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梅紋 -菅原道真の霊の魂が眠っている紋-

Wednesday, January 14th, 2009

梅紋は菅原道真の象徴である。

平安時代、右大臣にまで上り詰めた道真は、藤原時平の讒言のせいで大宰府に左遷され、そこで亡くなった。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

かの地で詠んだ有名なこの歌の力で、梅が京都から飛んできたという。
しかし、道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになった。
そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として現在まで篤い信仰の対象となっている。

したがって、梅紋あるいは、梅鉢紋は、天神信仰と関係があるか、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用した。
有名なのは加賀の前田の梅鉢紋。元々は利仁流藤原氏の一族とされていたが、後に菅原氏の子孫と自称。
天神信仰が盛んだった加賀地方を治めるために、梅鉢紋を利用したとの見方もある。

優雅なデザインの底に怨霊の魂が眠っている奥深い紋である。

全国では7位。多い地域では、山口県と鹿児島県が3位。広島県、佐賀県、熊本県が4位。
逆に、江戸時代に前田氏が統治した石川県、富山県では少ない。庶民が藩主の紋をはばかったためとのこと。

芸術家が多いのが目立つ。武将としてもどちらかと言えば文化の香りが高い人々が名を連ねている。これは菅原道真とのつながりを意識した振る舞いがあるのか??

梅紋・梅鉢紋の有名人は以下。

前田利家。1539年1月15日 – 1599年4月27日、武将、大名。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。
小姓として織田信長に仕え「槍の又左」の異名をもって怖れられた。
信長の死後、秀吉に臣従。豊臣政権の五大老の一人として、豊臣秀頼の後見人を任じられ、徳川家康の牽制に尽力する。家紋は梅鉢。


筒井順慶。1549年3月31日 – 1584年9月15日、戦国時代の大名。
大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。
松永久秀によって居城・筒井城を追われるが、三好三人衆と手を結んで筒井城を奪還。大和国で松永久秀と抗争の上、平定。山崎の戦いで光秀への援軍を迷ったことから、「洞ヶ峠の日和見」の故事のもととなる。茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であった。家紋は梅鉢。


金森長近。1524年 – 1608年9月20日、織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。
美濃源氏土岐氏の支流。近江国野洲郡金森に居住した。
美濃の斎藤氏、柴田勝家、秀吉の家臣時代に功あり、飛騨一国を与えられた。、関が原では東軍に値し、初代高山藩主となる。茶の湯の才にも秀でており、秀吉から利休の嫡男である千道安をかくまったともされる。家紋は裏梅。


梅田雲浜。1815年7月13日- 1859年10月9日、幕末期の儒学者。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。
アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて幕政を激しく批判したが、安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となる。
拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。家紋は梅鉢。


榎本武揚。1836年10月5日 – 1908年10月26日、武士・幕臣、政治家。
父は箱田良助といい、備後福山藩出身。幕臣榎本家の株を買い、養子縁組みして幕臣となる。
新政府軍が江戸城を無血開城すると、幕府軍艦を率いて、蝦夷地(北海道)に逃走、箱館の五稜郭に拠り、蝦夷島政府を設立。1872年1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用され、外務大輔、議定官、海軍卿、を歴任。


清岡公張。1841年7月10日 – 1901年2月25日、政治家。
安芸郡田野浦の郷士で野根山殉難23士の首領清岡道之助の弟。
福島県権知事、白河権知事、二本松県権令などを歴任。
元老院議官、貴族院議員として活躍。
画像は護国寺にある墓所より。家紋は梅鉢。


副島種臣。1828年10月17日 – 1905年1月31日、佐賀藩士、官僚、政治家。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった国学者・枝吉南濠。
早くから尊王攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わり、大隈重信らと脱藩、奔走する。
明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務める。家紋は星梅鉢。


土井晩翠。1871年12月5日 – 1952年10月19日、詩人、英文学者。
仙台の北鍛治町に、質屋の土井林七の長男として生まれた。本名、林吉。
男性的な漢詩調詩風で、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。
代表作は『荒城の月』『星落秋風五丈原』など。
日本心霊科学協会の設立に顧問として関わっている。


倉田百三。1891年2月23日 – 1943年2月12日、劇作家。
広島県庄原市出身。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。
代表作『出家とその弟子』 は、鎌倉時代に浄土真宗を創始した親鸞とその弟子唯円との物語を描いた戯曲。発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持され、大ベストセラーとなる。世界各国で翻訳され、フランスの文豪ロマン・ロランが絶賛したことでも有名である。


高塚竹堂。1889年5月23日 – 1968年3月30日、書道家。
静岡県清水市に生まれる。本名は錠二。
戍申書道会・泰東書道院・東方書道会の創立に尽力し、役員・審査員を経る。
国定教科書・台湾教科書を揮毫。
松本芳翠と共に書道同文会を創設。書道連盟監事を勤めた。


前田夕暮。1883年7月27日 – 1951年4月20日、歌人。
神奈川県大住郡南矢名村の豪農の家に生まれる。
1928年『詩歌』復刊、口語自由律短歌を提唱。1942年、定型歌に復帰。
代表作『収穫』『陰影』『生くる日に』
代表歌:向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ


幣原喜重郎。1872年9月13日- 1951年3月10日、政治家、外交官。
大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。家紋は「鞠ばさみに梅鉢紋」
外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称された。


双葉山定次。1912年2月9日 – 1968年12月16日、大相撲の第35代横綱
大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。
本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。
双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」の言葉のようにまさに不世出の大横綱であり、相撲の神様と呼ぶ人も居るほどで、名実共に史上最強の横綱であるとする評は多い。


中村八大。1931年1月20日 – 1992年6月10日、作曲家・ジャズピアニスト。
中国青島出身。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。
ジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバー。
黒い花びら』『こんにちは赤ちゃん』で、2回、日本レコード大賞を受賞。
代表作は『上を向いて歩こう』『遠くへ行きたい』『明日があるさ』等多数。


永田雅一。1906年1月21日 – 1985年10月24日、実業家。
京都市の染料と友禅の問屋で生れる。
羅生門』のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。五社協定締結を主導。
大毎オリオンズのオーナー。パ・リーグの父と呼ばれた。
大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称で知られる。


長岡半太郎。1865年8月15日 – 1950年12月11日、物理学者。
長崎県大村市で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子。
土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。
初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任。
家紋は「隅切り角に四つ梅鉢」。珍しい紋である。


仁科芳雄。1890年12月6日 – 1951年1月10日、物理学者。
岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。
日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。
湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。死後、仁科記念財団が設立された。


池田勇人。1899年12月3日 – 1965年8月13日、政治家。第58~60代までの内閣総理大臣
広島県吉名村(現・竹原市)に造り酒屋を営む父・池田吾一郎、母・うめの子として生まれる。
首相時に所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした。「貧乏人は麦を食え」「私はウソは申しません」「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」などの微妙な有名発言を残している。


梶井基次郎。1901年2月17日 – 1932年3月24日、小説家。
志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残す。死後次第に評価は高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。
代表作は「檸檬」「櫻の樹の下には」。
1932年3月24日、肺結核のため死去。


浜田広介。1893年5月25日 – 1973年11月17日、童話作家。
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。
作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。
代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」など。


團 琢磨。1858年9月7日 – 1932年3月5日、工学者、実業家。
筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男として生まれる。幼名は駒吉。三井三池炭鉱の経営を行い、炭鉱経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であったが、血盟団事件で狙撃、暗殺される。
作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。


栃木山守也。1892年2月5日 – 1959年10月3日、第27代横綱。
栃木県下都賀郡赤麻村出身。本名:横田(のち中田)守也。
体重103kgで「史上最軽量の横綱」と形容される。
引退後、年寄・春日野(8代目)を襲名。春日野部屋を創立。
春日野部屋の力士(栃ノ心、栃乃洋、栃煌山等)の「栃」の字は栃木山が由来。


古今亭志ん生 (5代目)。1890年6月28日 – 1973年9月21日、落語家。
東京・神田亀住町の生まれ。本名、美濃部 孝蔵。
出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本であった美濃部家で、菅原道真の末裔を称する。
長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。
20世紀を代表する名人に数えられる。


奥むめお。1895年10月24日 – 1997年7月7日、婦人運動家、政治家。
福井県福井市に和田甚三郎の長女として生まれる。本名・奥梅尾。
日本初の婦人団体である新婦人協会で平塚雷鳥、市川房枝と共に理事に就任。
主婦連合会を結成し会長に就任。
主婦会館設立、初代館長となる。家紋は匂い梅。


美濃部亮吉。1904年2月5日 – 1984年12月24日、経済学者、政治家。
憲法学者で、天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した美濃部達吉の子。
日本社会党を支持基盤とする革新都知事として活躍。
1971年の都知事選で獲得した361万5299票は日本の選挙史上最多得票記録
後に参議院議員に転進。家紋は丸に星梅鉢。


植草甚一。1908年8月8日 – 1979年12月2日、ジャズ、映画の評論家。
東京市日本橋区小網町にて、木綿問屋の一人息子として生まれる。
雑誌『ワンダーランド』(のちの「宝島」)の創刊、責任編集者。
代表作『ぼくは散歩と雑学が好き』はサブカルチャーバイブルとして大きな影響力を持つ。
彼の死後、そのレコードコレクション(4000枚)はタモリが買い取った。


岡本太郎。1911年2月26日 – 1996年1月7日、日本の芸術家。
神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。
芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した。
写真は太郎と同じ敷地にある岡本かの子の墓にある梅鉢紋。


栃錦清隆。1925年2月20日 – 1990年1月10日、第44代横綱
東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身。本名、大塚清。
相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。
幕内最高優勝 10回。幕内通算成績 513勝203敗1分32休 勝率.716
引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめる。


山下清。1922年3月10日 – 1971年7月12日、画家。
東京府東京市浅草区田中町に生まれる。
3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」とよばれた。日本中を放浪していたことで知られる。家紋は丸に梅鉢。 


中上健次。1946年8月2日 – 1992年8月12日の小説家。
和歌山県新宮市に父・鈴木留造と母・木下ちさとの間に生まれる。
紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。
代表作は、「枯木灘」「地の果て至上の時」「軽蔑」など。


筒井康隆。1934年9月24日 – 、小説家、劇作家、俳優。
大阪府大阪市住吉区粉浜に出生。
日本を代表するSF作家の一人で、小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも称される。
代表作は『七瀬ふたたび』『筒井順慶』『虚人たち』『時をかける少女
戦国大名筒井順慶の末裔のひとつと伝えられているため、ここでは梅紋扱いとする。


菅直人。1946年10月10日 – 、民主党代表代行。
山口県宇部市に出生(本籍地は岡山県御津郡建部町(現・岡山市))。
菅原道真の子孫の一派、美作菅家党の流れを汲む。
厚生大臣(第74代)、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代)等を歴任した。
演説、国会質問における鋭さに特徴がある。

まさむね



成子天神、時代の流れと庶民のおおらかさ

Saturday, November 22nd, 2008

先日、新宿に所用があって行った時に、西新宿(青梅街道沿い)のあたりに行ってきた。

実は、今から25年位前に、僕が最初に就職した会社が、この辺にあったので、懐かしさもあって足を伸ばしたのだ。
ところが、この辺りの風景、結構変っているんだよね。

特に、青梅街道から1本道を入ったあたりの様変わりは凄い。
実は、このあたりは、25年前、一見、普通の住宅街なのだが、数件おきにスナックがあった。
なんでこんなところにスナックがあるんだろう?儲かるのかななんて思って、当時、会社の物知りの先輩に聞いたところ、これは青線の名残だそうだ。
青線というのは、1957年に施行された売春防止法以前に、黙認で売春させていたスナックや飲み屋街の非合法地域のこと。
下はカウンターだけ、2階に3畳の部屋が2つ位並んでて、そこで、男女が乳繰り合わせるような飲み屋があったんですね。この辺りに。

そういえば、80年代頃になっても、このあたりの壁に古い鉄板の看板(代表例:アース製薬の水原弘の看板)が残っていて、

「マンモスキャバレー開店。全席100席、近代女性募集!」

と書いてあったのを思い出す。マンモスキャバレーって、60年代の、植木等の映画なんかに、出てくるよね。
僕はというと、この近代女性っていう言葉にインパクトを感じたものです。

さて、これらが混在していたエリアだけど、今は、地上げにため、更地(写真一番上)になっている。
昔、この土地で様々な男と女のドラマがあったんだなぁ、それらのドラマはみんなブルドーザーに持っていかれたんだなぁって、更地を見ながら妙な感慨に浸ったりする僕。

さて、そんなエリアのすぐワキに成子天神がある。
更地から、成子天神に上がっていく脇の道(写真上から2番目)は、ここは東京かと思われるほど、ガタガタの石道路。
この道路もいつか舗装されちゃうかもしれないから、一応撮っておこう。

さて、成子天神だけど、このあたりの氏子の信仰に支えられて立派な本殿(写真上から3番目)がある。

天神っていうのは、菅原道真公を祭った神社で一般的には、学問の神様と言われています。
九州の大宰府天満宮が勧進元。山口の防府天満宮、京都の北野天満宮が有名だよね。
東京では、湯島天神、亀戸天神など、どちらかと言えば、下町(東東京)に多い。っていうか、その昔、農業エリアに学業の神様があってもしょうがないので、やっぱりに、人の多い、江戸に多いって事なんだろうな。

ここの成子天神は、菅原公の威光だけじゃ人が集められないと見えて、境内に、富士塚というのがある。さらに、その塚の各所に七福神が配置されているが、勿論、菅原公とは全く関係無い。
とにかく、庶民に人気のがあるっていんで、混在させているんだろう。
現在では、その富士塚は公開されていないけど、25年前はなんとなくそこにあって、いつでも見られたんだよ。

僕はこの神道系の人々の発想の、いい意味でのおおらかさが好きだ。なんでもありなのだ。

さて、天神様の神紋といえば、有名な梅紋。
菅原道真の梅好きって有名だったからね。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

大宰府に流された菅原公が、都に残してきた梅を想ってこの和歌を作ったら、梅が京都から飛んできたっていう伝説がある。

狛犬の台座(写真上から4番目)と、神社の門(写真上から5番目)等にみつけた。
よく見ると、若干違うんだよね。狛犬の台座の方は、梅の花びらと花びらの間の物体が、鉢の形をしているんだけど、門の方は梅の花弁の形なんだよね。

同じ神社なんだから、統一しろよというのは、現代の広告代理店的発想。いいんだよ、似てるんだから。有難い事には変わりないんだから、細かいこと言うなというのが庶民の発想。

さて、この梅紋だけど、加賀の前田家の家紋として超有名だ。ただし、前田家の家紋は上記の物体は剣でした。
僕が思いつく限り、有名人だと、文学者の中上健次氏、筒井康隆氏、芸術家の岡本太郎氏、政治家ならば、池田隼人首相(写真一番下)、そしてこれはあくまでも想像なんだけど、名前からして(菅原公と管 の管つながりから)民主党の管直人氏もそうだと思う。

まさむね