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太田光と森のくまさん

Friday, October 24th, 2008

「爆笑問題のニッポンの教養」はそのタイトルに違わない、まさしく、真正面からの教養番組だと僕は思う。

逆に、最近、雑学とか常識とかを扱うクイズ番組が結構あるけど、こういう番組は決して教養番組ではない。
クイズ番組で優勝したとしても、それは、教養のある人ではなく、知識のある人に過ぎないのだ。

では、教養とは何か。
それは、個人の人格とは切り離せない。
その人が宿命として持っているテーマ(問題意識)と関連付いた知識、思考、思想の事、それを教養と僕は呼びたい。
ただ、多くの人は、自分のテーマなんて意識しないし、忘れてしまっている。
恐らく、ほんの一握りの人だけが、幸か不幸か、自分のテーマに気づく事が出来るのだ。

僕は、太田光こそ、特権的にこのテーマを自覚出来ている人だと思っている。
だから、彼が「爆笑問題のニッポンの教養」において、発する言葉には教養が溢れている。
それでは、太田光のテーマとは何なのか。

恐らく、自分の中のもう一人の自分、と、そのもう一人の自分の怪物性をどうしたらいいかってことだ。
例えば、「爆笑問題のニッポンの教養」で、政治学者の姜尚中氏、日本思想史研究家の子安宣邦氏等との言葉のやりとりの中、太田光は身振り手振りでその事を説明している。
特に秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大を説明する際に、こういう言い方をしていた。(正確ではないんだけど、だいたいこんな感じで言ってたと記憶している。)

人間というものは、どんな人間でも、演出する自分と演出される自分から成っている。
自分(太田光)の例で言うならば、芸人としての自分と、その自分をちょっと離れたところで演出する自分がいる。
でも、加藤智大の場合、いつの間にか、演出する自分自身が怪物になってしまっていた。
それなのに、誰もその事を止められなかった。そこに問題があったと...

恐らく、太田光は、自分の中の2人の間のバランスにいつも繊細にならざるを得ないほど、危うい人格だって事を自覚しているのだ。
例えば、ネットにおける悪意に満ちた書き込みを嫌悪する彼は、その書き込みに、2人の自分が一致してしまったときの人間のグロテスクさを見ているのではないか。
また、彼の芸人としての過剰なまでのおどけた仕草は、2人の自分との距離を安全に保つためのポーズのようにも見える。

実は、太田光について考えるとき、そして同時に彼のテーマである2人の自分について考えるとき、いつも頭の中で流れる歌がある。
それは「森のくまさん」である。

ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん お逃げなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ
ところが くまさんが あとから 付いてくる
トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと
お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物
白い貝がらの 小さな イヤリング
あら くまさん ありがとう お礼に 歌いましょう
ラララ ララララ ラララ ララララ

僕はこう思う。
この森のくまさんは、普段はとても優しい「くまさん」なのだが、ある瞬間、凶暴な怪物になる存在であるという事を自覚している。
しかし、そのタイミングがいつ訪れるのか彼自身にもわからない。
だから、くまさんはお嬢さんに向かって、とりあえず「お逃げなさい」と言うのだ。

そして、このくまさんは僕の中では太田光とぴったりと重なる。

だから彼は常にビクビクしながら生きているのだ。
そして、時に過度に攻撃的になったりするのだ。
あるいは、おどけた演技をしながら生きているのだ。

まさむね