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最近、”くたびれ”が見える天才・明石家さんま

Thursday, December 11th, 2008

明石家さんまは、やはり天才だと思う。

小学校の時に、クラスで一番面白い人気者が、そのままずっと一番面白くて、プロになっても一番面白くて、つまり日本一になって、その日本一を30年位続けているという感じなのである。
例えるならば、サッカーのマラドーナや、陸上のボルトみたいに、負け知らずのブッチ斬りでトップになったような存在なのだ。

僕はさんまの存在をみていて凄いと思うのは、彼はあくまでも”表面的”なところである。
奥の深さが見えないところが凄いのだ。

奥深さというのものは、なにか持ち前の文化的背景(特別の知識、思想、世界観、修行経験等)があって、それを自分の中から引き出して、人を笑わせる芸風という意味であるが、ひとは年をとると自然と奥深さに頼ってしまうもなのである。
しかし、さんまは、そういった文化的背景が一切見えない(あるいは見せない)のだ。
そこが逆に凄いところだと僕は思うのだ。

さんまは、常に、その場で一番面白いだろう言葉を自分の中から、あるいは相手から引き出す。
アドリブ力が抜群といえばいいのだろうか、空気を読む力が卓越してるといえばいいのだろうか、とにかくその場限りの面白い事を言える天才なのである。

さんまを語るとき、逆にその他の同格コメディアンと比較するのが一番いいかもしれない。

例えば、北野たけしは、世界の北野としての映画の名声の他、浅草修行時代の体験、元々数学者になりたかったという理系的な冷静さ等の引出しを持っている。
タモリは、新宿ゴールデン街の退廃文化、70年代のアングラ・ナンセンス文化の匂いを、隠しナイフとしていつも忍ばせている。
紳助は、元々、さんまと同じ天才肌だが、さんまと出会って、「こいつに負けた」と思ったらしい。それから、一生懸命に自分自身の”厚み”を構築しようと努力する。田原総一朗の「サンデープロジェクト」にずっと席を置いて政治・経済に対する知識を習得したり、「なんでも鑑定団」に出続ける事によって、本物と偽者に対する感性を磨いているように見える。
また、ダウンタウンの松本も、映画というバックボーンを作りつつある。
そして、世代は異なるが、太田光は、太宰治、宮沢賢治等の日本文学、カートボネガット・ジュニア等のSF(彼の事務所名であるタイタンはカートボネガット・ジュニアの小説「タイタンの妖女」から取っている)等の文学的素養を足がかりに、文学、思想、映画等、かなり幅の広い素養を身に付けている上、「爆笑問題のニッポンの教養」等の番組によって、当代の学者達から多くのものを吸収しつつある。
さらに言えば、それに続く、クリームシチューの上田、劇団ひとりなどはそれぞれまだ修行中である。今後は、間違ってもさんま的な、感性を研ぎ澄ます方向にはいかないだろう。

それに対して、さんまの場合、サッカーとか犬好きとかの個人的趣味はあるものの、いわゆる文化的背景(奥深さ)を一切感じさることはない。
そういう意味において、彼はずっーと”小学生のまま”なのである。

しかし、そんなさんまであるが、近頃、若干の”くたびれ”が見えてきたように思えるのは、僕の気のせいであろうか。
今年の9月で終わってしまった「明石家さんちゃんねる」では、現場の仕切りを次長課長の河本にまかせる場面も多く、特に自分が興味の無い話題(例えば、美少年ネタ)などの時の存在感の無さは、これがあのさんまかと思わせる程のものであった。

一昨日、「踊る!さんま御殿!!」を見ていた時も、若干ではあるがそういった”くたびれ”が見えた。
その”くたびれ”は、編集によって、かなり隠されていたのだとは思うが、ところどころに散見された。
例えば、松村邦洋が物まねを披露すると画面は一瞬、さんまのウけた顔に行くのだが、すぐに離れてしまう。つまり、一瞬、さんまが過剰に(しかし、これが天才的なのだが、自然に、しかも独特に)、ウける事によって場が盛り上がるのだが、その盛り上がり空気の”息の短さ”が、見ているコチラに想像出来てしまうのだ。

とにかく全体のテンポを重視するさんまにとって、編集による助太刀というのが、もしかしたら欠かせないものになってきているのだろうか。
ちょっと残酷な言い方かもしれないが、もう”生”では出来ないのかもしれない、という事すら一瞬感じさせてしまっていたのである。

しかし、さんまが50歳を越え、そのうち60歳、70歳になっても、同様の芸風と、それを披露する場所、人気を保ち続けることが出来れば、その”くたびれ”も一つの味として、孤高の存在になるに違いない。
そういう意味で、さんまには、まだまだ走り続けてもらいたいと僕は思う。

まさむね

紳助の紳助による紳助ためのバラエティはもう結構だ

Wednesday, November 12th, 2008

毎月、「TVnavi」というテレビ雑誌を読んでいるが、視聴率ランキングにいつも違和感を感じることがある。
関西地区のバラエティ部門において「クイズヘキサゴン」(以下、ヘキサゴンと略す)と「行列の出来る法律相談所」(以下、行列と略す)の視聴率が毎号、ダントツなのだ。

でも、そんな面白いか、このヘキサゴンと行列。

言うまでもなく、この2番組は、島田紳助の司会で進行される。
本来は、それぞれ、クイズ、法律相談がメインなはずなのだが、いつの間にか、紳助の雛壇ゲストに対する、辛らつな仕切り(いじり)の時間がやたらに長く、それ自体が番組の売りとなっている。

そしてゲスト達は、あくまで紳助のネタのためのキャラであることに徹する。
石田純一=女たらし、東野幸次=腹黒、磯野貴理=嘘付き 羞恥心=おバカ、波田陽区=つまらない芸人という具合だ。

ある事ない事織り交ぜて、”紳助組”の内輪ゲストに対してイジりまくる芸は、紳助の持ち技として他の追随を許さない事は認めざるを得ない。
ただ、画面から感じられる紳助とゲストの力関係があまりにも露骨なため、時に、その場のクウキが不愉快に感じられてしまうのだ。

「検索バカ」(藤原智美)によると、「クウキとはその場でできあがる人間同士の力関係です。リーダー的な存在がありそれを軸にできあがる暗黙の秩序といっていいでしょう。」というが、まさしく”ヘキサゴン”と”行列”は、紳助を頂点とした暗黙のクウキを必死に読もうとするゲスト達の競い合いにも見える。
僕には、紳助に場面を振られたゲストが、エサを投げてもらって喜んでいる動物園のサルに見えてしまうのである。

しかし、結局は、ゲスト達の発言は、最終的には紳助の話芸のネタとして消費されていく。
視聴者は、紳助の、紳助による、紳助の時間を見せられる事になる。それは紳助の支配欲を、深読みするならば、コンプレックスの裏側を見せられる事でもある。

一度、番組がこういう風景に見えてしまうと、このクウキの臭みを看過できなくなってしまう。
おそらくこれが、この番組の高視聴率への違和感の原因なんだと思う。

でも、もしかしたら、これは、関西と関東との感覚の違い?
一方、関東では、「笑点」の視聴率がいつも高いっていうのも、これはこれで信じられないのだが...

まさむね