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今のテレビ界は、ちょっと前のプロレス界と似ている

Wednesday, December 17th, 2008

久米宏の「テレビってヤツは!?」、今日のゲストはおすぎとピーコ、室井佑月、宮崎哲弥、秋元康。
テレビについて語るという内容。

しかし、見苦しかった。

ゲストも一応、有名人はそろっていたにしては意見がまるで貧困。例えば、ドラマ部門で「篤姫」圧勝、バラエティ部門で「紳助物」が1位2位独占、という状況がわかったとして、何故、そのような状況なのかという事に関して、ちゃんと考えてきている人が一人もいない。それどころか、「篤姫」に至っては毎週見ている人が一人しかいない。これでどんな分析が出来るというのか?
議論の内容がどこかで聞いた事のある一般論になるか、内輪のこぼれ話(それも当たり障りのない)になるしかないではないか。もう少し、説得力のある解説が欲しかった。

また、総体的にみんなそれぞれ、言いたいことがあるんだけど、ここでは言えない、時間がなくて言えないオーラを発散しまくっていた。
視聴者も含めて、みんな思っていることの範囲が明らかに、テレビで放送できる範囲を超えていて、そのズレがいわゆる奥歯に物がはさまった言い方になってこちらに伝わってきてしまうのだ。

   ◆
そういう意味で、今のテレビって、一昔前のプロレスにとってもよく似ていると思った。

村松友視が言ったところの「暗黙の了解」。
その了解が、村(業界内)の人たちだけが知っている掟だったうちは、(村の外の)お客はそれはそれで興奮して、楽しく見ることができた。

しかし、村の外の誰かが、その「暗黙の了解」に気付いて、おかしいと言い出す、あるいは、その「暗黙の了解」があるから、逆に面白いのだと言い出す。
村松友視の「私プロレスの味方です」という著作はそういった意味で、プロレス界にとって、非常にあやういものだったのだ。

ちなみに、プロレス史を振り返ると、その村松さんのプロレスの味方に、猪木は乗り、馬場は無視した。だから、一方で過激なプロレスがあり、一方で普通のプロレスがあるという二つのプロレス観が並存した時期があった。思えば、その時代(おそらく80年代)皮肉なことにプロレスが最もエキサイティングだったのである。

しかし、そんな危うい均衡状態が長く続くはずもない。こんな状況に対して、村の中の誰かが、「本当の事」を言い出す。
今考えると、UWF(前田日明のプロレス)の登場、逆の方向からのFMW(大仁田のプロレス)というのは、言語的にはプロレス内のものであったが、見方を返れば、その「暗黙の了解」を肉体で表現していたんだと思う。

そして、90年代、その「暗黙の了解」の存在が、徐々に村の外に伝わり、観客達の中に「やっぱりな」という空気が蔓延する。
そして、その時、外から全く新しい刺激的なリアル格闘技、K-1、UFC等が来襲する。
そうすると、「暗黙の了解」に守られていたプロレスは、ひとたまりもない。ゆるい見世物に堕してしまったのだ。
   ◆
プロレスのことをそれほど知らない人にとってはわかりにくい例だったかもしれないが、今のテレビというのが、危機だってことだ。

しかし、一方、現時点ではその受け皿になるべきインターネット界もまだまだ準備が出来ているわけではない。これも問題だ。
一番大事な点は、インターネットではテレビほど強固なビジネスモデルが確立できていないという事だ。
まだまだ、広告料が、安すぎる。ワンクリックいくらが安すぎる。アフリエイトで稼ぐのなど夢の夢だ。

さて、この状況を、とりあえず変える次のステップは、テレビの良識にとらわれないメッセージを正確に発する事が出来て、しかも力も人気もあるようなパーソナリティの登場なんだと思う。
そういったオピニオンリーダーが必要なのではないか。まぁ、いろいろと邪魔されちゃうんだろうけどね。

おそらく、今回の番組に、ひとりだけでも、そんな元気な20代くらいの狂った論客がいればまた空気が変っていただろうに。
まぁ、そんな存在を、しばらく待つことにしよう。
 ◆
あるいは、テレビのニュースバラエティに関して言えば、より討論の意味がわかりやすい方向に番組演出が変わっていくように思う。例えば、論点(消費税の是非とか、失業対策、田母神発言の是非とか)を決めて、それをチーム(発言する人、論旨を考える人、演出する人等で構成)対抗で、格闘技形式の演出にして、視聴者の生の投票によって、勝ち負けを競わせるようなものとかどうだろうか。
そうすれば、支持率の高い意見、支持率の高いプレゼンテーターなどが何勝何敗とかで明確でわかりやすくなる。コメンテーター同士の安易な頷きあいもなくなっていいのではないか。

まさむね

能とプロレスの明日

Thursday, October 23rd, 2008

能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)で興味深い一節があった。

「道成寺」における、落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関して...

葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。

ここで面白いのは、能の稽古というのは、歌舞伎や他の演劇のようにいわゆるゲネプロ(本番と同じ通し稽古)はしないという事だ。
恐らく、本番において初めて合わせる事によって、その時に生れる緊張感を大事にするがゆえの伝統なんだと思う。

とここで思い出すのは、これってプロレスと同じではないかということ。
プロレスにおいては、打合せはあるが、それはあくまで段取りである。
一方、試合が名勝負になるか、駄作になるかは、現場の空気によって決まる。それはレスラーと観客の感性が作るものである。
馬場、猪木、長州、天龍、大仁田、武藤、三沢等、歴代の名レスラーはいずれも感性に優れている。
今後、日本のプロレス界が復活するためには、過去の名レスラーと同等の感性を持ったレスラーの誕生と、その感性と感応出来るようなファンの復活を待つしかないだろう。

一方、明日の”能”を考えると、プロレスと同様の問題があるような気がする。

演者の技能と感性のレベルを保つためには、彼らの修行が大事であると同時に、それを見る観客の目を維持していかなくてはならないと思うのだが、そのための種蒔きはしているのだろうか。僕にはよくわからない。
いずれにしても、伝統を守るということは、並大抵の事ではない。

まさむね

プロレスの敵はナベツネだ!

Sunday, July 13th, 2008

山本モナと巨人の二岡との不倫疑惑に関して、また、ナベツネ(読売新聞グループ渡辺会長)吠えたという。

「君らだってやってんだろ。同じようなもんじゃねえか」

いつもの事ながら、その乱暴な言動には笑わせられる。
独り言とコメントの区別つけないのかね。この人。
ある意味、名人芸だね。
恐らく、この人、元々は普通だったんだろうけど、周りの茶坊主連中の怯えとチヤホヤがこの芸風を徐々に成長させていったんだろうな。
別な意味で、かわいそうな人だ。

去年、小沢と福田との大連立の話になったとき、ナベツネは仕掛人だと言われたが、この暗躍をあの中曽根も評した。

「政治家を動かすということを主筆はやっていいんですよ。それが天下を動かすジャーナリストの力」

元総理をも茶坊主化させるナベツネの存在感は稀代のヒールとでも言うべきか。

さて、その他、ヒールと言えば、例えば、麻原や金正日は勿論の事、薬害エイズ問題の故・安部英(帝京大学副学長)、肉体派ヒールの亀田史郎(父)を思い浮かべる人も多いだろう。

90年後半以降のプロレス界の衰退の背景には、現実世界でのヒールの台頭があった。
プロレス界の真の敵はK-1ではない。ナベツネだ。

まさむね

プロレスとしての丸明

Sunday, June 29th, 2008

丸明の吉田社長の事が実は好きだ。

おとといの「謝罪に漂うものの哀れ」で思わず、あの謝罪会見をプロレス的なアナロジーで語ってしまったが、よく考えたら、あの社長が醸し出す匂いは昭和プロレスのヒールのそれと酷似していることに気付いた。

最初に報道された従業員との口論。社長は従業員達の前で偽装の指示を喧嘩腰で否定する。
吉田社長の鮮烈なデビューだ。

次は、ただ「申し訳ありませんでした」とだけ言って逃げたわずか40秒の記者会見。
やりたい事だけやって帰っていくヒールの姿だ。
我々の興味をしっかりと次に繋ぐ。

そして、例の記者会見。
前半は下を向いての欺瞞謝罪。
中盤は笑顔での饒舌。
最後は決着をつけないまま、場外逃亡。

この展開がまさしく「昭和プロレス」なのだ。
例えば、テリー・ファンクVSザ・シーク、G・馬場VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、A・猪木VSタイガージェットシン。

この嫌な感じの不完全燃焼感、あるいは残尿感。
がっかりさせられると同時に、また見たくなる期待感。
そして、ヒールに対するなんとも言えない愛着感。

人間にとって最も楽しい見世物は他人の感情だが、この社長の判りやすい感情の露出は、我々を必要以上にワクワクさせる。

興味津々の生立ち、成り上がりの軌跡、欲望・業の深さ、抜き差しならない社内関係、謎の明るさ等、社長の存在は、我々に様々な妄想を喚起させるのだ。

だから、吉田社長を好きにならずにはいられない。

まさむね