Posts Tagged ‘家紋’
Saturday, November 15th, 2008
秩父散歩記-1からつづく。
秩父神社の境内に入る。
本殿の四方には、南面に虎、東面に龍、北面に梟、西面に猿の彫刻がある(写真一番上)。
日光東照宮と同様、江戸初期の彫刻様式だ。この時代の作品に対するある種のお決まりだが、左甚五郎作と伝えられている。
北面にある梟(写真二番目)は「北辰の梟」と呼ばれているが、梟が知恵を表すことから、最近では受験の守り神として学生達に人気が高い。っていうか神社側もそれを当て込んでPRしているようだ。
そういえばローマ神話でもミネルバの梟って知恵の象徴だ。梟=知恵みたいな観念って世界共通なのか。あるいは、西洋から東洋に伝播したものか。興味深いところだ。
さて、秩父神社のどこに紋所があるのか探す。
それらを勝手にピックアップして推理し、秩父神社、そして土地の歴史を妄想してみたい。
秩父神社は神仏習合時に、妙見宮も奉られていたという社伝もあって、平氏系の紋を探すが、残念ながら、慈眼寺で見られた九曜、七曜等の紋は見つからなかった。
しかし、消火用の天水桶の正面に、抱き銀杏紋(写真三番目)があった。
さて、この銀杏紋の起源は何か?
1:銀杏といえば、原産が中国大陸だ。銀杏紋は、古代にこの地を開発した大陸系の一族の名残か。ちなみに、彼らは古くからこの地で養蚕を営んだという。和同開珎用の自然銅もこのあたりで産出している。
2:いや、中世に、南関東を支配した大石氏の支配の痕跡か?
3:それとも、保水力のある大木・銀杏にあやかって、火除けの象徴としての銀杏を天水桶に彫っただけか?
4:また、銀杏と言えば、東京大学の学紋でも知られた通り、北辰の梟と同じく知恵の象徴でもある。秩父神社の主祭神の一人で学問の神様、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を表してるのかも。
僕としては4:だと思うんだけど...ちなみに、この地方の名門・秩父高校の校章(写真四番目)にも銀杏があしらわれているんだ。また、ゆっくりと考えよう。
さて、本殿に目を戻す。
おっと、正面の上の方に葵紋を発見。
社伝によると、この建物は徳川家によってされたというから、やっぱりスポンサーの紋は高く掲げるよな、って思っていたら、そのさらに上に菊の紋所があった。
この正面の葵紋、そしてその上の菊紋は、王政復古後に、明治政府がこの神社を、徳川から奪取、その支配下に置いたという事を物語る。
しかし、そこには一筋縄ではいかない事情があった。
実は、明治時代、この秩父では秩父事件という大きな政治事件(一揆)があり、かなり多くの人々が投獄されたのである。時はちょうど自由民権運動の頃の話だ。
政府は、だからこそ、この事件の後、この地方の鎮魂を重要に考えたのであろう。
皇族の一人に秩父宮という名前まで与える。この神社の境内には、その秩父宮が植樹したという木が、婦人のものも含めて3本もあった。
そして、恐らく多額の補助金をこの地方に落とした。
いわゆる、弾圧の後の懐柔である。
秩父神社から駅までの街路には昭和初期の贅沢な洋館が散見(写真五番目)されるが、これらも、当時の繁栄の残像、政府の懐柔の痕跡か。
一方、江戸時代の支配者の徳川家は、明治以降どうなったのか。境内に入ってすぐ右に小さく東照大権現の祠が置かれている。
扱い悪いけど、捨てはしないで、とりあえず、隅にこっそり置いておくっていう日本的対応がほほえましくもある。
まさむね
Tags: 北辰の梟, 家紋, 神社, 秩父, 秩父神社
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Monday, November 10th, 2008
渋谷駅東口を出ると大きな歩道橋がある。
渋谷で、時間がある時は、この歩道橋のエレベータに乗ってみよう。
実は、このエレベータってちょっと前に一世を風靡したシンドラー製なんだよね。
歩道橋のエレベータだから、2Fまでなんだけど、一瞬のスリルが味わえる。
本当に微妙なスリルなんだけどさ。
さて、この歩道橋を渋谷東警察署の方に降りて、警察署の横の道に入ってちょっと行くと金王八幡宮がある。
ここは、今から900年位前、このあたりを治めた渋谷氏の居城があったんだってさ。
だから、渋谷の中心って歴史的に言えば、このあたりだったんだよね。
この、金王八幡宮、ビル街の中の異空間。鬱蒼とした敷地内に、木の幹に穴が開いてる御神木もあったりする。実はこの八幡宮って東京には結構あるんだよ。
代々木八幡、大宮八幡、世田谷八幡、鷺宮八幡、太子堂八幡、北澤八幡、雪谷八幡、碑文谷八幡、蒲田八幡...
どちらかといえば、渋谷、世田谷、目黒あたり、東京の西南に多い。
このあたりに、源氏に従う武士が多かったんだろうね。八幡宮は源氏の氏神だからね。
ちなみに、逆に東京の西北には氷川神社が多い。
一方、東京の東側には神田明神なんかもあるけど、平氏の根拠地だったかもね。
ちなみに、よく、渋谷っていうのは谷が多いから渋谷って呼ばれてるって説も聞くけど、歴史的にはどうなんだろう。
渋谷氏といえば、遠く歴史を経て、日露戦争で活躍した東郷平八郎もつながっている。
この渋谷区の原宿に東郷神社があるってのもなんかの因縁かもしれないね。
まさむね
Tags: シンドラー, シンドラー製エレベーター, 八幡神宮, 家紋, 神社, 金王八幡
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Tuesday, October 14th, 2008
いまの私がいちばん好き
もっと自分を好きになる
最近、松田聖子が出演するDiosa(ヘアカラー)のCMのコピーである。
いまだに輝き続ける彼女に相応しいキャッチだ。
「自分らしく生きる」という誰でも出来そうで誰にも出来ないスタイルを貫く松田聖子。
彼女には、支持するファンが存在すると同時に、彼女に対して、嫌悪感を隠さない人々もいる。その人生は、その嫌悪感に対する闘いの歴史でもあった。
しかし、彼女が立派なのは、どんなに逆風が吹いても彼女は逃げなかった事だ。
ある芸能記者によると、「どんな状況でも松田聖子は取材に応じる」そうである。
そして、彼女はいつも”松田聖子”であり続けるそうだ。
闘い続けた女性だけが表現できる迫力、今回のCMにはそんなものを感じる。
来週22日(水)に発売予定のニューシングル「あの輝いた季節」は、またヒットチャートを賑わしてくれる事だろう。
—
世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。
これは、松田聖子がデビューする30年程前に、アメリカに渡り、前衛芸術家として活躍、後にビートルズのリーダー、ジョン=レノンと結婚、ビートルズ解散の元凶と言われ、世界中からバッシングを受けたオノ・ヨーコが、60年代初頭に著したインストラクションアート(命令文による詩集)「グレープフルーツジュース」の中の
一節だ。
彼女は一般的にはジョンの妻としてのみ有名であるが、ジョンと出会う前から芸術家として素晴らしかったのだ。
この2行を読んでもらえば、分かる人にはわかるよね。
ちなみに、彼女は今でも毎年、日本のアーティストを集めて武道館でチャリティコンサートを行っている。
今年も12月8日にあるらしい。奥田民生、斉藤和義、ボニピン達に加えて、今年は、Salyu、絢香や宮崎あおい達も出るらしい。
ヨーコもまた闘い続けた女のみが出せるオーラをいまだに持っている。今年のステージも今から楽しみだ。
さて、松田聖子とオノ・ヨーコは実はある共通点があるのだ。
知る人ぞ知る事実なのだが、二人とも九州の柳川・立花藩の家老の家の末裔なのだ。
ちなみに、松田聖子の蒲池家の家紋は左三つ巴(一番上)、オノヨーコの小野家の家紋(一番下)は一つ引両だ。
世が世なら、この二人の家老の姫達がそれぞれの立場で顔を合わせていたかと想像するのも一興か。
そんな城内ってもしかしたら、まわりは大変だったかも…
それにしても、柳川って僕も一度行った事があるんだけど、大林宣彦監督の「廃市」の舞台になった、美しい運河(写真中)の街だ。
この映画のタイトルでもイメージ出来るように、ある意味、消えゆく日本美の象徴みたいな街なんだよね。
ちなみに、この「廃市」には先ごろ亡くなられた峰岸徹さんも出演されておりました。合掌。
まさむね
Tags: あの輝いた季節, オノヨーコ, グレープフルーツジュース, ヨーコ, 一つ引両, 家紋, 峰岸徹, 左三つ巴, 廃市, 松田聖子, 立花藩, 蒲池
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Sunday, October 5th, 2008
篤姫のような本格的な時代ドラマを見ていると、僕はどうしても(若干の悪意を含みながら)登場人物の家紋に目が言ってしまう。
いつも気になるのが、徳川家茂と一橋慶喜の家紋が同じに見える事。
ものの本によると、三つ葉葵でも、徳川宗家の家紋は3つの葉が中心がくっついているが、一橋家では離れていたらしい。
まぁウチはまだアナログテレビなので、微妙な差異は見分けられないんだけどね。
そして、今日の「篤姫」で気になった事。
本日の放映回では、西郷隆盛が島津久光に許されて薩摩の軍役に復帰するのだが、その際、紋付を羽織っていたのだが、その家紋が「抱き菊葉に菊」(写真真中)だった。
確かに、西郷さんといえば、この「抱き菊葉に菊」と言われているのだが、この家紋は明治天皇から下賜されたもののはずだ。
という事は、禁門の変(1864年)の時点で西郷隆盛がこの紋付を着ているのはおかしいのではないだろうか。
それでは、西郷の元々の家紋は何だったのであろうか。
多磨霊園にある、西郷隆盛の弟の西郷従道の墓の家紋は写真一番上だ。
これが、梶の葉なのか、菊の葉なのか、僕にはちょっとわからない。
しかし、ここからは推測だが、元々、菊の葉の家紋だった西郷家の隆盛に対して、明治天皇が「私をずっと守ってほしい」という意味を込めて、その菊の葉が囲む菊の花の紋を与えたのではないか。
さて、西郷と言えば、大久保だが、青山墓地にある大久保利通の墓にある家紋は写真一番下。僕には藤巴紋に見える。
ちなみに、この藤巴紋は、寅さんで有名な渥美清の本名、田所康雄の家紋でもある。
家紋を調べていくと、全然別のキャラクタの人々が同じ紋を持ってたりするから面白い。
まさむね
Tags: 大久保利通, 家紋, 抱き菊葉に菊, 渥美清, 田所康雄, 篤姫, 藤巴紋, 西郷隆盛
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Wednesday, August 20th, 2008
家の近所にあった何気ない共同墓地で、家紋の観察(採取)を行った。
その中で、宝物のような紋所を見つけた。
ムカデ紋だ。
しかも、その紋は、本橋家という墓に彫られていた。
「家紋辞典」(丹羽基次)によると、このムカデ紋は現在はその形状の不気味さから、多くが変更されてしまったが、まだ存在しているとすれば、それはれっきとした藤原秀郷流の本橋家とのことだ。
ご存知の通り、この秀郷は、平安時代の中期、関東の独立を企てた平将門を射殺したことで武名を上げた武将であるが、一方、三上山で大ムカデ退治をしたという伝説も残っている。
そのムカデが1000年以上の時を超え、この本橋家の家紋としてここに、ひっそり残っていることに感動したのだった。
Tags: ムカデ紋, 家紋, 本橋
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Friday, July 18th, 2008
知らない街を歩いて、いろんなものを見て回る時、私はその街に点在する紋所(家紋)を意識的に見て回るようにしている。
街の歴史がイメージされるからだ。
勿論、私は歴史の専門家ではないので、それは実証というものからは遠い。あくまでもイメージ(想像)して楽しもうというのだ。
最近は、C型肝炎のおかげで、出かける事はめっきりと減ってしまったが、以前はたまに、そんな街散策を楽しんだ。
例えば、今年の冬に妻と出かけた秩父日帰り旅行。楽しかった。
街のメインストリート(西武秩父駅~秩父神社)は700メートルくらい。左手に慈眼寺(写真-1)という秩父札所十三番の寺がある。
本堂の後ろに墓地があり、覗いてみた。墓石の紋所には九曜(写真-2)、七曜等の曜(星)紋系が多い。恐らく、ここは、平氏の流れをくんだ(くんだと思い込んだ?)人々が根付いている土地なのであろう。ものの本にも、この土地は平氏良文流・支流の秩父一族が支配していたとある。そして、彼らは自分達のシンボルに曜(星)を選んだのだ。
元来、農耕民族であった日本人は星への信仰はそれほど強くない。関東~南東北にかけて、星宿信仰があったようだが、これは星系紋の集中地域でもある。
日々、星の位置、動きに敏感にならざるを得ない海洋民族、狩猟民族あるいは渡来人の流れをくむ者が、この地方に居住していたのかもしれない。彼らにとっては、真夜中の移動の際に自分が現在どこにいるのかというのが最も重要な情報であり、そのため、天の星は神に近い存在=命綱だったのだ。
ちなみに、星野さん、星川さん、星さんというように、名字に星がつく家は、星宿信仰者の末裔である可能性が高いという。
「巨人の星」の主人公の星一徹・飛雄馬を輩出した星家もそうかもしれない。
原作漫画では星家の長屋の部屋には、折口信夫全集があった(竹熊健太郎さん談)そうであるが、一徹は自分のアイデンティティを定住民としてではなく、マレビト(異人)に求めていた可能性がある。
一徹の周囲に迎合しない生き方は、”星”という名が持つ宿命なのかもしれないのである。
なんか、最後は秩父とは全くかけ離れてしまったね。
秩父の街 紋所散歩2へつづく
まさむね
Tags: 家紋, 神社, 秩父, 秩父神社
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Thursday, June 26th, 2008
ちょっと前に大久保に出かけた。
大久保通りは、若者向け、アジア系ショップが並ぶ、街になっていた。
そんな街中に、そこだけ異質な空間としてポツンと存在しているのが、皆中稲荷神社である。
この神社のたたずまいに触れると、ここが、かつて、農村地帯であったことを想像させる。
神紋の稲紋(写真)がそのことをほんのりと教えてくれるよね。
元々、稲荷神は農業の神々の総称であった。
古事記では、稲荷神を構成する神の一人であるオオゲツヒメは、口、お尻、陰部等、体中から食物を出してスサノウをもてなすが、逆にスサノウに殺されてしまう。
一種の食人伝説ですね。これは。
ただ、その後、稲荷神は、五穀豊穣だけじゃなくて、商売繁盛、家内安全、交通安全等、あらゆるご利益を与える神として全国に広がったんですね。
だから、稲荷神社って全国に19000社もあるんだって。これはセブンイレブンの12000店舗を圧倒しているんだよね。
恐るべし、稲荷神社。一斉に立ち上がったら凄いことになるね。って何のために立ち上がるのか分からんが。
まさむね
Tags: 大久保, 家紋, 皆中稲荷神社, 神社, 稲紋
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Monday, June 16th, 2008
恵比寿神社に行ってきました。
恵比寿神社は、JR恵比寿駅西口近くの吉野家の先の道を右に折れると正面にあります。
こじんまりとしていて感じのいいスポットになっています。
神社内の由緒書によると、元々は、大六天を奉る天津神社という神社だったのが、戦後の区画整理でこの場所に移された時に、恵比寿様(写真一番上)も合祀して名前も恵比寿神社になったといいいます。
ちなみに、この大六天という神様は「他化自在天」ともよばれますが、他人の幸せを奪う法力を持つという一種のタタリ神。一方、恵比寿様は「ヱビス顔」でも知られる幸せの神様。正反対の神様を一緒にしてしまう強引さが面白いですよね。
でも、この恵比寿様は、イザナキとイザナミの神が2番目に生んだ子(ヒルコ)だったんですが足が萎えていた為、捨てられてしまいます。後の人々がそれを哀れんで神として奉ったそうですが、あのヱビス顔の影に結構、残酷な物語が潜んでいるんですね。そう言えば、この恵比寿神社の勧進元の西宮神社は、正月に神社内を徒競走する「福男選び」(写真二番目)で有名ですが、御足の悪い恵比寿様にこの神事を捧げるっていうのも、残酷っていえなくもないですよね。
さて、話を戻しますが、恵比寿様が合祀されたのは、ここの地名が恵比寿と名づけられた事に由来しています。
元々、この恵比寿という地名は、ヱビスビールからつけられたといいます。
明治20年、日本麦酒醸造会社が設立され、この地に工場を建設。3年後にヱビスビールを発売。
明治34年に恵比寿ビール専用出荷駅「恵比寿停車所(現在のJR山手線)」が開設され、後に周辺の地名も「恵比寿」となったそうです。
ちなみに、私の母方の祖父は、この日本麦酒醸造会社でサラリーマンをしていましたが、私自身は下戸です。
さて、この恵比寿様を象徴する神紋が神社の本堂の正面戸にも飾ってあったあった「柏」の葉です。(写真三番目)
この柏の葉は、神様に食物を捧げる際の皿かわりとして神聖なものとされていました。そこから、伊勢神宮の久志本家、熱田神宮の千秋家、宗像大社の宗像家、吉田神道の卜部家等、古来、神道を守ってきた家の紋所となっています。
勿論、柏は、ヱビスビールのラベルの恵比寿様(写真一番上)の胸にも付いています。こちらは、3枚の柏の葉の間にツルが描かれていて、一般に「蔓柏」といわれています。
この他、柏紋はいろんなバリエーションがあります。例えば、落語家の桂三枝師匠の紋所は「結び柏」(写真四番目 三枝師匠手拭い)、NHKの大河「功名が辻」で有名になった山内家は葉が細い「土佐柏」(写真五番目 山内家宝物資料館HPより)、真珠王で御木本幸吉は「三つ追い柏」(写真六番目、青山墓地にて撮影)。こんなところが柏紋の有名所でしょうか。
まさむね
Tags: 家紋, 恵比寿, 恵比寿神社, 柏紋, 神社
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Saturday, May 31st, 2008
JALの飛行機から鶴丸のマークが消えるという。
今月で最後とのこと。
もともとこのマークは、家紋を下敷きにしたデザインなんだよね。
じゃあ、この鶴丸の家紋をつけた有名人を見てみよう。
まずは、足利将軍家に正妻を出し続けた、日野家。足利義政の夫人、日野富子が有名だ。
政治には全く興味のなかったオタク将軍の義政。ある時はケツを叩き、ある時は任せていられないとばかりに政務を取り仕切る。一般に、金儲け主義、悪女の典型とされる。
NHK大河「花の乱」(1994年放映)では三田佳子が演じていました。
また、戦国時代では、織田信長の小姓・森蘭丸で有名な森家の家紋もこの鶴丸。美男子だったという伝説と、本能寺の変で、かない最期を遂げたせいで、なんとなく有名。
そして近年では、コンプレックス文学の最高峰・太宰治(実家の津島家)も鶴丸紋。確認はしていないが、太宰治全集には、この鶴丸の箔押しがついているとか。太宰の最期も玉川上水への入水自殺だった。
いずれにしても、悲しい運命の人が多いよね。
まさむね
Tags: JAL, 太宰治, 家紋, 日野家, 鶴丸
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Thursday, May 22nd, 2008
前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。
これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。
一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。
それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。
というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)
そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。
まさむね
Tags: 夕顔, 家紋, 徳川家康, 瓢箪, 葵, 豊臣秀吉
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