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扇紋 -佐竹家を800年以上も守った魔除け紋-

Thursday, January 15th, 2009

昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。

扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインはいかにも”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。

一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのはまさに、その扇の力だったのかもしれない。

扇紋は全国では、23位だ。特に突出した地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが多い。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。

扇紋を使用した有名人は以下。

佐竹義宣。佐竹氏十九代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主
天正17年(1589年)、父・義重の隠居により家督を相続する。
豊臣秀吉の小田原征伐が始まると義宣は秀吉のもとに参陣し、所領(常陸54万石)を安堵された。関が原の戦い時に、西軍の立場に立つが、父が東軍についたため、常陸水戸54万石から出羽久保田21万石へ減転封されるが、佐竹家の家名は存続する事が出来た。


長野業政。1491年 – 1561年12月28日、戦国時代の武将。
長野憲業の子として生まれる。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。
長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。
関東管領・山内上杉家に属する勢力。上野国箕輪城主
家紋は檜扇。


貝賀友信。1650年 – 1703年3月20日、赤穂四十七士の一人。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。
貝賀新兵衛の養子となる。穂藩では中小姓・蔵奉行。
吉良邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。
家紋は重ね扇。


三遊亭圓朝。1839年5月13日 – 1900年8月11日、幕末から明治期に活躍した落語家。
橘屋円太郎の子として江戸に生れる。本名は出淵 次郎吉。
歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。
芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」「四谷怪談」等を創作。言文一致体を一代で完成させ、現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇(ただし扇の骨は5本)。


金子堅太郎。1853年3月13日 – 1942年5月16日、官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として生れる。
岩倉具視欧米使節団に同行した藩主黒田長知の随行員となり、アメリカ留学。
伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画する。
専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。


北里柴三郎。1853年1月29日 – 1931年6月13日、医学者・細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。
破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。
「日本の細菌学の父」として知られる。
北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設する。


七代目・尾上菊五郎。1942年10月2日 – 、俳優、歌舞伎役者、人間国宝。
本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。
妻は、富司純子。長女は、女優の寺島しのぶ、長男は、歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。
現代歌舞伎のスターにして、三之助の一人。かつては女形中心だったが、年を増すごとに男っぽさが強くなり現在は立役中心。家紋は「重ね扇に抱き柏」。


三遊亭小遊三。1947年3月2日 -、落語家。
本名は天野 幸夫、山梨県大月市出身。
古典落語専門で、長屋ものを得意としている。
1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演。
家紋は高崎扇。


タモリ。1945年8月22日 – お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名:森田一義。
株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』『世にも奇妙な物語』でMCを務める。
「笑っていいとも!」にて家紋は丸に五本骨扇であることを告白。


藤森慎吾。1983年3月17日 – 、コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のオリエンタルラジオのツッコミ担当。
『武勇伝』ネタの知名度が圧倒的だが、しゃべくり漫才もする。
「笑っていいとも!」にて家紋は家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

まさむね