Archive for the ‘歴史・家紋・散歩’ Category

聖子とヨーコ

Tuesday, October 14th, 2008

seiko.gifいまの私がいちばん好き
もっと自分を好きになる

最近、松田聖子が出演するDiosa(ヘアカラー)のCMのコピーである。
いまだに輝き続ける彼女に相応しいキャッチだ。

「自分らしく生きる」という誰でも出来そうで誰にも出来ないスタイルを貫く松田聖子。
彼女には、支持するファンが存在すると同時に、彼女に対して、嫌悪感を隠さない人々もいる。その人生は、その嫌悪感に対する闘いの歴史でもあった。
しかし、彼女が立派なのは、どんなに逆風が吹いても彼女は逃げなかった事だ。
ある芸能記者によると、「どんな状況でも松田聖子は取材に応じる」そうである。
そして、彼女はいつも”松田聖子”であり続けるそうだ。

闘い続けた女性だけが表現できる迫力、今回のCMにはそんなものを感じる。
来週22日(水)に発売予定のニューシングル「あの輝いた季節」は、またヒットチャートを賑わしてくれる事だろう。


世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。

これは、松田聖子がデビューする30年程前に、アメリカに渡り、前衛芸術家として活躍、後にビートルズのリーダー、ジョン=レノンと結婚、ビートルズ解散の元凶と言われ、世界中からバッシングを受けたオノ・ヨーコが、60年代初頭に著したインストラクションアート(命令文による詩集)「グレープフルーツジュース」の中の
一節だ。
彼女は一般的にはジョンの妻としてのみ有名であるが、ジョンと出会う前から芸術家として素晴らしかったのだ。
この2行を読んでもらえば、分かる人にはわかるよね。

ちなみに、彼女は今でも毎年、日本のアーティストを集めて武道館でチャリティコンサートを行っている。
今年も12月8日にあるらしい。奥田民生、斉藤和義、ボニピン達に加えて、今年は、Salyu、絢香や宮崎あおい達も出るらしい。
ヨーコもまた闘い続けた女のみが出せるオーラをいまだに持っている。今年のステージも今から楽しみだ。

さて、松田聖子とオノ・ヨーコは実はある共通点があるのだ。
知る人ぞ知る事実なのだが、二人とも九州の柳川・立花藩の家老の家の末裔なのだ。
ちなみに、松田聖子の蒲池家の家紋は左三つ巴(一番上)、オノヨーコの小野家の家紋(一番下)は一つ引両だ。
世が世なら、この二人の家老の姫達がそれぞれの立場で顔を合わせていたかと想像するのも一興か。
そんな城内ってもしかしたら、まわりは大変だったかも…

それにしても、柳川って僕も一度行った事があるんだけど、大林宣彦監督の「廃市」の舞台になった、美しい運河(写真中)の街だ。
この映画のタイトルでもイメージ出来るように、ある意味、消えゆく日本美の象徴みたいな街なんだよね。

ちなみに、この「廃市」には先ごろ亡くなられた峰岸徹さんも出演されておりました。合掌。

まさむね

「篤姫」の家紋に物申す

Sunday, October 5th, 2008

satumakamon.gif篤姫のような本格的な時代ドラマを見ていると、僕はどうしても(若干の悪意を含みながら)登場人物の家紋に目が言ってしまう。

いつも気になるのが、徳川家茂と一橋慶喜の家紋が同じに見える事。
ものの本によると、三つ葉葵でも、徳川宗家の家紋は3つの葉が中心がくっついているが、一橋家では離れていたらしい。
まぁウチはまだアナログテレビなので、微妙な差異は見分けられないんだけどね。

そして、今日の「篤姫」で気になった事。

本日の放映回では、西郷隆盛が島津久光に許されて薩摩の軍役に復帰するのだが、その際、紋付を羽織っていたのだが、その家紋が「抱き菊葉に菊」(写真真中)だった。
確かに、西郷さんといえば、この「抱き菊葉に菊」と言われているのだが、この家紋は明治天皇から下賜されたもののはずだ。
という事は、禁門の変(1864年)の時点で西郷隆盛がこの紋付を着ているのはおかしいのではないだろうか。

それでは、西郷の元々の家紋は何だったのであろうか。
多磨霊園にある、西郷隆盛の弟の西郷従道の墓の家紋は写真一番上だ。
これが、梶の葉なのか、菊の葉なのか、僕にはちょっとわからない。
しかし、ここからは推測だが、元々、菊の葉の家紋だった西郷家の隆盛に対して、明治天皇が「私をずっと守ってほしい」という意味を込めて、その菊の葉が囲む菊の花の紋を与えたのではないか。

さて、西郷と言えば、大久保だが、青山墓地にある大久保利通の墓にある家紋は写真一番下。僕には藤巴紋に見える。
ちなみに、この藤巴紋は、寅さんで有名な渥美清の本名、田所康雄の家紋でもある。

家紋を調べていくと、全然別のキャラクタの人々が同じ紋を持ってたりするから面白い。

まさむね

近所の共同墓地で宝物、発見!!

Wednesday, August 20th, 2008

家の近所にあった何気ない共同墓地で、家紋の観察(採取)を行った。

その中で、宝物のような紋所を見つけた。
ムカデ紋だ。
しかも、その紋は、本橋家という墓に彫られていた。

「家紋辞典」(丹羽基次)によると、このムカデ紋は現在はその形状の不気味さから、多くが変更されてしまったが、まだ存在しているとすれば、それはれっきとした藤原秀郷流の本橋家とのことだ。
ご存知の通り、この秀郷は、平安時代の中期、関東の独立を企てた平将門を射殺したことで武名を上げた武将であるが、一方、三上山で大ムカデ退治をしたという伝説も残っている。

そのムカデが1000年以上の時を超え、この本橋家の家紋としてここに、ひっそり残っていることに感動したのだった。

日本の霊思想考

Tuesday, August 19th, 2008

以前、書いた「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想に関して考えた。

日本人は古来、悪事というものは、悪霊がその人に憑いて行わせると考えていた。
しかし、と同時に、悪霊は同時に強い力を持っているとも考えていた。

だから、逆に力の強い人に敢えて「悪」という形容詞をつけた。
例えば、保元の乱を起した藤原頼長は左大臣であったが、大変な切れ者で、別名、悪左府と呼ばれていた。
また、源義朝の長男で平清盛を暗殺しようとした源義平は悪源太と呼ばれていたのだ。

強い力を持った人の霊は、時に悪霊(=怨霊)にもなるが、手厚く敬えば、善霊になる。
こうして日本人は、怨みを持って死んだ強力な人、例えば、菅原道真や平将門を奉り続けてきた。

そして、同様の事は、生きている人の念(強い感情)にもあてはまると考えた。
強い怨念は、その人の意志を離れて回りに不幸をもたらすと考えられていたのだ。
例えば、「源氏物語」に登場する六条御息所の生霊(物の怪)は夕顔や葵上を死にいたらしめる(写真一番上:能の「葵上」での六条御息所の怨霊)。
光源氏は後にそんな御息所を見舞って機嫌をとり、生霊を鎮めようとする。

日本人の伝統的メンタリティでは、悪い人(悪霊)に対しては、おだてて、ほめて、いい人(和霊)に変わってもらおうとする事こそ、信仰の本質となる。
また、逆に、いい人(和霊)も、扱い次第では悪い人(悪霊)になってしまうことを恐れる。
例えば、靖国賛成派は、心ならずも戦死した英霊を粗末に扱うことによって、それが悪霊となってしまう事を懸念しているのだ(写真中:靖国神社)。

恐らく「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想は、信仰にも近い。

それを考えると、最近、「犯罪者に対して厳し刑を課せ」という論調がかまびすしいが、それは日本の伝統にあっているのだろうかと思わざるを得ない。
悪いことをした人は死刑にしろという人が同時に霊を粗末に扱うなというのがなんとなくしっくり来ないのだ。
靖国賛成派が死刑存置論者である事に違和感を感じるのはそのせいである。

ちなみに、アイヌの宗教では死者の魂を天に送るときに「こいつは悪いことをしたけど、本当はええ奴だから、神の国へ行ったら、ちゃんと心を改めて直るだろう。だから神様、受け取ってやってくれ」というような内容の葬送儀式をするという(梅原猛先生談)。これは上記の日本人の思想と通底しているのではないか。
アイヌ文化(写真一番下:アイヌの民)は、日本文化のルーツであるという魅力的な説は今後、より深く掘り下げて行くべきだと思う。

まさむね

秩父の街 紋所散歩1

Friday, July 18th, 2008

知らない街を歩いて、いろんなものを見て回る時、私はその街に点在する紋所(家紋)を意識的に見て回るようにしている。
街の歴史がイメージされるからだ。
勿論、私は歴史の専門家ではないので、それは実証というものからは遠い。あくまでもイメージ(想像)して楽しもうというのだ。
最近は、C型肝炎のおかげで、出かける事はめっきりと減ってしまったが、以前はたまに、そんな街散策を楽しんだ。

例えば、今年の冬に妻と出かけた秩父日帰り旅行。楽しかった。
街のメインストリート(西武秩父駅~秩父神社)は700メートルくらい。左手に慈眼寺(写真-1)という秩父札所十三番の寺がある。

本堂の後ろに墓地があり、覗いてみた。墓石の紋所には九曜(写真-2)、七曜等の曜(星)紋系が多い。恐らく、ここは、平氏の流れをくんだ(くんだと思い込んだ?)人々が根付いている土地なのであろう。ものの本にも、この土地は平氏良文流・支流の秩父一族が支配していたとある。そして、彼らは自分達のシンボルに曜(星)を選んだのだ。

元来、農耕民族であった日本人は星への信仰はそれほど強くない。関東~南東北にかけて、星宿信仰があったようだが、これは星系紋の集中地域でもある。
日々、星の位置、動きに敏感にならざるを得ない海洋民族、狩猟民族あるいは渡来人の流れをくむ者が、この地方に居住していたのかもしれない。彼らにとっては、真夜中の移動の際に自分が現在どこにいるのかというのが最も重要な情報であり、そのため、天の星は神に近い存在=命綱だったのだ。
ちなみに、星野さん、星川さん、星さんというように、名字に星がつく家は、星宿信仰者の末裔である可能性が高いという。

「巨人の星」の主人公の星一徹・飛雄馬を輩出した星家もそうかもしれない。
原作漫画では星家の長屋の部屋には、折口信夫全集があった(竹熊健太郎さん談)そうであるが、一徹は自分のアイデンティティを定住民としてではなく、マレビト(異人)に求めていた可能性がある。

一徹の周囲に迎合しない生き方は、”星”という名が持つ宿命なのかもしれないのである。

なんか、最後は秩父とは全くかけ離れてしまったね。

秩父の街 紋所散歩2へつづく

まさむね

大久保の皆中稲荷神社

Thursday, June 26th, 2008

ちょっと前に大久保に出かけた。

大久保通りは、若者向け、アジア系ショップが並ぶ、街になっていた。

そんな街中に、そこだけ異質な空間としてポツンと存在しているのが、皆中稲荷神社である。
この神社のたたずまいに触れると、ここが、かつて、農村地帯であったことを想像させる。
神紋の稲紋(写真)がそのことをほんのりと教えてくれるよね。

元々、稲荷神は農業の神々の総称であった。
古事記では、稲荷神を構成する神の一人であるオオゲツヒメは、口、お尻、陰部等、体中から食物を出してスサノウをもてなすが、逆にスサノウに殺されてしまう。
一種の食人伝説ですね。これは。
ただ、その後、稲荷神は、五穀豊穣だけじゃなくて、商売繁盛、家内安全、交通安全等、あらゆるご利益を与える神として全国に広がったんですね。

だから、稲荷神社って全国に19000社もあるんだって。これはセブンイレブンの12000店舗を圧倒しているんだよね。

恐るべし、稲荷神社。一斉に立ち上がったら凄いことになるね。って何のために立ち上がるのか分からんが。

まさむね

恵比寿の由来と柏紋

Monday, June 16th, 2008

恵比寿神社に行ってきました。

恵比寿神社は、JR恵比寿駅西口近くの吉野家の先の道を右に折れると正面にあります。

こじんまりとしていて感じのいいスポットになっています。

神社内の由緒書によると、元々は、大六天を奉る天津神社という神社だったのが、戦後の区画整理でこの場所に移された時に、恵比寿様(写真一番上)も合祀して名前も恵比寿神社になったといいいます。
ちなみに、この大六天という神様は「他化自在天」ともよばれますが、他人の幸せを奪う法力を持つという一種のタタリ神。一方、恵比寿様は「ヱビス顔」でも知られる幸せの神様。正反対の神様を一緒にしてしまう強引さが面白いですよね。

でも、この恵比寿様は、イザナキとイザナミの神が2番目に生んだ子(ヒルコ)だったんですが足が萎えていた為、捨てられてしまいます。後の人々がそれを哀れんで神として奉ったそうですが、あのヱビス顔の影に結構、残酷な物語が潜んでいるんですね。そう言えば、この恵比寿神社の勧進元の西宮神社は、正月に神社内を徒競走する「福男選び」(写真二番目)で有名ですが、御足の悪い恵比寿様にこの神事を捧げるっていうのも、残酷っていえなくもないですよね。

さて、話を戻しますが、恵比寿様が合祀されたのは、ここの地名が恵比寿と名づけられた事に由来しています。

元々、この恵比寿という地名は、ヱビスビールからつけられたといいます。
明治20年、日本麦酒醸造会社が設立され、この地に工場を建設。3年後にヱビスビールを発売。
明治34年に恵比寿ビール専用出荷駅「恵比寿停車所(現在のJR山手線)」が開設され、後に周辺の地名も「恵比寿」となったそうです。

ちなみに、私の母方の祖父は、この日本麦酒醸造会社でサラリーマンをしていましたが、私自身は下戸です。

さて、この恵比寿様を象徴する神紋が神社の本堂の正面戸にも飾ってあったあった「柏」の葉です。(写真三番目)

この柏の葉は、神様に食物を捧げる際の皿かわりとして神聖なものとされていました。そこから、伊勢神宮の久志本家、熱田神宮の千秋家、宗像大社の宗像家、吉田神道の卜部家等、古来、神道を守ってきた家の紋所となっています。

勿論、柏は、ヱビスビールのラベルの恵比寿様(写真一番上)の胸にも付いています。こちらは、3枚の柏の葉の間にツルが描かれていて、一般に「蔓柏」といわれています。

この他、柏紋はいろんなバリエーションがあります。例えば、落語家の桂三枝師匠の紋所は「結び柏」(写真四番目 三枝師匠手拭い)、NHKの大河「功名が辻」で有名になった山内家は葉が細い「土佐柏」(写真五番目 山内家宝物資料館HPより)、真珠王で御木本幸吉は「三つ追い柏」(写真六番目、青山墓地にて撮影)。こんなところが柏紋の有名所でしょうか。

まさむね

鶴丸の悲しい歴史

Saturday, May 31st, 2008

JALの飛行機から鶴丸のマークが消えるという。

今月で最後とのこと。
もともとこのマークは、家紋を下敷きにしたデザインなんだよね。

じゃあ、この鶴丸の家紋をつけた有名人を見てみよう。

まずは、足利将軍家に正妻を出し続けた、日野家。足利義政の夫人、日野富子が有名だ。
政治には全く興味のなかったオタク将軍の義政。ある時はケツを叩き、ある時は任せていられないとばかりに政務を取り仕切る。一般に、金儲け主義、悪女の典型とされる。
NHK大河「花の乱」(1994年放映)では三田佳子が演じていました。

また、戦国時代では、織田信長の小姓・森蘭丸で有名な森家の家紋もこの鶴丸。美男子だったという伝説と、本能寺の変で、かない最期を遂げたせいで、なんとなく有名。

そして近年では、コンプレックス文学の最高峰・太宰治(実家の津島家)も鶴丸紋。確認はしていないが、太宰治全集には、この鶴丸の箔押しがついているとか。太宰の最期も玉川上水への入水自殺だった。

いずれにしても、悲しい運命の人が多いよね。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(2)

Thursday, May 22nd, 2008

前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。

これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。

一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。

それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。

というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)

そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(1)

Wednesday, May 21st, 2008

徳川家の家紋はご存知、葵である。

NHKの大河ドラマ「篤姫」では薩摩の島津家の分家から将軍の御台所まで上り詰める話であるが、その島津家の本貫は宮崎だったとの説もある。その昔、源頼朝から地頭として派遣された惟宗忠久が、宮崎県都城市あたりの「島津荘」を領地としたのが島津家の始まりというのだ。(ちなみに、この忠久は頼朝のご落胤との噂もある)

だとすると、宮崎から出てきて、徳川家に入り葵紋をつけたという意味で、篤姫に、宮崎あおい(葵)が抜擢された深層が見えてこようというものだ。まぁいつもながら、かなり苦しい説だが...

さて、この徳川政権の基礎を築いた徳川家康は、朝廷からの懐柔策見え見えの桐紋下賜を、何度も断り続けたという。
織田信長、豊臣秀吉はそういうことはなかった。彼らはもらえるものはもらう、利用できるものは利用するのだ。
例えば、愛知県長興寺にある信長の肖像の紋は、織田木瓜でも、揚羽蝶でも無い。正親町天皇から下賜された五三の桐紋だ。

また、秀吉は晩年にすべての自分関連グッズ(身の回りの小物、着物等)にいわゆる太閤桐という独自紋をつけている。成り上がりはいつの世もブランドを志向するということだろうか。

しかし、その後、この桐紋は最も正統な紋所として、脈々と受け継がれ、特に西日本の家の多くが桐を家紋としている。
そして、現在は、日本政府の象徴にもなっている。

木村拓也主演の「CHANGE」の冒頭では、この桐紋(五七の桐)がCHANGEというロゴにモーフィングするシーンが放送されているが、それを見るたび、桐紋の歴史が脳裏をよぎるのであった。

つづく

まさむね