桐紋 -日本を象徴する紋-

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。

有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。

一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。

信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。

特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。

その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。

明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいいのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。

また、有名人でこの紋を使用する人も多い。

豊臣秀吉。1537年3月17日 – 1598年9月18日、武将・戦国大名。
家系は尾張国の百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。
織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、明智光秀柴田勝家を破り、その後も九州、北条、奥州征伐で日本全土を制圧。刀狩検地を行う。
その後、2度の朝鮮出兵を行うが失敗。桐紋を信長から下賜される。太閤桐はオリジナル。


橋本左内。1845年7月24日 – 1909年2月18日、医師。
河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。
一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。
井伊直弼が発令した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首された。
写真は、弟の橋本綱常の墓より。


板垣退助。1837年5月21日 – 1919年7月16日、土佐藩士、政治家。
高知城下中島町に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。上士身分であった。
戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として、新撰組を撃破。
自由民権運動の主導者として知られる。
100円札に肖像が用いられた。家紋は土佐桐。


海江田信義。1832年3月13 – 1906年10月27日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の長男。
1862年9月14日、生麦事件を引き起こした。
戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀として活動するが、長州藩の大村益次郎と事あるごとに対立し、大村の暗殺にも関わったと言われている。


下村観山。1873年4月10日 – 1930年5月10日、日本画家。
和歌山県和歌山市に生まれる。家紋は五三桐。
最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下ったときに行動を共にし、横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加。


五島慶太。1882年4月18日 – 1959年8月14日、日本の実業家。
東京急行電鉄(東急電鉄)の事実上の創業者。長野県小県郡出身。
会社買収などの強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪急電鉄の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。美術品のコレクターとして知られ、コレクションの公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。


山下奉文。1885年11月8日 – 1946年2月23日、日本の陸軍軍人。
第二次世界大戦当時の陸軍大将。高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。
太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本のマスコミからは「マレーの虎」と呼ばれた。シンガポールの戦いの終結時に、イギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に「イエスかノーか」と迫ったことで有名。


頭山満。1855年5月27日 – 1944年10月5日、思想家。
大正年間から昭和のはじめにかけて韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボースら、日本に亡命した革命運動家らに惜しみない援助を行った。日韓併合の際、奔走した。彼の理想は、合邦だったため、植民地化の状態には、幻滅したと言われている。アジア主義の立場で活動した国家主義者。右翼の巨頭・黒幕的存在。


安田善次郎。1838年11月25日 – 1921年9月28日、富山県富山市出身の実業家。
安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父。
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は彼の寄贈によるものである。
元々、安田家の家紋は「丸に木瓜」であったが、後に「釜敷梅鉢紋」に変更。墓所にはこの桐紋が付けられている。


芥川龍之介。1892年3月1日 – 1927年7月24日、日本の小説家。東京市京橋区出身。
羅生門」「鼻」「地獄変」「芋粥」「歯車」等代表作多数。
友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺。
死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いている。


高村光太郎。1883年3月13日 – 1956年4月2日、日本の彫刻家、評論家、詩人。東京都出身。
1929年に妻・智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。
1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
高村光太郎がこの紋ということは、妻・智恵子、父・光雲もこの紋と考えていいかと思う。


麻田駒之助。1869年10月14日 – 1948年11月24日、編集者。実業家。
中央公論社初代社長。
中央公論」は元々、西本願寺の普通教材で、民主主義など、当時としては新しい思想を積極的に取り入れ、大正デモクラシーのなかでその存在を示す。
また、築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として、力を尽くす。


宮城道雄。1894年4月7日 – 1956年6月25日、箏曲家。
兵庫県神戸市生。
クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。
作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。
十七弦の発明者としても知られる。


林芙美子。1903年12月31日 – 1951年6月28日、小説家。
林フミ子(本名)は行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に婚外子として生れる。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句はあまりにも有名。
代表作は『放浪記』 『うず潮』『めし』 など。
家紋は丸に五三桐。


東郷青児。1897年4月28日 – 1978年4月25日、日本の洋画家。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名。
東京・西新宿に東郷青児美術館(現在の損保ジャパン東郷青児美術館)がある。
この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。


東富士。1921年10月28日 – 1973年7月31日、大相撲の第40代横綱
東京市下谷区出身。本名は、井上謹一。
横綱土俵入りは迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われた。
幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715。
引退後、プロレスラーに転向したが、力道山の陰で伸び悩んだ。


池波正太郎。1923年1月25日 – 1990年5月3日、時代小説・歴史小説作家、映画評論家。
東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、。
母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。美食家としても知られ『うまいが一番』(フジテレビ)という池波作品の料理シーンを取りあげるミニ番組も制作されている。 代表作は『鬼平犯科帳』 『仕掛人・藤枝梅安』 『真田太平記』『人斬り半次郎』 等。


東野英治郎。1907年9月17日 – 1994年9月8日、俳優。
実家は日野商人(近江商人)の家系で、本宅は滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平。
長寿番組『水戸黄門』で、黄門を1969年から1983年までの足かけ14年、全381回にわたって演じた。葵御紋とは切っても切れない氏が実際は、葵紋のライバルの桐紋だったというのは皮肉である。「あばれはっちゃく」の父親役等で有名な東野英心は息子。


盛田昭夫。1921年1月26日 – 1999年10月3日、技術者、実業家。
愛知県知多郡小鈴谷村に代々続いた造り酒屋の子として生れる。
井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。
トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込む。
井深大とともにソニーを世界企業に育て上げる。


大江健三郎。1935年1月31日 – 、小説家。
愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。故郷の四国の森や知的障害のある子供(長男の大江光)という自身の体験とを重ね合わせ独自の文学世界を作り上げた。1994年ノーベル文学賞受賞。
代表作は『飼育』『同時代ゲーム』『万延元年のフットボール』等。家紋は五三の桐。


力道山。1924年11月14日 – 1963年12月15日、大相撲の力士出身のプロレスラー。
北朝鮮で生まれ、後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。
1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、廃業。
日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王座。
日本プロレス界の父と呼ばれている。


植村直己。1941年2月12日 – 1984年2月13日、登山家・冒険家。
兵庫県城崎郡日高町(現在の豊岡市)出身。実家は農家。
世界初五大陸最高峰登頂成功、北極点単独行等を果たす。
著書は、『北極点グリーンランド単独行』『冒険』『植村直己の冒険学校』など
1984年に国民栄誉賞を受賞。


太地喜和子。1943年12月2日 – 1992年10月13日、日本の女優。
和歌山県東牟婁郡太地町出身(芸名は出身地から命名)。
三國連太郎、中村勘三郎、尾上菊五郎とのロマンスが取り沙汰される。
文学座の大女優・杉村春子の後継者、実力派として活躍。
代表出演作品は『火まつり』。家紋は五三の桐。


沖雅也。1952年6月12日 – 1983年6月28日、俳優。
大分県別府市出身。本名: 日景城児。
、『おやじ、涅槃でまってる』という遺言を残して新宿京王プラザホテルの最上階(47階)より飛び降り自殺を行い、31歳の若さでこの世を去る。
代表出演作『金メダルへのターン!』『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』など。


曙太郎。1969年5月8日 – 、第64代横綱
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で東関部屋の元大相撲力士。
幕内優勝:11回。通算成績:654勝232敗181休 勝率.738 。
引退後は、格闘家、プロレスラーとして活躍。
現役横綱時代の化粧回しに桐がデザインされていた。


二代目・中村獅童。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。
代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「硫黄島からの手紙」「レッドクリフ」など。
萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。


朝青龍明徳。1980年9月27日 – 、第68代横綱
モンゴル国出身。1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学。
優勝23回。連勝:35連勝。連覇:7連覇などの記録を持つ。(2009年1月現在)
2009年初場所での優勝パレード、節分の豆まきで着用した紋付は桐だったため暫定的掲載。
ただし、その他、桜(相撲協会の紋)などの紋付の場合もあり、本人はこだわっていないようだ。

まさむね



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One Response to “桐紋 -日本を象徴する紋-”

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