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引両紋 -無骨な武家紋の代表-

Friday, January 9th, 2009

引両紋は、源平時代からある古い紋である。

武家の紋が元々、戦場で自分を目立たせるためにつけたのが始まりであるため、引両のような簡単に描ける紋は実用的だったのではないか。

室町時代が全盛で、足利氏族の吉良、斯波、一色、山名、今川、細川、畠山等の大名がこの紋を使用した。
種類としては、線の数で、一引両、二引両、三引両がある。

江戸の有名人では、遠山の金さんも二つ引両である。
シンプルで、ある意味、無骨な紋のため、女性からは人気がなかったようである。

全国分布では18位。特に多い地域は、山梨県(11位)、東京都(12位)、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、愛媛県などが13位、栃木県、長野県が14位、青森県、群馬県、千葉県、兵庫県、岡山県、広島県で15位といったところ。

有名人では以下の人々が使っている。元々武家紋であるため政治家が多い。

新田義貞。1301年 – 1338年8月17日、鎌倉時代の御家人、南北朝時代の武将。
源義国の子。贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。家系は清和源氏の一家系。本姓は源氏。
足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。北条方を撃破、鎌倉幕府は滅亡する。
後醍醐天皇建武政権下において武者所頭人という要職に任じられる。家紋は大中黒。


三浦義同。生年未詳 – 1516年8月19日、東相模の武将、小大名。
父は扇谷上杉家の上杉高救。母は西相模の豪族大森氏頼の娘。
初期戦国大名の典型とされる北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主。
家紋は三つ引。


今川義元。1519年 – 1560年6月12日、駿河の守護大名・戦国大名。
駿河今川家第9代当主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる今川氏。
所領も駿河・遠江・東三河から、西三河や尾張の一部にまで拡大したが尾張に侵攻した際に桶狭間の戦いで織田信長軍の奇襲により戦死。家紋は赤鳥(左)と二引両(右)。


蘆名盛氏。1521年 – 1580年7月28日、戦国時代の陸奥の武将。
第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。
山内氏を討ち、天文19年からは会津から中通りにかけて勢力を拡大する。
その一方で、白河結城氏の白河義親の家督相続問題に介入したり、二階堂盛義を攻めて降伏させ、さらに二本松義国と同盟するなどして軍事的・政治的に勢力を拡大した。


吉川元春。1530年 – 1586年12月25日、武将。
毛利元就の次男で、毛利両川の一人。吉川国経の外孫。吉川氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉幕府御家人として安芸国に所領を得た。毛利両川の一人として、弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。生涯で76度の合戦に臨み、64度の勝利を収める。家紋は丸に三つ引両。歌手の吉川晃司は子孫と言われている(wikiより)。


足利義昭。1537年12月15日 – 1597年10月9日、室町幕府の第15代将軍
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。
織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任。後に信長と決裂し、京都を動座する。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として余生を送った。
家紋は二引両。


最上義光。1546年2月1日 – 1614年2月26日、武将・大名。
家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋。
最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長。
家紋は二引両。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国時代の武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
最も古い紋は縦三つ引き両(右上)。九曜紋(左下)は細川氏から使用許可される。竹笹紋(左上)は仙台笹、牡丹は仙台牡丹(右下)といわれる独特の形状をしている。


古田織部。1544年 – 1615年7月6日、戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子として生まれる。信長、秀吉の家臣(山城国西岡に所領3万5000石)だが、一般的には茶人として有名。利休七哲の一人に数えられる。
千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


間部詮房。1666年6月18日-1720年8月19日、江戸時代中期の側用人
6代将軍徳川家宣の側用人として活躍。新井白石とともに、「正徳の治」を断行した。
猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人として用いられ出世。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。
日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。


遠山金四郎景元。1793年9月27日 – 1855年4月15日、旗本、江戸北町奉行。
明知遠山氏の分家六代目にあたる人物。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。
正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)。
テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。
写真は杉良太郎。家紋は丸に二引き両。丸に九字直違も使用。


佐久間象山。1811年2月28日 – 1864年7月11日、武士、兵学者・思想家。
信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
私塾・象山塾には長岡藩士以外にも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが名を連ねる。
動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動し、一橋慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、尊皇攘夷派の刺客によって暗殺された。


近藤勇。1834年11月9日 – 1868年5月17日、新選組局長。晩年は幕臣。
農民宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。
幕末、京都警護のため、奔走。池田屋襲撃などにより、名を馳せる。
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れ、斬首される。京都の三条河原で梟首されたが、その後の首の行方は不明という。


松本楓湖。1840年10月9日 – 1923年6月22日、日本画家。
常陸国河内郡寺内村に生まれた。名は敬忠。通称:藤吉郎。
欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。
日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」「静女舞」等を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。


吉田稔麿。1841年3月16日 – 1864年7月8日、江戸時代後期、幕末の長州藩の活動家。
萩藩松本村新道に足軽吉田清内の嫡子として生まれる。名は栄太郎。
吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。
高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。
池田屋事件で、憤死。家紋は二引両。


新門辰五郎。1800年? – 1875年9月19日、町火消、鳶職、香具師、侠客。
父は中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の妾。
鳥羽伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れ、上野寛永寺に謹慎した際には寺の警護、上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。
歌舞伎の「め組の喧嘩」の当事者め組の辰五郎。


荻野吟子。1851年4月4日 – 1913年6月23日、医師。
武蔵国幡羅郡俵瀬村に、代々苗字帯刀を許された名主の末娘として生まれる。
近代日本における最初の女性の医師。
女性運動家としても知られ、廃娼運動に取り組む。
家紋は丸に二引両。


三木清。1897年1月5日 – 1945年9月26日、哲学者。
兵庫県揖保郡平井村小神出身。人間学を基礎とした独自のマルクス解釈を展開。
治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留される。
代表著作は『哲学入門』『人生論ノート』『哲学ノート』など。
家紋は丸の内にに三引両。


ディックミネ。1908年10月5日 – 1991年6月10日、徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手。本名は、三根 徳一
東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎(土佐中学校・高等学校・初代校長)を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つ。
代表曲は『波止場がらす』『二人は若い』『或る雨の午後』。


浜口雄幸。1870年5月1日 – 1931年8月26日、第27代内閣総理大臣
総理大臣在任中に、金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。


中勘助。1885年5月22日 – 1965年5月3日、作家・詩人。
東京神田生まれ。
1913年から1914年にかけて、漱石の推薦で自伝的小説『銀の匙』を東京朝日新聞に連載。嫌味のない美しい文章は、今なお評価が高い。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。野上弥生子の初恋の人としても知られる。


江戸川乱歩。1894年10月21日 – 1965年7月28日、小説家・推理作家。日本推理作家協会初代理事長。
代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。江戸川乱歩賞は第3回より長編推理小説の公募賞となっている。衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強かった。
祖父の代まで津藩士であったという平井家の紋は、七宝に二引両。


甘粕正彦。1891年1月26日 – 1945年8月20日、山形県出身の陸軍軍人。
甘粕事件で、軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、出獄。フランスに渡った後、満州に渡り、満州事変の陰謀に加わり、黒幕となる。
満州国民政部警務司長に就任するが、敗戦の時に新京で服毒自殺した。映画「ラストエンペラー」では坂本龍一が好演した。画像は、多磨霊園の墓所にて撮影。


古関裕而。1909年8月11日 – 1989年8月18日、作曲家。
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三」に生まれる。本名は古關 勇治。
早大応援歌「紺碧の空」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神の「六甲おろし」、巨人の「巨人軍の歌(闘魂こめて)」などの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がける。
家紋は丸に二引き。


オノ・ヨーコ。1933年2月18日 – 、前衛芸術家。平和運動家。
明治・大正期の銀行家、日本興業銀行の第4代総裁・小野英二郎の孫。
1969年、ビートルズのリーダー・ジョンレノンと結婚。レノン死後も、「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信し続け、世界各地で個展や音楽活動を行なうなど、今も精力的に活動。
画像は、多磨霊園にある小野英二郎の墓所にて撮影した一引両紋。


高橋悦史。1935年8月2日 – 1996年5月19日、俳優で、声優。
大阪府岸和田市宮本町にて、大工の息子として生まれる。
吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビューを果たす。
岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され、注目を浴びる。
出演作『日本の首領』『戦争と人間』『金環蝕』『皇帝のいない八月』など。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。
芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。
テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。
家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


ピーコ。1945年1月18日 – 、タレント、ファッション評論家。
出身地は神奈川県横浜市保土ケ谷区。
本名:杉浦 克昭。映画評論家のおすぎは一卵性双生児の弟。
古舘伊知郎のスタイリストを担当。『とくダネ!』『笑っていいとも!』に出演。
「笑っていいとも!」にて家紋は丸に三つ引であることを告白。


栃東。1976年11月9日 – 、玉ノ井部屋所属の元大相撲力士。
元関脇で現在玉ノ井親方の栃東知頼の次男として、東京都墨田区に生まれる。
最高位は大関。現在は年寄・栃東。
幕内最高優勝:3回。通算成績:560勝317敗169休(75場所)
家紋は丸に三つ引両。

まさむね