新潟の少女誘拐監禁事件を知ってまず、思い出したのが柳田国男の「遠野物語」の以下の一節でした。
「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり」
ていうことは、人さらいって昔は結構あったんでしょうね。それに貰い子とか捨て子とかも結構あって、漱石や龍之介も確かそうですよね。同じ「遠野物語」の河童の項のところに、子供を産んだ母親が、それが赤い河童みたいな子だったので、気持ち悪くなって村の境界まで捨てるんだけど、帰り道に、「もしかしたら、見世物として売れば、高く売れるかもしれない」と思いついて、境界まで戻ってみるとすでに赤子はいなくっていて、がっかりしたっていうのもあったけど、これなんか、倫理観のかけらも感じられない。サバサバしてるよね。
柄谷行人によれば、柳田国男の友人の田山花袋はこういった柳田が語る民俗学的な話を、唐突すぎて文学にならないというようなことを言ったらしいけど、坂口安吾が文学の「ふるさと」と評価したのは、こういった唐突な残酷さだったんですね。
今回、この事件でポイントとなるのは、犯人の母親だと思うんですが、こういった人は事件の余韻が冷めた後、どのように暮らしていくんだろう。そういった物悲さは文学ですよね。
まさむね。