クドカン脚本のドラマはこれまでことごとく視聴率ではずすが、逆に放送終了後に評価が上がるという傾向があった。
「IWGP」しかり、「木更津キャッツアイ」しかり、「タイガー&ドラゴン」しかりである。
しかし、今回の「流星の絆」は、嵐の二宮和也、NEWSの錦戸亮(ネット上ではNSKD)という今をときめくジャニ系の2人に加えて、戸田恵梨香も出演ということもあってか、高視聴率を維持しているようだ。
これはどうした事だろうか。
それが逆に、今までのクドカンの楽しみ方とは別の方向での高視聴率であったとしたなら、ファンとしてはちょっと複雑な心境である。
最初に上げた3作品に特に顕著なのだが、クドカン作品は、毎回、小さな話が起こり、解決していくのと同時に大きなストーリーが最終回に向けて進行するというパターンだ。
しかし、今回の「流星の絆」はその小さな話が無い。
そういう意味で、「流星の絆」はスッキリしていて、わかりやすい、そこが、一般視聴者には、受けているのかもしれない。
尤も、古くからのクドカンファンには、「流星の絆」は、どこか物足りなく感じられるのも事実なようだ。
この、小さな話と大きな話の二重構造が、今までのクドカン作品をわかりにくくしていたのかもしれないが、その構造が物語というよりも、その世界の豊潤さを生んでいたとも言えるのだから。
ちなみに、この豊潤なわかりにくさは、恐らく、90年代前半の下北沢あたりでの小劇場ブームの流れを汲むセンスであることを付け加えておきたい。
「大人計画」「ナイロン100℃」「遊園地再生事業団」等、大雑把に言えば、そういったキラ星のごとき劇団の匂いを現代のTVドラマに引き継いでいるのがクドカンなのである。
また、さらに言えば、今回は、クドカン独特の小ネタも少なめなような気がする。
前回の放送では、レンタルのつもりでエッチDVDを借りていた刑事が、買取だった事に気付いたり、新装開店準備中のレストランで、柱が重要だった事に気付いたりストーリーの全体とは関係ない小ネタがあったが、全体的に大人しいというのが僕の印象だ。
現実はドラマよりも明らかに複雑である。第一、現実にはストーリーが無いし、脚本もない。
現実で生きている人々は、それぞれの思惑や気まぐれで動き、さらにそれとは別に意味不明な事件が起きたり、消えたりしていく。
そんなあたり前のリアリティを21世紀のドラマに持ち込んだのがクドカンである。
その彼が今回は大人しいのだ。
しかし、その大人しさが、原作者の大物・東野圭吾や、ジャニ系タレント達への遠慮、また数字を取りに行くための節度だったり、あるいは、クドカン自身の衰えから来る面倒くささだったりしていないだろうね。
そうでない事を祈るばかりだ。
まさむね