巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。
古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。
また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。
全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。
巴紋を持つ有名人は以下。
山本勘助。1501年 – 1561年9月10日、戦国時代の武将。
出身地は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)。
武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。
2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった。
写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。

蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。
またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。
家紋は蒲生対い鶴と左三巴。

近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに、現在につながる都市設計を行った。そのことは現代でも高く評価できる。
家紋は左三巴と釘抜き。

毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では、秀吉の信任を受け、通説では文禄年間に五大老の一人に任じられたとされている。
家紋は左三巴。

志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)として活躍し、3万5000石の禄を得た。
後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。
家紋は左三巴と七曜。

藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔とする説がある
稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われることもある。
越前一向一揆を平定後は、佐々成政、前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。
画像は不破光治が拠ったといわれる龍門寺。家紋は左三巴。

肥前有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ、大友宗麟や大村純忠とともに、天正遣欧使節を派遣している。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。岡本大八事件で甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。家紋は左三巴と五瓜に唐花。

別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。
家紋は左三巴。

家康の次男として遠州浜松で生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。
家紋は右三つ巴。

三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで家康に従う。
関ヶ原の戦い後の1601年、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握する。
禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。

糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。
賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。
関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。

二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。水墨画家・工芸家としても知られる。
播磨国(現在の兵庫県)で誕生した。家系に関しては諸説ある。
吉岡一族との決闘、巌流島の決闘など、60余回の勝負を行い、すべてに勝利したという。
著作に「五輪の書」がある。また、水墨画家としても名高い。

大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。
代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。
元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。

新選組鬼の副長として皆に恐れられた。戊辰戦争では、仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。函館戦争中に、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
家紋は左三つ巴。

西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。西園寺家の三つ巴は、家紋史でもっとも古く由緒あると言われている。多磨霊園での墓所にて撮影。

肥前国佐賀藩士大木知喬の長男として生まれる。
大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。
江藤新平、大隈重信、副島種臣らと共に義祭同盟に参加。
東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔、元老院議長などを務めた。家紋は左三つ巴。

福島の二本松藩士服部藤八郎の三男として生まれる。
哲学科出身で西洋哲学やその方法論を学び、中国哲学を講じた。
東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。
代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』『支那の国民性と思想』など。

山口県氷川郡大内村に生れた。母は井上馨の実姉の長女。父は旧長州藩士鮎川弥八。
日産コンツェルン の創始者。日産コンツェルンには、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命等が含まれる。女優の杉田かおると結婚し、すぐ離婚し話題になった鮎川純太の祖父にあたる。家紋は左三つ巴。

父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と「自由劇場」を開始、大正13年「築地小劇場」を土方与志と起こし新劇運動の中心的存在となる。多くの西欧の戯曲を上演し、新劇界の草創期をつくった。「新劇の父」の異名がある。多磨霊園にある小山内薫の墓には巴紋はないが、敷地内の親族の墓には巴紋が刻まれている。

遠江国城東郡土方村に、漢方医・鷲山養斎の娘として生まれる。
東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者。
東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長、日本女医会会長、教育審議会委員、日本医師会参与、厚生省顧問などを歴任。

新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれるが、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、山本五十六を名乗る。日独伊三国軍事同盟には、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」として最後まで反対した。また、早くから石油や航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。

北海道樺戸郡新十津川町出身。地元高校を中退後、役者を志して単身上京。
石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキー・パンチ』(後にコント・レオナルド)で一世を風靡した。
サントリービール「生樽」のテレビCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうな-」は流行語になった。画像は和田堀廟所の墓所にて撮影。

本名・岡田六郎(六男だったため、六郎と名付けられる)。
古川緑波一座に入団し、俳優となる。
三遊亭金馬・一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」(八ちゃん役)に出演。
その物真似は、昭和名人芸として今でも称えられている。

生家は九州柳川城の城主だった蒲池氏第十六代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の子孫に当たり、江戸時代は柳川藩家老格だった。
代表曲は、「青い珊瑚礁」「白いパラソル」「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」など。

鹿児島県鹿児島市出身。恵家の家紋は左三つ巴。
石塚英彦とホンジャマカを結成し、1989年にデビュー。ツッコミ担当。
俳優としては大河『毛利元就』『サラリーマン金太郎』に出演。
最近は『ひるおび! 』などで司会者としても活躍している。
まさむね












































