知恵の象徴でもある。秩父神社の主祭神の一人で学問の神様、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を表してるのかも。

僕としては4:だと思うんだけど...ちなみに、この地方の名門・秩父高校の校章(写真四番目)にも銀杏があしらわれているんだ。また、ゆっくりと考えよう。

さて、本殿に目を戻す。
おっと、正面の上の方に葵紋を発見。
社伝によると、この建物は徳川家によってされたというから、やっぱりスポンサーの紋は高く掲げるよな、って思っていたら、そのさらに上に菊の紋所があった。

この正面の葵紋、そしてその上の菊紋は、王政復古後に、明治政府がこの神社を、徳川から奪取、その支配下に置いたという事を物語る。
しかし、そこには一筋縄ではいかない事情があった。
実は、明治時代、この秩父では秩父事件という大きな政治事件(一揆)があり、かなり多くの人々が投獄されたのである。時はちょうど自由民権運動の頃の話だ。

政府は、だからこそ、この事件の後、この地方の鎮魂を重要に考えたのであろう。
皇族の一人に秩父宮という名前まで与える。この神社の境内には、その秩父宮が植樹したという木が、婦人のものも含めて3本もあった。
そして、恐らく多額の補助金をこの地方に落とした。
いわゆる、弾圧の後の懐柔である。
秩父神社から駅までの街路には昭和初期の贅沢な洋館が散見(写真五番目)されるが、これらも、当時の繁栄の残像、政府の懐柔の痕跡か。

一方、江戸時代の支配者の徳川家は、明治以降どうなったのか。境内に入ってすぐ右に小さく東照大権現の祠が置かれている。
扱い悪いけど、捨てはしないで、とりあえず、隅にこっそり置いておくっていう日本的対応がほほえましくもある。

まさむね

 

渋谷警察署裏の金王神社を散歩

Monday, November 10th, 2008

渋谷駅東口を出ると大きな歩道橋がある。
渋谷で、時間がある時は、この歩道橋のエレベータに乗ってみよう。

実は、このエレベータってちょっと前に一世を風靡したシンドラー製なんだよね。
歩道橋のエレベータだから、2Fまでなんだけど、一瞬のスリルが味わえる。
本当に微妙なスリルなんだけどさ。

さて、この歩道橋を渋谷東警察署の方に降りて、警察署の横の道に入ってちょっと行くと金王八幡宮がある。
ここは、今から900年位前、このあたりを治めた渋谷氏の居城があったんだってさ。
だから、渋谷の中心って歴史的に言えば、このあたりだったんだよね。

この、金王八幡宮、ビル街の中の異空間。鬱蒼とした敷地内に、木の幹に穴が開いてる御神木もあったりする。実はこの八幡宮って東京には結構あるんだよ。
代々木八幡、大宮八幡、世田谷八幡、鷺宮八幡、太子堂八幡、北澤八幡、雪谷八幡、碑文谷八幡、蒲田八幡...
どちらかといえば、渋谷、世田谷、目黒あたり、東京の西南に多い。
このあたりに、源氏に従う武士が多かったんだろうね。八幡宮は源氏の氏神だからね。

ちなみに、逆に東京の西北には氷川神社が多い。
一方、東京の東側には神田明神なんかもあるけど、平氏の根拠地だったかもね。

ちなみに、よく、渋谷っていうのは谷が多いから渋谷って呼ばれてるって説も聞くけど、歴史的にはどうなんだろう。
渋谷氏といえば、遠く歴史を経て、日露戦争で活躍した東郷平八郎もつながっている。
この渋谷区の原宿に東郷神社があるってのもなんかの因縁かもしれないね。

まさむね

 

 

 

小金井公園近くの八幡宮を散歩

Thursday, November 6th, 2008

家の近所に小金井公園がある。
その片隅に八幡宮があったのでお参りしてみた。

本殿には、左巴の神紋の彫刻。八幡様の象徴だ。

神社敷地内には、八幡宮の他、猿田彦神社、三峰神社、榛名神社もあって、公園造成時に、公園内にあった祠を一箇所に集めたようだ。

日本にあるほとんどの神社はこうして、主神の他にいろんな神様が祭られている。それぞれの神様は、なんの関連もないんだけど、一緒にいると馴染んでくるんだよね。
ちなみに、八幡宮は、応神天皇、三峰神社は、日本武尊がそれぞれ祭神だ。両方とも武勇の神である。ただ、三峰神社のお遣いは狼なので、犬と同様、子守の神としても崇められている。

一方、猿田彦神社は交通安全の神・猿田彦が祭神。「火の鳥-黎明編」(手塚治虫)の、サルタヒコのモデルだよね。

神社を見学するときのポイントは、奉納の名簿。その地方の有力者(氏子)が一目でわかるからね。
内田、高橋、宮崎、庭田等の名前が見える。「だから、何だ?」ってわけないんだけど、その土地で頑張って生きてきた人たちの事が、一瞬、イメージできるよね。

まさむね

秩父の街 紋所散歩1

Friday, July 18th, 2008

知らない街を歩いて、いろんなものを見て回る時、私はその街に点在する紋所(家紋)を意識的に見て回るようにしている。
街の歴史がイメージされるからだ。
勿論、私は歴史の専門家ではないので、それは実証というものからは遠い。あくまでもイメージ(想像)して楽しもうというのだ。
最近は、C型肝炎のおかげで、出かける事はめっきりと減ってしまったが、以前はたまに、そんな街散策を楽しんだ。

例えば、今年の冬に妻と出かけた秩父日帰り旅行。楽しかった。
街のメインストリート(西武秩父駅~秩父神社)は700メートルくらい。左手に慈眼寺(写真-1)という秩父札所十三番の寺がある。

本堂の後ろに墓地があり、覗いてみた。墓石の紋所には九曜(写真-2)、七曜等の曜(星)紋系が多い。恐らく、ここは、平氏の流れをくんだ(くんだと思い込んだ?)人々が根付いている土地なのであろう。ものの本にも、この土地は平氏良文流・支流の秩父一族が支配していたとある。そして、彼らは自分達のシンボルに曜(星)を選んだのだ。

元来、農耕民族であった日本人は星への信仰はそれほど強くない。関東~南東北にかけて、星宿信仰があったようだが、これは星系紋の集中地域でもある。
日々、星の位置、動きに敏感にならざるを得ない海洋民族、狩猟民族あるいは渡来人の流れをくむ者が、この地方に居住していたのかもしれない。彼らにとっては、真夜中の移動の際に自分が現在どこにいるのかというのが最も重要な情報であり、そのため、天の星は神に近い存在=命綱だったのだ。
ちなみに、星野さん、星川さん、星さんというように、名字に星がつく家は、星宿信仰者の末裔である可能性が高いという。

「巨人の星」の主人公の星一徹・飛雄馬を輩出した星家もそうかもしれない。
原作漫画では星家の長屋の部屋には、折口信夫全集があった(竹熊健太郎さん談)そうであるが、一徹は自分のアイデンティティを定住民としてではなく、マレビト(異人)に求めていた可能性がある。

一徹の周囲に迎合しない生き方は、”星”という名が持つ宿命なのかもしれないのである。

なんか、最後は秩父とは全くかけ離れてしまったね。

秩父の街 紋所散歩2へつづく

まさむね

大久保の皆中稲荷神社

Thursday, June 26th, 2008

ちょっと前に大久保に出かけた。

大久保通りは、若者向け、アジア系ショップが並ぶ、街になっていた。

そんな街中に、そこだけ異質な空間としてポツンと存在しているのが、皆中稲荷神社である。
この神社のたたずまいに触れると、ここが、かつて、農村地帯であったことを想像させる。
神紋の稲紋(写真)がそのことをほんのりと教えてくれるよね。

元々、稲荷神は農業の神々の総称であった。
古事記では、稲荷神を構成する神の一人であるオオゲツヒメは、口、お尻、陰部等、体中から食物を出してスサノウをもてなすが、逆にスサノウに殺されてしまう。
一種の食人伝説ですね。これは。
ただ、その後、稲荷神は、五穀豊穣だけじゃなくて、商売繁盛、家内安全、交通安全等、あらゆるご利益を与える神として全国に広がったんですね。

だから、稲荷神社って全国に19000社もあるんだって。これはセブンイレブンの12000店舗を圧倒しているんだよね。

恐るべし、稲荷神社。一斉に立ち上がったら凄いことになるね。って何のために立ち上がるのか分からんが。

まさむね

恵比寿の由来と柏紋

Monday, June 16th, 2008

恵比寿神社に行ってきました。

恵比寿神社は、JR恵比寿駅西口近くの吉野家の先の道を右に折れると正面にあります。

こじんまりとしていて感じのいいスポットになっています。

神社内の由緒書によると、元々は、大六天を奉る天津神社という神社だったのが、戦後の区画整理でこの場所に移された時に、恵比寿様(写真一番上)も合祀して名前も恵比寿神社になったといいいます。
ちなみに、この大六天という神様は「他化自在天」ともよばれますが、他人の幸せを奪う法力を持つという一種のタタリ神。一方、恵比寿様は「ヱビス顔」でも知られる幸せの神様。正反対の神様を一緒にしてしまう強引さが面白いですよね。

でも、この恵比寿様は、イザナキとイザナミの神が2番目に生んだ子(ヒルコ)だったんですが足が萎えていた為、捨てられてしまいます。後の人々がそれを哀れんで神として奉ったそうですが、あのヱビス顔の影に結構、残酷な物語が潜んでいるんですね。そう言えば、この恵比寿神社の勧進元の西宮神社は、正月に神社内を徒競走する「福男選び」(写真二番目)で有名ですが、御足の悪い恵比寿様にこの神事を捧げるっていうのも、残酷っていえなくもないですよね。

さて、話を戻しますが、恵比寿様が合祀されたのは、ここの地名が恵比寿と名づけられた事に由来しています。

元々、この恵比寿という地名は、ヱビスビールからつけられたといいます。
明治20年、日本麦酒醸造会社が設立され、この地に工場を建設。3年後にヱビスビールを発売。
明治34年に恵比寿ビール専用出荷駅「恵比寿停車所(現在のJR山手線)」が開設され、後に周辺の地名も「恵比寿」となったそうです。

ちなみに、私の母方の祖父は、この日本麦酒醸造会社でサラリーマンをしていましたが、私自身は下戸です。

さて、この恵比寿様を象徴する神紋が神社の本堂の正面戸にも飾ってあったあった「柏」の葉です。(写真三番目)

この柏の葉は、神様に食物を捧げる際の皿かわりとして神聖なものとされていました。そこから、伊勢神宮の久志本家、熱田神宮の千秋家、宗像大社の宗像家、吉田神道の卜部家等、古来、神道を守ってきた家の紋所となっています。

勿論、柏は、ヱビスビールのラベルの恵比寿様(写真一番上)の胸にも付いています。こちらは、3枚の柏の葉の間にツルが描かれていて、一般に「蔓柏」といわれています。

この他、柏紋はいろんなバリエーションがあります。例えば、落語家の桂三枝師匠の紋所は「結び柏」(写真四番目 三枝師匠手拭い)、NHKの大河「功名が辻」で有名になった山内家は葉が細い「土佐柏」(写真五番目 山内家宝物資料館HPより)、真珠王で御木本幸吉は「三つ追い柏」(写真六番目、青山墓地にて撮影)。こんなところが柏紋の有名所でしょうか。

まさむね