Archive for the ‘相撲/プロレス/格闘技’ Category

大相撲九州場所、悲喜こもごも

Sunday, November 23rd, 2008

九州場所の千秋楽、白鵬と安馬が相星で優勝決定戦。
白鵬が、安馬に首根っこを押さえつけて、引きずるような上手投げで格上を見せ付けた。

実は、白鵬は、本割りでも琴光喜に、同様に強引な上手投げで相手をひっくり返している。
白鵬が今日の2番で見せた強引さは、ある意味、格上意識を相手に植え付けるという意味で有効だ。
横綱としての自意識の強さがなせる業だろう。

一方、決定戦で敗れたとはいえ、安馬の今場所の充実ぶりは特筆もの。
あの小さい体から繰り出す喉輪(のどわ)のスピードと威力は本割りでの把瑠都戦でも証明された。
僕は把瑠都の大きな体の下に潜り込んで揺さぶる戦法でいくのかと思っていたが、いい意味で裏切られる内容だった。

相手の把瑠都も、今場所は素晴らしかった。
あの肩越しの上手からクレーンのように相手を持ち上げるその大技は、大相撲新時代を予感させる。
僕は、エストニア出身の把瑠都のことを、密かに「史上最強のバルチッククレーン」と呼んでいる。

さて、海外の力士が、それぞれの国で培った体躯と技と文化でもって、大相撲の新しいスタイルを創造する。そんな時代の幕開けかも。
同様の意味で、僕達に大いに期待感を抱かせてくれるのが、ロシア(実は北オセチア)出身の阿覧だ。
あの格闘技チックな左右の張り手と腕力の強さからの強引な取り口は魅力たっぷりだ。
今後、この自分のスタイルを守りながら上位を目指してほしい。
決して、「とにかく前に出ろ」といった凡庸な大相撲イデオロギーに染まらないでほしい。
その点、親方の三保関は、元大関の増位山だ。
関取というようりもヒット曲「そんなゆうこに惚れました」を持つ演歌歌手として有名な彼だが、現役当時の柔軟性でもって、阿覧には優しく指導してほしいものだ。

また、今場所で目立った力士。
武蔵川親方が、新理事長になって2場所目。武蔵川勢の活躍が目立った。
ずっと全勝を守り、優勝争いに食らいついていった雅山。
前半の台風の目となった出島。
「大きいがしかし、くたびれた」感じがいい味を出していた、32歳で新入幕を果たした武州山。
見事、十両優勝を飾ったモンゴル出身の翔天狼。

幕の内の下位まで落ちてしまい、最悪、十両陥落まで想定された高見盛、今場所はさし身が冴えて、11勝の大活躍だった。
初日に白鵬を破り、今場所の大勝が期待された安美錦は、結局は8勝で終わったが、見事殊勲賞を獲得した。
負け越しても印象に残ったのが、グルジア出身の栃ノ心。初めての上位との対戦で、ボロボロだったけど、新しい技を引っさげての再登場に期待したい。
十両上位で勝ち越した山本山は、相手の腕をキメてその巨腹で相手をグイグイ押すスタイルで来場所はさらに、人気者になるだろう。
同様に、十両に堕ちていた岩木山。モンゴルで魁皇の次に人気があった日本人力士だが、そのおっとりとした表情と巨体がまた幕の内で見られるのが楽しみだ。

最後に大関勢だが、琴欧洲は千秋楽でようやく勝ち越すという状況。仕切り時に時折見せる内向的な暗さは、内面での不安を感じさせる。
今年の夏、「オーラの泉」に出演した際に、「他に、江原さん美輪さんに聞きたいことありませんか?」と国分に振られ、「番組が終わってから」とつぶやいた彼がどうしても気になる。
番組終了後、何が話されたのだろうか?
また、結局、優勝争いに残れなかった琴光喜は安馬、白鵬戦での完敗が気になる。愛子様涙目...か!?
千代大海の8勝は、それはそれで名人芸だ。既得権益を必死に守ろうとする老獪な突き押しは、名脇役としての存在感を示した。
一方、途中休場してしまった魁皇だが、左腕が相当悪いらしい。来年の初場所が相撲人生の正念場になるかもしれない。

こうやって大相撲の事を書き連ねていくと、話が無限になってしまうのでこのあたりで終わりたいが、最後に一言。

大相撲を、夜のスポーツニュースだけを眺めて印象批評する輩に、客が入っていないとか、八百長云々などと言われたくはない。

まさむね

熟女は大相撲を擁護する ~『女はなぜ土俵にあがれないのか』書評~

Wednesday, November 19th, 2008

ところで、この神について、第二十八代木村庄之助は、私(内館牧子氏)に次のように語っている。
「現在の主祭紳三柱を招くようになったのは、昭和二十年、終戦直後の事である。その前は天神七代、地神五代の神々を招いていた。
(中略)
戦後になって、立行司と彦山光三が相談して、武神と力の神だけ三代にしたと聞いている」
こういう話を聞きだせると、本当にワクワクする。
-「女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)」内館牧子 P184-

土俵には神様が居るから、女は上がれないのだ、いや、それは女性差別だ、といった論争が、たびたび起きては消えていくが、それでは神様って誰って言ったら、ほとんどの人は知らないだろう。
それを明かしてくれるのが冒頭の部分である。
こんな大事な事を、相撲協会の理事会等で話し合ったのではなく、なんと、行司の一人が、当時の相撲解説者と相談して、ある意味、勝手に神様を変更しているのだ。
おそらく、GHQから文句を言われないようにとの先読みの配慮があったことが推測される。
ちなみに現在の三柱は、天手力男命、建御雷之男命、野見宿禰だそうだ。

上記の事、一つとっても、大相撲というものがいかに、伝統を、状況に合わせて、作り上げてきたのか、その健気な歴史がよくわかる。若干の悪意を込めていうならば、その歴史は、いかに権力に媚びるかという歴史でもあった。
生き残りを賭けた本当に健気(そして大男達に似合わず、ビクビク)な闘い歴史だったのである。

さらに、この本は、大相撲を離れても、一般的に日本的伝統というものは守ってきたものではなく、作られてきたものであるという事がわかる、極めて優れた日本文化論だと僕は思う。

さて、先週の「関口宏のサンデーモーニング」の最後のコーナー、一枚の写真では、大相撲の観客がいかに減っているかを示す写真が紹介され、勝手なことを言っていた。
ロクに見もせず、知りもせず、関心もないくせに、イメージだけで、大相撲に関して語るのはやめてほしい。
世間的にはいろんなことがあったが、今場所の土俵ではいつも通り、熱い戦いが続いているのである。
例えば今日(平成20年九州場所9日目)の取組だけに限っても、いくつも見所があった。

雅山と嘉風の突き合いは最高だった。雅山は優勝の可能性もあるかも。
高見盛と鶴竜の一番。最後、土俵際でもつれた時、土俵の一部が崩れる。なにかやってくれる高見盛健在に館内大笑いだ。
把瑠都が勝ち越した。相手の背中越しにつかむ彼の上手は新しい相撲の時代を感じさせる。
琴奨菊が稀勢の里を得意のがぶり寄りで下す。豊ノ島も加えた有望日本人トリオ。今場所いずれも好調だ。
強い時はめっぽう強い琴光喜。怒涛の勝利に、愛子様もきっと笑顔になったことだろう。

等など、書き出せばきりが無い。

最後に一番言いたいこと。グローバリズムやジェンダーフリーなどに惑わされている場合ではない。
現在、この大相撲が、いろんなバッシングを受けている時だからこそ、大相撲を擁護したい人々は、バイブルとして、読んでほしい一冊である。

まさむね

哀愁の名大関・魁皇がついに休場

Thursday, November 13th, 2008

ついに大関・魁皇が休場した。

九州場所は初日から左ひざの故障で苦しい土俵ではあったが、一昨日の若の里戦で左上腕も痛めてしまい、休場に追い込まれてしまったのだ。
九州は魁皇のご当地であり、連日、ファンからの異常な声援を受けていただけに今回の休場は誠に残念なことだ。
今回の休場により、史上最多の12回目の角番(負け越したら大関から陥落する立場)となってしまった。

休場となってみると、その優しそうな表情、黙々とした土俵態度、だけでなく、張りの無くなった体躯、膝の分厚いサポータ、塩が吹いて色褪せた回しでさえも、魁皇の世界を構成する一部という意味で愛おしく感じられるから不思議だ。

昨今、カジノ資本主義崩壊による金融恐慌後の日本人の、”次の時代の倫理”が模索されつつある。
こんな時期だからこそ、日本人の生き方のモデルの一人として魁皇にはいつまでも土俵に上がり続けてほしい。

常に追い詰められながらも踏みとどまる名大関・魁皇が醸し出す哀愁は、朝青龍、白鵬、琴欧洲、把瑠都、阿覧、栃ノ心達には決して出せないのだから。

まさむね

能とプロレスの明日

Thursday, October 23rd, 2008

能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)で興味深い一節があった。

「道成寺」における、落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関して...

葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。

ここで面白いのは、能の稽古というのは、歌舞伎や他の演劇のようにいわゆるゲネプロ(本番と同じ通し稽古)はしないという事だ。
恐らく、本番において初めて合わせる事によって、その時に生れる緊張感を大事にするがゆえの伝統なんだと思う。

とここで思い出すのは、これってプロレスと同じではないかということ。
プロレスにおいては、打合せはあるが、それはあくまで段取りである。
一方、試合が名勝負になるか、駄作になるかは、現場の空気によって決まる。それはレスラーと観客の感性が作るものである。
馬場、猪木、長州、天龍、大仁田、武藤、三沢等、歴代の名レスラーはいずれも感性に優れている。
今後、日本のプロレス界が復活するためには、過去の名レスラーと同等の感性を持ったレスラーの誕生と、その感性と感応出来るようなファンの復活を待つしかないだろう。

一方、明日の”能”を考えると、プロレスと同様の問題があるような気がする。

演者の技能と感性のレベルを保つためには、彼らの修行が大事であると同時に、それを見る観客の目を維持していかなくてはならないと思うのだが、そのための種蒔きはしているのだろうか。僕にはよくわからない。
いずれにしても、伝統を守るということは、並大抵の事ではない。

まさむね

大相撲、その”粋”の危機

Saturday, October 4th, 2008

「週刊現代」の八百長疑惑記事をめぐって、大相撲協会が提訴し、横綱・朝青龍が出廷した。

信じがたい事だ。
土俵の上での勝負が真剣だったのかどうかという事を法廷で決めてもらうなんて、大相撲も堕ちたものだ。

確かに、大相撲と八百長は切っても切れない縁だ。
ただ、それはだから大相撲はインチキだという事ではない。
どれが”実”で、どれが”虚”かを妄想をめぐらせてあれこれ詮索する。これぞ”通”の楽しみというものではないだろうか。

また一方、先場所、立会いに両手をつくという基本動作が、再度、厳格化され、おかげで多くの力士が戸惑ったという出来事があった。
朝青龍は、この立会いの厳格化のせいで調子を崩したとも言われている。

大相撲って伝統の国技だったんじゃないの?立会いっていう基本的な部分のルールが未だに曖昧って、なんという大らかさなのだろうか。

恐らく、これらの大相撲的大らかさを、そのものとして楽しめる”通”の振る舞いを”粋”という。
なんでも、わかりやすく、明確にしたいという子供っぽい態度を”野暮”という。

八百長問題、ルール問題、男女差別問題、理事会問題、暴力問題、それぞれの問題は、各個にどんどん野暮な方向に進んでいるような気がする。

気が付いてみたら、大相撲がただのスポーツになっていたなんてゴメンだ。

まさむね

大麻ってそんなに悪いの?

Wednesday, September 24th, 2008

大相撲の大麻問題が連日報道されている。
僕は、この種の事件が起きるたびに、大麻を絶対的な悪として無批判に報道するマスコミの姿勢に、いつも違和感を感じさせられる。

60年代には、厚生省に大麻の取材をしに行った平凡パンチの記者が、担当役人から「これですよ。吸ってみますか?」とハシシタバコを勧められたという伝説が残っている。
また、70年代には、例えば、吉本隆明あたりは「宝島」誌上で、「ジャーナリストたる者、大麻を自分で吸ってみる程度の好奇心が無くてはいかん。」みたいな事を、堂々と書いていたよね。
最近のマスコミ連中は、そのあたりの事、どう考えているんだろうか?

言うまでも無い事なんだけど、大麻が悪っていう観念自体、歴史的に形成されてきたということ。
そもそも、大麻取締法は、戦後、GHQがいつの間にか導入した法律である。戦前は大麻吸引は、法律的には全く問題なかったんだ。明治天皇の御墨付がある植物の研究書に、大麻の活用例として、その吸引方法も紹介されていたっていう話もあるよね。
実際、大麻には常習性は無いし、悪酔いも無い。酒やタバコに比べればよっぽど体にいいっていう医学の報告もされているのは常識だ。

しかし、不思議な事に、日本人は、歴史的に大麻吸引を生活に関わらせてこなかったんだよね。
例えば、インドネシア等で祭りの時に大麻吸引が公に行われていたような形で、日本には大麻吸引の記憶、または記録は無いんだ。
ただ、山に柴を刈りに行った男達がラリって帰ってくる現象を「樵酔い」っていう隠語で伝えている地方もあるそうだ。知る人ぞ知るという秘め事だったんだろうね。

一方、神道では、大麻は神聖は植物として扱われる事もしばしばだ。天岩戸伝説でも、榊と大麻というのは、岩戸の前に飾られる。伊勢神宮への奉納品にも大麻は入っている。
また、大相撲でも初日の前日に行われる「神迎え」の儀式(土俵祭)にも大麻は使われているんだよね。

大麻検査で陽性が出ただけで、見せしめ的に協会から解雇された露鵬、白露山は、その不当さを提訴するんだろうか?
最終的な判決はどう出るんだろうか。
今後、興味深く見守っていきたい。

まさむね

ロシアン力士が持っていた可能性

Tuesday, September 23rd, 2008

これは僕の持論なのだが、大相撲は約10年毎にそのスタイルを微妙に進化させる。

70年代、輪島が相撲の稽古にランニングを取り入れ、近代相撲が始まる。
80年代、千代の富士によって、筋肉相撲が全盛となる。
90年代、大型のハワイ系関取の登場で、体格相撲、全盛となる。
00年代、モンゴル相撲の多彩な投げ技、足技、スピードが、朝青龍達によって導入される。

そして、次の時代の可能性だが、僕はロシアン力士のユニークな相撲スタイルに密かに期待を寄せていたのだ。

ロシアン力士達のユニークさは、”叩きこみ率”が異常に高い事である。
大相撲協会の公式サイトの決まり手ランキングによると、若ノ鵬は27%、露鵬は24%、そして白露山に至っては31%の”叩きこみ率”を誇っている。
恐らく、それは、彼らがレスリングという相撲とは全く別の格闘技のベースを持っているという技術的特質と、手足が長く懐が深いという肉体的特質によっているのではないか。

彼らの技術がさらに磨かれていけば、その先に相撲の新しい可能性があったかもしれないと、僕は考えていたのだ。
しかし、残念なことに、今回の大麻事件で、その可能性の萌芽が摘まれてしまった。

ここからは、妄想。

大相撲は、昔から”寄り切り”や”押し出し”等、前に出て勝つ相撲こそが正しい相撲であるというイデオロギー(美学)が圧倒的に強い。
それゆえ”叩きこみ”は嫌悪されてきた。
しかし、ロシアン力士達は、その美学をどうしても受け入れられない。相撲をスポーツとしてしか捉えられない彼らには、”叩きこみ”が何故、問題なのかが理解できない。
スポーツなんだから、ルールの範囲内で、勝つのは当然ではないかと彼らは考える。ある意味、当然の事だ。

そんな兆候に対して、大相撲の美学の崩壊を懸念した協会は、彼らをひっかける。それが、大麻事件だ。

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

内柴正人が見せた武士道精神

Monday, September 1st, 2008

今回の五輪の柔道は、前回に比べるとメダルが取れなかった。
その理由として、国際化した柔道が、一本を取る柔道から、ポイントを稼ぐJUDOに変ったからという説明がなされていた。
今後、日本柔道界は、心中覚悟で美学を貫くのか、時代の流れに対応して勝利を目指すのか。興味深いところだ。

さて、今回の五輪で最も印象的だったのが、66kg級で金メダルを奪取した内柴選手が決勝戦で、縦四方固めでフランスのダルベレ選手を破った瞬間だ。

彼は、喜びを表現する前に、相手の怪我を気遣い、そして相手の心情を忖度して、畳上ではガッツポーズをしなかった。
テレビの報道では、畳から降りた後のガッツポーズと、その後の「ひかる ひかる」という息子への叫びが何度も流されたが、僕的には、この畳上での立ち振る舞いの方が印象に残っている。

これは、まさに、「惻隠の情」という武士道精神が、国際舞台で表現された瞬間だったのではないか。

新渡戸稲造は「武士道」の中で「惻隠の情」というものを最高の美徳としているが、惻隠の情とは、簡単に言えば敗者への思いやりのことだ。
大相撲でも勝った後に土俵上では喜びを表さないが、それも同じ思想から来ている。

恐らく、起源は、敗者からの怨念を受けないための所作なのであろう。
日本人の心の中に潜む宗教観がこんなところにも現れているのだ。

まさむね

グルジア紛争と大相撲

Saturday, August 23rd, 2008

北京五輪開会式と同じ日、グルジアは国内の南オセチアに軍事行動を起した。
そして、それに対抗する形で、ロシアがグルジア国内に侵攻した。いわゆるグルジア紛争が勃発したである。

この戦争の本質的なところには、アメリカとロシアの間での覇権争い、エネルギー争奪戦があると言われている。
不謹慎のようだが、僕は、とっさに、秋場所でのロシアン力士(若ノ鵬、露鵬、白露山、阿覧)とグルジアン力士(栃ノ心、黒海)との対戦(代理戦争)が楽しみになったなぁとワクワクしてしまった。僕の中には、俗っぽいプロレス体質がまだ残っているのだ。

ところが、こともあろうに、その後、若ノ鵬、露鵬、白露山がいわゆる大麻問題で続々と解雇されてしまった。
僕の夢は、しばらくお預けになってしまったのだ。(阿覧はまだ新十両のため)誠に残念だ。

そして、ここからは、妄想。

しかし、この大麻事件、意外な事実が出てきた。
露鵬、白露山がロサンゼルス巡業の際にアメリカ人から大麻から勧められて、思わず手を出してしまったというのだ。

それは、軍事同盟国である日本のロシアに対する心証を悪化させることを画策したCIAが、ロシアン力士に大麻(体内に残存しやすく改良された品種の)を吸わせ、ロシアがグルジアに攻め込んだタイミングで、日本で大麻事件を起したのではないだろうか?

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

大相撲、この愛すべき見世物の伝統

Thursday, July 24th, 2008

大相撲.名古屋場所、琴欧洲の横綱昇進も無くなり、ほぼ、白鵬の優勝が決まってしまった。場所前の稽古で朝青龍に5連勝したという琴光喜に期待したが、大爆発とはいかなかった。

一方で、現在幕下筆頭の山本山という力士の調子がいい。恐らく、来場所は十両昇進するには間違いない。期待大だ。
さて、この山本山、どこが期待大かといえば、とにかく体が大きいのだ。体重が230Kgもあるのだ。

元々、大相撲の起源は、相撲を見せる勝負事というよりも、力士のふくよかな肉体を見せる事がメインの見世物だった。
そして、恐らく、そのふくよかな肉体を見せながら、格闘技として興行として成立させるために、丸い土俵を発明したのだ。
およそ、世界中に格闘技で、戦闘エリアから外に出た瞬間に負け、というのは相撲だけである。
柔道、空手、レスリング、ボクシング、シムル、サンボ、カポエラ…どんな格闘技だって、エリアから出たらやり直しである。
ところが、大相撲は、土俵(というルール)を考え出す事によって、極めてユニークな格闘技になった。
これで、”ふくよかな肉体”と”格闘技”という本来、矛盾するものが融合したのだから、土俵というルールを考え出した人は天才である。

さて、極論するならば、日本人は、異界からやって来るふくよかな肉体に幸せを感じ、憧れ続けた歴史を持っている。
古くは達磨さん、布袋、恵比寿から、最近ではビリケン、ドラエモン、トトロから江原さんまで…

最近、外国人力士の増加をいぶかる声もあるが、僕はそうは思わない。
彼らの肉体を見ることこそ、日本の見世物の伝統に沿っているからだ。

大相撲は続いていく。大丈夫だ。

まさむね