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能とプロレスの明日

Thursday, October 23rd, 2008

能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)で興味深い一節があった。

「道成寺」における、落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関して...

葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。

ここで面白いのは、能の稽古というのは、歌舞伎や他の演劇のようにいわゆるゲネプロ(本番と同じ通し稽古)はしないという事だ。
恐らく、本番において初めて合わせる事によって、その時に生れる緊張感を大事にするがゆえの伝統なんだと思う。

とここで思い出すのは、これってプロレスと同じではないかということ。
プロレスにおいては、打合せはあるが、それはあくまで段取りである。
一方、試合が名勝負になるか、駄作になるかは、現場の空気によって決まる。それはレスラーと観客の感性が作るものである。
馬場、猪木、長州、天龍、大仁田、武藤、三沢等、歴代の名レスラーはいずれも感性に優れている。
今後、日本のプロレス界が復活するためには、過去の名レスラーと同等の感性を持ったレスラーの誕生と、その感性と感応出来るようなファンの復活を待つしかないだろう。

一方、明日の”能”を考えると、プロレスと同様の問題があるような気がする。

演者の技能と感性のレベルを保つためには、彼らの修行が大事であると同時に、それを見る観客の目を維持していかなくてはならないと思うのだが、そのための種蒔きはしているのだろうか。僕にはよくわからない。
いずれにしても、伝統を守るということは、並大抵の事ではない。

まさむね