「ROOKIES」は何かと古典的なドラマである。
学ラン、リーゼント、麻雀等、不良学生達のアイテムが古典的であるというのは言うまでもなく、喧嘩の作法がそうなのである。
例えば、今から8年前に放送された「池袋ウエストゲートパーク」の暴力に比べると、正拳+涙によって成り立っている「ROOKIES」の喧嘩は極めて正統的だ。
恐らく「拳」は、蹴りや、ましてや武器使用に比べ、正義のイメージが強い。
そして、涙はその正義を心情的にバックアップしているのだ。
「ROOKIES」での新庄(城田優)の正拳
同様に、感情を爆発させる新庄
それに比べると「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」では、感情の発露による已むに已まれぬ喧嘩というよりも、敵を徹底的に潰す暴力が際立っている。
「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」」でのタカシ(窪塚洋介)の裏拳
同様に、タカシのマウントポジションからのボコボコ
そして、喧嘩後のふざけたデモンストレーション
「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」」の時代は、PRIDEを初めとする残酷系格闘技全盛時代だ。
マウントポジションも裏拳も、その時代の空気を十分に吸ったパフォーマンスであったに違いない。
「ROOKIES」の喧嘩とは同じ暴力とはいえ、それはあまりにも異質だ。
先ほども述べたが、一方「ROOKIES」の喧嘩の作法は、時代を超えた正統性を備えている。
恐らく、この作法は、日本人にとっては、歌舞伎、時代劇、ヤクザ映画、青春ドラマ等によって延々と刷り込まれ続けたイメージである。
そして、その裏には以下のような日本古来の人間洞察がある。
「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」
「ROOKIES」が古典的というのはそういう意味である。
まさむね