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文字紋 -わかりやすさ第一の優しい紋-

Monday, January 19th, 2009

家紋の中で一番わかりやすいのが文字紋である。

近頃は、ローマ字ロゴが全盛の時代だが、「丸に文字」の文字紋もまだ残っている。
それは、丸に文字紋が、かっこ良さは別にして、ご年配にわかりやすいからに違いない。

左画像はご存知の通り、左上=伊勢丹、右上=大丸、左下=三越、右下=高島屋の「丸に文字」ロゴである。
大衆相手の百貨店にとって、わかりやすさは大事なのだ。

文字紋は全国で26位。
長野県で12位、宮崎県で14位。
おそらく、長野県では、丸に上文字紋が多いだろうと推測できる。村上発祥の地だからである。

文字紋を持つ有名人は以下。

稲葉一鉄。1515年 – 1589年1月5日、武将。
伊予の名族・河野氏の一族で、彼の時代に美濃に流れて土豪になった。
土岐氏、斎藤道三から斎藤氏3代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。
江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となる春日局の養祖父にあたる。
家紋は隅切角に三の字。


石田三成。1560年 – 1600年11月6日、武将・大名。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。
秀吉の小姓として仕える。豊臣政権の五奉行の一人。
家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は大一大万大吉。


宇喜多秀家。1572年 – 1655年12月17日、武将・大名。
備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれた。幼名は八郎。
羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となる。豊臣政権下の五大老の一人。関が原の戦いに敗れ、流人として伊豆諸島・八丈島へ配流。家紋は剣片喰(左)と児の字(右)。


蜂須賀家政。1558年 – 1639年2月2日、安土桃山時代の武将・大名。
蜂須賀正勝の長男として、尾張国丹羽郡宮後村に生まれる。
父の代わりに阿波の大名に任じられて徳島藩祖となる。
阿波踊りは、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥と言われている。家紋は蜂須賀万字。


大久保主水。江戸水道開設者。菓子職人。
元々三河武士であったが、負傷以降、餅菓子を作る特技を生かして家康に菓子を献じる。
家康に用水事業を命じられ、井の頭池、善福寺池を源に江戸城並びに市中の引水に成功。
これが神田上水といわれるわが国の水道の先駆けとなる。この功により、以来、「主水」の名を賜り、幕府用達の菓子司を務めた。家紋は上り藤に大の字。


大野治長。1569年 – 1615年6月4日、武将。豊臣家の家臣。
京都に生まれる。豊臣秀吉の馬廻衆として取り立てられた。
秀吉の死後は、豊臣秀頼の側近として仕えた。家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として家康にその罪を問われ、下野国(栃木県)に流罪される。
大坂夏の陣で破れ自害。家紋は大文字。


村上義清。1501年3月29日 – 1573年2月3日、戦国時代の武将。
村上顕国の子として葛尾城に生まれる。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。家紋は丸に上文字。


仙石秀久。1552年2月20日 – 1614年6月13日、武将・大名。
美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流。羽柴秀吉の家臣として仕える。
賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀久はこれまでの功を評価され、淡路国洲本城主5万石の大名となる。家紋は丸に無の字。


本多忠勝。1548年 – 1610年12月3日、武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男。
家康の家臣として数々の武功を上げる。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
家紋は立葵(左)と丸に本の字。


平田篤胤。1776年10月6日 – 1843年11月2日、国学者、神道家。
秋田藩士の子として生まれ、成人してから備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。
本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。
紋付、墓所にある家紋は右卍轡。


久坂玄瑞。1840年 – 1864年8月20日、武士・長州藩士。
長門国萩平安古に萩藩医・久坂良迪、富子の二男として生まれる。
松下村塾に学び、高杉晋作、吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。
安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。
禁門の変で負傷し、自刃する。家紋は隅立角に三の字。


島津斉彬。1809年 – 1858年7月16日、島津氏の第28代当主。
薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。後に西郷隆盛ら幕末で活躍する人材も育て上げた人物である。
日本の国旗である日章旗を初めに提案
丸に十字は薩摩・島津家家紋として有名。島津製作所も同様の社章。


三島通庸。1835年6月26日 – 1888年10月23日、薩摩藩士、内務官僚。
薩摩藩士三島通純の長男として生まれる。三島家は代々藩の鼓指南役の家柄。
山形県・福島県・栃木県の各県令、内務省土木局長(県令と兼任)、警視総監を歴任。
家紋は、折敷に三文字。この紋は、越智氏流の河野氏の代表紋で、三島神社の神紋としても知られている。大山祇神社の神紋は、三文字が縮んでいる。


三宅雪嶺。1860年7月7日 – 1945年11月26日、哲学者、評論家。
加賀国金沢生まれ。本名は雄二郎。加賀藩家老本多家の儒医の子として生まれる。
国粋主義の立場を主張する為、『日本人』を創刊する。
主著は『真善美日本人』『偽悪醜日本人』。家紋は「島形に児文字」。この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


杉田玄瑞。1818年9月20日 – 1889年7月19日、蘭学者。
三河出身。杉田玄白の後裔者。
若狭小浜藩医になり蕃書調所・洋書調所教授、外国奉行支配翻訳御用頭取などを歴任。
開成所教授の蘭学教授として、新島襄等、多くの人材を育てる。
東京神田に共立病院を創立。家紋は田の字だと思われるが、角轡にも見える。


島津保次郎。1897年6月3日 – 1945年9月18日、映画監督。
東京神田区駿河台に老舗海産物商の息子として生まれる。
多くの作品で庶民生活を生き生きと活写し、「メロドラマ」の名手として知られる。
代表作は『兄とその妹』『麗人』『嫁ぐ日まで』等。
家紋は丸に十の字。島津家の代表紋である。


志賀直哉。1883年2月20日 – 1971年10月21日、小説家。
宮城県石巻市生まれ。父直温は明治期の財界で重きをなした人物。
小林秀雄、阿川弘之、小林多喜二などが彼に師事した。
暗夜行路』は近代日本文学の代表作の一つに挙げられている。
代表作「小僧の神様」「城の崎にて」「清兵衛と瓢箪」「暗夜行路」など。


坂東三津五郎 (10代目)。1956年1月23日 – 、俳優、歌舞伎役者。
東京都中央区に生まれる。本名は守田寿(もりた ひさし)。
長男に二代目坂東巳之助、長女に女優の守田菜生、また従妹に女優の池上季実子がいる。
出演作品は『武士の一分』『母べえ』『功名が辻』など。
家紋は三ツ大。


北野武。1947年1月18日 – 、お笑いタレント、映画監督、東京芸術大学教授。
東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の四男として生まれる。
80年代、ビートきよしと「ツービート」という漫才コンビを組みブレイク。「平成教育委員会」「風雲!たけし城」「TVタックル」等主演番組多数。映画監督としては世界的に有名。『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。紋付にはオリジナルK文字紋がつけられている。


夏目雅子。1957年12月17日 – 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として生まれる。旧姓は小幡。写真はその実家の紋。
代表出演作はドラマ『西遊記』『徳川家康』、映画『瀬戸内少年野球団』など。
夫は、『ギンギラギンにさりげなく』の作詞で有名な伊集院静。27歳の若さで突然の死去。
「美人薄命」そのものの生涯と当時多くのファンからその死を惜しまれた。


高市早苗。1961年3月7日 – 、政治家。元近畿大学教授。
奈良県奈良市出身。夫は同じく自民党衆議院議員の山本拓。
安倍晋三内閣で内閣府特命担当大臣として入閣。沖縄及び北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化・男女共同参画、食品安全を担当。2007年8月15日、安倍内閣の閣僚でただ一人靖国神社に参拝した。高市家は越智氏流で、家紋は、折敷に縮み三の字


西島千博。1971年10月21日 – 、俳優、バレエダンサー。
宮崎県日向市生まれ。TVドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の尾崎京一役として有名。2008年に真矢みきと結婚。画像はその婚礼時の紋付より。波多野氏の一族岩間氏の兄弟の一人が西島姓に改姓(13世紀)した際、「岩間」の名前をこの「丸に岩の字」紋に残した。この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

まさむね